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相互啓発関係としての恋愛

自己啓発という言葉からの連想で言うと

相互啓発関係が恋愛の一つの関係だと思う

このタイプは当然だが3年で終わる

啓発し続ける資源が枯渇するから仕方がない

なにか言おうとするとそれは相手に教育された言葉だったりするので

相互啓発にならず低め安定状態が続く

その他で話すことは日常で起こった全てになり

雑談、うわさ話、井戸端会議でうるさいと言われるようになる

ーー
会社員は会社と共に成長するのだが
出産と育児で別の人生の局面を経験すると
それを極端に否定的に捉える人も極端に肯定的に捉える人も出てくる

どちらも夫とのすれ違いの原因になる

ーー
夫は従来と同じ方向で成長していて
妻は従来とは直角方向のベクトルで成長する
子供は妻と一緒に成長する

夫から見ても妻から見ても直交しているので
馬鹿ではないかと思うようになる

今までつくらなかった朝御飯も
子供のためなら作るようになる

まして長男だったりすると妻の力の入れ方が違う

そんなこともあって夫は不倫の適齢期になる

会社というところには有能だけれど
自分の女性としての資源を活用する方法を学んでいない女性が沢山いて
「本当の愛」という言葉に幻惑されて
女性であることを浪費する

あとで請求書が回ってくる

ーー
不倫の結末としては不幸しかないものだけれど

人に話したくなるし、話すときには脚色したくもなるもので、

いい関係だったと言い張るのも理解できるし、お互い様なので、囃しながら聞いているわけだ

そんなとき相互に啓発したとかいう

ーー
音羽ノ森ホテルとかそんなあたりで

あまり悪趣味ではない程度の人たちが会社のお金ではなく自腹で何かしているのだけれど

ときどき壁や床に何かを投げつける音がしたりする

私は静かに本を読んでいるのだが

おやおやと思ってブログを書いたりしている


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「心理テストで人のこころがわかる?」

「心理テストで人のこころがわかる?」

私は、カウンセラーを生業としていますから、カウンセリングとか臨床心理学
といったものは、マジメに勉強しました。サンフランシスコの大学院とインタ
ーン時代は、おそらく、私の人生の中で最も勉強した時期だと思います。「幸
せになりたいけど、がんばりたくない」がポリシーの私でも、やるときゃやる
のです!また、カウンセリングや臨床心理学の勉強は、新しい発見の連続で、
わくわくし楽しいものでもありました。しかし、どうしても、気合のはいらな
い分野がありました。それは、心理テストや心理研究法の分野です。私の好き
な自己心理学や人間性心理学や臨床心理学の勉強の時は集中できるのですが、
心理テストや心理研究法の勉強の時には、とたんに「ふぬけオーラ」があたり
にただよってしまいます。お断りしておきますが、一応マジメに勉強はしたん
ですよ。ただ、ちょっと気合が入らなかっただけです。

気合が入らなかった理由がありまして、私は、一応腐っても元エンジニアです
から、心理テストや心理研究法などで勉強する基本的な統計学は目新しいもの
ではなかったということと(ちょっとえらそーですね)、カリフォルニアのカ
ウンセリングセンターでは、ほとんど心理テストを使わないということがあり
ます。特に、後者の理由が、私にとっては、気合の入らなかった大きな理由で
す。カウンセリングセンターには医師がいる事が多いのですが、彼らも心理テ
ストをあまり診療の場では使いません。もちろん、カウンセラーも心理テスト
をめったに使いません。理由は簡単です。クライアントの状態の診断は、最初
のセッションにおける1時間から1時間半の心理テストなしのインタビューの
みの面接で、たいていの場合判断できるからです(初回面接は、多くの場合、
カウンセラーやソーシャルワーカーが行います)。そのかわり初回面接におい
ては、かなりの分量の情報をクライアントさんから引き出さなければなりませ
ん(ひきだすべき情報は、カリフォルニア州で使用している「フェイスシート」
に従っていました)。そして、ほとんどの情報は、紋切り型の質問ではなく、
普通の会話の中からひろっていきます。こうしたやり方には、多くのメリット
があります。カウンセラーもクライアントさんも自由に話せるので、普段のク
ライアントさんの様子が把握できますし、考え方や行動の癖もある程度までわ
かります。また、クライアントさんを見ながら、セッションの中での質問をよ
り正確な診断の方向に持っていったり、より重要なテーマへ焦点をシフトして
いく事もできます。さらに、1回の面接で、クライアントさんのめざすゴール
もほぼほぼ把握できます。また、自分の言いたい事を言えるので、クライアン
トさんも満足されてセッションを終えます。

一方、例えば、教科書にかならず出てくるロールシャッハテストをする場合な
どは、クライアントさんとは対面しますが、テストに集中しますので、環境面
での情報(クライアントさんの親子関係や、学校や職場での様子他)はわかり
ません。従って、心理的傾向は特定できても、環境を含めたクライアントさん
の全体像が把握できないのです。そして、ロールシャッハテストの場合、テス
ト時間は、およそ1時間かかるので、クライアントさんにとっても、たいへん
な労力になります。さらにそのデータを処理するためには、4~5時間程度も
かかってしまう事があります。合計5~6時間ですから、その間に4回の面接
セッションと記録の時間を合わせてもおつりがきます。4回もセッションがで
きれば、心理テストをしなくてもクライアントさんに対する理解が深まってい
ますし、単一的な要因による精神的な不調であれば、その心理的テーマをクラ
イアントさんはすでに克服し、乗り越え、カウンセリングは終結してしまって
いるかもしれません。

では、例えば、それだけの手間をかけたロールシャッハが、前述したインタビュ
ー方式によるものより、はるかに正確な診断ができるかというと、そんな事は
ありません。インタビュー方式で十分に正確な診断もできますし、むしろ、ロ
ールシャッハのような投影法と呼ばれるテストでは、カウンセラーによる解釈
の差が出やすいという意見もあります。すなわちロールシャッハテストをした
方が間違いが多いこともあり得ます。

心理テストの結果は、研究分野では定量的な比較もできますし、有効だとは思
いますが、臨床上、ロールシャッハのような時間がかかる心理テストは、少な
くとも私にとって、クライアントさんを知るうえでほとんどメリットがありま
せん。

何年か前に、解離性同一性障害(旧多重人格)のクライアントさんに心理テス
トを行い、その結果を長期間にわたり観察した日本の心理学の一流誌とよばれ
る専門誌に載った論文を読んだことがありますが、私は、「いったい、なにを
やっているのか!」と、憤慨してしまいました。私自身、解離性同一性障害の
クライアントさんを何人か経験した事がありますが、その心理過程は、とても
心理テストごときで理解できるものではありません。彼らは、たいてい、幼少
の頃から非常に複雑な人生経験を経ており、その経験による影響により、ひと
つひとつ新たな人格を作っていきます。彼らをサポートするためには、それこ
そ全身全霊を傾けなければなりません。自殺の可能性、突然の失踪、平穏な状
態からの突然の暴力性の発露など、さまざまな予測不能なことが、それこそ短
期間に起こり得ます。心理テストなんて悠長なことをやっている暇がない・・、
これが、私の実感です。だいたい心理テストをしたって、どの人格がテストを
受けているのかわからないじゃないですか!それよりも、それぞれの人格がど
んな事を考え、感じているのかをインタビューする方が、どれほどクライアン
トさんにとって利益になるかという事を、カウンセラーは、考えるべきです。
私は、かつて、どうしても必要があって、解離性同一性障害のクライアントさ
んの20人以上の人格全て(元々は40人近い人格があったのですが、その時
は20数人の人格まで減っていました)と1度のセッションでインタビューし
たことがあるのですが、その時、インタビューに3時間を要しました。とても、
私には、心理テストをやる暇なんてありませんでしたし、やる気もありません
でした。

日本に帰ってきてから、私は、臨床現場での心理テスト偏重に驚いています。
それは、おそらく心理テストが病院で保健の点数としてカウントしやすく、学
術的にもっともらしく見えるからでありましょう。そして、カウンセラーの資
質として、「統計学を十分に理解し心理テストのような客観的判断をできるこ
とが、カウンセラーになるための最も重要な条件である」という大学のエライ
先生もいらっしゃいます。私には、その先生が本当にクライアントさんを受け
持ったことがあるのか?そのクライアントさんの回復までサポートしたことが
あるのか?疑問に思ってしまいます。

私は、カウンセラーが学究的な研究者である事は必要条件ではなく、そのかわ
りヒューマニスティックで、例えば、「オリンピックで使用される砲丸投げの
玉を作っていて、その事に絶対の自信と誇りをもっている蒲田の小さな町工場
のおっさん」みたいな職人であるべきで、クライアントさんの回復をあるいは、
テーマ克服を、心からサポートする存在であるべきだと思っています。

私は、心理テストは、「無意味だ!」、「使うな!」と言っているわけではあ
りません。例えば、心理テストが、クライアントさんをより理解する「きっか
け」になることもありますし、使い方によっては有効である事もあると思いま
す。私は、臨床上で心理テストをするのなら、宿題としてできる範囲のものを
主に採用し(アンケート方式のいわゆる質問紙法といわれるテストが主になる
と思いますが)、その採用にあたっては、カウンセラーの「研究」のためでは
なく、クライアントさんの利益を第1に考えるべきだと考えます。そして、テ
スト結果を絶対視せず、そのテスト結果について、クライアントさんが「あて
はまらない」、「なんかしっくりいかない」、「答えるのに時間がかかった」
などの感想を述べることができる時間を作り、心理テストを、クライアントさ
んが自分自身を、あるいは、カウンセラーがクライアントさんをより深く理解
するためのツールとして利用する工夫が必要だと思います。

以上、心理テストや研究法の勉強にいまいち気合の入らないカウンセラーの自
我防衛機制的あるいは、自己弁護的言い訳でした。


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「間主観性」

あまりにも分かりやすいので採録

「間主観性」   

 人は、他人の感情を完全に客観的に理解する事はできません。「ああ、この
人は悲しいのだな」とか、「なんだか、怒っているみたい」というのは、相手
の表情やしぐさ、声のトーンなどから、表面的に判断しているのであって、あ
くまで分析による客観的推定です。この客観的推定の段階は、自我のレベルで
なされるもので、相手の気持ちを十分に理解しているとは言えず、相手に対す
る共感も生じません。ここで、もう少し深いレベルで相手の気持ちを理解する
場面について考えてみましょう。例えば、悲しい事があって、泣いている人が
いるとします。あなたは、彼女の話を聞いて、とてもつらい気持ちになって、
思わずもらい泣きをしてしまいます。なぜ、あなたは、泣いてしまったのでし
ょうか?この時、あなたは、あたかも彼女の悲しみが自分のもののように感じ
ているでしょう。この「あたかも自分自身のもののように相手の気持ちを感じ
る」事が、共感です。共感は、けっして自我のレベルのみでは起こらず、もっ
と内面的な、自己と他者の境界線がなくなったようなレベルで起こります。こ
のレベルでは、完全な客観性は存在せず、あなたは、相手の気持ちを主観的に
理解しているのです。これは、あたかもふたりの主観が、ふたりの間をいった
りきたりしているかのようです。こうした状態を間主観性と言い、間主観的な
交わりが起こる領域を間主観的なレベルと言います。間主観的なレベルにおい
ては、完全に客観的な対象は存在せず、自己対象と呼ばれる自己の中の他人に
より、他者を主観的に理解しようとします。こうした他者を主観的に理解する
共感により、その人は癒され、安心し、困難を克服したり、生きているという
実感を取り戻したりします。

 間主観性の定義は、「意図的に希求される、出来事と物事に関する体験の共
有(文献1)」です。すなわち、他人の経験を自分の中で体験する事を示しま
す。スターン(文献2、理論編p.150~156)によれば、間主観性とは、注意の
的を共有する事、意図の共有、情動状態の共有を含みます。注意の的を共有す
る事とは、例えば、母親が指差す方向を子供が見つめる行為等を指します。こ
の時、母親と子供は同じ対象に注目しています。意図の共有とは、乳児がミル
クを欲しがって泣いている時に、母親が即座にその意味を理解しミルクを飲ま
せる行為等を示します。最後の情動状態の共有とは、だれかが悲しくなって泣
いている時に自分も悲しくなってしまうような状態を示します。すなわち間主
観性の共有とは、他人の注意、意図、情動をあたかも自分の経験であるかの様
に感じる状態を指します。こうした間主観性の共有が可能になるのは、生後7
~9ヶ月からといわれて(文献2、理論編p.146)、間主観性を共有する能力
はその後も維持されます。

 セラピーのセッションの中では、セラピストとクライアントの間にしばしば
間主観的な関係が生じます。セラピストがクライアントのこころの葛藤を理解
しようとするうちに、セラピストとクライアントの間には、その内的世界を共
有する様な共生期(文献3)の乳児の母親との関係に近い状態になる場合があ
ります。共生期とは、生後6ヶ月程度から始まる、母親と子供があたかもひと
つの自我を共有する様に見える状態で、母親は、子供の感情や欲求を自分のも
のであるかの様に理解する事ができます。クライアントと間主観的な関係が生
じている時、セラピストは、共生期の乳児の母親と同じ様にクライアントの感
情を自分の体験として感じるのです。例えば、いらいらしているクライアント
の前では、セラピストもいらいらした気持ちを感じたりします。また、クライ
アントの内的世界が、セラピストの身体的な感覚として伝わってくる事もあり
ます。クライアントが怒りを感じている時、セラピストの腕の筋肉が堅くなっ
たり、肩がこってきたりする事もあります。

 セラピストのバーバラ・ホリフィールドは、間主観性の身体感覚的な共有の
事例として、解離性健忘症の女性とのセッションの中で経験した突然の眠気に
ついて、彼女の論文の中で記述しています(文献4)。彼女のクライアント、
ドロシーは、有能な58歳のエンジニアでしたが、長年不安やパニックに襲わ
れたり、記憶が部分的に無くなってしまう解離性健忘の症状に悩んでいました。
ホリフィールドがセッション中で突然の眠気に襲われたのは、彼女がクライア
ントの解離性の症状についてワークしている時でした。セッションを続けて行
くうちに、この眠気はクライアントと間主観的な感覚を共有している事による
事が明らかになってきました。クライアントは、子供の頃家族から肉体的・性
的・心理的な虐待を受けてきました。彼女は、自分自身あるいは彼女の姉が虐
待を受けている時、あらゆる感覚から自分を切り離し眠ってしまおうと試みる
事で自己を防衛してきました。ホリフィールドが感じた眠気は、クライアント
の防衛機制を共有したものだったのです。セッション中の眠気の意味を理解す
る事により、彼女は、クライアントのトラウマを共感的に理解する事ができま
した。

 この様に、セラピストとクライアントの間の間主観性の共有は、共感を導き、
その結果セラピーのプロセスを推し進める要素となり得ます。セラピストの共
感は、クライアントにとって間主観的に体験されます。こうした体験により、
クライアントは自分が癒される価値のある人間である事を知り、自分のこころ
の傷を抑圧するのではなく対面する勇気を持ちます。このためには、セラピス
トは非防衛的で、純粋性を保ち、逆転移に対し敏感でなければならず、セッシ
ョンの中で、セラピストの中になんらかの感情の動きがあった時、それは自分
の固有の感情なのかそれともクライアントの感情を間主観的に感じているのか
を見極める様努力しなければなりません。自分の固有の感情を、間主観的な感
情の共有と勘違いすると、クライアントをセラピストにとって都合のいいよう
に導いてしまう危険性があります。また、逆に間主観的な感情の共有を自分の
固有の感情と勘違いしてしまうと、クライアントに対する共感は生まれません。
間主観性は、セラピーの有効な要素になり得る反面、その扱いを間違えると、
セラピストがクライアントが慣れ親しんだ破壊的な対人関係のシナリオを再演
するような形で無意識に働く(文献5、p.212)事にもなりかねず、そうした
場合、逆にセラピーの大きな障害にもなり得ます。

 間主観性の概念は、伝統的な精神分析のアプローチであるブランクスクリー
ン、すなわちセラピストは、逆転移を防ぐために自分の感情は表明しない手法
に疑問を投げかける結果となりました。間主観性の概念に従えば、セラピスト
は完全に客観的にはなりえず、また、セラピストが純粋性を保っていれば、セ
ラピストとクライアントの相互の関係の中で、セラピストの逆転移が建設的な
形で利用され得るからです。従って、心理力動的なセラピーの現場が、より自
己開示していく方法や逆転移を開示する方向へと動きはじめています(文献5
)。しかし、逆転移感情の開示は、前述した様に使い方によっては、セラピー
のプロセスに悪影響を及ぼします。セラピストは、「セラピーは、クライアン
トの利益のためのものである」事を十分に認識し、セラピーの現場における行
為について、常に「この選択をクライアントのために行っているのか、それと
も自分の欲求を満たすために行っているのか」自問していかなければなりませ
ん。


(文献1)Trevarthan, C. & Hubley, P.  (1978). Secondary inter-
subjectivity: Confidence, confiders and acts of meaning in the 
first year. In A. Lock (Ed.), Action, gesture and symbol. NY: 
Academic Press. 
(文献2)スターン、D.N.「乳児の対人世界」、岩崎学術出版.
(文献3)マーラー、M.「乳幼児の心理的誕生」、黎明書房
(文献4)Holifield, B. (1998), Against The Wall / Her Beating 
Heart: Working With The Somatic Aspects of Transference, 
Countertransference, and Dissociation, Inquiries in Somatic  
Psychology (Body in Psychotherapy, Vol 3), by Don Hanlon 
Johnson (Editor), Ian Grand (Editor) North Atlantic Books
(文献5)カーン、M.「セラピストとクライエント」、誠信書房



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事象そのもの

たとえば有名な学者が発達障害についてなにか言っている

すると

事象+その学者の解釈

論説は成り立つ

私は私がその事象に接したらどう解釈するかを想定しながら読む

そのとき頭の中では
文章から、その学者の解釈を引き算して、私の解釈を足し算して、事象を捉える

解釈以前の事象そのものを表現することは難しい

いくつかの主観があり、対象につきまとい、いくつかの解釈が生まれる

ーーーーー
しかしどうだろうか
そのように異なる解釈をしている時も
ぼんやりと事象そのものを追い求めていて
しかしそれが結局は自分の解釈でしかない

そして実際にはそれで用が足りている

ーー
カラスの黒が黒らしい黒なんだとかいうわけで
それで通じているからいいのだろうと思う

ーー
もちろん、なぜバラバラな主観があるだけなのに
事象そのものが存在しそうな気がするのかといえば
つまり素朴実在論で用が足りるのかといえば

脳がそのような仮定を採用したとき
その集団の生き延びる確率が高くなるということだ

ーー
たとえば
生物進化の歴史では
宗教的思考と唯物論的思考が対立し
昔は唯物論が共産主義と通底していたため話が混乱したけれど
最近ではそうで見ないので
やや整理がしやすくなっている

化石を埋蔵している地層の重なりを見て
これは神様が懸命に作ったのだと解釈する人もいて
時間をかけて進化のプロセスをたどったと考える人もいて
それぞれの人が多分同じものを見ているという確信は共通している

その確信が事象そのもので
いつの間にか事象そのものが実在してそれに解釈が加えられるというモデルが成立してしまう

ーー
脳の習慣として
解釈と一体の事象しかないのだと信じろと言われても
無理なのだと思う

解釈には影響されない事象そのものが実在すると素朴な科学は
前提していてそれで充分な成功を収めていて
人生を生きるにはなんの不都合もないけれど
厳密に考えると
そのような共通の事象そのものは存在が危ういのだと考えられる

ーーー
量子力学で定義される実在は
シュレディンガーの猫で
ここで犬ではなくて猫が登場してその後変更がない

それは犬は機能であり猫は形態であるという私の仮説に一致している







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胃内低比重ボール

藪から棒で恐縮であるが過食嘔吐について根本的強制的解決を考えた

胃の内部に常に停留するボールを置く

胃内容物が流入してもボールのボリュームがあるためすぐに満腹になりたくさん食べることはできない
これで過食は解決する

硬さと形状を工夫し胃食道接合部を通ることはなく胃十二指腸接合部を通ることはない程度にしておく

その人が吐こうとするとボールは胃食道接合部に蓋をしてしまい吐くことができない
これで嘔吐が解決する

ボールの内部には低比重の液体を満たし常に食物よりも上に位置するように工夫する

胃十二指腸接合部を完全に塞ぐのはまずいので
形状に工夫をして隙間から胃液が流れるようにする

この装置は過食嘔吐を停止させるばかりではなく
逆流性食道炎に有効である

ーーー
これでは生ぬるいという人には
胃十二指腸接合部と
胃食道接合部に別々の装置をつける

胃食道接合部には可動弁を形成移植して吐くことができないようにしてしまう
この逆流防止弁は逆流性食道炎にも有効である
寝ている時も逆流は起こらない

胃十二指腸接合部を狭くして流れをせき止めて胃内に食物が滞留するようにする

さらに胃を縫いあわせて小さくしておく

過食嘔吐についての根本的強制的解決である


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J.S. Bach: Ich ruf zu dir BWV 639 (T. Koopman)


私の涙は過剰でしょうか

そうではない

私はあなたのために泣きたい



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Cantata No.147 青春の記憶のために



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豆腐に内在する持続性の本質を見よ

豆腐が泣いているとするわね

悲しいとか死んでしまいたいとか私が至らなかったのだとか言って
涙を流している

その言葉と態度がそこにある

眠れませんと言っているが眠れない現場を見たわけではない
食事が取れませんと言っているがその現場を見たわけでもない

ーー
で、それは
木綿なの絹なのと私は聞きたいわけだ

ーー
例えばの話
私はうつ病だという妄想症にかかっているとして
どうやって見分けるのかな?

ーー
うつ病だと思い込む妄想症でも
うつ病でも
最終表現としてのうつ病に違いはないからそれでいいとは言わないよね

ーー
豆腐に内在する持続性の本質を見よ

泣くとかうつだとか不眠だとか
そういう事は一時的な波に過ぎないだろう


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私は野菜を食べたがっている!

おかしい

私は野菜を食べたがっている!



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「自衛隊は暴力装置である」

仙石氏の「自衛隊は暴力装置である」というのは
当たり前すぎてなんともないが
それに対するマスコミの反応が異常で
挙句の果ては
自衛隊隊員の親に謝れとかのジョークまで出て
それをジョークと取らない人もいるようで
非常に屈折した話になっていて
精神病理むき出しである

読者とマスコミを
幼いのと知能が足りないのとに分類してみても
同じことだ

これをマルクス、レーニン、マックス・ヴェバーなどの著作に関係付けて
どうこう言うのも
とてもピントがずれているだろう

知的劣化はここまで進み、さらに進むのだろう

ーーー
先輩によれば

暴力装置と暴力団の言葉の類似や語感の重なりを利用した
意図的なあおり

とのことであった

むむむ


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かんぽの宿評価額、不適正鑑定で大幅減額か 最大95%

 日本郵政グループが宿泊施設「かんぽの宿」を安く売ろうとした問題で、2007年の不動産鑑定評価が国の基準に違反していた可能性が出てきた。基準では経営改善の努力をした想定で評価しなければならないのに、安く売るために「赤字」と断定し、積算した価格から最大95%も減額していた。国土交通省は担当した不動産鑑定士20人以上から近く事情を聴く方針だ。

 かんぽの宿は05年に民間売却が決まった後、07年の不動産鑑定評価で突然、評価額が前年のほぼ3分の1の計約98億円に下がった。これは、評価額を出す際、土地・建物の価格を示す「積算価格」から大幅に減額したためだ。

 07年の鑑定評価書では、鑑定した3社のうち、38施設を担当した東京の不動産鑑定会社が24施設を積算価格から80~95%も減額していた。関係者によると、07年8月に当時の日本郵政公社から「経営改善を見込む必要はない」「この価格では受け入れられない」と指摘され、一部を80~95%減額した。だが、さらに公社から「億を超える施設は売れない」「もう少し厳しくみてほしい」と言われ、減額の施設を増やしたという。

 この鑑定会社は前年の決算などから23施設を「赤字」、1施設を「低採算」と判定。売れにくいとして減額率を高くした。同社の関係者は「郵政の条件はおかしいと思ったが、契約先なので断れなかった」と、事実上減額を指示されたと受け止めたという。

 国交省の不動産鑑定評価基準では、評価額は「対象不動産の最有効使用を前提とした価値判断」などで決めるとされている。会計検査院の今年3月の報告では、かんぽの宿は客室稼働率が民間旅館の平均を10ポイントほど上回る約70%あり、高い人件費などを削れば、黒字になる可能性を示している。鑑定士でもある立教大の久恒新(ひさつね・あらた)教授は「かんぽの宿は人件費も物件費も高く、改善の余地が大きい。現状が赤字だからと言って、単純に赤字と見なすのは鑑定評価ではない」と指摘する。

 総務省は「(公社の指摘は)値下げの圧力で、不自然に価格が落ちた。売りやすくすることをねらった可能性がある」と問題視している。日本郵政グループは朝日新聞の取材に対して「鑑定士が公正に判断した」と文書で回答し、引き下げを指示したとは認めていない。同グループは不動産評価を見直しているが、結果は公表していない。(松浦新、座小田英史)



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体にいい食べ物は一つもない

現状を見るに
体にいい食べ物は一つもない

人類は滅びると思う
限度を知らない者は滅びる

知恵のある者もいるが
マーケットでの勝者は別だ
マーケットは限度を知らない

あんなに汚い海でとれたものを食べるなんてどうかしている
あんな飼料で太らされた動物を食べるのもおかしい、それこそ野蛮である

野菜は普通に栽培していると虫に食べられてしまう
なぜか虫が死んで野菜は残りそれを人間が食べているのだが
当然赤ん坊は影響されてしまう

赤ん坊のことを考えると
出産前の女性に
アルコールとタバコがよくないと分かっているのに
「国がきちんと」宣伝しないのは
あかんではないか!

汚染は複合しているのでもうどうしようもないわけなのだが
どんな子どもが生まれるか
いま我々は目の当たりにしている

坑道で酸欠を最初に感知するのがカナリアである
赤ん坊は感知していて脳に障害をうけている

どうせ死ぬんだから
何でもやってやれと
叫ぶ国民もいるようだ


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集中病について

集中力がいいのと
集中しかできないのとは
見分けがつかないと
神田橋先生は言っているんだが
どのレベルでこの言葉を受け取るかなんだけど
私の考えるような低い程度のところでは
やはり
集中力を自在に加減できる人がいるものだと思う

集中しかできない人は
意識的には、集中しかできないので
そのうちエネルギーが切れて集中が出来なくなり
否応なしに集中停止に至る
これは一種のうつ病ですね

結果として
集中・不集中の『ボリュームつまみ』を意識的に動かせる人と
意識的に動かせない人がいて
後者が
躁鬱病のタイプなのだと思う

集中病とか
集中しかできない病気とか
神田橋先生は言うのだが
なるほどある種の病気は集中しかできない病気だと思われる

集中しすぎて脂汗をかいている
あの様子をみるとやはりむ集中病なのだろうと納得する

ーーー
しかし私が思うには集中が足りないだけだと思う
うっかりしているから集中してしまうのだ
集中していれば集中なんかしなくてすむのだ




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豆腐を分類するとします

豆腐を分類するとします

実用的なのは木綿と絹
しかしそれでは商売にならないので
美味しいと美味しくないを表示するのだが

美味しくないと表示されるのは嫌なので
そのうち美味しくなるはずの豆腐と表示する

そのあとは箸で食べやすい豆腐とか
麻婆豆腐に使いやすい豆腐とか
分類するが
いずれも食べる側の都合でしかない

豆腐は食べられることが価値なのだと
居直るとすればそれでもいいのだが
果たしてそうなのだろうか

四角い豆腐とか丸い豆腐とか実際はほとんど意味が無い

豆腐を顕微鏡で見ても私にはまつ毛しか見えない

豆腐に内在する本質で分類したいとドイツ哲学者はいう
何料理に使う値段がいくらの豆腐か分かればいいだろうとイギリスの商人はいう




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あるべきカウンセラー

小出しにされる隠蔽と露出
そのじらしに耐え
動ずることなく
守秘義務を完遂すること
それがカウンセラー

ーー
知能の高い来談者は
カウンセラーのいだいているいくつかの仮説を暗黙のうちに探知する
そして自分にはどれを当てはめようとしているのかを探り当てる

探り当てたら
あとはカウンセラーが好むまたは予期する答えを提出して
喜ばせる

しかしそれが見つからない場合
たとえばカウンセラーがあまりにも常識的なただひとつの世界観しか持っていない場合
来談者は困惑する

私の目の前にいる者は
あまりに知能が高いのか
あまりに知能が低いのか

混乱した情報のゆえに
来談者は当てはめが出来なくなる

そして疲れ果てた後でやっと自分を語り出す


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愛し合う二人

どんな二人が愛しあうのかなと
鈍くさく考えると
男らしい男は女らしい女と釣合いそうな気がする
中性的な男女は釣合いそうな気がする
男性ホルモンと女性ホルモンの相対的な量の問題なのだろうか

この点では単に環境への適応を測定しているのではなく
別の淘汰圧が想定されるように思う



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人を育てる

人を育てるってすごいことだ

すごいことなのにそれなりに誰でもしているのもすごいことだ

理論を誰も知らないし理論を教える人もいなかった時代から人を育ててきた

理論は何もなくてもうまく育つらしい


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笑顔があることの意義

はじめてのレストラン
または
はじめてのメニューを食べるとき
笑顔の可愛い人がいてくれて
おいしいよと言ってくれたら
どんなにか慰めになるだろう

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