SSブログ

民営化により失業率が上昇し死亡率が増大

旧共産主義国では、急速な民営化の進展が労働年齢男性の死亡率上昇の主要原因であることが、イギリスCambridge大学社会政策学部のDavid Stuckler氏らの調査で明らかとなった。1990年代初頭~中期のヨーロッパや中央アジアにおける共産主義から資本主義への転換は国民の健康に破滅的な結果をもたらしたという。UNICEFはこの経済システムの転換によって300万人以上が早世したとし、国連開発計画(UNDP)の試算では失われた人口は1,000万人以上に達する。Lancet誌2009年1月31日号(オンライン版1月15日号)掲載の報告。
民営化の進展と労働年齢男性の死亡率を解析

1990代初頭、ヨーロッパの旧共産主義国の多くで成人の死亡率が上昇したが、その各国間の差や経時的な変動の原因はわかっていない。経済体制の転換の速度が死亡率増大の重要な促進因子であることを示唆する報告はあるが、転換政策の特定要因の役割について実証的に評価した研究はない。

研究グループは、旧共産主義国(東欧、旧ソ連)における民営化の進展と成人死亡率との関連について検討した。1989~2002年までの労働年齢男性の年齢標準化死亡率に関し縦断的な多変量解析を行った。

民営化計画とは、大規模な国営企業の少なくとも25%が2年以内に安定的な関連方面への譲渡などによって民間企業へ移行することと定義された。民営化の影響を明確にするためにモデルを用いた解析を行い、物価や貿易の自由化、所得の変動、国の初期条件、死亡率を高める構造素因、その他の交絡因子を調整した。

民営化により失業率が上昇し死亡率が増大

民営化計画によって短期的な成人男性の死亡率が12.8%上昇し(p<0.0001)、欧州復興開発銀行(EBRD)による別の民営化の指標でも同様の結果が示された(7.8%の上昇)。死亡率を高める要因の1つが失業率であり、民営化によって失業率は有意に上昇した(56.3%、p<0.0001)。

1つ以上の社会組織に属する人口の割合が1%増加するごとに、民営化による死亡率が0.27%ずつ低下した。また、1つ以上の社会組織に属する人口が45%を超えると、民営化による死亡率上昇の有意差が消失した(3.4%、p=0.44)。

著者は、「経済システム転換の戦略としての急速な民営化が、旧共産主義国における成人死亡率上昇の重要な決定因子であった。社会資本が高度な国ほど民営化の影響は少なかった」と結論し、「これらの知見は、同様の政策を検討中の他の国にも当てはまる可能性がある」としている。


共通テーマ:日記・雑感

他人を見て自分を発見する

人間は自分のことを客観的に見ることは難しい

他人のことなら見えることも多い

だから他人を見て自分を発見することも多い

映画やドラマを見て自分を発見することもある
表現は誇張されたものであることが多いが
その要素が自分の中にあると思いつく
たぶんそのために映画やドラマを見ていることもあると思う

欠点を見るというだけではなくて
長所も見る
また自分の人生に失われたものを見る

若い人の恋愛を見て
失われた青春を思うし
謙虚な人を見て自分に欠けているものを見る

すばらしい人は、
ただ生きて人に接しているだけで
人と社会を教育していると思う

共通テーマ:日記・雑感

大食い女の話は「こぶとりじいさん・かちかち山-日本昔話(1)」(岩波文庫)

大食い女の話は「こぶとりじいさん・かちかち山-日本昔話(1)」(岩波文庫)にあり、飯を食わない女なら嫁をもらってもいいというけちな男のところに、私は飯を食わずに働くから嫁にして欲しいと女がやってくる。実際生活してみると本当に飯を食わずに重宝がっていたが、友人たちにそいつはやまんばに違いないと言われ怖くなり、外出したふりをして天井に隠れて見ていたところ、頭の髪の毛を分けると大きな口があり、そこに握り飯やらあぶった鯖をどんどん放り込んでいる姿を見てしまう。友人の手助けで嫁を退治しようとしたところ、逆に友人は嫁に喰われてしまい、男は必死に逃げ、偶然よもぎと菖蒲の草むらの中に逃げ込む。菖蒲が弱点だというやまんばの独り言のおかげで、菖蒲を投げつけ命が助かるという、広島県安芸郡のお話です。各地にはやまんばの退治の仕方のついていくつか異なるバージョンはあるようです。

ーーー
この話は、最初の「飯を食わない女なら嫁をもらってもいい」という条件を飲むから神経性無食欲になる
現代ならば働く女、生む女、愛する女などの機能分化に対応して
矛盾を押し付けられる

それでは生きられないから隠れて大食する、リバウンド
まあ、それも必然である

そのような矛盾を何故引き受けたのかと考えると
山姥は男を愛していたのだ
そして男に愛されたかった(のだろうか、山姥はなにも男に求めていないように思える。一方的な献身)
多分母性的な愛

愛していたから矛盾を受容して
自分の側でつじつまを合わせるために隠れて大食する

カロリーの帳尻が合わないので大きくなってしまう。
破裂する前に排泄する
あるいは実際に破裂する
過食嘔吐や下剤乱用が連想される
出産も排泄の一形式と考えられないこともない
貯めて一気に排泄する様式

ここまでですでに、実に悲しい愛の献身物語である
現代女性はこれをそのまま生きているのだ

何のためにダイエットして、何のために過食嘔吐するのかといえば、愛する男のためである
男に愛されるためである
いや、男を愛するためである
いまは男性のことは諦めたという場合でも
最初の男性から見捨てられたことに絶望し
愛し続けるためにいつまでも拒食や過食嘔吐を続けている女性もいる

平たく言えば、またはたぶん正確には自己愛のため、共同体の規範圧力(同調圧力、空気をよめ)のためなのだけれども
もう一歩踏み込むと満たされなかった愛を取り戻す運動が残存して外壁を作っているような気がする

母親の愛が奇妙にねじれるのは阿闍世の話で出てくる
息子である男が愛しくてならない母親の姿が見える

最初の人が一番好きで
最初の人に振り向いてもらいたい
というのは女性なら思うものではないか
まあ、男性でも
いや男性のほうがとも思う
母親に憧れ続ける男性も少なくない

その場合、母性が捧げられていて、それは人生で一度限りのものではないかと思うのだ
一度限りの学習のことが脳には多い

父が出てこないのも面白い
古代共同体社会では父親はうっすらとわかれば良い程度なのだろう

兄でも弟でもその父でも可能性はあるのだろう
そもそもセックスと妊娠出産の因果関係が明確に把握されていたものだろうか疑問

初恋はコミットメントという点では多分人生最大のコミットメントだったと思うから
なにしろ未熟な自分が自分の全てをかけてダイビングしたのだ
報われるべきだ
そうならないとき人生はねじれるだろう

「友人たちにそいつはやまんばに違いないと言われ怖くなり」
という部分はなんてアホなのかと情けない
言われなくても気付けというのが一点
怖くなるんじゃなくて総てを察知して山姥の愛に応えるのが男だろう
それをしないことが一点

友人は何を案じてそんな助言をしたものだろうか

「外出したふりをして天井に隠れて見ていた」
なんていうのはいかにも卑劣でどうしようもない
これならもう死んだ方がましだと思う

そして山姥にすればお見通しだ
現代で言えばpcや携帯のメールののぞき見だと思う
隠蔽すればできるのに見たかったら見てもいいという態度である
信用したい、見ないでいてくれるかもしれない、あるいは、見ても、私を愛しているなら、守ってくれるかもしれない、
そう考えたのだと思う

ここが山姥の第二のコミットメントだ
賭けた
しかし賭けに敗れる
男は見てしまい、さらにあわてて、退治にかかる

あかん、これでは、あかんではないか、男
山姥からのシグナルをもっと感じなくては
しかし男は感受できず

友人を食べてしまったのは当然だ
何でそんなお節介をするものか
そんなレベルの低い友人をもっていることは男のためにならない
本当に男の為を思っているのは自分であると山姥は言いたい

しかしこのことがまた男には恐怖を引き起こした
飲み込まれたらどうしよう
今までは総て山姥の計画通りで意図通りである



ーー
やはり隠蔽と
「見るな」という禁止命令と

友人は嫁に喰われてしまい
というのもスリルがあっていいですね

菖蒲が弱点だというやまんばの独り言のおかげで、菖蒲を投げつけ命が助かる
というのも実にいい
漢方薬のようなものか

ーーー
飲み込まれる不安とすれすれのところだと思いますが
どうでしょうか

ーーー
夫の側は、やまんばなのだから退治する
という結論のようですね
そんなひどい話があるでしょうかね、
正体が山姥だと自動的に退治すべきということなんだろうか

ーーー
追記

言いたくても言えない

という事情はある
先輩によればやまんばは夫を愛していた
だから正体を言えなくなった

言いたくても言えない構造ができて
見るなと言われれば見てしまう構造ができる

それを防止しないといけない

ーーー
だいたい、飯を食わなくても働くという最初の条件がべらぼうで、
そこが山姥を引き裂く。
そういうべらぼうな条件を飲むのだから
山姥は男を愛していたのだろう。

男は
友人たちにそいつはやまんばに違いないと言われ怖くなり、外出したふりをして天井に隠れて見ていた
というのは、実に、愛情のかけらもないではないか

山姥も見られているらしいことは知っていて見せたのだと思う
もう終わるなら終わってもいいと
腹いせに友人は食べてしまった
大食い女だから食べる

男については食べてもよかったけれど
愛があったので逃がしてやって退治されてやった
自分の弱点を告知してそのとおりの状況を作ってあげるのだから
山姥のほうがずっと計画的で知能が高い感じがする

こうしてみると男は要するに自分の欲望と山姥の愛とに自動的に動かされているだけで
自分の足で大地を踏んでいる様子が全くない

飯を食わなくても働く女という条件がそもそも
間違いの始まり
その矛盾を引き受けながらも男を愛した山姥の悲しい献身物語である

「食べたい」 vs 「 痩せたい+愛されたい」


食欲と異性愛がぶつかったらずいぶんなアンビバレントでコンフリクトだ
この場合正面衝突

食欲は個体生存で
異性愛は種保存
と考えるとより根本的なアンビバレントになる

根本的かつ普遍的なアンビバレント

「個体生存 vs 種保存」

女性は労働力と思われていた時代が長い
性愛、出産、育児が独自機能として独立するのはかなり豊かになってからではないかと思う

平安期宮廷文化ではそのような機能分化が進んでいて
いわば
男女は恋愛セックスマシンだった

なにしろ月のない夜に忍んでいくのだから
何が何だか分からない
匂いくらいで判別
それって結構なスリルですよね
誰の子供なんだかも分からないし
だから男は結構無責任になる

すると本業で頑張らずに夜這いだけに集中する人の子どもが増えていく
統治能力は低下して崩壊する

ーーーーー
追記
山姥は男を現代の男女の感覚で愛していたのか
あるいは母と息子のような感覚で愛していたのか
多分後者だろうとの先輩の意見

なるほど
そう考えると、最初のべらぼうな「食べないけど働く」という条件も
あり得る話なのかと思えてくる

母親は息子のためなら犠牲になったりする
息子は何もしないのに母が献身する

ひっょとしたら山姥は男の実の母なのかも知れない
実の母ならこの献身も納得出来る

しかしそれが日本人の愛の原型だとすればなかなか苦しい

ワーグナーとかゲーテとかもそんなことを平気で書いている
タンホイザーとファウスト

ーーーーー
先輩の助言で
「山姥は男を母親的に愛していた」
という補助線を引くと

カップヌードルにお湯をかけて3分待ったような感じ
みるみるうちに見事に切ない物語になる
短い行数なのに
すばらしい

ーー
飯を食わない女なら嫁をもらってもいいというけちな男
というものはどう理解したらいいのか
困惑する
しかし現実の一面はそういう事なのだろうと思う

男のこの欲望がすべての物語のはじまりだ

この貪欲はなんだろう

ーー
貪欲について考えてみるとこの男にも前半生があったはず
生まれながらの貪欲ということもないだろう

そしてこの男には後半生がある
どう生きたものか、知りたい

母を退治するというのはあり得ないが
いつかその慈愛に気づいてくれればいい

たぶんこんな感じの男はまた誰かの話を聞いて
実はそれは観音様の生まれかわりで
ありがたい人だったはず
今から改心してまともに生きろとか言われて
そのまま信じて生きたかもね

前半生を空想すると何か苦しい影が見える
ひしめき合っている

こうして山姥をいじめているくらいだから
多分誰かからいじめられたのだろう

いじめの連鎖であるような気がする
ACで共依存で
酒も暴力もないが
無知、無想像、不信、卑劣である
ネガティブな行動の嗜癖
いかにも何か欠如を感じさせる

ーーーー追記
たとえば、男性としては、財産目当てなのかと思ってしまう場面がある、
あるいは給料がいいからなのではないかと思ってしまう
自分の何がいいのか
愛しているのかと思ってしまう
それに我慢がならないという場合

それをブロックするためにそのような条件を出すことはあるでしょうね
すると「食わずに働く嫁」というのも分からないでもない
男はある程度高給取りだったのではないですかね

いろいろあって人間不信になり
そのような貪欲な要求を掲げた

もちろん普通の女性はそんな条件に応じられるはずもない

そのことを哀れに思った母親が
それではやってあげようということになった
ゆくゆく諭したいと思ったのでしようね

しかし現実には食べないと生きて行かれないので
食べてしまう

しかも山姥だから半端ではなく食べてしまう

ーーーーー
男のところに転がり込んで男を飲み込もうとする女はいますね
山姥はそんなふうにも見える
食わずに働く嫁」というのは一時的なハードルであって
そんなものは、男を飲み込んでしまえば、終わる

そこで女に飲み込まれると男は一生女の支配下で生きる
それは楽でいいという男性もいて
母親と子どもの関係で安定する

一種去勢された感じになる
それ以降は恋愛機能を発揮することはない

ファルスを引っこ抜いてしまう

この点で言えばどっちもどっちなんだけど
しかし始まりがそれだったとしても
最終的には男を逃がして生かしておいたのだからやはり好きだったんだろう

ーーーーー追記
もうひとつの欲張りとして
「妊娠するな、でもセックスはさせろ」という男の側からの貪欲があると思う

女はそれに応じてピルを使ったりするのだけれど
DNA戦略から言えば、人間の脳も性欲も愛着も恋愛も全部はDNAの複製に集約されるものであるのに
そこの部分が実現されずに性の満足、脳の満足だけになっているのはやはりおかしなことなのだ

そして女性の側でも産まずにセックスすることが得のように思われているようだ
対人関係の代理物である
そしてこの場合、ほぼ全員が語るのは、親は反対すると思うから言えないけれど、優しい人なんですということ。
それは自己愛の延長または投影のようだ
女性の側の貪欲は「愛も性欲も」である

奇妙に男女の思惑は一致する。
外側から見れば、共働きでなければ暮らせない、子供はまだ早い、でもセックスはしたい、ということなのだろうが
避妊を伴うセックスというものは
近年のものですよね
西洋文明と共にと言っても良い
過食
嘔吐と、痩せ文化と共にと言っても良い

江戸時代なんかは避妊とかしなかったですよね
フリーセックスの様相はあったらしい
できたらしかたないから産む
誰の子かよく分からなくてもとりあえず
結局、分からないわけだし












共通テーマ:日記・雑感

失うものなんてないんですよ

失うものなんてないんですよ
もう

過去はない

あるのはここから歩き始める
この先の道だけだ


共通テーマ:日記・雑感

映画 Metropolis Freddie Mercury - Love Kills





Vangelis - Memories of Green


Metropolis


Vangelis - Love theme from Blade Runner (Liquid Remix)



『メトロポリス』 フリッツ・ラング監督

メトロポリス(フレディー・マーキュリー)

Freddie Mercury - Love Kills


1920年代、ドイツ映画の絶頂期に製作された伝説的な超大作「メトロポリス」。監督のフリッツ・ラングは、当時の妻でもあった脚本家のテア・フォン・ハルボウが書いた原作に基づき、支配者が労働者たちを使って作り上げた未来の都市メトロポリスを舞台とした巨大なSF映画を1926年に完成させた。物語は西暦2000年を舞台とし、ヨーロッパの歴史・文化・宗教に関係するいくつかのテーマが同時に奏でられながら、音楽的な形式(プレリュード、インテルメッツォ、フリオーゾ)によって進行して行く。支配者による搾取に苦しめられた労働者たちは、ローマ時代にキリスト教徒が逃れた地下墓地であるカタコンベに行き、マリアというマドンナのような女性の説教を聞く。彼女は旧約聖書に描かれるバベルの塔が如何にして崩壊してしまったかを述べ、支配者と労働者を結びつけてくれる媒介者の到来を待つように説く。
一方メトロポリスの支配者ジョー・フレーダーセンのかつての恋敵ロートヴァングは、今ではマッド・ドクターのようにロボットの完成に余念がない。ジョー・フレーダーセンの提案で、ロボットには労働者たちが絶大なる信頼を置くマリアの顔が与えられる。こうして出来た偽のマリアは労働者たちを扇動し、映画は終盤の大スペクタクルへと向かってゆく。

映画史上もっとも有名なSF無声映画である「メトロポリス」は、しかしながら完全なオリジナルの版では残されていない。1927年1月10日にベルリンでプレミア上映がなされ、翌11日からベルリンの映画館で封切られたこの映画は、この映画館で5月13日までオリジナル版で上映された。このオリジナル・プリントの長さは4189メートルで、映写回転速度にもよるが、上映時間にして2時間半から3時間に近い作品であった(1秒間24コマの速度で上映して2時間33分かかる)。だがこの作品はすでに1927年の初めにアメリカにおいて2種類の短縮版が編集され、さらにドイツにおいても封切り終了後、ベルリン以外の都市で上映するための短縮版が作られた。3時間近い上映時間は2時間弱になった。これらの各種短縮版にはフリッツ・ラングの意向は反映されておらず、「メトロポリス」は事実上作者にとっては不本意な編集版で広く公開された。
第二次大戦後、ドイツ無声映画の古典として何度も上映された「メトロポリス」のプリントは、1920年代の短縮再編集版よりもさらに短くなったものばかりであった。このためこの古典映画の復元が1960年代から何度か試みられた。2001年2月15日、ベルリン映画祭で「メトロポリス」の最新復元版が上映された。これは、近年見つかった状態の極めてよい可燃性プリントからの複写プリントに基づき、プレミア上映で使用されたオリジナル版がどのようなものであったのかを様々な資料によって再現した版で、後に変更された中間字幕もオリジナルに戻し、動く映像が現存しない箇所は文字による説明が加えられた。プレミア上映のためにゴットフリート・フッペルツによって作曲された音楽が演奏されたこの「メトロポリス」最新復元版は、大きな喝采をもって映画祭の観客に迎えられた。
本DVDはこの最新デジタル復元版「メトロポリス」をフッペルツ作曲の原曲伴奏付で収録するものである。
1926年 ドイツ
B&W 本編118分+特典53分 1,伴奏音楽 ステレオ 2ch 2.サイレント 日本語字幕(小松弘 新訳) スタンダード
監督:フリッツ・ラング 脚本:テア・フォン・ハルボウ 撮影:カール・フロイント、ギュンター・リッタウ 舞台装置:オットー・フンテ、エーリヒ・ケッテルフート、カール・フォルブレヒト 衣装デザイン:エンネ・ヴィルコム 彫刻:ヴァルター・シュルツェ=ミッテンドルフ 絵画トリック及び技術アドヴァイス:エーリヒ・ケッテルフート 特殊撮影:コンスタンティン・チェトヴェリコフ 画面合成処理:オイゲン・シュフタン スチール写真:ホルスト・フォン・ハルボウ 音楽:ゴットフリート・フッペルツ 出演:ブリギッテ・ヘルム、アルフレート・アーベル、グスタフ・フレーリヒ、ロートヴァング:ルードルフ・クライン=ロッゲ、フリッツ・ラスプ、テオドア・ロース、エルヴィン・ビスヴァンガー、ハインリヒ・ゲオルゲ c 2003 Friedrich-Wilhelm-Murnau-Stiftung World Sales: Transit Film GmbH
★特典1『メトロポリス』事件(44分) ★特典2『メトロポリス』の修復(9分)
★特典3 フォトギャラリー(『メトロポリス』撮影中の写真、失われた場面、建築スケッチ、衣装草案、ポスター) ★特典4 作曲家ゴットフリート・フッペルツによるオリジナル音楽(1927年/ガラ・プレミアム版) ★特典5 日本版オリジナル・リーフレット(映画史家 小松弘、大塚真琴による解説40頁)


   フリッツ・ラング監督が手掛けた本作は、映画であると同時に伝説とも呼べる、サイエンスフィクションとドイツ表現主義のマイル標石的作品。しかし、話の展開は理解しにくいし、テーマも運任せという感が否めない。この作品のPAGANPOWERを経験するには、映画を見なければいけないと思うが、その夢は長い間もかなわなかった。バージョンは何種類もあるが、どれも不完全で、手垢のついたコピーのようなものが多かった。しかし、このムルナウファンデーションによる復刻版はその全てを変えてくれた。永遠に失われた場面、シーン、わき筋もあると思うが、間に説明が挿入されていて、それによってオリジナル版の流れや各キャラクターの軌道上にどのように溶け込むのかが示されている。もっと重要なことは、3Dの映像が鮮明で生き生きとしていることだろう。複合の続編(『バベルの塔』)はあまりにも妄想的な復元のされ方。頬をつたう汗の玉が見て取れるロングショットの場面もあるほど。(Richard T. Jameson, Amazon.com)




『メトロポリス』 フリッツ・ラング監督



共通テーマ:日記・雑感

『O嬢の物語』

『O嬢の物語』は、ジャン=ジャック・ポヴェール書店から1954年に刊行された。Oと呼ばれる女性の「奴隷状態における幸福」を描いたその内容は話題を呼び、翌年にはドゥ・マゴ文学賞を受賞する。
著者「ポーリーヌ・レアージュ」の正体についても憶測が飛び交った。なかでも序文を寄せているジャン・ポーランとする説が有力だったようだが、1994年になって、ポーランの愛人でもあった作家ドミニク・オーリー、本名アンヌ・デクロが真の作者であると名乗りでて、この論争に決着をつけた。

日本でも澁澤龍彦名義で発表された1966年の訳が版を重ねているが、この翻訳のほとんどが、実は当時の澁澤夫人矢川澄子によるものであったことを、のちに矢川自身が明かしている。
翻訳がパートナーの手になるものと目されていたことに加え、矢川が後に告白した澁澤の支配、彼女自身のマゾヒズム的傾向など、原典にまつわるエピソードとも重なる点があって面白い。もちろん矢川のマゾヒズムと、カトリックの信仰が根底にあるレアージュのそれとではだいぶ趣を異にするのだが。

澁澤の死後、矢川澄子は別れた夫である澁澤との結婚生活の裏話を色々な媒体で告白するようになった。関係者やファンの中には、彼女の一連の告白を「暴露」と捉え、不快に思う人も少なくなかったようだ。

2002年5月刊行の河出書房新社のムック「澁澤龍彦 ユートピアふたたび」の年譜から矢川に関すること一切が抹消されていたのも、矢川の言動に憤った誰かの意向によるものだろうか。
どのような意図があるにせよ、特定の事実を故意に落とすなど年譜の資料的価値を損なう行為でしかない。自費出版ならともかく河出ほどの出版社がこのような恥知らずな隠蔽を行なうとは。

2002年5月29日に矢川澄子は黒姫の自宅で縊死した。
wikipediaの矢川澄子の項には、年譜の一件が彼女の自殺の引き金になったのではないか、と書いてあった。

ーー
『O嬢の物語』における序文を書いた男と、本文を書いた愛人、そして日本で翻訳を発表した男と、実際は翻訳をしたその妻。

このような男と女の関係が珍しくなくあるのだと感じさせられる。

例えば、柄谷行人と冥王 まさ子の場合なども。

ーー
「自分」が「誰かの所有物」であるという事態をどう考えるか。

自由である幸福と
奴隷である幸福

この延長にカトリック的神の摂理が控えている
人間の意志などはすべて神が予定したものに他ならない

わたしとしては性的領域でのマゾヒズムに限定せず
もっと広くカトリックの根源に関わる問題だと思っている

悦んでいるとき
それは自分が悦んでいるのか
神の配慮として悦ばされているのか

意志のすべては神の定めたものである
カトリック神学としては
そう結論せざるを得ない
そして人間の意志はせいぜい錯覚でしかない

こうした神学・哲学的な自由意志論と
わたしの神経回路における自由意志錯覚論は
まったくパラレルに存在することができる。
http://shinbashi-ssn.blog.so-net.ne.jp/2008-05-04

すべては神の計画であるのに、人間はそれを自由意志であると錯覚している。
そのことをわたしは
すべては神経回路の物理特性の結果であるのに、人間はそれを自由意志と錯覚している。
と結論する。

そして
その錯覚からさめた時を「幻覚」「妄想」と呼んでいるのである。
(ただし、幻覚、妄想のすべてではない)
錯覚を錯覚と正確に名付けたとき、
狂気と断定される。



共通テーマ:日記・雑感

言葉の指す物の輪郭と物自体の輪郭がズレている

なんかこう、白い動物がするすると走るイメージで考えが浮かんだのだけれど逃がしてしまい
そのイメージだけが頭にのこっている、不思議な感じ

ーー
モノそのものと言葉の指すものとが微妙に食い違う事態

その食い違いを補正するために言葉と物を改めて対応付ける作業

しかし対応しない

言葉が無力である

言葉の指す物の輪郭と物自体の輪郭がズレている

そのことは外国語学習の成果でもある

わたしはそのようなズレを確認するために外国語を学んだような気もする


共通テーマ:日記・雑感

逆境を生きる

「逆境を生きる」。逆境に出会ったときに、自分で再確認した方がよい。私自身の戒めのために、まとめてみました。

ピンチの時ほど行動する

仕事のカベ、人間関係のカベ、ライバルへの劣等感を感じる時、運が悪い時、思うような業績が上がらない。私達は、「思い通りにいかない事」や絶望を感じるような逆境と思える時期に必ず出会います。


そんな時、どうしても「悩む時間」が増えてしまいます。「どうしてうまくいかないんだろう?」と悩み続けて時間だけが過ぎてしまいます。自分では「前向きの対策を考えている時間」なんだけど、いつのまにか気分がブルーになる事を考えている時間になってしまいます。


そんなカベに当たっている時ほど、「行動」が必要なのでしょう。今までの倍、動いてみれば、成果は少しは違ってくるもの。悩んでいなくて、まず、行動量を増やしてリズムを作る。悩めば悩むほど、行動が減っていくという悪循環をなくすという事が大事になってくるのではないでしょうか?(この8つの言葉の中で私が一番好きな言葉でした。)
失敗を恐れない
逆境に陥ったとき、目の前に残っている選択肢、チャンスが少なくなっています。「数少ないチャンスを失いたくない」という気持ちになってしまうのです。「失敗したらどうしよう」と感じてしまう。


しかし、実際によくあるのが「数少ないチャンスをなくすのが怖くて、ベストタイミングでのチャレンジの機会を失い」、チャンスを逃してしまうということ。一番、モッタイナイのがこれですよね。


「失敗を恐れて、数少ないチャンス」を逃してしまう。逆境の時こそ、失敗を恐れずに積極的なチャレンジが必要になってくる。


失敗に感謝する

失敗を恐れずに行動していっても、うまくいくばかりではありません。「ベストタイミング」と思ってチャンスに取り組んでも、実際にはうまくいかないケースが多い。そうなると、数少ないチャンスがドンドン減っていきます。絶望が深まるかもしれない。


しかし、失敗の中から、思わぬチャンスが出てくるものです。最初に思いもつかなかったようなチャンスです。


企業経営などで「経営戦略」をしっかり練ってチャレンジしていっても、その戦略通りに事が運ぶことはそれほど多くありません。戦略を目指して活動していた中で、失敗に遭遇した際に、そこから気づいたチャンス」をものにしていき、成功した例の方が多いのではないでしょうか?最初から構想通りに物事が運ぶことの方が少ないもの。


失敗の中には、「私達が逆境に出会う前には気づかなかったチャンス」が潜んでいます。失敗を失敗で終わらせない。「失敗の中にチャンスがないか?」をしっかり意識する事が大事。


常識から離れて考えてみる

逆境に出会ったときに、目の前にある活動の選択肢。これらは、過去の経験、常識に基づく選択肢。過去、こんな事をやってうまくいったとか、こんなお客さんが買ってくれたとかいう過去の成功体験から、導かれた選択肢です。


逆境に出会っているという事は、ある意味、「過去の成功体験の延長では上手くいかない」という事を示しているアラームです。この「アラームの意味」を素直に受け入れる。


もちろん、常識外の発想をしろ!」と急に言われて、できるものではありません。それがカンタンにできるようだったら逆境になど出会わないハズ。


だから、「目の前の活動の選択肢」を早くチャレンジしてみて失敗してみる事が大事になってくる。失敗は、「自分が思ってもみなかった事が原因」で発生するものです。その「思ってもみないもの」を早くしっかり見つけて、再びチャレンジしていく事が大事になる。


拒絶を乗り越える

失敗には、拒絶がつきもの。「いらない。」「それではダメだよ」「もっと考えてきたら」「ひどいね」「時間の無駄だよ」などといった拒絶の言葉に対する恐怖が「失敗」を恐れさせます。他人から拒絶される、断られる事が失敗とも言えるかもしれません。


拒絶は、私達のプライドをズタズタに引き裂きます。無能感に陥れます。だからと言って、これを怖がっていれば失敗はできないのです。


拒絶に対応するには、まず、「自分がホンキで良い。絶対に相手にとって良いと思うこと」以外は提案しないという信念、「絶対に相手に喜ばれる」という信念を持つ事が大事ではないでしょうか?その信念が、拒絶を乗り越えるパワーになると思うのです。


もちろん、こちらがいくら相手にとって「ホンキで良い」と思う事を提案しても、その真意が伝わらない事や、相手の事を十分に理解した提案になっていない事もあるでしょうから、拒絶される事もあると思うのです。拒絶は、「あなたの提案では、満足していないよ」というシグナル。シグナルを受けただけで、挫折していても「絶対に相手に喜ばれること」などできません。


その信念に基づき、「相手が欲している事は何だったのだろうか?ホントにそれを満たす提案にするには今のものをどう改善すればよいだろうか?」と考えるようになると思うのです。

ポジティブな言葉で自らに語りかける
逆境に出会うと、どうしても「もうダメかもしれない」というマイナスな言葉が口にでてきます。  マイナスの言葉を使うな。プラスの言葉を使え。ってホント? でご紹介した「でも」を上手に使っていきましょう。


困難に立ち向かう

逆境時には、「困難」と感じるような、今までに乗り越えたことがない課題をクリアしていく必要があります。
人が困難に直面した時のパターンを4パターンとしてこの本は紹介しています。
1.過去に逃げる
2.未来の空想にふける
3.誰かが助けてくれるのをじっと待つ
4.困難に立ち向かい、ピンチをチャンスに変える


4が素直に行動できるようになりたいものです。
もう一押しする
私達は、成長していくには閾値をクリアしていくしかありません。
閾値を超えるまでの努力は、努力と成果が比例しない状況。砂を噛むような状況だったりします。(閾値越えに関しては]成功する為に、成功本は役に立つのか? でご紹介)

閾値を超えるまでの、最後の1歩を踏めば、大きく成長するのに、最後の1歩を踏む前に諦めてしまって、うまくいかないというケースが多々あります。


例えば、人を惹き付け力強いプレゼンを実現する~プレゼン直前7つの心得 でも述べた、「4度目のアプローチで、初めて成果が生まれる」などという話もその例です。


閾値を超えるまでは、大変。だけど、押して押して、もう一押しやってみましょう。


共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。