SSブログ

骨折の時には骨を瞬間接着剤でくっつけるわけじゃない

うつのお薬というのは骨折の時のギブスみたいなものです

骨折の時には骨を瞬間接着剤でくっつけるわけじゃない

ただギブスで固定して曲がってくっつかないようにしておく

すると体の内部で骨がつながる

つながるまで少し時間が必要

うつの薬はそういう薬です


共通テーマ:日記・雑感

まじめすぎるのよ

まじめすぎるのよって批判されるけど

不まじめなのがいいわけ?と疑問

そうですね

疲れないまじめでいきましょう


共通テーマ:日記・雑感

女は下半身の管理が緩いだけで 対人関係が築けると錯覚する

女は下半身の管理が緩いだけで
それを対人関係を築く能力と錯覚する

緩いだけで妊娠しないなら
DNAとしては戦略の失敗である

ーー
対人関係能力も最終的にはDNAの生存を高める点において意味がある


共通テーマ:日記・雑感

肌の汚い女

肌が汚いと一口に言うが様々である

ある種好ましい場合もある


共通テーマ:日記・雑感

素直な自分を出したら嫌われた 隠したらまた嫌われた

素直な自分を出したら嫌われた
という原体験があるとして

だんだん素直な自分は出さなくなる
大事だと思うほど出さなくなる
関係ないと思う人には出しているけれど

もう傷つきたくないと思うから
自分を隠す

するとそれ以上関係は進展しない
防御のほうが大切になる

隠したらまた嫌われる

しかしそれはそれで大切な事で
おじさんに声をかけられてもついて行っては
いけませんということだ

自閉傾向の人の場合
友人はそれくらい大切な存在になる

世界と点線で繋がっているとある人は言った


共通テーマ:日記・雑感

仕事ができる人

仕事ができる人って
結局家庭を犠牲にしていたり
軽躁状態だったり
アスペルガーだったり
危険ですね


共通テーマ:日記・雑感

軽躁状態同士の恋愛

軽躁状態同士の恋愛は
滑り出し絶好調

6ヶ月で多分破綻

ーー
軽躁状態と分裂気質だと
ぶつかることもなく維持できる

しかし軽躁状態の人が
物足りなくなる
それで破綻



共通テーマ:日記・雑感

一般事務職なのにPCばっかり

私は一般事務職なのに結局PC能力を要求されている

ほとんど全部無駄ではないだろうか

仕事が余計増えて面倒になっているだけではないか


共通テーマ:日記・雑感

ネットの中の軽躁状態

ネットの中の軽躁状態

ガチャガチャとうるさいことだ

いつまでもしゃべり続けている不思議

ネットの中には軽躁状態の人の好きそうなものがたくさん

うつの人はそもそもネットの前に座り続けたりしないから

ネットにかじりついているうつ状態は軽躁状態の混合なのだと思う



共通テーマ:日記・雑感

母親イメージ

男の子にとっての母親イメージは
大変大きいと思う

しかしそのイメージを基盤にして
異性関係に発展させる経過が分かりにくい

なにかごまかしがあるのではないか?


共通テーマ:日記・雑感

物事を優勝劣敗で考える人

物事を優勝劣敗で考える人は多い

何がその人の利益なのかとか
ベネフィットだけではなくインセィンティブとか

それで大部分は説明されるし
それでいいのだけれど

ベネフィットの意味を拡張して
何にしてもその人の利益と考えれば

つまりは脳の天秤の全てであるわけで
意識的と無意識的と合わせて全部になるので説明にならなくなる

インセンティブの説明などはそのあたりの
曖昧さを利用しているところもある



共通テーマ:日記・雑感

優しい人と仕事の出来る人はたいてい一致しない 自分が傷つくまで愛する

優しい人と仕事の出来る人はたいてい一致しない
どうするか
両方ほどほどのバランスの人を探す

本当は仕事が出来れば余裕が出て
余裕が優しさにつながる
それが円満な状態である

余裕でない部分での優しさを求めると
相手を苦しめてしまう
それが破滅への道

しかしよくあることだが
そしてキリスト教でよく言われるのだが
自分が傷つくまで愛する
ことを愛情の指標とすると
相手を破壊してしまう

何も特別なことは求めていないのに
相手保破壊してしまうときは
そのようなことも配慮が必要だろう


共通テーマ:日記・雑感

嘔吐と毒

いろいろと引用

基本的に吐くことは健康法であり上流社会に生きる人のたしなみだった

古代ローマ人は催吐剤を飲んで吐くことを一種の健康法と考えていたようで、 当時の医学書には月に2度実践することを勧めたものもあります。同じ月2回でも半月ごとに一度ずつ行なうより、月に一度二日連続で行なう方が効果が高いと書かれた書物もあるそうです(未見)。食べすぎ飲みすぎで悪い物を身体の中に溜め込むよりは定期的に身体の中を完全にきれいにしたほうが健康的だという考えでしょう。

キケロがわざわざこの点を書いたのは、カエサルが宴席で悪酔いしたり料理に手をつけないといった不作法で同席者を不快にさせないため行き届いた配慮のできる人物であったことを伝えようとしたのでしょう。

毒殺の危険を回避するためにも役に立ったと考えられます。結局カエサルは毒以外の方法で暗殺されますが。

日本のバブル期にもいわゆる「セレブ」の一部で同様の「吐き食べ」が行われていましたが、一度習慣になると普通に食事をしても吐いてしまう事になり、また胃酸を同時に吐くわけですから、繰り返すと歯がボロボロになってしまいます。

嘔吐は快感を得ることができます。

青汁で健康法という記事の中に嘔吐による健康法が載っている

ピポクラテスは、「冬嘔吐をなさしむ。湿性体質の人は月に三度、乾性質の人は月に二度。色々の食物を摂った後吐かしめ、嘔吐後三日以後に、徐々に通常食にかえる。牛肉・豚肉または乾酪等を食べた後に吐くとよい。泥酔後に吐け。」
■とか、……
「春初二日毎、後、永き間隔をおいて。夏、嘔吐は避くべし。」
「肥った人、日中速に走り、または歩いた後、空腹時に吐け。痩せた人は食後に吐け。」
「月二回吐く習慣なれば、15日毎に行ふよりは、二回つづけて吐け」。
などといっている。

全盛時代のローマ貴族の間では、連日連夜の豪華な饗宴が催おされたが、それによく堪えられたのは、吐剤によって適宜に吐いたからであった、という。
 それは、ただ胃の負担を軽くするだけでなく、過剰栄養の害を防ぐことにも役立ったのだろう。

南方先生によれば、「ダウエルニエーの紀行に、カブル辺のアフガン人は、毎朝、或る植物の根で舌をけづり、多く吐く。ペルシヤとインドの境の人も、そんなにすれど、多く吐かず。食ふ時、先づ、二三口食へば必ず吐く。扨、快く食事する。かくせざれば、30になるや成らずに死なさんすそうだ。南米のヘベロス人は、毎朝、グワユサの葉の浸液を服し、夜前からの不消化分を吐き尽くし、空腹で狩に出る。」(南方熊楠全集七)とあるが、これも健康法として吐いている。

吐くことは、古人のいうように、確かに一つの自然良能のあらわれでもある。

ーーーーー
発見されたのは太古の昔であり、原始においても文明化ののちにも獲物や敵を素早く確実に倒すための道具として使用された。毒の用法は洗練されていき、古代人たちは武器としての威力を高めるため毒と関わりつづけてきた。歴史が下り、特にローマ帝国の時代がくると、暗殺というさらに今日的な使い方が現れるようになる。すでに紀元前331年ごろにはディナーテーブルの飲み物にしのばされた毒がその役目を果たしたことが記録されているし、同様の試みはすでに広くなされるようになっていた。この致死性の物質を使うことは、あらゆる社会階層においてみられる。身分の高い人々であっても、目障りな政敵や商売敵を亡き者にするため、しばしば毒を用いてきたのである。
中世ヨーロッパで毒は、殺人術の一つとしてさらに一般的になっていった。一方でよく知られた毒の多くに解毒の方法が見つかるようになるが、これは毒の有用性がさらに高まったことを受けてのものである。アポセカリーとして知られる商家では毒だけでなく様々な医薬品を扱っていて、表通りに店を構えているのが普通だった。伝統的に薬としても使われていたこの物質は、しかしより陰惨な目的も持ち始めていたのだ。おそらく同時期に、世界の他の地域でも暗殺をより不透明なものにし、検出されないようにする毒物が求められていた。この「毒の叙事詩」はアジアの一部でもやはり隆盛をきわめていたのである。
世紀が変わっても、人の道を外れたような、誰かに危害を加えるための毒の使用は広まる一方だった。これらの解毒方法もまた進化していたのだが、新たな毒物の発見は止まらず、犯罪に常用されていくのである。

考古学の成果によれば、原始人たちは斧や棍棒、すこし時代が下って剣を武器にするとともに、それらをより強力にし容易く命を奪うことができるようにする方法を求めていた。その答えが毒であった[2]。ツボクラリン(ツヅラフジ科の植物の浸出液で、毒性を含んでいる)を蓄えもっておくような賢い人間たちはそれを狩りの道具として活用していた。初期のヒトが様々な効果をもつ毒を発見し、それを武器としていたことは明らかである[2]。この奇妙なる毒物の存在とその使用法は部族や氏族の長老たちによって秘蔵され、偉大な力の象徴とみなされていたという考え方もある[誰によって?]。それは典型的な「呪医」(medicine man) や「魔女」(witch doctor) という概念の誕生でもあった[2]。
毒の危険性とその扱い方が理解されるようになったのは、その危うさを味わった人間がいるからでもある。ポントス[3]に君臨したミトリダテス4世は毒による暗殺に怯えながら一生を過ごした。彼は解毒の方法を求めて奔走した先駆者でもある[2]。在位中のミトリダテス4世は死刑囚に毒を盛りつつ解毒薬の治験を行い、自分があらゆる毒への耐性をえることができるよう、なかば偏執的なまでに毎日いくつもの毒を試みた[2]。ついに彼はわずかな量のハーブをいくつも調合することでこの時代もっとも有名になった治療薬を発見しており、ミトリダティウム (Mithridatium) と名づけられた[2]。それは彼の王国がローマのグナエウス・ポンペイウスによって征服されるまで極秘の扱いを受けていた。ポンペイウスが勝利すると、ミトリダテス王の解毒薬の製法、および薬草の研究書はローマ人のものとなった[4]。小プリニウスは7000以上もの毒について記述している。彼によれば、「ポントスの一地方で毒入りの餌を与えられていたとおぼしきアヒルの血、それが後にミトリダティウムの調製に用いられた。なぜならそのアヒルは毒入りの餌を食んでも、まったく健康であったのだ」[2]。インドの外科医ススルタは遅効性の毒のまわり方とその治療薬について書き残しているが、やはり毒を返すための伝統的な素材を用いたこの解毒薬について語っている[5]。

ローマでの毒殺は晩餐の席や公共の飲食スペースなどで実行され、紀元前331年にはすでに確認されている[2]。こういった毒殺は、社会のあらゆる階層で私利私欲のためにひろく行われた。リウィウスはローマの上流階級や貴族たちのうちで毒殺された人間を記録している。ローマの皇帝ネロも側近に毒を与えるのを好んでいたことで有名で、私設の毒殺者さえ置いていたという。お気に入りの毒はシアン化物だったといわれている[2]。
ネロの先帝であるクラウデイゥスは毒キノコかそれに代わる毒草で暗殺されたという説があり、その死因については議論がわかれている[13]。彼の毒見役であったハロタス、侍医であったクセノフォン、悪名高い毒殺者ロクスタ、この3人全員が暗殺につかわれた死の薬に関わったといわれている。しかしクラウディウスの最後の妻であったアグリッピナこそが疑惑の中心人物とされており、おそらくは彼女自身が毒を調製したのだという。一説では、夕食を一口啜ったクラウディウスは延々と苦しんだのちに死んだ。またその場では何とか一命を取りとめたという者もいる。それによれば、毒を吐き出そうとするのを助ける風を装うアグリッピナに、毒に浸された羽毛を喉に押し込まれて殺されたのだという[14]。また毒を盛られたのは、夕餉の皿だとも浣腸器だともいわれている or by poisoned gruel or an enema.[13]。ネロを寵愛していたアグリッピナは息子を帝位につかせようという野心を抱いており、クラウディウスにその陰謀を疑われたために彼を毒殺したと考えられている[15]。

時代が下った中世ヨーロッパでは毒の性質が知られ、それが単なる魔法や奇跡ではないことが理解されるようになると、薬と毒を販売し供給するアポセカリーと呼ばれる商店が現れた[16]。毒のもつ医学的な側面はほとんど知られていなかったのだが、そのあまり実用的ではなく合法的でもない目的から人々は公然と毒を買い求めたのだった。それらアポセカリーで働く錬金術師たちは直に毒を扱わざるをえず、いつ健康を損なうかもしれない危うさのなかで仕事をしていた[17]。この頃には世界中で毒を扱う技術が進んでおり、たとえばアラブ世界では飲み物に入れた砒素を透明化し無味無臭にすることに成功しており、この手法もちいた暗殺者たちの毒は、少なくとも100年間は検出されないままだった[18]。
チョーサーの「カンタベリー物語」は14世紀から15世紀に書かれたとされるテクストだが、このアポセカリーから害獣駆除だといって毒を買い求める殺人者の話がでてくる。

毒と薬はフィクションのなかでは非常に普遍的なテーマであって、例えばシェイクスピアにもそれはあてはまる。また学術的テクストでもこのテーマを論じたものがある。フィクション、ノンフィクションに関わらず、その多くは僧侶によって書かれたものだった。当時の僧侶は一流の知識人でもあり、このテーマで出版されたものの大部分が彼らの手になるものである[16]。
ノンフィクションの著作の一例として、「毒の本 The Book of Venoms 」がある。これは当時有名だった毒の効能と使用法について記したもので、1424年にMagister Santes de Ardoynisによって書かれた。この本はその毒について最も知られるところとなる処方を記したものとも評されていた。とはいえこの実際的な本は出版されることがなく、研究のためにとあるサークル内に留めおかれていたと推測されている[16]。
大衆の反応 [編集]
真理が大衆から遠ざけられたままであれば、眼をそむけたくなるような毒の使い方についての民話や噂が広まることは防ぎようがない。当時、イギリスをはじめとしたヨーロッパには毒への妄想症が蔓延した[16]。適量をひそかに調製したなら致死性をもつであろうその「薬効」が周知の事実となったことにも後押しされ、毒への関心はうねりとなってひろがったのである。毒をつかえばたやすく殺人が行えるうえ、痕跡が残りにくく人目につかないため、たいていその犯罪は気づかれずにすむ[16]。おそらくこの妄想症の大波は巷の話題を独占したのだが、大衆が毒素に対する対策を求めても、それに関する本は不安を煽るだけか完全に間違っていたりしたことも背景にはあるのだろう[16]。
当然ながら冴えた書店員はこの問題を本を売るための「手」にし、人々がありもしない安全策をもとめて本を買うために危険を誇張した。宝石商なども毒素を弱めるアミュレットを販売し、傷薬を扱う医師は当時この疑惑によって大きな利益をえた。大衆が待ち焦がれていた情報はけっきょく学徒と科学者だけのものであり、一般人はその妄想を確かめることができないままだったのである[16]。

ルネサンス期ごろには、違法かつ卑劣な目的で毒をもちいることが隆盛を極めていた。それが人殺しや暗殺者に必須の道具となっていたことは間違いない[21]。犯罪結社などで毒がそれだけの人気を得たのは、毒そのものに新たな発見がされ続けていたことにも理由がある[21]。14世紀から15世紀に生きたイタリアのある錬金術師は、毒性をもった物質をかけ合わせることで同じものを増量するよりもはるかに強い効果を生みだすことに気づいていた[21]。学問としての体系も整えられ、今日毒性学として知られるものに近づいていく。こうして人を殺すための手段として毒は社会に根付いていき、夜会に訪れる人間は、主賓あるいは客の誰かが食事に毒を盛りはしないかと恐れるようになったのである[21]。
ボルジア家 [編集]


ローマ教皇アレクサンデル6世。本名はロドリーゴ・ボルジア
チェーザレ・ボルジアは教皇アレクサンデル6世の息子であった。5人の息子を高位につけるために権力を振るった父は、おそらくその正当性を巡って史上最も議論を呼んだ法王の一人だろう[21]。彼は好戦的で残忍な人間であったと考えられており、忌諱と畏怖とを一身に集めていた。チェーザレ・ボルジアはそのような問題の多い父を持っていたというだけではなく、毒をこのんだ殺人者であったことでも悪名高い[21]。その犠牲者へのやり口を、アポリネールは「ボルジアの処方箋」と呼んだ。
名高いカンタレラ。ボルジア家が正体を知らぬままに砒素と併用した成分は燐であった。この秘密の成分の知識をボルジア家にもたらしたのはスペインの修道僧で、その解毒方、および砒素の解毒方についても知悉していた。おわかりだろう、これこそが彼らの強力な武器だったのである。
チェーザレ・ボルジアの父が亡くなると、その死因についていくつもの噂が飛んだ。そしてそれはたいてい教皇が毒によって凄まじい死に方をしたという話に落ち着くのだった。アレクサンデル6世が飲んだ毒入りのワインは、実は別の人間のために用意されたものだというのがアポリネールの考えである。ワインではなく砂糖菓子だったという説もあった[21]。いずれにせよ法王の死を嘆くものは少なく、その地位を汚したと考えるものはむしろ心待ちにしていたのだった。史料が示しているのは、彼が実際に何らかの方法で毒殺されたということであり、彼の遺体は見るも無残なほどに腐敗していたという。あらぬ疑惑を呼ばぬため、それを目にすることができるのはろうそくを灯した真夜中だけであった[21]。
Council of Ten [編集]
16世紀には毒がある種の学問にすらなっていた。ヴェニスやローマをはじめとしたイタリアのいくつかの都市では毒の使い方および学問としてのそれを教える学校が誕生していた[21]。それに先駆け15世紀には錬金術師と毒殺者によるギルド、Council of Ten が組織されている。この毒専門の暗殺者たちによるカルト組織は契約を結んで報酬をうけとるもので、その対象となった人物は、何種類かの毒物を検出不可能な量で混ぜ合わせた薬品で殺されたのだった[21]。
Neopoliani Magioe Naturalis [編集]
「Neopoliani Magioe Naturalis」という本の初版は1589年末である。これは学問としての毒と、実践に役立つ技術とを詳細に解説したものである。この著作によれば最も効率がよいのは狙った人間のワインに毒を混ぜることであり、この手法は当時たいへんに普及した[21]。「狼の毒 Veninum Lupinum」という猛毒の調合法もこの本には載っている。これはトリカブト、イチイ属の液果、生石灰、砒素、ビターアーモンド、ガラス粉末を蜂蜜と混ぜ合わせるというものである。完成品は胡桃ほどの大きさの錠剤になったと考えられている[21]。
16世紀以降 [編集]

16世紀の終わりごろには技術としての毒の中心地はイタリアからフランスへと移り、犯罪に毒がもちいられることはますます多くなっていった。1570年代にはパリだけで三万人もの人々が何らかのかたちで違法かつ道徳的でない毒の使い方をしていたという数字もあり[22]、もはやこの現象そのものが「悪疫」あるいは「伝染病」と呼ぶにふさわしいものになっていた[22]。この伝染病はいくつもの弔いの鐘を響かせる一方で、犯罪とは何のかかわりもない人々にも大きな影響を与えている。とりわけ貴族の多くは毒の恐怖に怯えるばかりであった。彼らはごく信頼できる人間との晩餐会にしか訪れないようになり、雇い入れる従者も自らが選ぶのが当たり前になる。きわめて高貴な生まれであり、毒を極端に恐れていた有名な人物を何人か挙げることができる。ヘンリエッタ・アンとヘンリ6世である[22]。彼女は毒を気にするあまり、十二指腸潰瘍で腹膜炎になるやいなや毒が盛られたのだと早合点をした。ヘンリ6世もルーブルを訪れた際には自分で調理した卵しか食べなかったと記録されており、飲み物も自分で注いだ水しか口にしなかったという[22]。1662年、ルイ14世はアポセカリーに規制をかけ、信用できると判断された人間以外が毒を販売することを禁止した[22]。
一方でこの時代に信頼のおける錬金術師を見つけることが困難であったことも事実である。彼らの多くは山師に等しく、金主や市民を見境なくぺてんにかけていた。どんな物にでも含まれるような水銀がその頃は「核となる」元素と考えられており、錬金術師たちはそれを黄金や貴金属に変換できるとうたっていたのである。そういった理論を利用する人間が大勢いたなかで、科学の名のもとに無価値な素材から黄金をつくりだそうという純粋な試みを行うものもいた。そういった錬金術師たちは、彼らの理論における三つの欲望を達するという目的を共有し、それに突き進んでいたのだった。すなわち、物質を黄金に換えることのできる賢者の石、寿命を延ばすことのできるの生命の水(エリクシル)、そしてあらゆるものを溶かす万能融化薬「アルカヘスト」である。これらの研究は幻想的ではあっても科学の視点からなされてはいたが、錬金術の科学とでもいうべきものの発達を大きく損ねてしまった。彼らの目的はけっきょく叶わぬままであった[17]。


ルイ14世
Chambre Ardente [編集]
毒物の販売へ規制がかかった頃、ノートルダムの僧侶たちは毒にまつわる懺悔の多さに驚きの声を残している。彼らは王へと「毒の伝染病」がどれだけ悪影響をもたらしているか、その実態を報告することにした[22] 。それに対して王は「Chambre Ardente 」と名づけられた調査を行うという布告を出す。この調査は「affaire des poisons 」として知られている。
この取り締まりは国家権力のもとで行われたにも関わらず、罰を逃れるためのつてを持っていた凶悪な毒殺者たちのほとんどが逮捕されることはなかった[22]。それでも布告の期間中におよそ442人が捕らえられ、処罰を受けている。この命令には反動、あるいは余話がある。この騒動で毒物やその使い方への関心が高まり、なぜかそれを取り締まるための布告が出された後のほうが毒に手をだす人間が増えてしまったのだ[22]。


スペインのカルロス2世
スペイン [編集]
イタリアやイギリスを根城とした犯罪者たちは、毒が人に危害を加えたり、命を奪ったりする手段として有効であることを示した最初の人間たちだった。毒の扱い方は当時のヨーロッパ全体に知れわたっていた。スペインもエリザベス1世を亡き者にしようとして失敗を繰り返してきたことで有名である[22]。ユダヤ人のロドリゴ・ロペスという内科医は女王を暗殺するためスペインに声をかけられた。しかしそれは失敗し、彼は逮捕され絞首刑に処されている。もっとも女王と宰相ロバート・セシルはその有罪を疑っていた[22]。シェイクスピアの「ヴェニスの商人」の登場人物は、部分的にこのロペス医師に着想をえたものだと考えられている。この象徴的な事件ののち、女王の食事はつねに毒見がなされるようになり、調理過程の警備も厳重になった。彼女は予防のため週に一度解毒薬を飲んでいたことでも知られている。
反対にスペイン国内でも王族を毒殺しようという企てはあり、何人かの人間たちが主君の命を狙っていた。これが成功したものとして(ヨーロッパでは数少ない成功例である)、カルロス2世の妃、マリア・ルイサの毒殺がある。彼女は1689年9月に急逝したのだった[22]。
20世紀 [編集]

この傾向はヴィクトリア朝時代まで続き、一つながりの叙事詩のようなものとみなされている。なおも毒は人を殺す一番てっとりばやく、シンプルな方法だと考えられていたのだ[23]。しかし、この時代には多少の違いもみることができる。たとえば毒による「当世風の」犯罪を扱う生命保険会社の誕生である。これは保険をかけられた人間が毒殺された場合には、その不幸な親族に大金が支払われることを保証するものであった[23]。しかし1900年代にはいると、毒に対する技術もまた改良され、効果的なものとなっていき、毒をつかって悪事をなすことは前世紀にくらべて非常に難しくなっていった[24]。毒殺者にならんとする人間に立ち向かうため日々進歩する技術を取り入れることがはっきりと目指されていたのだ[24]。しかし教育を受けた層が広がったことで、毒の使いかたを理解することのできる人間も増えてしまい、そういう人々は毒をつかった犯罪を計画的に行うことのできる知識と技能をも持ち合わせていることがほとんどだった。限られた一部の人間だけが殺人を実行できるだけの知識を持っていたのがまったく過去のことになってしまったのだ[24]。
昔の毒 [編集]
毒はいまもむかしも殺人の道具として用いられてきた。20世紀はじめには砒素がよく使われたが、半ばごろにはシアン化物がたいへんポピュラーになった。第二次世界大戦のエージェントたちにとって毒は自殺の手段に重宝された[24]。逮捕された場合は敵国から凄惨な拷問をうけるからである。ナチスの指導者であったヘルマン・ゲーリングも、ニュルンベルク裁判で絞首刑が前提となった夜にシアン化物を飲み、自ら死を選んだ[25][26] 。
しかし新たな毒は、毒性学の研究範囲を飛び越えて幾度となく使われ続けた。これはつまり新しい未知の毒物をつかい誰かを殺しても、その死は珍しい病気による不幸なケースとして処理されてしまうということである[24]。毒性学をはじめ毒を扱う学問領域にかかる負担はいままでにないものだ。これまで出会ったことのない毒をつかって罪を犯そうとする人々に追いつくため、常に研究をしていく必要がある。



共通テーマ:日記・雑感

アスペルガーの一面

一見、人懐っこいし、よくしゃべる。
物を一列に並べるような風変りなこだわりや固執もない。
でもよくよく見ると社会常識に欠けていて相手を傷つけても気づきにくいし、会話がすれ違う。
杓子定規で融通が利かない。
こんな感じがアスペルガー

人を平気で(自分でも知らないうちに)傷つけている一方で
自分はそれなりに傷つく

しかし訂正する方法を知らないので繰り返すことになり
学習性の無力感に至る

自分ではどうしていいかわからない五里霧中感というのが実際の感想だろう

そうなるとうつ症状から離人感、リストカットから摂食障害まで発生する


共通テーマ:日記・雑感

補中益気湯

 ドリンク剤のCMを見ていると、疲れ果てたときなどにとても元気が出そうな気がしてきます。気が滅入ったときにも効きそうです。

 漢方薬でも、生薬の人参黄耆(おうぎ)を含んでいるものはそのような効果が期待できます。代表は補中益気湯(ほっちゅうえっきとう)で、僕もバテたときには毎食前に飲んでいます。飲むと気力が出るのです。1日飲んで元気になればそれでよし。ただ、数日飲んでも、1カ月続けて飲んでも大丈夫です。

 癌など大きな病気で入院すれば、当然気が滅入ります。このような疾患で入院した患者さんで、漢方を希望する人には補中益気湯を処方しています。動物実験で、補中益気湯には対癌免疫を亢進するなどの効果が認められたあると報告されていますが、それは二の次の話。ともかく気力が増して闘病意欲がわくことが大切ではないでしょうか。

 人参と黄耆を含む漢方薬は、補中益気湯のほかに、十全大補湯(じゅうぜんたいほとう)、人参養栄湯(にんじんようえいとう)、大防風湯(たいぼうふうとう)、帰脾湯(きひとう)、加味帰脾湯(かみきひとう)、半夏白朮天麻湯(はんげびゃくじゅつてんまとう)、清暑益気湯(せいしょえっきとう)、当帰湯(とうきとう)、清心蓮子飲(せいしんれんしいん)など。どれも患者さんに処方する際は「ドリンク剤のようなイメージで、元気がでる薬だよ」と説明しています。いずれにしても、「虚証」と呼ばれる消化機能が弱い人用の薬です(「虚証」についてはまた改めて説明しますが、入門段階ではこのように理解すると分かりやすいと思います)。

 もちろん、同じように人参と黄耆を含んでいるといっても、少しずつその効果は異なります。どのような患者さんに処方すべきかは、表を参考にしてください。表の中でも十全大補湯、大防風湯、加味帰脾湯、半夏白朮天麻湯、清心蓮子飲はよく使われる薬です。ぜひ覚えておいてください。

 

表 人参と黄耆を含み、「元気が出る」漢方薬の一例
漢方薬名効果のある症状
補中益気湯ほちゅうえっきとう疲れ全般
十全大補湯じゅうぜんたいほとう貧血様症状や皮膚のカサカサがあるとき
人参養栄湯にんじんようえいとう冷え性
大防風湯たいぼうふうとうリウマチ患者
帰脾湯きひとう不眠
加味帰脾湯かみきひとう不眠
半夏白朮天麻湯はんげびゃくじゅつてんまとうめまい
清暑益気湯せいしょえっきとう泌尿器疾患
当帰湯とうきとう腹部膨満感や腹痛
清心蓮子飲せいしんれんしいん残尿感、頻尿



共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。