京都大と地元の自治体が共同で調査 食べ残し
食べ残しのなんと多いこと
賞味期限が切れたものをそのまま捨てている
手つかずのものも多い
これは献立と冷蔵庫を管理する技術の問題である。
対処するには、食料値段が高くなれば、無駄を出さずに利用する態度が身につくと思われる。
しかしそれでは現状でぎりぎりでやりくりしている人たちが苦しくなってしまう。
買ってきて、食べないで、そのまま捨ててしまう愚かさを何とかできないものか。
賞味期限センサー付き冷蔵庫でも作るか。
ICチップに賞味期限と商品名を入れておき、
冷蔵庫のディスプレイに、古い順に映し出す。
古い順に三つを選んで、それらでできる料理の提案を冷蔵庫のディスプレイに表示する。
食材の無駄を極小にできるようにアシストするシステムを作ること。
まだ食べられる食材をゴミとして出すことを有料とすること。
賞味期限切れにしたときにはやはり有償処分とすること。
あるいは有名料亭でこっそりと政治家に食べさせること。
ますますの自己愛傾向
大学の先生が10年くらい前に書いたもの。
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学生たちの悩み方がかなり違ってきたという印象をもっている。その印象の中心は「自己愛的」ということである。かつてのスチューデント・アパシーも遡ってみれば自己愛の問題をはらんでいたといえるが、最近来談する学生の多くは、他者の存在を実感できず、自己愛的な空想の世界を生きているようにみえる。
現代の日本の社会では、子どもたちは、身体を通じた手触りのある体験や規範や伝統を伝えられるよりも、親の自己愛の延長として期待され、「過保護に」育てられる傾向があるように思われる。少子化がこの傾向を助長しているとも思われる。そして、科学技術の進歩やエンターテイメント産業の肥大化は、子どもたちから「歯ごたえ・手触り」の体験を奪い、バーチャル・リアリティの体験ばかり提供している。幼児期からテレビゲームやビデオが当たり前のものとして普及したのは、今の大学生の年代からである。その一方で、微妙な「甘え」を察知し合う文化が過去のものになりつつあるということも、自己愛の病理の増加に関係があるだろう。現代の親子関係は、ひどくべったりした相互依存関係か、ものを介した情緒に欠けた関係が多くなってきているようにも思われる。こうした状況の中で、子どもたちは自己愛的な空想の世界に閉じこもるようになっているようにみえる。
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ますますそんな感じがする。
大人から見れば、携帯やネットなどの使用そのものが
非常に閉じこもり傾向で自己愛傾向と見える様子だ。
子どもは目の前にあるものに適応しているだけなのだけれど。
学校の先生に「君たちは自己愛的で、過保護で、バーチャルで、消費文化的で」などと説教されても、
ではどうすればいいか、家に帰ってネットで検索するのだろう。
Hさんに答えてもらいたい問題
1.成年後見問題について、一般向けに、制度の趣旨、手続きの実際、今後の問題など、解説。
2.社会的弱者と社会はいかに関わり合うか。いままでどのようにして関わってきたか。様々な例。そこからの教訓、そして今後の方針。
3.社会的弱者を経済的弱者と考えるほかに、法的、宗教的、倫理的、共同体的となど、様々な切り口があるのだろうと思う。たとえば老人をどのように処遇してきたか。また精神障害者をどのように処遇してきたか。
4.これはやや極端な立論であるが、経済的側面で見ていくのなら、経済弱者について、「憲法があるから、倫理の故、人間性の故」などと言っていないで、「経済的にこれだけの優位が実際に発生する」と証明できれば、一番説得力を持つ。インセンティブが発生する。
それが政府の介入しないインセンティブなら一番よくて、政府が設定するインセンティブならば次善である。
いずれにしても、経済的弱者を排除することなく社会に組み入れて設計するときに社会の利益も最大になるのだと証明したい。
そうでなければ、ある社会XとYにおいて、Yでは社会的弱者は切り捨てると決定して、あとはXと同じ社会政策を実行したとすれば、生き残るのはYになってしまう。そうではなく、実際に生き残るのはXであると証明しなければ、現在我々の抱いている倫理観には根拠がないことになってしまう。
5.現実の予測としては、日本の近未来はどのようになるものか。老人はどう生きればいいと行政はビジョンしているのか。
新設医科大学教授の犯罪
いろいろと問題があった
学位の謝礼
研究費の私的流用
などについては最近も新聞に出ている
しかしそれ以外にも
内部者以外知らないはずのいろいろな情報が寄せられている
金銭
情実人事
たかり
医療問題
など
それらはやはり微妙に各方面に影響してしまうので
具体的な名前を出して明らかにするつもりはないのであるが、
時間が経てば、関係者も、昔のこととして、公表に同意してくれるだろう。
現に、たいていの証言者は、自分の死後ならばかまわないとか、
問題の元教授の死語ならばかまわないとかと言う。
内部告発者の中にはすぐにでもという人もあるのだが、
それはリンチになってしまうし、
元教授だけではなく、その周辺の人たちにも影響してしまい、
その人の意見では、それも当然だというのであるが、
やはり物事には限度というものがあり、
リンチはよくないと思う。
皆さん生活があるわけだから。
それにしてもいろいろな人の話を伺うたびに、
人間の表の顔と裏の顔の落差を思い知る。
上に行くほど腐っているというのが真実である。
腐った人生を生きているというだけで罰の中を生きているに違いないのだ
社会に腐った石が混じっているなら取り除いた方が将来のためだろう
Kさんも賛成だという
後世に確実に残る形で
考えたいものだ
努力する人間を運命は見捨てない道は必ず開ける
努力する人間を運命は見捨てない
道は必ず開ける
プロジェクトXより
何よりも私は人間同士が支え合うことができると信じている
10年かけて木を育てる
山もない、谷もない。うれしくもない、かなしくもない。
新幹線に乗ろうね、ディズニーに行こうね
弁護士職務基本規程
弁護士を懲戒請求したわけ
中国映画「ジャスミンの花開く」チャン・ツィイー
第一部は1930年代の上海。写真館の娘、茉は、スカウトされて華やかな女優の世界へ飛び込むが、
これからという時に妊娠。
娘三代に渡る恋愛と出産の年代記。
私の心と波長が合ったのは、第一部。
男も第一部の男が一番いい。
そして一番悪い。
映画で、映画の世界を描くという自己言及。これはいつもうまく行くパターンだ。
今回もうまく行っている。細部にわたり本物を描けるからだろう。
イタリア映画でニュー・シネマ・パラダイスがある。
ジャスミンのことを歌った歌。
にょろにょろと絡むようで、なんとも中国ジャズ的だ。
このねっとりする感じは革命前の上海に一番似合うと思う。
蜂蜜のように絡む。
チャン・ツィイーの中国語はとても好きだ。
声の質が好きなのかもしれない。
チャン・ツィイーの母親役をやった人は、ジョアン・チェン。
銀色夏生とかその娘に似ている感じがした。
「あばずれ」という言葉が字幕に出ていて、
新鮮だった。
「あばずれ」。いまどきの女に当てはまらないのは、
いまどきの女はもっとずれているからだ。
チャン・ツィイーのオーラ。これはオーラとしか言いようがない。
たいして美人と思わないが、
目の表情がくっきりと強く、
顔がくるくると変わり、
体全体に表出が激しい。
絵を撮る人がうまいのだとも思うが、被写体もいいのだと思う。
整形でも作れる美人ではなく、北欧にたくさんいる美人ではなく、
感情と物語を表現する力である。
筋肉の一本一本まで、神経がつながっている感じ。
もともとダンス歴が長いらしいが、
特殊技能女体という感じがする。
「(わたしを)そんなに視ないで」というせりふがあるが、
それは無理というものだ。
最後のあたりのシーンなど、体当たりそのもので、これはすごい。
ジャッキー・チェンも体当たりかもしれないが、
こちらも体当たりだ。
茉と莉、そして花。特に莉(リー)という名前が好きだ。梨もいいし、李もいいが、莉もなかなかいい。
ジャスミンというイメージもとてもいい。くっきりしていて、あいまいさがない。
でも、日本といえば桜、という感じで、すこし陳腐で入門的な感じはする。
チャン・ツィイーを使うのだから、何かもう少し熟成させて欲しい気もする。
紹興酒のように複雑に発酵させて欲しい。
髪に挿したいけど
摘むのが怖い
と歌う
運命って、そういうところが、ある。
来年も咲いて欲しいから
と続けて歌う
男たちは薄く登場するだけ
女の話である。
脚本は一流とはいえないと思う。
しかし、人間の現実は実際こんな程度で、たいした話もないのだとも思う。
だからこれでいいのかもしれない。
作りすぎていないともいえるだろう。
人生も、要約すればこんなもの。
枕とパジャマが同じ模様の、細かい花のプリントで、
わたしはいとも簡単に胸をきゅんきゅんさせている。
衣装さんの感覚と波長が合う。
音楽さんとはあまりあわないかもしれない。
映像処理さんとはとても感覚が合う。凝っている。
脚本さんとは合わない。
それにしても、なぜいままでこんなチャン・ツィイーと出会わなかったのだろう。
世の中にこんな美しさがあるのだと知る。
北京ダックを食べたときみたい。
わざわざ皮をねえと思うが、食べてみないと分からないものだ。
北方東洋女性の美しさ。
体の表情というか、指先までの動きというか、
この人はだらしないところがない。
よくコントロールされている。
アスリートみたいに。
昔、チャン・ツィーが黒柳徹子のインタビュー番組に出た。
昼ごはんを食べながらで、最初は興味がなかったけれど、
背中を全面的にオープンにした衣装で、
カメラさんは後ろから、その輝く背中を存分に映していて、
これが女優の背中だと見せ付けて、
そのときから、わたしはチャン・ツィイーの名前を見ると、
その映画を観るようになった。
この人の出る脚本はたいしたものではない。
そんなにいい役は回ってこない。
でも、素材としてのチャン・ツィイーはやはり抜群だと思う。
写真よりも、ビデオよりも、映画に向いている。
作りこむ映画監督に惚れ込まれるのだと思う。チャン・イーモウ。
だから、今回、映像としてはとても美しい。
監督はかなり凝り性の人なのだと思う。
今回と同じ、チャン・イーモウ監督の映画『初恋のきた道』が一番よかったと思う。
監督とも仲のよかった時期で、女優としても、新鮮かつ
勝負してみたいとの気迫があったときのようだ。
グリーン・デスティニー、SAYURI、オペレッタ狸御殿とつまらない脚本が続いている。
でも、脚本がつまらないだけ、
チャン・ツィイーは被写体としてのみ、振舞うことができて、
いいのかもしれない。
この人のダンスだけしばらく見ていたい気もする。
わたしは、この人は、ヒップ・ホップダンス向きではないかと思う。
チャン・ツィイーのヒップ・ホップダンスを15分くらいでまとめて、プロデュースしたいものだ。
凝って作りこんでみたい。
*****
ビデオのリモコンがないので、
やむなくリアルタイムで視た。
夜に流れていた「私の頭の中の消しゴム」は
とてつもなく間延びしていて、
いろいろやることもあって、
視ていられなかった。
数分視ているうちに、暇くさいと思った。
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リモコンなしでも、ビデオ1で映る設定なのだが、どうしてか絵が出ない。
面倒なので、しばらくビデオなしだ。
統合失調症と発達障害
世の中を 憂しと恥しと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
鳥にしあらねば 山上憶良(やまのうえおくら)
(よのなかを うしとやさしと おもえども とびたちかねつ
とりにしあらねば)
意味・・世の中をいやな所、身が細るように耐えがたいような
所と思っても、捨ててどこかに飛び去ることも出来ま
せん。私どもは所詮(しょせん)鳥ではないのだから。
現実社会の苦しみにあえぎながら、それから逃れよう
もなく、結局それに耐つつ生きざるを得ないことを悟
った心を詠んでいます。
注・・憂し=つらい、憂鬱だ。
恥(やさ)し=身が細るように耐えがたい、肩身が狭い。
*****
「やさし」をこのように解釈していましたっけ。
鳥じゃないからねえと言うのは
確かにそうで
忘れたいことが多いのに
鳥じゃないから忘れられないのだとも言える。
でもね、鳥だとして、飛んでいったとして、降りるところはどうせ地上だと思ったら、
どう?飛ぶ気になる?
鳥が飛んで別の世に行けるというのなら別だけれどね。
古代の信仰ではそんな感じもあったらしい。
鶏は三歩歩けば忘れるというけれど
そのように忘れたいものだと思う
モラル・ハラスメントと自己愛性性格
つまり、加害者は、自分がモラル・ハラスメントを行っているなどとは夢にも思っておらず、考え方を修正しようという気持ちもありません。被害者がなんとかして加害者の心を変えようと思っても、精神的負担を増やすだけで、状況は何も変わらないということが多いのではないでしょうか?
加害者のなかには、やさしい態度やへりくだった態度であなたに近づこうとする人もいます。しかし、それがあなたを利用するための行為ではないかを注意深く見極める必要があります。自己愛が強く、自己中心的な人には以下のような特徴があるので、心当たりがないかチェックしてみましょう。
・いつも自分が優位に立ち、賞賛が得られないと気がすまない
・他人の気持ちに共感することや、心を通わせあおうという気持ちがない
・他人にあこがれて近づいても、すぐに嫉妬で心がいっぱいになる
・他人をほめることをしない。欠点をあげつらい、いつも悪口をいっている
・自分の考え方や意見に異を唱えられることをいやがり、無条件に従うことを要求する
・自分の利益のためなら、他人を平気で利用しようとする
・自分は特別な人間だと思っている
また、先ほど紹介した『モラル・ハラスメント』の本には、加害者が相手を不安に陥れるためによく使う方法について記されています。
・政治的な意見や趣味など、相手の考えを嘲弄し、確信を揺るがせる
・相手に言葉をかけない
・人前で笑い者にする
・他人の前で悪口を言う
・釈明する機会を奪う
・相手の欠陥をからかう
・不愉快なほのめかしをしておいて、それがどういうことか説明しない
・相手の判断力や決定に疑いをさしはさむ
--『モラル・ハラスメント』(マリー=フランス・イルゴイエンヌ著・高野優訳/紀伊国屋書店)より
もちろん、多少上記のような特徴を持ち合わせていても、すべての人がモラル・ハラスメントを行うとはかぎりません。特に精神的にまだ未熟な人、挫折を経験したことのない人のなかには、尊大な態度で不用意に傷つけてしまうこともあるかもしれません。
また、もし自己中心的な部分があったとしても、相手のことを認める心があったり、少しでも他人と共感したいという気持ちがあれば、いずれ精神的に成長して、思いやりの心が育っていくこともあるでしょう。
しかしあなたの友人に、明らかに自己愛的傾向が強く、自己満足のためにあなたを支配し、利用しようとする人がいたら、早めに距離をおいたほうが賢明なこともあります。しがらみ上、どうしても抜け出せない関係の場合には、なるべく相手との精神的な交流を断つことで、自分を守っていくことも大切なのではないかと思います。
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フランスの精神科医、マリー・フランス・イルゴイエンヌが提唱した造語。外傷等が残るため顕在化しやすい肉体的な暴力と違い、言葉や態度等によって行われる精神的な暴力は、見えづらいため長い間潜在的な物として存在していたが、イルゴイエンヌの提唱により知られるようになる。
モラルハラスメントを起こしやすい人格
イルゴイエンヌによれば、自己愛性人格障害(自分の事にしか関心が無く、特別な存在だと思い込む)の傾向がある人物は、モラルハラスメントの加害者となりやすい。加害者となった場合、自分が精神的な暴力を振るっていると言う自覚は無く、そのため是正が難しい。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~with3/gyakutai/morahara/morahara.htm