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いちにちを降りゐし雨の夜に入りても止まずやみがたく人思ふなり

いちにちを降りゐし雨の夜に入りても止まずやみがたく人思ふなり
藤井常世

*****
一日中ずっとずっと雨に閉ざされ
なおも降り続く雨の夜
まだ雨は降り止まず
やみがたくもあなたを思うことだ

*****
喋ってないし
考えてない言葉で
詩を作ると言うのは
一体どういうことなのだろうと
不思議に思う

詰め将棋を作る人と解く人という感じかな



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目元整形美人

近頃の整形美人はみんな目元の具合がよく似ていると
8丁目で言うと
そのお店は若い人なんていないので
そうだそうだと盛り上がる

人の悪口を言っている暇があったら稼ごうよ
と言っている割には
人の悪口で盛り上がる

皆さん離婚歴有りとかでその方面でもかなり盛り上がる
「わたしは妹と二人でね、女ばっかりで育ったの。
妊娠して検査で男の子だって分かったの、母親に電話したら、
良かったね、わたしは男の子育てたことないから分かんないけど、
向こうは長男の最初の子が男だからきっと喜ぶわよ、と言われて
姑に電話したら、やっぱり喜んで、男の子は手をかければかけただけ返ってくるのよ、
なんて言うんで、わたしは凍りついたってわけ、
あんたこれから返せって言うのねと思って」
などと言う

内緒だけど、実はこの間出産したばかりという人もいて
親しくなるといろいろ話してくれる
「無認可保育なんだけど、セレブの保育所なの、
だってね、信じられる?
認可保育所だと、おむつをうんち付きで持って帰るのよ、
そこは普通に捨ててくれる、
うんち持ち帰りってどんな意味があるのかしらね」
「いまどうしてるかなって思ったら、ネットで確認できる、実況中継があるの」
などなど
まだ母乳が出る
同席した人は
「それはうんちの具合くらい親なら確かめなさい、だろ」と言う

子育てについては
「姑と半年くらい同居したことがあるの、
びっくりしたのは、子どもが、自分では何もしなくなったの、
変だなって気がついてよく見ていると
姑が、私が片付けてあげる、私が食べさせてあげる、私が着せてあげるって、
連発。ははん、これで自分の息子をだめ男に育てたんだなと気がついて、
そのまま離婚したわ、
自分で自分の着るもの選べないって、育て方なんだよ」
とのこと

虐待する親に育てられると
DNAがメチル化して、遺伝子の発現がマスクされて、
結果として虐待する人間になるっていう報告があるの、
DNAに対する後天的制御なのよ、
なんて言うので、話を聞いてみると
医学部の学生だけどバイトをしているのだという
母子関係に興味があるとのこと


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私の立場

考えてみると私の立場というものは
各思考方法のジャッジのようなものと思う

この問題について
あの立場・理論ならばこのように考えて、このように対処する、と複数の立場を比較的公平に論評し
しかしながら絶対に正しいものでもない
これまでの例で言えばどの程度の成功率とか説明できる

というわけで、まったく迫力がない

一つのものに惚れ込んで徹底的に支持するとか布教するとか、そんな具合ではない

ーー
それぞれにいいところも悪いところもあるんだよね
と説明しても、解決を求める人には物足りないだろう

でも仕方がない
元来が、そういう人間なのだから


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教育と臨床と創造

教育はどちらかと言えば過去に確定したものについての説明になる

臨床は今現在生成している何かである

創造はどちらかと言えば未来である


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中毒

中毒という言葉はもうあまり使わない

この人達はどうも自分を素直に語らない

医者と対面するときは大体が被告と尋問者という感覚らしい

とくに薬物中毒者は医者から薬物を入手しなればならないので主要な欺きの対象となる

ーー
昔は眠る薬などが嗜癖のよくある例だった

飲んだかどうか忘れてもう一度飲んだりするなど

薬物自体が健忘を引き起こし、過量摂取を形成するという悪循環があったらしい


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自分が投資したものを否定出来ない人間

人間は自分がお金をかけたり時間をかけたり愛情を注いだものを否定しにくくなるものだと思う

自分の全面否定になるからだろう

たとえば授業料をたくさん払って習い事をしたとして
その内容を否定することはしたくないのが人情だろうと思う

そうすると精神は縛られてゆく

ーー
このようなからくりがあるので
講座商売はお金を沢山取る
たくさんとったほうがありがたみがあるし期待を抱かせるし
あとで否定しにくくもなるのだろうと思う

高額の支払いをすること自体が一種の洗脳プロセスになっているのだと思う


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クローン人間の復元ポイント

脳死を一応人の死として移植その他のことも考えようとの法律が成立した。

霊魂などは考えず、脳が人間の精神活動の根源であり、
脳が生物学的に活動停止すれば人間の死であるというのは、
例えば、DNAの立場からすればとんでもないことで、
脳が活動停止してもDNAの複製と拡散に役立つならば、
その生物は生きているということになるので、という話も
さんざんして、それでももう大きな流れとしては、米国に右習えしかないのだから
仕方がない。

その上で考えると、
将来クローン人間ができるようになり、
骨格や筋肉系は18才くらいでうまくできあがるだろう。

神経系はやはりトレーニングが必要なので
トレーニングが違えばかなり違って精神の内容になるので
クローンとはいっても、イチローのクローンがイチローほどの天才的バッティングをするとは限らない。

夏目漱石のクローンを作ったとして、
文学作品を書くとも限らない。

脳よりも筋肉が勝負の部分ではクローンは多分18才くらいで同じ程度の能力を発揮すると思う。

*****
最近Winを使っていてときどき便利なのが復元ポイントである。
何か調子がおかしいと思うとき、
さっさと何日か前の復元ポイントに戻して内容を復元する

人間の脳に対してもそのような可能性は議論されていて、
技術的にはかなり難しいけれども、
学習の期間を短縮できないかと可能性が検討されている。

難しいと考えられていた技術が次々に実現しているのが昨今であるから
原理的に不可能でないことならばできるだろうとも思う

そうすれば、クローンに対して、18才の脳の中身を注入してやれば、
18才から、生活体験を始められるので、
かなりその人に似た精神内容のクローンが可能になる。

原理的には一つ一つの神経細胞の状態を復元ポイントとして記録しておき、
それをコピーすればいいのだけれども、Winみたいなわけにはいかない。
しかし、そこは人間の精神活動なので、
完全複製でなくても、ほぼ輪郭を描ければいいのじゃないかともいわれていて、
多分そうだと思う。

兄弟で生育環境はかなり似ていても
やはりその人のDNAによってかなり異なった発育をする
そのことを考えれば、重要な部分だけはきちんと情報を入れてやれば、
あとは脳が補正してまたは補完してうまくその人らしく機能するだろうと考えられる。

しかしまた双子の場合に違った部分も出てくるわけで
それはどうなのかと考えると
難しい
双子は自然の作り出したクローンだからいい思考モデルになるのだけれど

一卵性双生児で精神病になる、ならないの割合が一致していない。
約半分くらいは環境とか生育歴の影響と考えられるのだけれど、
もし復元ポイントシステムができれば、
傷ついたときに、その前の復元ポイントまで戻すことで
治療ができることになる

これは根本的な治療になると思うが
傷の上に復元ポイントが乗る可能性もあるので
簡単ではないと思う

*****
わかりにくいと思うけれど
自分のためのメモ


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意識のフレームの外に出す

気をそらして
忘れさせれば
不安も強迫も止まるんだよ

意識のフレームから
一時的にでも
外に出せばそれでいいんだ

そう先輩は言っていた
そうかもしれないといま思う



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中山忠彦

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「シズコさん」 佐野洋子著

フロイトは男だったから、母と息子のことしか分からなかったのだと
シズコさんは言うと香山リカさんが紹介している。

これは実際そうだと思う。
母子関係といっても、
母息子と
母娘ではずいぶん違うはずなのだ。

*****
紹介を続けると、

戦後、11歳の兄を病気で失った母は、徹底的に冷たく娘に当たり続ける。
「母は本当に兄の代わりに私に死んで欲しかったのだ」とまで思うのも無理はない。

著者を本当に苦しめたのは、
母の虐待ではなくて、
そういう母を好きになれない、自分への自責の念だ。

全財産をはたいて高級老人ホームに入居させたのは「母を金で捨てた」と、
著者はまた自分を責める。

母子関係の闇の深さ

*****
娘にとって、出来のいい兄がいるということは
まったくもって不利な状況である。

母にとって息子が王子様であることは明白で
恋をしてさえいる。

他人に対して自慢はしないが娘にならばいくらでも自慢をする。
母にとって娘はある種の自分の延長に過ぎない。
時に耳になって母の息子自慢を聞き続ける。
同時に母の夫愚痴を聞き続ける。

実際に悪い夫も多いのだが、
家庭でも立派な夫というものは少ないはずで、
妻から見ればほとんどはくだらない夫なのだ。
その口の捨て場所が娘になるのはよくある話で、
娘が父を軽蔑してさえいるものだ。

母にすれば遺伝子の関係ない夫はどんなに軽蔑してもいいのだが、
そして精神的に軽蔑すればするほど、
日常生活で衝突したときにも楽に自己弁護できるのだが、
娘はそうではない。

母の愚痴に同調しながら、
一方では、自分の遺伝子の半分は父由来なのだと思うと、
気持ちは引き裂かれてしまう。
考えてみれば自分の顔は父親に似ていると思ったりして、
気持ちが悪くなる。
本当は母親は自分のことも父親と同様に嫌っているのではないかと疑う。
そして娘はますます母親と一体化して意見の不一致のないように自分をゆがめてしまう。

そんな時間を過ごしているうちに自分が人の親になり、
不幸の再生産をしてしまう。
自分もまた息子に恋をして、
娘を夫への嫌悪の気持ちのゴミ箱に使ってしまう。

*****
母親の人生の真のパートナーは息子である。
父親の真のパートナーは実の母である。
娘の真のパートナーはその息子である。
母と娘はお互いにとって奇妙なものである。
財産も権力もなければほどほどの年で別れられる。
しかしそうは行かない場合があり、いつまでもくっついていることがある。
そうすると、微妙に腐敗臭が漂う。

このあたりは天皇家の例でも分かるのだが、
娘は母の苦悩の一番の理解者であり
一番の洗脳対象であり、
しかし結局、財産と権力の相続者ではないのである。
男と女は人間として平等なのに、
まったく平等ではないのである。
それは母が息子が好きだからだ。

母にとって娘は付属物でありおもちゃでありくずかごであり
自分が泣けば一緒に泣いてくれる共鳴管である。

父と娘は母を介在にした間接的関係のようである。
母と同じ事を娘がいい続けるので
父は絶望する。

娘が本当に人生を生き始めるためには、
息子を産むしかないのだ。
そこで真のパートナーが出現する。

*****
その真のパートナーを11歳でなくしてしまったとしたら、
その悲しみと愚痴と呪いと嘆きが
娘に押し寄せることは明白だ。
娘は心を閉ざして鈍感になるか、
ぎゅうぎゅうに感情を詰めこまれてアップダウンの激しい感情生活を送るかしかないのだろう。
母の涙の捨て場になるしかないのである。

*****
ここで
フロイトは男だったから
母と息子のことしか分からなかった
という言葉を見つめなおす

フロイトが女であっても、
母と息子のことしか分からなかったはずである

女は息子と関係し、
男は母と関係する。
それだけである。
そのほかに重要な関係はない。

すべての男には母がいるから問題はない
すべての女に息子がいるわけではないから
問題が発生する
特に出生数が少なくなっている現代では問題で、
さらに、皇室に見られるように、ある階級では、女性の出生割合が多くなっている印象もある。
母と娘はどのように関係したらいいか

憲法や民法は絵空事を決めているが、
それは現実ではない。

悲惨な関係という答えがあるだけだ

変形としては、男みたいな娘という存在の仕方もある
宝塚みたいな関係の仕方もある
そこにわずかな救いがある

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おごそかに隔つるもののあるをおぼゆ愛すといへど恋すといへど

おごそかに隔つるもののあるをおぼゆ愛すといへど恋すといへど
前田夕暮

こちらも大先生。

まあそうだね、当たり前だ
おごそかにというからなにか越えられない大きなものなのだろう
カジュアルなものじゃない

なにか場違いなものを場違いなヒトに求めているのではないかという
疑いもある

恋についてあれこれ歌っているということ自体が
真実恋する人ではないのだと物語っている

真実恋する人は行為を連続していればいいだけである
それ以外に何もない

恋について語る人は
恋ではない何かに関心があるのだと思う
だから本当に恋する人の参考にはならないかもしれない

恋の感傷を賞味するのが恋ではない
恋の激情を処理するのが恋である

別れむとする悲しみにつながれてあへばかわゆしすてもかねたる
前田夕暮

将棋の名人の恋愛沙汰のような感じだと
思った

*****
恋でも愛でも
とにかく他人なのだから
へだてるものはあるのだと
普通なら考えられるが
恋愛状態のある局面では
ひょっとしたらその隔てもないのではないかと
錯覚することがあるということだろう

隔てることがなかった状態を
小児精神医学のようないいかたをすれば
母子一体の幻想ということになる

それでさえ母子一体であったのは一瞬であり
分離してからは
やはり別の個体であるから
隔てるものを媒介してつながっている

むしろ隔てるものがあるから
それによって媒介されてつながっているのだともいえる

隔てるものの現実としては、
やはり、物理的に別離場所を占めているということが大きいのではないかと思う。
似た風景を見ているとしても、
別のシステムが
別の体験をしているのだ。
だんだん隔てられてゆくだろうと思う。

恋愛が
一体感の幻想とつながると錯覚する、その錯覚のモードは
普遍的なものなのだろうか。
日本人男性歌人に特に固有なものなのだろうか。

普遍的であるはずがなくて、
選択と淘汰の激しい世界ではそのようなとぼけた個体は
多分相手にされなくなってしまうのではないか。

恋愛を語る時に一体感を語ること自体がなんだかもうずれているともいえる。

*****
新聞で、ゴーンさんが、
夫婦として共同体を作るには何かしら共通のものがなければならないといっていた。
価値観でも趣味でも金銭感覚でも。
好きだというだけでは続かないと。

生活というものはそのようなもので、
恋愛とは関係がない。

恋愛ゆえに長い時間をともに過ごすのはかなり無理だということになる。

通い婚というものが
恋愛には適しているのだろう。
生活はまた別。

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