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一度シナリオが書かれると なんどでも繰り返される

一度シナリオが書かれると
なんどでも繰り返される

ハムレットのセリフが世界のどこかで
発音されているのと同じ

人生は何度でも同じセリフをくり返している

高木美保が過ぎし日のセレナーデで話していたセリフを覚えている

人生はそんな小さなことの積み重ねのようだ


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ディスコミュニケーション

好意や善意は,つねに肯定的に機能するとは限りません。 本書では,ソーシャル・サポート研究の理論的枠組みに基づいて,好意や善意のディスコミュニケーションの多様なパターンが提示され,ディスコミュニケーションの背景やそのありようが実証的に論述されています。 そして,好意と善意のディスコミュニケーションの生起にはコミュニケーション当事者の関係性,そして外部の第三者の影響が大きいことが明らかにされ,好意や善意のコミュニケーションやディスコミュニケーションを開かれたシステムとして捉えることの意義が論じられています。 

【目次】

第1章 序論:好意と善意の心理学
 第1節 はじめに
 第2節 好意・善意をめぐる心理学的アプローチ
 第3節 ソーシャル・サポート研究の始まりとその後の量的展開
 第4節 ソーシャル・サポート概念の多様化と心理学化
 第5節 ソーシャル・サポート研究の落とし穴
 第6節 発達心理学におけるソーシャル・サポート研究
 第7節 ディスコミュニケーション
 第8節 サポート知覚のズレと見えないサポート論
 第9節 サポートの否定的効果と見えないサポート論
 第10節 本論文の基本的立場と目的
 第11節 本論文の構成と各章の焦点

第2章 研究1:否定的に受け取られるサポートの記述
 第1節 目的
 第2節 方法
 第3節 結果及び考察

第3章 研究2:否定的反応をもたらすサポートの特徴
 第1節 目的
 第2節 方法
 第3節 結果及び考察

第4章 研究3:送り手と受け手との間のサポートの知覚のズレ
 第1節 目的
 第2節 方法
 第3節 結果及び考察

第5章 研究4:サポート受領の発達
 第1節 目的
 第2節 方法
 第3節 結果及び考察

第6章 方法論的観点から見たサポート研究
 第1節 前章でのまとめ
 第2節 人を測ることの意味
 第3節 妥当性概念の評価
 第4節 ソーシャル・サポート研究の方法論的課題

第7章 研究5:中期的スパンでのサポート・コミュニケーションのズレ
 第1節 目的
 第2節 方法
 第3節 結果及び考察

第8章 結論:現実生活に根差したソーシャル・サポート論に向けて
 第1節 好意と善意のディスコミュニケーション
 第2節 見えないサポート論の適用範囲
 第3節 二者関係から開かれた好意と善意
 第4節 好意・善意の文脈依存性、そして好意と善意の文化的実践研究へ
 第5節 おわりに:結果としての相対主義とほどほどのヒューマニズム



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Love conversation

http://www.youtube.com/watch?v=Dq77Dqey1Rw&NR=1&feature=fvwp
Steven Isserlis Schumann Cello Masterclass




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栄養と脳

いろいろな本を検索
意味が分からないものもある

ーー
脳から「うつ」が消える食事 
「脳の栄養不足」が老化を早める! 
診たて違いの心の病―実は栄養欠損だった!
「うつ」は食べ物が原因だった!
心療内科に行く前に食事を変えなさい
35歳からの栄養セラピー 「妊娠体質」に変わる食べ方があった!

メタボエイジング 伊藤裕 
75年にわたるカロリー制限(CR)研究は、老化制御に関する重要な知見を我々にもたらした。これまで試された動物種では食餌制限による寿命延長効果は、食餌中の特定成分の制限や毒性物質の減少によるものではなく、摂食カロリー制限がその本質であった。また闇雲にカロリーを制限すればその分だけ寿命が延びるという話ではなく、実験する種にとって寿命を最大にする摂取カロリー量が確かに存在し、それが多くの動物種では食餌自由摂取時の40‐70%のカロリー摂取量であった。

釜池豊秋
常識を覆す釜池理論ですが、即日に血糖値が改善するのを確認し目から鱗が落ちる思い。
 その後は高雄病院で二年間かけて生理学的検証を徹底的に行い、糖質制限食理論の正しいことを確信しました。糖尿病や代謝症候群は<糖質を制限し脂肪やタンパク質はOK>という糖質制限食で確実に改善します。これはカロリー制限優先の日本糖尿病学会の糖尿病食(高糖質低脂肪食)とは根底から異なるものです。

人は、なぜ太るのか。食べるから。なぜ食べるのか。ハラがへるから。なぜハラがへるのか。血糖値がさがるから。なぜ血糖値がさがるのか。インスリンが出るから。なぜインスリンが出るのか。血糖値が上がるから。何故血糖値が上がるのか。糖質(白米・パン、もちろんお菓子類も)を食べるから。いわゆるカウチポテトはこの悪循環をくりかえしている。「じゃ、五穀を断ちなさい」と、ずばりいうのが釜池先生の流儀である。
 たしかに、人間は穀類・糖質をまったくとらなくても大丈夫なはずだ。必須アミノ酸というのはあるが、必須糖質は生化学でもならわなかったのだから。

釜池さんは、タンパク質や脂肪にウエートを置いた食事を勧め、味付けも糖質が含まれるしょうゆを避けて塩やコショウを使用。また、働く日中は脳に多くの血液が必要で、消化器官に血流が不足すると胃腸障害などを招くとして、まとまった食事は「就眠前の1食」を提唱する。



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言葉を聞いている限り 騙し騙される

言葉を聞いている限り
騙し騙されるという関係が発生する

たとえば
外見が大事という人には美容整形が
匂いが大事という人には香水が
あるように
言葉だ大事という人には嘘がある

美容整形も香水もお金がかかるが
言葉はただ


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折指

母性原理に基づいた感情的葛藤=甘えや依存を許しあう二者関係

「何かとてつもない生まれながらの空恐ろしい存在としての自分」という、
無意識的罪悪感や加害者感に苦しんできた私にとって
「未だ生まれないときから怨みをもっている者だったのだ」という
根源的な暗黒の烙印を押されてしまった絶望的な恐怖でした。

王もまたその子を恐れて、
夫人とともに高い塔の上から投げ捨てたのですが
一本の指を折っただけで無事だったので、
阿闍世王のことを別名「折指(しゃくし)」とも言います。

このように仏典では、
父王を殺したのはあくまで阿闍世であり、
仙人の死が待ちきれずに仙人を殺したのも父王なのです。

阿闍世の物語は、父親殺しがテーマになっているので、
骨格はギリシア悲劇「オイディプス王」と変わりません。

仏典では阿闍世は、
典型的なエディプス・コンプレックスの対象だったといえます。

中核的問題として、フロイトがいっている 
両親との三角関係の中から起きてくる葛藤よりも 
むしろ母親との二者関係に 
その中心的問題があることを見出しました。 

古澤・小此木両氏は、日本人特有の心性として、 
自分にとって100%の母でなかったことに起因する 
「裏切られ感」と「怒り」からなる母への怨みを重視したといえます。 

阿闍世の父の殺害は、 
フロイトのいうところの母に対する愛欲によるものではなく 
母の煩悩にその源を発していること、 
生命の根源たる母を、愛するがゆえに破壊しようとする傾向を指摘し、 
さらに、父殺害の呵責に苦しむ罪の意識を「罪悪感」と名づけ 
その罪が許され救済されたと感じた後に生じる罪の意識を 
宗教的心理からくる「懺悔心」としています。 

自分の存在との一体感を求めた母に裏切られた怨みから、 
父母の殺害を意図し、 
その攻撃的願望が処罰されるという罪悪感に対して 
予想に反した「許し」を与えられることにより 
罪の意識に変化が生じるという心的過程を論じようとしているのです。 

古澤氏は、まずフロイトの技法に則って
患者に洞察を求める努力をしているうちに
分析することが患者の心を
いかに切り刻むことになっているかに気づき、
しだいに「自己と患者との融合体験こそが
患者の生命の出発点であり、
患者がこの一体感や対人関係での親密な融合感を
体験しうるようになることこそが治療の目標である」
と考えるようになりました。

いわゆる「とろかし療法」と呼ばれたものです。

本来、中立的態度を通じて
患者に洞察を求める精神分析療法のなかで
このような治療者の態度の変化は、
古澤氏が深く傾倒していた
浄土真宗に負うところが大きいといわれています。

また一方では、
こうした古澤氏の姿勢の変化は、日本の患者が、
父子関係を中心に語る欧米の患者とは違って、
母子関係を中心に語りやすい事実にも由来しているといわれます。

フロイトのいうような父親の処罰に基づく罪意識とは違った罪意識、
いわば母子関係に由来する罪意識のあることに気づいたのです。

日本人のもつ依存性、特に母親への依存的固着を重視し、
その心理を母親の献身によって、
いわば治療者の献身によって癒そうとしたのです。

阿闍世コンプレックスは、
母親と子どもの二者関係における
『甘え・憎悪・許し・謝罪』
などの複合的な感情なのですから、
父親のような社会的存在としての他者は
はじめから存在していないのです。

『自分が悪い事をしたのに、
相手から許されてしまったことによる申し訳のなさや
後悔・謝罪としての罪悪感』であり、
「悪い行為をした加害者(子ども)」を
「罰する」のではなく、「許すこと」によって
自己懲罰的な罪悪感を自発的に抱かせようとするものであって
阿闍世の母・イダイケのエゴイズムと
愛情・保護という母性原理に基づく
『母親=寛容な情・許しの体現者』なのです。

エディプスが父からの復讐を恐れて
罪悪感を持ったのに対して
阿闍世は自分の行為によって被害を受けた母に
「許される」という体験に由来する罪悪感なのです。

母親が真の「母性」を取り戻したことによる
子どもの病からの回復というストーリー・・・・

相手に献身的に尽くすことで恩を感じさせ、
反対に、
相手から懸命に尽くされることで自分が恩を感じる。

こういった関係性のあり方は
「自己犠牲的な他者への献身」と
「世話役割」へと身を投じていく女性の
家父長制における共依存的な関係性が
その根底にあるようにも思えます。

日本人の罪悪感は、西洋人の罪悪感のように
超越者との関係から導かれるものではなく、
自分の所属する集団の人たちの
信頼を裏切る時に強く感じられるもので、
その罪悪感は、人間関係の関数であるともいえます。

普遍的な法や倫理を破ったために生じる
客観的な罪悪感というよりも、
自分の知っている他人や世間に
迷惑や心配を掛けてしまって申し訳ないという
後悔や謝罪の念に基づいた罪悪感なのです。
(ここは二者関係が、社会にすり替っている)

土居健郎氏は、
こうした『甘え』を根底にした対人関係のあり方と
その関数である罪悪感は、
さまざまな形をとって日本人の精神病理を
特徴づけているとも考察しています。

日本的一体感=甘えとその相互性、
日本的恨みとマゾヒズム、
日本的許しと罪悪感
という三つの構成要素からなる一つの全体的な心理構造が
日本人の母子体験の源流にあると指摘しています。

視点を変えればこの物語は
父権を主張する夫の言いなりに子どもを産まなければ
自分の地位を保つことさえ出来ない女性の不安や
こうした夫の仕打ちに耐えて、
わが子を産んだり殺したりしなければならない
母親のDV物語であり、
また、その妊娠を喜ばれることなく殺されそうになった
虐待された子どもの物語でもあり、
さらに、胎児期に子どもを殺そうとした
虐待する親の物語であるとも読み取れます。


ーーー
指きりげんまんを連想した

エディプスでも阿闍世でも男中心だもんね
これが驚く

昔は男の子は弱くてすぐ死ぬから大事だったんでしょうね





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未生怨(阿闍世コンプレックス)

昔、インドの王舎城というところに、頻婆娑羅・ピンラシャワ王とその妃の韋提希・イダイケ夫人が住んでいました。この王妃には子供はなく、このまま容色が衰えていき夫に愛人ができること、自分の立場を失うことなどを恐れて、夫の寵愛を失わないために何とか子供が欲しいと願ってきました。そこで夫にお願いして、予言者に見てもらうことにしました。
 すると予言者は、「山の仙人が三年たつと死に、あなたの子供に生まれ変わって、あなたのお腹に宿るだろう」といったんです。ところが、その三年を待てなかったんです。それで、その仙人が死ねば生まれ変わって子供になるというのですから、家来にその仙人を殺させてしまいます。そのときその仙人が「この恨みは忘れない。俺は生まれ変わったときにお前の息子になるけれども、お前の息子になってお前の夫を殺してやる」といって息絶えたんです。そして韋提希夫人はすぐ身ごもります。
 韋提希夫人にしてみると、生まれる子供は夫が殺した人間ですし、仙人の呪いも恐ろしいですから、今度はその子供を堕ろそうとしたり、産むときに高い塔から生み落として殺そうとしたりします。しかし、その子「阿闍世・アジャセ」は、子殺しの運命をなんとか生き延びて青年になるんです。

 阿闍世という言葉を日本語に訳すと未生怨、まだ生まれない前から抱いている怨みという意味になります。つまり阿闍世という子供は、産まれる前から父母に対して怨みを抱いている、それは、お母さんは自分の権力を守るために子供が欲しいと思い、次にその子が災いになると思ったら殺そうとしたからです。つまり、子供を、愛によってではなく自分の都合で産もうとして、その挙げ句に殺そうとしている、そういう因縁を抱いて生まれてきているんです。そして、阿闍世ならずとも人間の子供が親に対して抱いている非常に根源的な怨みが、この末生怨だというんです。
 子供がこれをどういう言葉でいうかというと、「お母さんとお父さんは、なぜ僕を産んだのか」。この末生怨は赤ん坊のときにはあまり意識されていませんが、思春期、早くて中学二、三年生から高校生ぐらいのときに、これが深刻な問題になってきます。いわゆる家庭内暴力や不登校などの問題を起こす子供が、最後にこういう恨みを語ることがあります。「どうして僕を産んだのか、結局はお父さん、お母さんの都合や欲望で産んだんじゃないか。だから産んだ以上はお前たちが責任を取れ」。こういうふうに未生怨にとりつかれて親を困らせることがあります。
 この未生怨には、自分というものの根源はいったい何かという非常に深い意味があります。なぜ自分は、いま、この親の子として、このときに、ここに生まれたんだろう、どうして他の自分にはなれなかったのかという、生まれ育ちに対する恨みの意味も込められています。

 子殺しの運命をくぐり抜けて青年になった阿闍世は、自分の出生の由来を聞いて、母親を恨み、殺そうとするんです。どうして自分をそういうふうにしたかと。それをまわりに諫められて、阿闍世は今度は罪の意識で流注という皮膚病にかかって、たいへん苦しみ、最後にお釈迦様に救われます。

 結局、親子というものは、一方では子供はもちろん可愛いんだけれど、一方では自分たちが生きるためなどのいろんな事情で、子供を捨てたり邪魔にしたりいじめたりする気持ちも人間だからあるということです。そういう親の子供に対しての人間的な愛と憎しみを、思春期になると子供はだんだんわかってくるけれども、小さいときは、僕のお父さん、お母さんが世界でいちばんいいと思っているということです。


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法人税

平均の法人税率が40%なのに、財界系企業が30%以下だということは、
法人税にも古い重厚長大企業を保護する「老人バイアス」があることを意味する。
また企業の70%以上が赤字法人で、税金を払っていない。

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住友、さすがではないか





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少年の私

不思議なことに
ふとした時に少年に返ってしまう

多重人格かと思うくらいだ
いろいろと経験してきているはずなのに
全部ゼロになってしまい
少年のままの自分がそこにいると気がつく

ーー
私としては退行という言葉で理解している
脳の階層構造のどの部分で現実を処理するかの問題

何かの加減で
たぶんお前があまりにも魅力的だから
私は少年に返ってしまう

ドキドキしているんだ
この私が


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ラットレース

ラットレース

俺はラット
走りつづけるぜ

前歯が折れても
前足を捻挫しても

多少は痛いが
ちいせえちいせえ

ーー
ラットレースの勝者はメスラットとの交尾をご褒美にもらうんですよね

ーー
映画エマニエル夫人で

タイのボクサーが対決をする
エマニエル夫人のご主人が、勝った人にエマニエル夫人を、ご褒美として性的に差し出すことを決めている
エマニエルは対戦する前の彼ら二人に誘惑をふりまく
これでドパミンとアドレナリンが大量に出る




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望んでいるのは短い間の強く激しい愛というよりも、 もっと暖かくて穏やかで、長期的に続くもの

望んでいるのは短い間の強く激しい愛というよりも、
もっと暖かくて穏やかで、長期的に続くもの

わたしのは短くてはかない
わたしが軽躁状態のあいだだけのまぼろし


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