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「未来への不安」「過去の不快な回想」から「今、ここ」に戻る

「今、ここ」→「未来への不安」

「今、ここ」→「過去の不快な回想」

いずれにしても、「今、ここ」に戻るようにする。



共通テーマ:日記・雑感

自己洞察瞑想療法(SIMT)=マインドフルネス心理療法


 SIMT 目標6大技法
*** 問題を改善する6つの目標技法 ***

 疾患や問題行動は、6つの心理的柔軟性の欠如から起きる。これを改善することを焦点とした技法である。「形式技法」を実行する時に、どのような標的を改善するか、「形式技法」を「いかにして」行なうかを指示する。

①直接体験注意傾注法
重要なスキルは「自己の精神作用の自覚と価値実現のことへの注意集中」である。
自分の精神作用を自覚しており、価値実現の直接体験に注意を集中して観察して、推移をモニタリングする。不要な機能に移らない抑制、不要な対象の解放を含む。

②価値(自分の願い、人生の目標)保持法
重要なスキルは「自己の信頼、自己の尊重」にもとづく「価値保持」である。
自分の願い、人生の目標を保持し、瞬間瞬間に参照確認するスキルの習得。

③機能分析法(自己と機能の洞察)
重要なスキルは「感情の制御」である。
精神作用の全体と部分を理解して、現在の瞬間に意識している作用(機能)を自覚し、先行の機能を知り、後続の機能を推測し、本人の価値実現の方向にあるものを選択する。
自己の精神作用についてのコントロール可能性への信頼を向上させる。

④徹底的受容法
重要なスキルは「不快事象の受容」である。
不快事象があってもそれを包む心を成長させて、起きるものを拒まず、不快な事象を無評価で体験して、受容する。 最終的に、価値にそった行動を選択する。

⑤連合解消法
効果ある行動の強化と効果ない行動の消去のスキルである。
重要なスキルは「抑制、解放、注意転換」などである。
価値の崩壊になるような固い反応(「価値崩壊への反応パターン」)を解消して、柔軟性をもって価値実現の方向にある多様な選択肢を想起して選択し、実行する(「価値実現への反応パターン」)。

⑥叡智活性化法
重要なスキルは「直観的な叡智の開発」である。
叡智を開発し価値実現への反応パターン、解決技法を教育、助言する。
自己の種々の精神作用を自覚」して、不快事象があろとも種々の精神作用を包み受容しながら、自己の人生の価値を崩壊させないことを強く想起して、建設的な行動を決意する意志作用を活性化させる。

目次:自己洞察瞑想療法=マインドフルネス心理療法

◆自己洞察瞑想療法(SIMT)の概要

 呼吸法はお産の時に緊張を緩和するために指導されたり、心療内科医が心身症の患者のストレス緩和のために用いている呼吸法です。簡単なものですが、これに6つの心理的柔軟性スキルを織り込むと精神疾患を治療、予防する心理療法になります。
6つの「心の柔軟性スキル」を開発してうつ病、不安障害などを治す、予防する

 うつ病、不安障害、種々の悩みや問題行動は、6つの「心の柔軟性スキル」が充分でないことから起きる。これは、マインドフルネス心理療法の仮説です。心理的柔軟性スキルは誰でも向上させることができる。トレーニングして身につけて、悩みや問題が軽くなっている。課題を実行する時「形式」だけにとらわれて形だけを実行するのではなくて、問題解決の6つのスキルを向上させるトレーニングであることを自覚して行います。 
 呼吸法の時、日常行動する時、家庭や職場などで人に会う時、対話の時、一人でいる時、運動する時、つまりは、すべての時に、この6つのスキルの練習であることを見失わずに考え、会話し、行動します。もちろん、人が完全にできるはずがないので、少しでも多くの時間に実践できると心の病気が軽くなる。再発も予防できる。また、回復不能の過去、回復不能の病気・障害、大切なものの喪失などのつらさを、包みこんであるがまま観察してみるという意志作用の 実践も繰り返しトレーニングします。 今という瞬間(他の時間は過去や未来です)を大切に観察して自分の願いを崩壊させないような行動をとっていきます。

<第1>直接経験注意傾注の心のスキル

常に自己の作用を自覚、覚醒しており(つまり自覚ないままに苦しみを生み出す思考や行動をしていないことを自覚)、直接体験(感覚、感情、身体反応など)を自覚して大切なことに注意を集中して、無評価で観察して、価値実現の行動に真剣にかかわることができる心のスキル。
注意を対象2つ以上に分配することもできる(分配性注意=意志作用)。
見ることと聞くこと(たとえば対話中)、(従来なら回避、逃避するような出来事が起きた時など)不快事象の観察と呼吸法の実行、(同じくつらいことが起きた時)不安・怒りの観察と願いの想起と行動の探索など。
大切なことに注意を持続して、苦の結果を生み出す他の機能に移らない(嫌悪的評価、回避行動欲求など)集中のスキルも重要であり、これもトレーニングする。 仕事や通勤行動など価値実現の実行中に、不快な事象(他人からの言葉、パニック発作の前ぶれ、視線恐怖、仕事の嫌悪感、過去の不快体験の思考など)が起きても価値実現の行動を放棄(回避、逃避、中断)しないように、価値実現の行動(仕事、遊び、対話、通勤行動=電車に乗り続ける)に注意を持続できる(意志作用の活性化)スキルを向上させる。
一方、不快な事象が起きた時、その不快な事象を嫌悪して非機能的行動に移る反応パターンを修正するために、不快事象を包みこみあるがまま無評価で観察してその事象を洞察し、建設的な行動を決意する意志作用のスキルを向上させる。

<第2>価値(自分の願い、人生の目標)確認の心のスキル

自分の願い、人生の目標を保持し、瞬間瞬間に参照確認できる心のスキル。個人の価値実現、願いであって、治療者の価値ではない。たとえば、ある人が 仕事によってうつ病になって治らなくて、仕事は無論であるが家事ができない、他人と会話ができない、外出もできないという状況だとしよう。こういう時、価値・願いは必ずしも「仕事への復帰」ではない。個人個人で違ってよい。 ある人は、仕事の復帰、ある人は「もう仕事への復帰は望まない、家事ができるようになればよい」というならば、それを目標として治療をする。そのような現実的な価値を確認して持ち続けることが治療の動機づけとなる。この目標は治療がすすんできたら、さらにすすんだ価値実現をめざすことはかまわない。
 マインドフルネス心理療法の「価値」は現実的で生きる上で効果的なものでなければならない。「がんが治る」ということは心理療法の目標ではない。「がんであっても心理的な苦悩によって余生をうつの中ですごすのではなくて充実した心で生きたい」というのであれば、現実的で効果ある「価値」である。
価値をほとんど自覚意識しない場合、問題を持続させたり、治療参加への動機づけが失われたり、悲劇的な事態(自殺、非行犯罪等)に発展することがある。
つらいことがあろうと、自分の願いを崩壊させるような無茶なことをしたら、自分が苦しむだけである。一時的な回避、逃避したり、一時的に楽になる方法でまぎらしても、家族や社会にあたりちらしても、後の長い人生を長期間苦しむ可能性がある。長期的な視野で自分の願いをしっかりもって、その実現のために、無茶な行動、無益な行動、逃避行動はしない。すぐにはできないので、その方向でトレーニングしていく。
(注)ヨーガにも呼吸法がありますが、6つの心理的柔軟性の向上、精神疾患の治療の原理はないでしょう。 呼吸法に似た指導法を行なう宗教団体がありますが、そういう宗教は「団体としての価値」を規定しています。たとえば、「目的のない実践」とか「悟りをめざすくふう」とか。だから、個人個人の多様な価値実現を認めないところがあります。従って指導方法も全く違っています。
ところが、マインドフルネス心理療法は「個人の願い、価値実現」を目標にします。「精神疾患を治す」「自殺したい気持がある、治したい、強く生きるようになりたい」「精神疾患を予防する」「ひきこもりを治したい」「子を虐待する心があるのを治したい」「スポーツ選手だがメンタルに強くなりたい」「精神科医、心理士だが効果ある心理療法を併用して患者さんを治したい」「家庭の不和を改善したい」「がんになってつらい。闘病の心構えを身につけたい」など、個人、個人の願い、価値実現を目標にします。
 これは、アメリカのマインドフルネス心理療法も同じです。だから、マインドフルネス心理療法は組織の統一した価値実現を目標としている宗教とはほど遠いものです。マインドフルネス心理療法は1人1人違う個人の願い(価値)を達成するための精神疾患を治療する心理療法ですが、予防法、職業上のメンタルスキルの向上、ターミナルケアなどにも充分に応用できます。アメリカはキリスト教の人が多いのでしょうが、そういう中にあって、発展しているマインドフルネス心理療法ですから、宗教とは違う医療法、メンタルスキルの向上法です。

<第3>機能分析(自己の存在と種々の精神作用、精神機能の洞察)の心のスキル

自己全体の洞察によって主として「思考、感情や行動を制御」する心のスキルである。
精神疾患、非行犯罪、他者を苦しめるところには、「曇った観察・判断」によってものごとをみており、自己の全体がわかっていない。
自己の精神活動の全体と部分(=機能。感覚、思考、感情など)を理解して、現在の瞬間に生起している機能(要素、部分)を理解し、 先行の機能を知り、後続の機能を推測できる。過去や将来の思考による支配を理解し克服する。各機能(要素)の特徴を知り、問題の理解によって自己信頼を獲得する。
要素間の関係を理解し、瞬間瞬間、自己の現在と次の瞬間の行動の結果を推測できるようになる。次の行動が自己や他者を苦しめる結果となる行動をやめて、苦しみを解決する結果となる行動を選択できるようになる。自己の精神活動を「澄んだ観察・判断」の眼でみるスキルを向上させる。
今、ここの瞬間は、自己の生命のすべてである。今の瞬間があるのだから、感覚の時は、それが自己全体になる。瞬間、瞬間、種々の働きが移り行くが、いつもそういうものを意識し観察する自己がある。ものごころついてから一貫して観察する自己があって、感覚や思考や身体反応は変わりゆくもので自分自身のすべてではない。そうすると、つらく感じられる思考内容や感情もあまり苦痛に思わなくてすむのかもしれない。嫌悪的自分の評価も変わり行く波のような思考の一種。こうして、思考、感情などのありさまを違う見方ができるならば、感情にとらわれて無益な行動をしていたことが変われるかもしれない。

<第4>徹底的受容の心のスキル

「不快事象の受容」の心のスキルである。
自分の意識的な努力をもってしてもやむを得ずして起きる(病気の症状や対人関係における不快な出来事など)ものを拒まず、不快な事象を無評価(「澄んだ観察・判断」)で体験して受容して最終的に価値にそった行動を選択する心のスキル。
避けることができない不快な体験が起きるが、起きることを嫌って回避(場所、人、話しを避ける)すると社会生活が障害され、自分の価値・願いが崩壊する。それは、思考(言語プロセス)で拡大していく。そこで、不快な体験をそのまま(言葉で善悪の評価や結果拡大などの連想をせず)無評価で体験して受け入れるスキルを向上させる。無評価で受け入れていれば、その不快な体験の強度が変化するかもしれない。不快事象の強度が変化しなくても、感情が増大せずにすんで、回避や無益な行動をしなければ、社会生活は障害されず、価値は崩壊しない。

<第5>連合解消の心のスキル

感覚や感情、身体反応などの刺激、思考(判断・評価)、感情、行動などの反応パターンが学習されて、非機能的(不適応)な行動が繰り返されて、本人が自覚的な症状(たとえば、抑うつ気分、不安におびえる、など)に苦しんだり、社会生活が阻害されたりする(たとえば、仕事ができない、人とあうことを回避する、など)。 思考が行動に、行動が思考に、感情が行動にと重層的、循環的に連鎖・連合があり、問題が維持される。意識される心理行動と神経生理学的な問題の相互作用もある。
抑制、解放、注意転換などの心のスキルを駆使しながら、他の5つのスキルを活用して種々の連鎖・連合の解消を図る。そして 「価値崩壊の反応パターン」の連鎖を修正できる心のスキルである。
注意を持続して他の不要無益な行動に移らない抑制、不要な対象を捉えていることに気づいて解放するスキル、価値あることに注意を転換するスキルなどが必要となる。
背景に神経生理学的な部位の機能低下や機能亢進があるかもしれないと自覚して、改善効果のあるトレーニングをすることによって、症状や問題が改善するかもしれないと理解して課題を実行する。

<第6>「直観的な叡智活性化」のスキル(叡智活性化法)

4つの智慧を理解して、無評価の智慧にもとづく直観的な叡智、活発な意志作用を開発させる。
独特の認知(考え:苦悩の智慧)が障害を維持悪化させたり、治療行動を回避させたりしている場合、認知の修正ができる柔軟な心のスキルを向上させる。たとえば、朝起きるのが症状回復になるという考え、機能低下がしている精神活動は、それをあえて使うトレーニングをすることが回復になるという考え方などがある。合理的な智慧を学習する。これは副次的である。
自己の精神作用、自己自身、人、世界に対して苦悩の智慧によって「曇った観察」をしており、無評価でありのままで観察して、建設的な行動を選択することができない。つまり、意志作用が活性化していない。自己の精神作用、対象、内容を 無分別、無評価で包み洞察する智慧を基礎として、直観的な叡智を体験的に開発する。事象をすべて包み「澄んだ観察」により、あるがままの自己の精神作用、自己自身、人、世界のみかたを変えて、直観的な叡智を開花させる。


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マインドフルネス&アクセプタンス ACT

1.例としてマインドフルネス&アクセプタンスに関する文章を次にあげる。これで何が治り何が治らないか、各自で考えて欲しい。

2.苦しみとは何か?
マインドフルネス&アクセプタンスは原因療法ですから、苦しみや心の病の原因が何であるかを把握している必要があります。
私たちが感ずる苦しみには生命の苦しみ、恐怖(不安)の苦しみ、関係の苦しみの3つがあります。
生命の苦しみは母体に宿ってから死ぬまでの身体的な苦しみ、恐怖(不安)の苦しみは安全が脅かされる苦しみ、関係の苦しみは人間関係など相対的に生ずる苦しみです。
この中で生命の苦しみも恐怖の苦しみも自分の心の中で生ずることがわかりますが、一番わかりにくいのが関係の苦しみです。

私たちが家庭や学校や職場の人間関係で苦しみを感ずるとき、その原因は自分の外側にあると思っています。
たとえば自分の悪口を言う人がいれば、相手に悪口を言わないように要求したり、相手を避けようとします。
しかしその人を避けたとしても、ほかに悪口を言う人が現れればまた苦しくなります。
潜在的に苦しみを抱えながら、いつも人や環境から逃げ回っているわけです。

ところが同じように悪口を言われてもあまり気にならない人がいます。
それは苦しみの実体が悪口にあるのではなく、苦しみを感ずる側の心の中にあることを示唆しています。
悪口を言われて苦しいとき、自分の心の動きを観察していただくと、「自分の悪口を言わないで欲しい」という強い思い(自動思考/マインドトーク)があることに気がつきます。
その自分の思いと相手の悪口が、自分の心の中で戦っているのです。
その戦い(葛藤)が苦しみの実体で、心の中の戦いが自分の外側に広がって、相手と戦うようになります。

一方悪口が気にならない人は、「自分の悪口を言わないで欲しい」という思いが少ない人で、心の中で葛藤が少ないから苦しくないのです。
苦しむ人と苦しまない人の違いは、自分の外側に向かう思いが大きいか小さいかの違いであることがわかります。
私たちが関係の苦しみをなくそうとするとき、相手や環境を変えようとすれば戦いと苦しみが広がるだけです。
相手や環境は自分の思い通りになりませんから、相手に求める自分の思いをなくさなければ何も解決しないことがわかります。

3.思考の依存性
関係の苦しみは自分の外側に何かを求める思いによって生ずることがわかりました。
例えばいじめで「無視をする」という手段があります。
なぜ無視されるのが苦しいのかといえば、「仲間外れにしないで欲しい、自分を認めて欲しい」と求め続ける思いがあるからで、それがなければいくら無視されても何ともありません。
自分の心をよく観察していただくと、私たちの心は求める思いだらけなのです。
その求める思いによって、求めるものが不可欠になってしまうのが依存性です。

求めるものが人に対する何かであれば、「人のせい、人次第」という相手への依存性を高めて、「~してくれない」という所謂「くれない族」になります。
そのため不平不満が強く、自分の心はいつも人や社会に振り回されて、それが心の病の原因になります。
求める思いはモノやコトへの依存も深め、そのため経済的身体的に支障をきたすものが、「依存症」として定義されます。
依存性は得られても得られても、際限なく何かを求め続けて、求めるものに依存します。
なぜ際限がないのかというと、求めるものより求める思いが先にあるからで、求めるものが得られても求める思いは充足することがないからです。

依存性の求める思いは、自分よりも弱い人に対して支配的になり、押し付け、言いがかり、言葉の暴力、身体的暴力へとエスカレートしてゆきます。
依存性による暴力(攻撃性)は自分の外側に向かって攻撃的であると同時に、自分の内側にも向かって、自分の被害者意識を拡大します。
自分の殻、人嫌い、被害妄想、抑うつなどが被害者意識です。
依存性が強いということは、自立性や創造性などの自己が失われているということでもあります。
そのため心の自由や創造性が失われて、特定の思考パターンに陥りやすく、そこからなかなか抜け出せなくなります。
それが同じことを繰り返す嗜癖(しへき)として表れます。
依存性はそのように関係のストレスや悩みや苦しみを生み、依存症や心の病を生み、暴力や戦争や犯罪を生んでゆきます。

4.思考の二元性
関係の苦しみには、依存性の苦しみのほかに二元性の苦しみがあります。
私たちは小さいころから社会生活の中で、人と自分を比較しながら育てられます。
学校では成績順に評価され、スポーツも優劣を競って比較の中で自分の力を伸ばそうとします。
そのように自分が成長する動機は自分の内発的なものではなく、人より優越を感じたいという比較によるものでした。
しかし優越の喜びには劣等の苦しみがあります。
それは優越の人と劣等の人が別々に存在するのではなくて、優越を感じる人が自分の劣等の部分に苦しむのです。
優越感と劣等感は表裏一体の感情であり、優越感のある人が劣等感に苦しみ、優越感のない人が劣等感にも苦しみません。
つまり優劣の二元性が苦しみなのであって、優劣どちらにも偏らない心が苦しみのない心なのです。

優劣の二元性のほかにも善悪の二元性があります。
私たちは自分に都合のよいものを善として歓迎し、自分に都合の悪いものを悪として排斥します。
ところが私たちの心の中には善も悪も混沌としています。
たとえば人を殺せば殺人という大悪ですが、私たちの心の中には「殺してやる!」と言わんばかりの憎しみが鬱積しています。
だから正義感で社会の悪を糾弾すればするほど、自分の中の善が自分の中の悪と葛藤して、それが苦しみになるのです。
人を善悪で裁いて許さなければ、その裁きは自分も裁いて許しません。
自分を責めたり否定して苦しむ人は、人を善悪で裁くからです。
善悪を峻別する二元性が苦しみなのであり、善悪に偏らない心が苦しみのない心です。

このような二元性はほかにもあって、苦楽もその1つです。
苦があるから楽がある、楽を求めるから苦しくなるわけで、そこにACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)のルーツがあります。
苦しみを否定せずにそのまま認め受け容れるようになったとき、つまり楽になろうと思わなくなったとき、苦しみは自然と消滅してゆきます。

5.心の3要素
「マインドフルネス&アクセプタンス」を理解するために必要な心の要素は、「感情」と「思考」と「自己(存在)」の3つです。
感情は「喜怒哀楽」で表現されますが、私たちは恐怖や関係の苦しみなどを感情として体験しようとするとき、逃げたり我慢することによって感情の体験が中断されて、未消化の感情が残されてしまいます。
それはなぜかというと、私たちに善悪を仕分けする自動思考(マインドトーク)が働いて、それによって嫌な感情が否定されるからです。
テーマに沿って自分の意思で何かを思索する以外、ほとんどの思考は自動的に起こっています。
もし自分が考えていると思うなら、是非思考を止めてみてください。
自分で思考を止められないのは、思考が勝手に考えているからで、苦しみはすべて自動思考によるものです。

蓄積された感情は水中に沈められた風船のように、事あるごとに浮かび上がっては自動思考を誘発します。
それでも逃げたり我慢し続けるので、感情の風船はどんどん膨らんで蓄積してゆきます。
私たちが突然怒りの衝動を感じたり、自分ではどうしようもないトラウマを抱えてしまうのは、そのような蓄積された感情があるからです。
蓄積された感情は幼少期に親子関係で生じたものが核になっていて、それが社会生活の中で雪だるまのように膨らんでいます。
親は一生懸命子供のために尽くすのですが、小さな子供の感じ方がわからないため、心ならずも子供の心を傷つけてしまいます。
子供は楽しいことは満喫して忘れますが、嫌な感情は心に蓄積したまま、その感情によってその後の人生を支配されます。

私たちが感情と思考をこのように見つめるとき、その見つめる心の存在が浮かび上がってきます。
それが3つ目の心の要素である自己です。
自己は「いまここ」の現在進行形の中にあって、そこには自分という分離した概念はありません。
それは無我夢中の「無我」の状態で、時間もありません。
私たちは時々あっという間に時間が過ぎ去る集中した状態になることがありますが、それが無我であり、そこに自己があります。
自己には認識、意思、自立、創造、愛、喜びなどがあって、私たちの心の核になっています。

6.心の病とは
心の病は突然起きるわけではありません。
それは悩み苦しみの延長上にあって、苦しみが臨界を超えて医療に託されたとき、初めて心の病として診断されます。
私たちに日常起こっている苦しみと心の病は連続しているのです。

心の病では思考に依存性の嗜癖を持っていて、思考のパターンが偏ったまま同じ思考を繰り返しています。
その思考の癖が不安感(恐怖感)や心身症状に現れると神経症になります。
また苦しみから生ずるストレスや恐怖感や否定的な感情は、被害性の抑うつ感情を蓄積して、鬱病の原因になります。
心の病がいろんな症状を合併するのは、このように同じ原因がその人の性格や進行によって変化して表れるからで、複数の病気が重なっているわけではありません。

心の病の原因は、今日では脳内物質や脳構造の異変とされますが、本当の原因は偏った感情と思考の連鎖によるもので、脳内物質や脳構造の異変は原因ではなく結果の一つなのです。
薬物は結果を錯乱しているだけなので、一時的に効果はあっても、根本的には治ることはありません。
ですから緊急の対応としては有効ですが、長期的に服用すれば、生理的依存性によって常用化し、副作用の弊害が出てきます。 
また根本的な治療法ではありませんから、治ったと思ってもいずれ再発することになります。

心の病は脳というハードウェアのトラブルではなくて、心というソフトウェアのトラブルなのです。 
ですから自分の心を変革する以外に、根本的に治る方法はありません。

7.鬱病の療法
鬱病に苦しむ人がとても多いので、ここでは鬱病を想定して療法の手順を書きます。
心の病は原因がほとんど同じですから、どんな病気も基本的には同じ考え方で対応しますが、人によって何を優先するかは違います。
これは医療行為ではありませんので、医師の診断、投薬を受けた上で、医療と並行してやってください。

鬱病を治してゆく上で最初に注意することは、苦し紛れに現状を変えようとしない、つまり決して治そうとしないことです。
鬱病の原因は心の中の葛藤にあって、症状はその結果に過ぎません。
その結果を操作して鬱病を治そうと思っても、葛藤が大きくなるだけで、鬱病は悪化する一方なのです。
逃げること、我慢すること、変えようとする(戦う)ことの3つの回避行動はすべて自動思考によるもので、これさえなくなれば自然に治ります。
鬱病はあるがままを受け容れて、過去、現在、未来と続く時間軸の先に期待や目標を持ってはなりません。
これがACTの基本的な考え方です。

次に鬱病の原因である攻撃性の抑圧された感情を解放してゆきます。
攻撃性の感情は、過去人間関係で生じた恨みや怒りの感情を避けたり我慢したため、それが未消化のまま蓄積されてしまったものです。
相手ごとにトラブルのあったシーンを思い出して、その時湧き上がる感情をあるがまま体験してゆきます。
普通はカウンセリングで行いますが、自分でやる場合は感情をそのまま言葉にしたり、ノートに書きなぐります。
感情を体験するというのは、どんな気持ちも否定しぜに感情を自由に表現しながらそこに留まることです。
この方法はACTの応用ですが、段階的に効果を検証できますので、今後心理療法の主流になってゆくと思われます。

苦しみは思考と感情の連鎖によるものですが、ACTは感情への働きかけを目的にして行われ、それと両輪の関係にあるマインドフルネス法は、思考に働きかけて思考に振り回されない自己をめざしてゆきます。
マインドフルネス法では瞑想を通して「いまここ」の現在進行形に傾注します。
さらに食べる、歩く、仕事をするといった日常生活の中で感じる生き方を目ざしてゆきます。
それを習慣化することで自己が強化され、感情と思考に振り回されないようになります。
自己を強化する方法として感謝法も有効で、これは簡単ですからマインドフルネス法の1つとして実施したらよいです。

8.ACTによる感情の浄化法
ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)は第3世代の認知行動療法に属する新しい心理療法です。 
その起源は仏教など東洋の自然思想にあって、森田療法の要素と同じものです。 
その基本的な考え方は従来の療法とは正反対で、快さを求めるのではなく、苦しさを受け容れてゆくというものです。 
これは先入観からは思いつかない方法ですが、実際にやってみると、これまでの方法がいかに逆のことをやっていたかがわかってきます。 

私たちは生きてゆく中で精神的な苦しみを感じ、それを回避しようと努力します。 
しかしその回避行動が心の中で葛藤となって、逆に苦しみを深めています。 
回避すればするほど、自分の中の戦いは激しくなり、それが自分の外側(周囲との関係)にも広がってゆきます。 
長い目でよくなるには、苦しみを回避するのではなく、すべての状況をあるがまま受け容れることです。 
自分の身の回りに起こることはすべて、苦しみも怒りも恐怖も、それを避けようとするのではなく積極的に受け容れてゆく、その結果として苦しみがなくなってゆく。・・・それがACTの基本的な考え方です。 

ACTによる感情の浄化法は、それをトラウマや鬱病などの原因療法として応用するものです。 
そのやり方は過去に嫌なことがあった場面を思い出して、湧き上がる感情をあるがまま受け容れてゆきます。 
それを相手単位、場面単位で感情が湧かなくなるまで繰り返します。
それによってこれまで自分が振り回されてきた感情が短期間に消滅して、化石のような感情の湧かない記憶になります。
ACTによる感情の浄化法では、その効果を実感しながら進めてゆくことができます。

多くの場合、その感情は成育時の親子関係において形成され、それが学校生活や社会生活の中で雪だるまのように膨らんでいます。 
蓄積した感情は抑えようとしても抑えることができず、それが臨界を超えると心や体の病として症状が表れてきます。
たとえば鬱病は攻撃的な感情、否定的な感情が抑うつ感情になっています。
トラウマなどの心の傷もこの方法で解決することができます。

9.マインドフルネス/失われた自己を取り戻す
私たちの心は、感覚と感情からの刺激によって、いつも自動思考(マインドトーク)が誘発されています。
心の病は、自動思考と感情がスパイラル状に連鎖して、自己がそれに引き込まれてしまった、いわば暴走状態になっています。
失われた自己を取り戻して思考と感情から自由になり、さらに思考を自在にコントロールするためのトレーニングとしてマインドフルネス法(瞑想)が用いられます。

瞑想では、「いまここ」の現在進行形に注意を向けながら、思考と感情を客観視します。
私たちの思考は過去から未来につながる時間軸上にありますが、自己は瞬間瞬間の現在進行形にあって、両者は別々の心の要素なのです。
私たちは連続的に行われる呼吸に意識を向けることによって、「いまここ」の自己にあり続けることができます。
そして湧き上がる思考や感情は、そのまま捉われずに放置して、私たちは呼吸に意識を向け続けます。

瞑想には座って行う座禅がありますが、それ以外にも歩くこと、食べること、踊ること、仕事をすることなど、生活のあらゆることに応用が可能で、生き方のすべてを瞑想にすることができます。
たとえば草取りでも掃除でも炊事洗濯でもスポーツでも、行動しながら目で見、音を聞き、身体の感触を全身で感じます。
それは瞑想と同じ状態で、感じているとき思考は止まり、思考が働いているときは感じることが止まります。

瞑想が進むと思考のない生き方ができるようになりますが、それがどんなものかを想像してみます。
私たちが街で車を見るとき、車の色は何色?とか、どこのメーカーの何の車種?とか、かっこいい!などと無条件に言語化が行われていることに気がつくでしょう。
この言語化によって思考が発生し、実際には見るものを見ていません。
思考のない生き方は、その車を目に入る光のまま感じています。
思考のない状態で、自分の意思で思考を使うことができれば、極めて高速に思考の切り替えができ、明晰な頭脳と高い創造力を発揮することができます。

ここでのテーマは思考をなくすことではなくて自己を取り戻すことですが、それは同時に考えることから感じることへの移行、過去、現在、未来の時間軸から「いまここ」への移行、関係の世界から自分の内面世界への移行が行われます。
瞑想は指導を受けなければなりませんが、その要素は「マインドフルネス」として第3世代の認知行動療法になっていますので、事前にそれを学ばれると効果的に瞑想を習得できます。

10.感謝法
「いまここ」の現在進行形には大切な心が働いていることがわかりました。
私たちは「いまここ」に全力を尽くし、「いまここ」に楽しさを感じ、「いまここ」に豊かさを感じることができれば、将来にも全力を尽くし楽しく豊かな自分がいます。
どこか将来に幸せがあると思っている人は、将来になってももっと先に幸せがあると思っている自分がいるだけです。
幸せは「いまここ」の現在進行形にしかないことがわかるでしょう。

その「いまここ」を喜びに満たす方法が感謝する習慣です。
感謝というのはおざなりにお礼を言うことではありません。
本当の感謝は喜びの表現であり、その表現によって周りの人にも喜びが伝わってゆくことです。
感謝することによって喜びの感動が起こり、自己がどんどん活性化してゆきます。
苦しみの深い人は共通して、感謝することが少ないことに気がつくはずです。

その感謝を習慣化する方法が感謝法です。
感謝法の1つは1日10回以上「ありがとう」という言葉を使います。
使うというのはありがたいと感じなければ使えませんから、この方法は同時に「ありがた探し」の意味合いがあります。
これを何年か続けるうちに、感謝する習慣が身についてゆきます。

もう一つ短期間で感謝する習慣を身につける方法として、毎日49分づつ時間を取って、10万回を目標に「ありがとう」を唱えます。
これはありがたくなくても声を出して唱えるだけで結構です。
声の響きが直接脳に影響を与えて、短期間で感謝する習慣を身につけることができます。
感謝する習慣が身につくと、顔がいつもほころぶようになって、無条件で幸せを感じます。





共通テーマ:日記・雑感

マインドフルネス認知療法(mindfulness-based cognitive therapy: MBCT)

以前の私は瞑想法というと、霊的・宗教的意味のあるニューエイジ系の治療というイメージを持っていましたが、実はマインドフルネス瞑想法(mindfulness meditation)はすべての人に対して、霊的信念や価値観などの変更や放棄を求めることをしない認知療法の一つです。最近、「認知行動療法の第三の波」として注目を浴びるようになってきました。

 

 

マインドフルネス瞑想法のルーツは2600年前の仏陀の観(ヴィパッサナー)瞑想に遡ると言われています。マインドフルネスは「今の瞬間の現実に常に気づきを向け、その現実をあるがままに自覚し、それに対する思考や感情には囚われないでいる心の持ち方、存在の有様」と言われています。つまり「今ここで知覚される対象に注意を向け、その対象を思考の働きで変化させないように気をつけ、観察に徹する行動」です。

 

具体的な方法については熊野宏昭先生の説明が簡便で患者さんにもすぐ実践できるものとなっていると思います。

 

座禅をするときのように身体の力を抜き、背筋をのばして座り(正座でも、椅子でも構いません)、そして、呼吸に伴う身体の動きに気づきを向けます。

 

その際、呼吸は「ゆったりと」するくらいにして、なるべくコントロールしないようにします。つまり、<呼吸のことは呼吸に任せていく>のです。そして、例えば、お腹や旨の辺りの動きに気持ちを向けて、「ふくらみ、ふくらみ」「ちぢみ、ちぢみ」と、身体が動く感覚をそのまま感じるようにします。

 

そうこうしていると、すぐに何かを考えているのに気づくでしょう。そうしたら、「雑念、雑念」と心の中で2~3回唱え(ラべリング)、さらに「戻ります」と唱えて呼吸に伴う身体感覚に優しく注意を戻すようにします。あるいはどこかに痛みを感じたら、「痛み、痛み・・・・・・・、戻ります」、かゆみを感じたら、「かゆみ、かゆみ・・・・・・・・、戻ります」という具合です。

 

しばらく続けていくと、また何かを考えています。今度はしばらく気付かずに、「あいつにだけは負けたくない」とか、「これだけは自分のものにしないと」などと考えてしまっているかもしれません。そういった場合は、思考のレベルを超えて感情が動き始めていますので、「怒り、怒り、怒り」「欲、欲、欲」などと「ラべリング」していくようにします。

  

以上のように、雑念、五感、感情などに巻き込まれていることに気づいたら、ラべリングをしてそっと呼吸の感覚に戻るということを、繰り返し繰り返し行っていくわけです。

 

マインドフルネス認知療法(mindfulness-based cognitive therapy: MBCT)では、瞑想の練習時間は初回は10分程度、最終的には45分程度を目標としています。しかし、あまり形式ばらなくても日常生活の中でマインドフルネスをとりいれることは可能です。ちょっとした休憩時間、散歩しているとき、ソファーに横になっているとき、読書、ストレッチのときなどにもできると思います。私は、患者さんに日常生活の中で、突然、不安や強迫観念が出てきたとき、否定的思考にとらわれそうになったとき、マインドフルネスを実践してもらっています。

 

私自身の実践経験ですが、仕事にせきたてられ常に身体の緊張、不安に付きまとわれた時期がありました。朝日を浴びながら散歩しているのに、不安が取れず、仕事が間に合わなかったらどうしようなどと焦りや恐怖感にとらわれ、身体が硬く、特に首筋(斜角筋、胸鎖乳突筋など)や僧帽筋などの緊張が強く、身体的な不快感を味わいながら、歩いていました。この時に否定的な思考が出てきたことを自覚し、「あせり、あせり・・・・」「不安、不安、・・・・・・」とラべリングして、さりげなく呼吸に注意を戻すということを繰り返しました。はじめは苦しみは和らぎませんでしたが、しばらくやっているうちに、不安がピークにさしかかったと思われた瞬間、不安や焦りの感情をやり過ごすことができ、あっという間に首筋、肩の筋肉のスパズムが消えてしまいました。

 

MBCTはうつ病再燃のリスクを低減する可能性があります。うつ病から回復した人でも、特定の否定的思考パターンに依然として脆弱である場合、マインドフルネスが効果的であると言われています。MBSR(mindfulness-based stress-reduction)に関しては痛み、ガン、心疾患、うつ病、不安障害、ストレスに悩む健常者などを対象にした20の研究のメタ解析で心身両面に十分な効果が認められるという報告もあるそうです。

 

長年、観瞑想を続けてきた人は、背内側前頭前野と島の皮質の体積増加しているという報告もあります。この部位は、パニック障害のエクスポージャー治療の長期効果と共通する場所だという。背内側前頭前野は感情に対する注意、思考に対する注意という機能を持っている。自分の心の中の感情や思考の動きを客観的に観察する能力、さらに自分の心に対する認識ばかりでなく他者の心に対する認識も、この部位でなされているという。

 

よって、マインドフルネスにより、自分の思考や感情に巻き込まれずに、それを外から客観的に観察していこうという方法は、パニック障害のエクスポージャー療法と深い関連性があるという。

 

すべての私的現象(思考、感情、身体感覚、記憶など)は変わり続けていく一過性の出来事にすぎず(無常)、どこにも不変の自分などは存在しない(無我)、そのように一過性のものに執着すると失望を繰り返し味わうことになる(苦)、という事実をありのままに観察することで、批判や比較などの思考によって作り出される不満と渇望の悪循環から抜け出すことを目指すマインドフルネスは、「自分」と呼べるものはどこにも存在しないという認識を持つことになる。「自己」という構成概念に直面化するゆえに、マインドフルネスは認知行動療法の第三の波として位置づけられている。



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世界を味わう・変える、世界はよい・悪い

根本的な態度として
世界はよい・悪いの感じ方の違いがある

またその世界を変える・味わうの違いがある

それを表にするとこんな感じ

         世界を味わう  世界を変える
世界はよい  詩人       穏健な労働者    

世界は悪い  厭世家     革命家 

私は世界はよいと思っていて、世界を味わえば自由分だと思っているので、詩人に属する

ーーー
考えて見れば
世界が悪いのにそれを味わうというのも
正当な態度ではないし
世界が良いのに世界を変えるというのもおかしな話で


となると、世界は良い、だから味わうとする、詩人と
世界は悪い、だから変えるとする、革命家の
二種類に集約されるのかもしれない。

ーーー
追記
世界は悪い、だから良くしよう、というのがバットマン
世界は悪い、だからもっと悪くしようというのがジョーカー

世界は悪いという絶望の認識の点ではやはり一致している






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