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ソーシャルワーカー 「グリーフケア」を語る

緩和医療で注目を集める「グリーフケア」とは何か?
1.グリーフとは何か
「悲嘆」という言葉では片付けられない
 グリーフは、日本では「悲嘆」と訳されることが多いのですが、これだと「悲しみ嘆くこと」といった意味になります。しかし実際、家族などを失った方にとっては、悲しみだけではないことが多いのです。たとえば、医療事故で夫を失ったとしたら、悲しみよりも怒りが爆発するかもしれません。夫が病院でがんで亡くなり、奥さんが家に帰ったとき、収入がないにもかかわらず3人の子どもを育てなければならない、という現実に直面するかもしれません。家で一人になったとき、喪失感がどっとあふれて、空虚な気持ちになるかもしれません。新婚早々の女性ががんと宣告されたら、自分が夢描いた新婚生活と違うものとなり、将来に対する喪失感、失望感が生まれるかもしれません。どんな強い感情であっても、これらすべては喪失に対する当たり前の反応です。
 このように、日本語の「悲嘆」という言葉ではとても片付けられない、いろいろな複雑な気持ち・反応を、グリーフという言葉で総称しているのです。ですから、私は、なるべく、そのままグリーフという言葉を使ったうえで、付属の説明をするようにしています。
 グリーフとは喪失に対する感情であって、喪失は死別だけではありません。たとえば、子どもを持たず、ペットを子どものようにしている家庭も増えました。そのペットを失うこと、いわゆるペットロスについても身内の死別と同じくらい影響がある、という研究報告もあります。事故で手足を失ったり、脳の機能を失うことも、喪失です。また、それに関係しますが、アルツハイマー病の場合、その本人の外見は同じであっても、内面は変わっていく。死亡するわけではないのですが、自分の知っている人物ではなくなっていくことに喪失感を感じることもあります。
 グリーフには、こうした現在進行形の喪失感、予期される悲しみや喪失も含んでいることが多いです。また、がんやエイズだけでなく、あらゆる病気や事故、そして失業、離別など社会的な喪失も対象となります。最近、アメリカでは認知症に対するグリーフケアも増えています。今後、認知症の問題は日本でも大きくなるのではないでしょうか。
グリーフワークは日常生活のリハビリ
 グリーフワークとは、失ったものは失ったとして現実に受け入れるまでの過程のために必要な作業のことです。
 それに関して歴史的には、キューブラー・ロスの提唱した「死の受容への5段階」(否認と孤立→怒り→取り引き→抑うつ→受容)があります。この考え方は社会に衝撃を与えましたが、現実はそのようにステージで乗り越えられるものではない、と思っています。現実を否定したり、怒りを感じても、精神的な山・谷を乗り越えて日常生活を送らなくてはならない。言い換えれば、精神的な山・谷があって生活を送れるようになることが、グリーフワークなのだろうと思います。
 また、それに関して、私は「日常生活の中でリハビリをしていこうね」と、よく言います。たとえば、道を歩いていて、この喫茶店には一緒によく行ったな、と思い出す。そのときに心の準備ができていないと、感情があふれてきてしまい、あふれる涙に心が動揺する。ですが、それがわかっていれば、たとえばこの喫茶店のところに来たら涙が出る、と予測もできます。時間がたてば、「懐かしいな」と逆に温かい気持ちになるかもしれません。そのようにして、悲しみに押しつぶされないで生活できるようになる。これが1つのリハビリ作業ではないかと思って、グリーフワークというより「リハビリ作業」と説明することがあります。
背景に少子化やネットが
 最近、グリーフというもの、あるいはグリーフケア、グリーフワークが注目されるようになった背景には、やはり少子化があります。また、インターネットや携帯電話の普及で、自分の気持ちを家庭内や友達に表出することが少なくなった、という背景もあります。
 昔は大家族で、生と死が身近にありました。しかし今では、40歳代になっても、その両親が生きていて、死別の経験がない。そのため、死がどんなものかわからない人がすごく多い、という印象があります。また、一人っ子であったり、親との関係で“いい子”でいないといけない人では、自分の気持ちを表出するという過程が押しつぶされていて、あまり話をしなかったり、どうやって助け合ったらよいかわからないことも多いです。
 また今は、ネットや携帯電話でのチャットやショートメッセージなど、本当にたわいもない会話が文字化していて、その奥に隠れた気持ちが出ていません。たとえば、ご遺族の方と会って顔を見て「元気ですか」と話すのと、メールで「元気?」というのでは、意味合いがぜんぜん違っています。実際にご遺族に会って、元気でない様子を見れば「ご飯、食べてますか」と聞いたりします。しかし、ご遺族だからと単純に「元気ですか」とメールをしても、相手は答えようがない。ご遺族は元気なわけはないのですが、メールを送ってくれた人に失礼だからと「元気です」と答えてしまう。このように、メールなどでは、本音で話せないことが多いのです。
 メディアが増え、情報も多くなりましたが、現実的でない情報も多いと思います。たとえば、いわゆる受験戦争を経験した私たちくらいの世代は、何が正しいのだろうかと、どうしても答えを求めます。がんについてもテレビで見る情報を当てはめて、自分の場合はそうでないからおかしいのではないかと思って、それがストレスになってしまうのです。また、メディアで多くの情報が出ていても、病気については体験するまでわからないことがあります。

2.日本と外国の違い
グリーフは世界共通
 私は、主としてアメリカのオレゴン州、オーストラリアで臨床、教育を受けてきましたが、グリーフについてのケア環境は世界共通だと思います。個人のグリーフ反応も同様です。家族を亡くして悲しむのは当然ですし、がんになって、現実を否定することも当然あります。強い衝撃を簡単に受け入れることはできないものです。
 アメリカでは、私はソーシャルワーカーとして在宅のホスピスに携わり、主治医から紹介を受けたがん患者さん宅に看護師とともにお伺いして「今日から在宅緩和ケアが始まりますよ」と伝えたその場で、その患者さんから「いやだ」と言われるなど、現実を受け入れられない人も多くいました。がんだけではなく、医療一般においてアメリカでは告知しなければならないことになっていて、インフォームド・コンセントがしっかりしているから、アメリカ人は受け入れ度が高いだろうといわれますが、それは簡単なことではありません。やはりどんなに情報があっても、自分の現状を受け入れられない人はいます。この病の現実を受け入れる困難な点については世界共通であると感じます。
 ただし、医療従事者がグリーフの問題をどうとらえているかという点では、日米に違いがあると思います。アメリカの場合は、家族のケア、患者本人の心理的アセスメントなどを行うために、ソーシャルワーカーが各病棟に必ず配置されていて、その給与は医療保険のメディケア(Medicare)から出ています。また、医療従事者自身も、患者本人・家族の精神的な健康に喪失がいかに影響するか、すごく理解しています。だからこそ、政府がソーシャルワーカーに支援しているのだと思います。このように、政府の理解と支援があるという現実がアメリカをはじめ、欧米諸国との特徴であり、違いではないでしょうか。
エビデンスはあるか
 その日米の違いに関して、「日本では、ソーシャルワーカーの給与は誰が払うのだ?」と聞かれることがあります。グリーフに関してもソーシャルワーカーの重要性について訴えていくしかないのですが、その成果はデータに残りづらいものです。たとえば、同じように夫を亡くした主婦のデータであっても、夫が亡くなることを予期できた妻、と突然亡くした妻ではスタートラインが異なりますし、また、それぞれの環境で求めるサポートも異なります。しかし、グリーフケアという視点でいえば、それぞれが援助を受けながら自らの喪失を受け入れる過程で、それぞれの目的やゴールを再発見できれば、それで成果があったといえます。グリーフケアに関しては、こうした複雑性からなかなか研究も進められないのが現実です。
 アメリカにおいても、エビデンスは重要であるとされていますし、実際に周知されているエビデンスもあります。たとえば、告知がちゃんとなされていたり、現実を理解している人たちが、死別後にどのような反応をするかという臨床データがあります。それに基づくと、告知を受けているグループ、家族全員が現実を理解しているグループでは回復が早いのです。
ダギーセンターとの出会いは一番大きなこと
 私は、アメリカのオレゴン州でダギーセンター(注1)という施設と出会ったのが、これまでの自分のキャリアで一番大きいことだと思っています。その運営理念はグリーフという感情は病的ではなく、当たり前のものであるから、ダギーセンターは死別を体験した子どもや家族が安心して気持ちを発散できる安全な環境を提供し、それぞれの思いを発散し、現実に向き合う過程の援助をすることです。ここでは病的な扱いをしないので、スタッフが参加者にカウンセリングを行うことは決してありません。あくまでも本人が本人にあった方法で喪失と向き合うことを促す、私もその援助方法に同感です。グリーフは病気ではないし、自分が大切にしていた人を亡くせば、落ち込んで当然なのです。
 ここでは、主役は子どもたちであり、子どもが「来たい」と言えば来て、「やめたい」と言えばやめられます。そこにいる期間も特に決まっていないので、長い子どもは5年くらい、早い子どもは1年くらいで卒業していきます。
 ダギーセンターでは、たとえば3~5歳のグループ、6~11歳のグループ、12~15歳のグループ、15歳以上のグループといったように年齢で分かれます。また、死の種類により、がんのグループ、突然死のグループ、自死のグループ、事件的なもののグループといったように分かれます。同じような体験をした人たちが同じグループに参加できるよう、振り分けられます。グループのみんなが輪になって座り、亡くなった人の好きだった食べ物の話をしましょうといったように、いろいろなテーマで話をします。がんのグループでは、「治らない病気だよね」と大人のように語る子どももいます。また、「そっちは何がんだったの?」と、子ども同士が話したりしています。そうやって、子どもたちは自分で情報を吸収し、前に進んでいくのです。
 遊ぶ部屋、絵を描く部屋など、さまざまな部屋がありますが、外で遊ぶ子どももいます。また、子どもたちにはトレーニングを受けたボランティアが付いていて、サポートしています。たとえば、絵を描いている子どもだと、亡くなったお母さんに対する手紙を書き出したりすることがあり、ボランティアがフォローします。
 私は6年間、ダギーセンターで多くの子どもたちや家族が他者からの援助ではなく、自分自身の方法で現実を受け入れ、新たな一歩を踏み出す姿を目の当たりにしました。ある子どもは「今日、学校で、『母の日』なので絵を描きなさいと言われたけれども、描けなかった」と言っていました。子どもであろうが、年齢に関係なく悲しいことはある。そうやって子どもたちも日々の生活の中で、悲しみとともに生きるためのリハビリをしているのだとわかり、逆に勇気をもらうこともありました。また、グリーフについては、そのように自分で向き合ってこそ前に進めるし、立ち直ることができるのだ、と思いました。
3.グリーフに関する教育
オレゴン州の現状
 世界的に見ても、医学をはじめとする医療教育の中にグリーフについての授業はほとんど入っていません。アメリカでも必修化の議論や実践が開始されているのは、最近のことです。
 私のいたアメリカのオレゴン州は尊厳死が認められているなど、アメリカの中でも異端的な扱いを受ける州です。また、在宅死が50%を超えていて、アメリカでは最も在宅死の多い州となっています。
 私は、オレゴン州でソーシャルワーカーの仕事の一つとして在宅のホスピスに関わりましたが、そこでは「心臓マッサージをしません」「抗生物質を使いません」「胃瘻をしません」といったことに関して、とことん話し、サインをしてもらいます。また、オレゴン州では、患者さん自らが尊厳死について聞いてきます。意識が高い州の文化は医学部教育にも影響があるようで、オレゴン州では数年前から、医学部1年生の最初の授業は告知の練習から始めることになったと聞きました。
オーストラリアで学んだこと
 私はオーストラリアにも臨床留学しましたが、メルボルンでは一昨年、認知症患者向けの緩和医療の技術を上げるためのプロジェクトを行っていました。老人は、自然と体の機能が低下します。そのような老人にむりやり食べさせたり、水を飲ませたりして、むくんで苦しい思いをさせるよりも、体の機能の低下とともに亡くなっていくほうがきれいではないか。私はオーストラリアで、現場の看護師とのかかわりを通して、そのような考え方を学びました。
 また、がんについては、ときには勝てないことがあって、命をむしばんでいくものだということも、目の当たりにしました。攻撃的な治療は、本当にいいときもあれば、家族みんなを“地獄”に落とすこともあるという現場を見てくると、真剣に患者・家族の人たちに情報をお伝えし、患者・家族を支える仕事は大事だと、強く感じました。
 
4.「患者さま・ご家族・緩和ケア相談サロン」
寄附講座で「サロン」をオープン

 平成20年4月、株式会社アインファーマシーズ(注2)による寄附講座として、札幌医科大学では緩和医療講座を開設しました。同講座は、(1)臨床、(2)研究、(3)社会貢献、(4)教育の4つを柱としています。また、その社会貢献の一環で、がんの患者さんと家族が気持ちを発散させる場所として、緩和医療学教室の中に「患者さま・ご家族・緩和ケア相談サロン」(注3)をオープンしました。私は、ここでソーシャルワーカーとして、患者・家族の相談を受けています。
 まず、その寄付金で、患者さんや家族がご利用できる図書コーナーの本を買わせていただきました。パソコンも置き、自由に使っていただくようにしています。実際、インターネットで何でもかんでもクリックしていけば、がんについての情報も得られるという時代になっていますが、古く、またバイアスのかかった情報もあります。そこで、たとえば何年から何年まで、大学による情報だけといったように、適切な情報を検索する方法をお教えし、一緒に検索したりする。その検索の方法や情報に関する教育をするために、パソコンを用意しました。スタッフが一緒に情報を探し、共有することを心がけています。

 ここに置いてある本についても、パソコンを使って患者さんと一緒にネットで探し、選んだこともあります。当初、私は、死を受け入れるといった内容の本を多く購入していたのですが、患者・家族の人たちから「暗すぎる。もっと笑える本を置いてください」と言われました。そこで、たとえば笑い、セルフケア、栄養などの本などを注文しました。そのように、ここでは患者さんが本当に求めている情報について教えていただくことが多いです。また、なるべくそれらの要望に応え、患者・家族の皆さんが主体的に使える場所にするのが、ソーシャルワーカーとしての私の役割である、と思っています。
 このサロンは、札幌医科大学附属病院の患者さんに限らず、どなたでも利用できるようになっています。ここが北海道新聞に紹介されることもあり、それを見て、遠方から利用に来られる人もいます。
 また、電話での相談にも応じていて、たとえば「主人ががんになったのだけど、他の家族はどうやって乗り越えているのですか」「自分の地域には相談できる場所がない」といった問い合わせもあります。
 私はソーシャルワーカーなので相談業務を主としているのですが、その内容が医学的なことであれば、緩和医療講座に所属する内科医にお願いし、相談に乗ってもらっています。もちろん、それも無料です。
 そのほか、患者・家族のニーズに合わせてセミナーも主催していて、現在はリンパ浮腫セミナーを開催しています。実際、相談にいらっしゃるのは結構、勇気のいることです。それよりも、何か一緒に勉強しましょうというほうが、来やすいと感じる方もいらっしゃいます。そうしたことも踏まえて、多くの方が自分に合ったサポート得られる環境づくりを目指し、個人面談やセミナーのほかにもバランスをとった企画をしたいと思っています。
今後の取り組みと展望
 現在、国が指定する「がん診療連携拠点病院」では、相談支援センターの設置が要件の一つとなっています。ですから、がんの患者さんや家族が相談できる施設は少しずつ増えていると思います。ただ、相談というよりも、いわゆる島根モデルの「がん患者サロン」のように、いろいろなところで患者・家族が話せる形がよい、と思っています。
 今後、「患者さま・ご家族・緩和ケア相談サロン」では、地域の方たちのつながりを強くするお手伝いをしたい、と考えています。ここの主役は、利用するためにいらっしゃる方たちです。それぞれのきずなを深めたり、サポートしあえるネットワークが作れるようにする。そのための教育の機会の提供などもしたい、と思っています。
 緩和ケアでも同じですが、知識を持っているのと持っていないのでは、すごく大きな違いがあります。たとえば、オピオイド鎮痛薬(モルヒネなど)が普及してきても、まだ、それに対する理解は低いものです。そこで、オピオイド鎮痛薬(モルヒネなど)とはこういうものであって、それは怖いものではないという教育も必要だ、と考えています。
 また、将来的には、病気の種類別、年齢別のグループができればよい、と思っています。
5.まとめとメッセージ
講義での姿勢
 現在、単発ですが、保健医療学部や他大学などでグリーフに関する講義をしています。グリーフとは何かといったことは、本を読んでもらえばよいのです。講義では、そういうことよりも、一つのテーマで話をして、あなたはどう思いますか、と聞きます。たとえば告知一つにしても、知識を与えるだけではなく、なるべくロールプレイなどの体験をして、実際に告知を受けるのはどんな気持ちであるか、治療がこれ以上ないといわれることについてはどう感じるか、そこで体験する感情を理解して臨床できること、を伝えられるよう心がけています。また、今の社会は家族の形もいろいろあって、母子家庭、父子家庭、混合家庭、またはまったく親戚とのかかわりがない人も増えている。自分の当たり前が他者の当たり前ではないということを理解する重要性が、とくにこれからの医療人には必要だと思います。
回復力を引っ張り出すのがソーシャルワーカー
 私はソーシャルワーカーという幅広い役割を持った仕事が本当に大好きです。グリーフケアに関して、オーストラリアにいておもしろいなと思ったことがあります。たとえば、あるホスピスでは遺された男性の遺族向けに、一人用のご飯の作り方を学ぶ会を、女性には電球の替え方という、ご主人に頼りきりだった生活の女性が普段の生活の中で体験する問題に着目した会を催していました。分かち合いの会に象徴されるグリーフケアですが、悲しみを語り合うだけではなく、生活の中で体験する問題を解決するための援助としての会でした。そしてそのような会に集まった仲間同士がそれぞれの喪失を新しいスキルを学ぶことを通して語り合う。このように、変化に適応していただこうというグリーフケアもあると、再確認しました。つまり、本当に必要な部分は、カウンセリングだけではないのです。私はソーシャルワーカーなので、役割的にもカウンセリングはしません。私は、その人の力を引き出すお手伝いだけをさせていただきたい。人それぞれが持っている潜在的な回復力、レジリエンス、を信じて、それを引き出すこと。それがソーシャルワーカーの本来の役割だ、と思っています。


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分類に成功すれば アルゴリズム抽出にも成功できそうである

経験から論理を帰納する
経験の背景にあるアルゴリズムを抽出すると言っても

経験純化のブロセスが問題である
雑多な分類でしかないことが多い

分類に成功すれば
アルゴリズム抽出にも成功できそうである

しかしどのような分類がよいのかは
直感でしかない



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経験から理論を帰納する

ヒュームの問題

発見の論理というのは長い歴史をもつ認識論上の難問である。これを最初に明確な形で提示したのはデヴィッド・ヒュームだろう:

すべての事実の逆は矛盾をもたらさず、同じ精神と明晰さで認識できるので、つねに可能であり、事実と同じように想定できる。あす太陽が昇らないだろうという命題は、それが昇るだろうという肯定命題と同じく意味があり、矛盾も生じない。だからそれが誤っていることを証明しようとするのは、無駄な試みである。(『人性論』第4部第21節)

きのうまで太陽が昇ったことは、あすの朝おなじようにそれが昇ることをまったく保証しない。たとえ歴史上、一度も例外がなかったとしても、あすがその例外になる可能性は否定できない。どのように多くの経験からも、理論を帰納するロジックは存在しないのである。このパラドックスは単純だが強力で、カントをして「独断のまどろみ」から目覚めたといわしめ、いまだに解決した人はいない。
逆にいうと、経験から理論が帰納できないとすると、われわれの認識はすべて独断だということになるが、まさかそうもいかないから、そこには人々に共有される意識があるのだろう。これをカントは超越論的主観性とよび、フッサールやメルロ=ポンティは間主観性と呼んだが、こう言い換えてみても実態が明らかになったわけではない。

ただ、いかにも科学基礎論のようにみえるカントの観念論より、ヒューム的な懐疑主義のほうが科学の発展に貢献したことは興味深い。エルンスト・マッハはヒューム的な感覚一元論を物理学にも持ち込み、ニュートン力学の基礎になっている絶対空間の概念は感覚的に検証不可能な形而上学だと批判した。これを読んだアインシュタインが相対性理論の着想を得たことは有名なエピソードである。彼はマッハへの追悼文でこう書いている:

私の仕事にとってマッハとヒュームの仕事が非常に助けになった。マッハは古典力学の弱点を認め、半世紀も前に一般相対性理論を求める直前まで行っていた。彼が光速の一定性が論争になっている時期に生きていたら、マッハこそが相対性理論を発見したであろう。

マッハは楽譜の例をあげて、ある旋律をすべて半音ずつ上げて演奏しても、ほとんどの人には違いがわからないだろうと論じている。これを彼は時間形態(ゲシュタルト)と呼び、これがのちのゲシュタルト心理学の出発点となった。音楽を成立させているのは一つ一つの音符ではなく、それらを時間的に結びつけている「ゲシュタルト質」なのである。

ところがその後の科学哲学は、命題→演繹→検証→帰納→理論というサイクルで科学が発展するという論理実証主義が主流となり、これにポパーの「反証主義」が対立した。ポパーはヒューム的な懐疑主義にもとづいて、いくら実験で命題を検証しても、その反例が出ない保証はないと批判し、理論が科学かどうかは反証可能性によって担保されると主張した。

しかし、ある反例が理論を否定するかどうかも自明ではない。有名な例としては、地動説に対する反証として「年周視差」が観測されなかったという事実がある。年周視差とは、地球が公転しているとすれば、遠くの恒星の見える角度が季節によって変わるはずだというものだが、16世紀の望遠鏡では観測不可能だった。つまり、ある観測や実験がパラダイムを反証するかどうかもそのパラダイムに依存するわけだ。

他方、前のプランクの例のように、古典力学と明らかに矛盾する反例が見つかっても、それがすぐ放棄されるわけではない。世界中の物理学者が依拠しているパラダイムを否定するには、それに代わる新しいパラダイムが必要だからである。要するに科学も宗教も、カトリックやプロテスタントといった教義(パラダイム)を共有した上でしかコミュニケーションが成立しないという点で本質的な違いはなく、ただ事実を観察していれば新しい発想が生まれてくるということはありえないのだ。

事実から仮説を帰納するアルゴリズムが存在しないというヒュームの問題は、近代哲学の最大の難問である。アブダクションはそれに対する解答の試みだが、成功とはいいがたい。たぶんタレブもいうように、そういうアルゴリズムがあるはずだと考えること自体が間違いなのだろう。

しかしアルゴリズムがないと考えるのは人間の脳の原則に著しく反しているので、考えにくいのだが、考えにくいのは単に脳の習慣である。

事実の背後にあるアルゴリズムを私は求め続ける。
アルゴリズムがあると仮定すること自体が誤りなのだと言われても
これだけはやめられない

私はこのようにして考えてきたのだし、このようにして生きてきたのだ
いくつもの事実の背後にある隠されたアルゴリズムを求め続けている
医学の基本部分は素朴実在論的である

宇宙論や素粒子論ではどのようなアルゴリズムが可能であるのか、今ひとつ、自信が持てない
しかしいま私が取り組んでいる脳の原則については
ここ200年ほど成功してきたアルゴリズム探求が成功しそうな気がするのだが

わたしにしてみれば、ローレンツにならい、
超越論的主観性も間主観性も超越論的直感も
要するに脳の共通構造なのだと考えられる

ーー
世界が一定の振る舞いをするのは
脳の解釈が一定だからとも言えるのだ








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エスキモーのセックス

これは大正時代の本に書いてあったことだ
そもそも最近はエスキモーといわずイヌイットとかいうような気がする
そんな古い時代の考察である

エスキモーの生活は何といっても寒い

彼らは大便小便に際してためらわず短時間ですませることが必要である
ためらっているうちに凍ってしまう
外部に露出している部分が凍傷になってしまう
だから我慢するだけ我慢して
一瞬のうちに排泄できるところまで調節する

これは単調で快楽の少ないエスキモーの生活の中の、
数少ない快楽のひとつである
いかにしてぎりぎりまで我慢して感覚を高めるか
すべての人が関心を持ち新しい方法や古い呪文を披露し合っているのである

また性生活についても類似のことが言える
性生活においていたずらに延長するのは命取りになりかねない
早くすませることが大切である
前技も後技も局部の露出を伴わない方法が工夫されている

淡泊であればたいへん都合がいいのだが
そうでもない人は局部露出を最小時間とし
最大快感が得られるように工夫する

この方法については
便意をコントロールする方法とある程度類似していて
日々改良が重ねられている

まこと環境は人を磨くのである

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過剰な期待と失望

人間は自分の人生について
過剰な期待と
過剰な失望と
両方を順番に経験するものだと思う

このゆれが少ないのは現実把握のいい人で
揺れが大きいのは夢を見がちな乙女さんだと思う

期待と失望は最初は親との間で形成される

親が60位を要求して70位を達成すれば、今後のことにも期待が持てると、みんなで意気込む
達成が50にとどまれば、あまり要求してもいけないのだと、失望感が広がる

これが人生の最初の成功・挫折の体験だろう

このあたりから始まって
目標と達成と挫折を反復する

しばらく生きていくうちに自分の癖が分かってくる

目標が高すぎる人、低すぎる人、
成功を夢見すぎる人、挫折を恐怖する人、いろいろだ

名家に生まれた人は期待が大きくてなかなか大変である
何でもない家に生まれた人は期待は一ヶ月くらいで期待もなくなるから気楽でもある

優秀な人たちは自分について小さな成功では喜べないこともある
また周囲の人についても小さな成功を褒めてあげられない場合がある

優秀な親というものは子どもにとって難物である

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西郷山公園で桜

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代官山から歩いたと思う
このあたりを通って目黒川の桜まで歩く

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プラチナ通り ケーキ屋さん

Lettre d'amour にてショートケーキ二個購入。
とっても生な感じのケーキでした。
チョコ味のほうがおいしかった。
それにしても、これで経営が成り立つのだろうかと
心配になるくらいきれいかつ静謐なお店。
さすが白金ですねえ。



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かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕の下を 水の流るる

かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕の下を 水の流るる
吉井勇

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傍観を良心として生きし日々青春とよぶときもなかりき

傍観を良心として生きし日々青春とよぶときもなかりき

国論の統制されていくさまが水際立てりと語り合ふのみ

近藤芳美



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原発関係

http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html

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佐藤栄佐久・前福島県知事が告発 「国民を欺いた国の責任をただせ」

週刊朝日 3月30日(水)17時56分配信

福島第一原子力発電所の事故は周辺の土壌や海水からも大量の放射能が検出され、世界を震撼させる事態となっている。原発の安全性に疑問を持ち、一時は東京電力の原子炉17基をすべて運転停止に追い込んだこともある佐藤栄佐久・前福島県知事(71)はこう憤る。「諸悪の根源」は経済産業省であり国だ──。

 今回の事故の報道を見るたびに、怒りがこみ上げてきます。一部の識者は「想定外の事態だ。これは天災だ」というような発言をしていましたが、だまされてはいけません。これは、起こるべくして起こった事故、すなわち“人災”なのです。

 私は福島県知事時代、再三にわたって情報を改ざん・隠蔽する東電と、本来はそれを監視・指導しなければならない立場にありながら一体となっていた経済産業省に対し、「事故情報を含む透明性の確保」と「原発立地県の権限確保」を求めて闘ってきました。しかし、報道を見る限り、その体質は今もまったく変わっていないように思います。

 端然とした表情で語る佐藤氏の自宅は福島県郡山市内にある。地震から2週間以上経過した今も石塀は倒れたままになっているなど、爪痕が生々しく残る。もともとは原発推進論者だったという佐藤氏が日本の原子力政策に疑問を抱き始めたのは、知事に就任した翌年の1989年のことだった。

 この年の1月6日、福島第二原発の3号機で原子炉の再循環ポンプ内に部品が脱落するという事故が起きていたことが発覚しました。しかし、東電は前年暮れから、異常発生を知らせる警報が鳴っていたにもかかわらず運転を続けていたうえに、その事実を隠していました。県や地元市町村に情報が入ったのはいちばん最後だったのです。

 いち早く情報が必要なのは地元のはずなのに、なぜこのようなことがまかり通るのか。私は副知事を通じ、経産省(当時は通商産業省)に猛抗議をしましたが、まったく反応しませんでした。

 日本の原子力政策は、大多数の国会議員には触れることのできない内閣の専権事項となっています。担当大臣すら実質的には役所にコントロールされている。つまり、経産省や内閣府の原子力委員会など“原子力村の人々”が政策の方向性を事実上すべて決め、政治家だけではなく原発を抱える地方自治体には何の権限も与えられていないのです。

 国や電力会社は原発に関して、地元自治体を「蚊帳の外」にしただけではないという。佐藤氏が「8・29」と呼ぶ事件がある。2002年8月29日、原子力安全・保安院から福島県庁に「福島第一原発と第二原発で、原子炉の故障やひび割れを隠すため、東電が点検記録を長年にわたってごまかしていた」という恐るべき内容が書かれた内部告発のファクスが届いたのだ。

 私はすぐに、部下に調査を命じました。だが、後になって、保安院がこの告発を2年も前に受けていながら何の調査もしなかったうえに、告発の内容を当事者である東電に横流ししていたことがわかったのです。

 私の怒りは頂点に達しました。これでは警察と泥棒が一緒にいるようなものではないか。それまで、東電と国は「同じ穴のムジナ」だと思っていましたが、本当の「ムジナ」は電力会社の奥に隠れて、決して表に出てこない経産省であり、国だったのです。

 この事件で、東電は当時の社長以下、幹部5人が責任をとって辞任し、03年4月には、東電が持つすべての原子炉(福島県内10基、新潟県内7基)で運転の停止を余儀なくされました。

 しかし、保安院、経産省ともに何の処分も受けず、責任をとることもありませんでした。

 それどころか、福島第一原発の所在地である双葉郡に経産省の課長がやってきて、「原発は絶対安全です」というパンフレットを全戸に配り、原発の安全性を訴えたのです。なんという厚顔さでしょうか。

 今回の事故でも、記者会見に出て頭を下げるのは東電や、事情がよくわかっていないように見える保安院の審議官だけ。あれほど、「安全だ」と原発を推進してきた“本丸”は、またも顔を出さずに逃げ回っています。

 さらに、佐藤氏は3月14日に水素爆発を起こした福島第一原発3号機で、「プルサーマル」が行われていたことに対し、大きな危機感を持っているという。

 なぜメディアはこの問題を大きく報じないのでしょうか。「プルサーマル」とは、使用済み燃料から取り出したプルトニウムとウランを混ぜたMOX燃料を使う原子力発電の方法で、ウラン資源を輸入に頼る日本にとって、核燃料サイクル計画の柱となっています。

 これに対して私は98年、MOX燃料の品質管理の徹底をはじめ四つの条件をつけて一度は了解しました。

 しかし、判断を変え、3年後に受け入れ拒否を表明することになりました。

 福島第一とともにプルサーマルの導入が決まっていた福井県の高浜原発で、使用予定のMOX燃料にデータ改ざんがあったと明らかになったからです。

 そして、核燃料サイクル計画には大きな欠陥があります。青森県六ケ所村にある使用済み燃料の再処理工場は、これまでに故障と完成延期を繰り返しており、本格運転のメドがたっていません。この工場が操業しない限り、福島は行き場のない使用済み燃料を原子炉内のプールに抱えたままになってしまう。今回の事故でも、3号機でプールが損傷した疑いがあります。これからも、この危険が残り続けるのです。

 昨年8月、佐藤雄平・現福島県知事はプルサーマルの受け入れを表明し、30日には県議会もこの判断を尊重するとの見解をまとめました。このニュースは県内でも大きく報じられましたが、その直後、まるで見計らったかのように、六ケ所村の再処理工場が2年間という長期にわたる18回目の完成延期を表明したことは、どれだけ知られているでしょうか。

 福島第一原発の事故で、首都圏は計画停電を強いられる事態となっています。石原慎太郎・東京都知事は00年4月、日本原子力産業会議の年次大会で、「東京湾に原発をつくってもらっても構わない」と発言しましたが、この事態を見ても、同じことを言うのでしょうか。

 私は06年に県発注のダム工事をめぐり、収賄の疑いで東京地検特捜部に逮捕されました。控訴審では「収賄額はゼロ」という不思議な判決が出され、現在も冤罪を訴えて闘っている最中です。その経験から言うと、特捜部と原子力村の人々は非常に似ています。特捜部は、自らのつくった事件の構図をメディアにリークすることで、私が犯罪者であるという印象を世の中に与え続けました。

 今回の事故も重要な情報を隠蔽、管理することで国民を欺いてきたと言えるでしょう。今こそ国の責任をただすべきときです。 (構成 本誌・大貫聡子)

さとう・えいさく 1939年、福島県郡山市生まれ。東京大学法学部卒業後、88年に福島県知事に初当選。06年、収賄容疑で東京地検特捜部に逮捕された。09年、一審に続き、控訴審でも懲役2年(執行猶予4年)の有罪判決が出されたが、「収賄額はゼロ」と認定され、実質上の無罪判決となった。現在、上告中。著書に『知事抹殺』(平凡社)がある

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 プルサーマル計画大詰め 佐藤栄佐久前福島知事に聞く  【国民関与の仕組みを 再処理工場操業が前提】

    福島県の東京電力福島第1原発(大熊町、双葉町)と宮城県の東北電力女川原発(女川町、石巻市)でのプ
   ルサーマル計画をめぐる議論が、両県で大詰めを迎えている。福島県は1998年、全国で初めてプルサーマル
   の受け入れを表明し、2002年に撤回した。当時の知事で、国の原子力政策に地方から警鐘を鳴らし続けた佐
   藤栄佐久氏に、原子力と地域とのかかわりなどを郡山市の自宅で聞いた。

   ――知事時代、原子力をめぐって感じたことは。
    「端的に言えば、隔靴掻痒だ。大事な問題に県や立地自治体は関与できない。国は本当に無責任なところ
   がある。福島第1原発の使用済み核燃料貯蔵プールの設置を93年に認めた際、国は2010年には、青森県六
   ヶ所村の再処理工場に続く第2再処理工場が稼動し、燃料は搬出されると約束したが、1年後に覆した」
   「六ヶ所村の再処理工場でさえ、まだ本格操業されていない。『廃棄物処理は福島と青森で相談すればいい』
   と放言した通産省(当時)の課長すらいた」

   ――では、いったんなぜプルサーマルを受け入れたのか。
   「不信感は常に底流にあったが、廃棄物処理をめぐる法整備を国に強く求め、約束を取り付けた。それなりに対
   処してくれたので、プルサーマル用のプルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料の品質管理徹底など4項目
   を条件に認めた」

   ――02年に白紙撤回するまでの経緯は。
   「99年の燃料データ捏造に始まり、茨城県東海村の臨界事故、再処理工場の度重なる計画延期、01年の東
   京電力の一方的な電源開発凍結宣言…。結局、4項目の条件は一つも守られなかった。とてもプルサーマル
   を実施する状況ではなく、02年の東電の原発トラブル隠し発覚で大爆発した」

   ――プルサーマルを今、どう考えればいいのか。
   「原発の問題を県と電力の間の約束にしては駄目だ。国を引っ張り出さなければならない。使用済みMOX燃料
   をいつどう処理するのか、国が明確に示さないと、福島県が捨て場所になる」
   「原子力政策はいまだに政府の専管事項。国民や国会議員がもっと関与できる形にする必要がある。政権が
   交代した今こそ民主的な決定システムに変える好機。福島県が積極的に提言していくことが重要だ。急いで
   結論を出す必然性はない。せめて再処理工場が本格操業し、行方を見極めてからでいいのではないか」

   ――国などの取り組みに対する評価は。
   「95年に事故を起こした『もんじゅ』を、また動かすという最近の結論をみても疑問が残る。原子力安全・保安院
   を経済産業省から分離していないという問題もある。分離は原子力の安全を語る際の大前提だ」
   「原子力をどう扱うかは、その国の民主主義の尺度となる。原子力政策は国民が決定に絡み、了解しないと動
   かない。押しつけでは国民的合意が出てこない。最終処分場の問題が非常に難しくなっているのは、そこに原
   因がある」(平成22年2月14日付河北新報掲載)
 


 さらにに佐藤栄佐久氏の公式サイトには2009年11月 8日、12日に「経産省からの保安院の分離とプルサーマル推進は全く別の問題である」という長文の記事がありました。

 佐藤栄佐久氏が国の原発行政に知事として異議を唱えていたのは、なんとしても原発を推進したい経済産業省と万一の事故から住民の安全を守るはずの原子力安全・保安院が分離してないからです。原子力行政もまたエセ民主主義の官僚”お手盛り”自由主義世界なのですね。
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 私は浜岡原発で5年間余り働いていたのだが、原子力発電所で働いていた経歴は浜岡だけではなく、その前にも30歳代の頃、昭和50年代に10年間近く原発の仕事に携わっていたことがあります。その当時はある特定の現場で働いていたわけではなく、定検工事で各地の原発を渡り歩いていた。最近ではそのような人々のことを「原発ジプシー」と、いくらかの侮蔑を込めて呼ぶそうだが、その頃まさに私はそのような生き方をしていたのだった。

 ジプシーのような浮き草のような生活を始めて2年目のこと、佐賀県にある玄海原子力発電所で働いている時に、原子炉の炉心部に入ることになった。炉心部とは、ウラン燃料を燃焼させる場所である。核反応を引き起こし、その膨大なエネルギーでタービンを回転させて電気をつくるのだが、ウラン燃料を燃焼させる場所だから、他とは比較にならないぐらいの高放射線エリアである。そこに入って、原子炉内の傷の有無を調べるロボットを取り付けるのが、私に与えられた仕事だった。

 実は、その日、原子炉内に入ってロボットを取り付ける作業は他の人が受け持っていた。そして取り付けは完了したのだが、ロボットが外部からの操作に反応しないというアクシデントが起こった。炉内の壁面には無数の小さな穴が等間隔に開いていて、その穴にロボットの6本(だったと思う)の足が入り、遠隔操作で移動する仕組みになっている。しかし、どうも足が完全に正規の位置に入っていないようだというのが、取り付け作業を監督する立場にある社員たちの結論だった。

 足が完全に入っていない状態だというのが本当なら、そのまま放置しているといつ落下してもおかしくない。落下すると、数千万円と言われている精密機械が破損することになる。だから、そうなる前に正規の位置にロボットをセットするために私が急遽入ることになったのだ。原子炉近くのエリアで、炉心に入るための装備の装着を始めた。装着するために、2名の作業員が手伝ってくれた。すでに作業着は2枚重ねて着ているのだが、その上から紙製、ビニール製のタイベックスーツを着用し、エアラインマスクをかぶり、首の部分、手首の部分、足首の部分など少しでも隙間の生じる恐れのある個所を、ビニールテープでぐるぐる巻きにされた。

 まるで宇宙服のような装備の装着が完了すると、炉心部に向かった。炉心部周辺に到ると、そこに2名の作業員が待機していた。日本非破壊検査という会社の社員たちだったが、驚いたことに、高放射能エリアだというのに彼らはごく普通の作業着姿だった。マスクさえ付けていないのだ。その中の責任者らしい人物が私を手招いた。彼はマスクの中の私の目を見たあと、大きくうなずきを繰り返した。私の目を見ることによって、炉心内の作業に耐えられるかどうか判断したのだろう。

 その彼と共に原子炉に近づいた。この時に初めて原子炉本体を目にしたのだが、直径3メートルほどの球形もしくは楕円形をしていて(原子炉の大きさには記憶違いがあるかも知れない)、私たちの立っているグレーチングよりも少し高い位置にあった。原子炉の底部は私の肩ぐらいの高さだったから、1・5メートル弱といったところだろうか。その底部にマンホールがあった。マンホールは開いていて、そこから中に飛び込むだろうことはすぐに理解できた。

 日本非破壊検査の作業責任者は私の肩を抱き一緒にマンホールに近づいた。マンホールの入口ぎりぎりまで顔を近づけ、見上げるようにして中を覗いた。内部は薄暗く空気が濃厚によどみ、まるで何か邪悪なものでも住み着いているような印象を受けた。私の表情はこわばった。かすかに恐怖心を抱いたのだ。マンホールに近づくに連れて耳鳴りが始まり、入るのを拒否しているように感じられた。内部を覗き目を凝らしてみると、社員の指差す壁面にロボットが取り付けられていた。その取り付け方が不完全なので私が入ることになったのだ。しかし、内部は何とも不気味な雰囲気が漂い、この場から逃げ出したいのを必死でこらえていた。いくら嫌でも、入るのを拒否できる立場ではなかった。

 探傷ロボットの形状は一辺が40センチほどの正方形で、厚みが20センチぐらいだろうか。「蜘蛛型ロボット」と呼ばれていた。日本非破壊検査の社員はマンホールの入口間際まで顔を近づけるというか、どうかすると内部に顔の3分の1ぐらい差し入れて覗き込んだりして、熱心に私に説明している。この頃はまだ、労働者の放射線の危険に対する認識がかなり好い加減な時代だったが、一緒に内部を覗きながら私は、この社員さんの大胆な行動を危惧したものだった。

 彼は平然と覗き込んでいるが、恐怖心は湧いてこないのだろうかと思ったものだった。私の装備はほぼ完全な状態だったが、彼は半面マスクさえも装着していなかったのだ。最近の話になるが、ほんの数年前のこと、浜岡原発で非破壊検査の仕事を長くしていた労働者が顎のガンにかかった。彼の同僚たちは、放射線を浴び続けることによってガンに侵されたのだろうと噂しあったが、中部電力は浜岡原発での作業とガン発症の因果関係を認めようとしなかった。それに同僚たちも、後難を恐れて彼の病が原発での作業ゆえという発言を控えた。中電に睨まれるのを嫌ったのだ。

 この人は裁判に持ち込んで闘ったが、結局、裁判にも破れ、顎から絶え間なく血を流しながら無念の思いを抱いたまま死んでいったと聞いている。この事例を取り扱った静岡市の鷹匠法律事務所の大橋昭夫先生は、あの件はいま考えても浜岡原発内での作業が原因だったと確信を持っていると、悔しそうな表情で語っていました。30年も昔のこと、初めて炉心に入る私のために、マンホールに顔を近づけて説明してくれていた日本非破壊検査の社員さんの顔面には、目に見えない放射線がいっぱい突き刺さっていたに違いなかった。私よりもいくらか年上の人でしたが、もう生きていないのではないだろうかと、この文章を書きながら思ったものでした。

 炉心内部での作業の説明を詳しく受けたあと、いよいよ入ることになった。マンホールの真下に踏み台が置かれ、マンホールの斜め下にしゃがんで待機している私に対して、非破壊検査の社員が大きくうなずいて合図を送った。私は立ち上がると、頭を低くして踏み台に上がり、体を伸ばして上半身をマンホールの内部に突っ込んだ。その瞬間、グワーンという感じで何かが襲いかかり、頭が激しく締めつけられた。すぐに耳鳴りが始まった。恐怖と闘いながらマンホールの縁に両手を置き、勢いをつけて内部に全身を入れた。耳鳴りがいっきに激しくなった。

 ある作業員は、炉心に飛び込んだ直後に蟹の這う音を聞いたらしい。「サワサワサワ・・・・」という、まるで蟹が這っているような不気味な音は作業を終えたあとも耳元から離れなかったそうです。それどころか定検工事が終わり、地元に帰ったのちもこの音から解放されず、完全にノイローゼ状態になったとのことでした。この話を伝え聞いたあるライターが彼を取材し、体験話をヒントにして推理小説を書いたそうです。その本のタイトルは、「原子炉の蟹」。1981年出版のこの本は、その当時我々の間でかなり話題になりました。

 私の場合は蟹の這うような音は聞こえなかったが、頭を激しく締めつけられる感覚と、かなり早いテンポの読経のような響きがガンガン耳奥で響いていました。原子炉内部に飛び込むと急いで立ち上がった。勢い良く立ち上がると、ヘルメットが天井に当たった。やむなく首を傾ける姿勢をとり、薄暗い中でロボットを両手でしっかりとつかみ、「オッケー!」と大声で叫んだ。するとロックが解除され、ロボットの足が穴から飛び出た。ロボット本体は、思っていたよりも重くはない。足の位置を正確に穴に合わせ、再びオッケーと合図を送った。カチャリと足が穴に差し込まれた。うす闇の中で慎重にすべての足が穴に入っているのを確認すると、再度オッケーと叫び、あわててマンホールから外に飛び出た。

 その間、費やした時間は約15秒。私が逃げるようにマンホールから外に出ると、責任感の強い日本非破壊検査の社員は、またもやマンホールに顔を近づけてというよりも、顔の上半分を内部に差し入れてロボットの位置の確認をしていた。眼球ガンという病があれば、彼は容易くその患者となる資格を有しているように思えた。急いで炉心部から離れ、防護服を着脱するエリアに入った。防護服はいちじるしく汚染されているので、脱ぐのは慎重であった。ゴム手袋を何枚もつけた作業員がぐるぐる巻きにしたガムテープをハサミで切ってくれ、タイベックスーツと呼ばれている防護服は2名の作業員によって慎重に脱がされた。そのあとタイベックスーツは、裏返しに折りたたまれたまま素早くビニール袋の中に入れられた。タイベックスーツ内は、エアラインで空気が送れ込まれていたので比較的に涼しく、ほとんど汗をかくことはなかった。

 半ば放心状態でアラームメーターを取り出してみると、最高値を記録できる200のアラームメーターで、180余りの数値を記録していた。たった15秒の作業で、180ミリレムという信じられないような高放射能を浴びたのである。この当時は、いまと違って放射線の数値はミリレムという単位が採用されていた。いまはシーベルトという単位を使用している。この時の定検工事では1ヵ月余り作業に携わり、このあと私はもう一度原子炉内に飛び込んだ。2度目に入った時も恐怖心を克服することはできず、同じように不気味な耳鳴りも体験したのでした。

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エル・ムンド[EL MUNDO:スペインの新聞 ]2003.6.8

調査報告/原子力発電所における秘密

日本の原発奴隷


 日本の企業は、原子力発電所の清掃のために生活困窮者を募っている。 多くが癌で亡くなっている。クロニカ〔本紙〕は、このとんでもないスキャンダルの主人公達から話を聞いた。

DAVID JIMENEZ 東京特派員
 福島第一原発には、常に、もう失うものを何も持たない者達のための仕事がある。松下さんが、東京公園で、住居としていた4つのダンボールの間で眠っていた時、二人の男が彼に近づき、その仕事の話を持ちかけた。特別な能力は何も必要なく、前回の工場労働者の仕事の倍額が支払われ、48時間で戻って来られる。2日後、この破産した元重役と、他10名のホームレスは、首都から北へ200kmに位置する発電所に運ばれ、清掃人として登録された。
 「何の清掃人だ?」誰かが尋ねた。監督が、特別な服を配り、円筒状の巨大な鉄の部屋に彼らを連れて行った。30度から50度の間で変化する内部の温度と、湿気のせいで、労働者達は、3分ごとに外へ息をしに出なければならなかった。放射線測定器は最大値をはるかに超えていたため、故障しているに違いないと彼らは考えた。一人、また一人と、男達は顔を覆っていたマスクを外した。「めがねのガラスが曇って、視界が悪かったんだ。時間内に仕事を終えないと、支払いはされないことになっていた」。53歳の松下さんは回想する。「仲間の一人が近づいてきて言ったんだ。俺達は原子炉の中にいるって」。
 この福島原発訪問の3年後、東京の新宿公園のホームレスたちに対して、黄ばんだ張り紙が、原子力発電所に行かないようにと警告を発している。“仕事を受けるな。殺されるぞ”。彼らの多くにとっては、この警告は遅すぎる。日本の原子力発電所における最も危険な仕事のために、下請け労働者、ホームレス、非行少年、放浪者や貧困者を募ることは、30年以上もの間、習慣的に行われてきた。そして、今日も続いている。慶応大学の物理学教授、藤田祐幸氏の調査によると、この間、700人から1000人の下請け労働者が亡くなり、さらに何千人もが癌にかかっている。

完全な秘密
 原発奴隷は、日本で最も良く守られている秘密の一つである。いくつかの国内最大企業と、おそるべきマフィア、やくざが拘わる慣行について知る人はほとんどいない。やくざは、電力会社のために労働者を探し、選抜し、契約することを請負っている。「やくざが原発親方となるケースが相当数あります。日当は約3万円が相場なのに、彼等がそのうちの2万円をピンハネしている。労働者は危険作業とピンハネの二重の差別に泣いている」と写真家樋口健二氏は説明する。彼は、30年間、日本の下請け労働者を調査し、写真で記録している。
 樋口氏と藤田教授は、下請け労働者が常に出入りする場所を何度も訪れて回り、彼らに危険を警告し、彼らの問題を裁判所に持ち込むよう促している。樋口氏はカメラによって―彼は当レポートの写真の撮影者である―、藤田氏は、彼の放射能研究によって、日本政府、エネルギーの多国籍企業、そして、人材募集網に挑んでいる。彼らの意図は、70年代に静かに始まり、原発が、その操業のために、生活困窮者との契約に完全に依存するに至るまで拡大した悪習にブレーキをかけることである。「日本は近代化の進んだ、日の昇る場所です。しかし、この人々にとっては地獄であるということも、世界は知るべきなのです。」と樋口氏は語る。
 日本は、第二次世界大戦後の廃墟の中から、世界で最も発達した先進技術社会へと移るにあたって、20世紀で最も目覚しい変革をとげた。その変化は、かなりの電力需要をもたらし、日本の国を、世界有数の原子力エネルギー依存国に変えた。
 常に7万人以上が、全国9電力の発電所と52の原子炉で働いている。発電所は、技術職には自社の従業員を雇用しているが、従業員の90%以上が、社会で最も恵まれない層に属する、一時雇用の、知識を持たない労働者である。下請け労働者は、最も危険な仕事のために別に分けられる。原子炉の清掃から、漏出が起きた時の汚染の除去、つまり、技術者が決して近づかない、そこでの修理の仕事まで。
 嶋橋伸之さんは、1994年に亡くなるまでの8年近くの間、そのような仕事に使われていた。その若者は横須賀の生まれで、高校を卒業して静岡浜岡原発での仕事をもちかけられた。「何年もの間、私には何も見えておらず、自分の息子がどこで働いているのか知りませんでした。今、あの子の死は殺人であると分かっています」。彼の母、美智子さんはそう嘆く。
 嶋橋夫妻は、伸之さんを消耗させ、2年の間病床で衰弱させ、耐え難い痛みの中で命を終えさせた、その血液と骨の癌の責任を、発電所に負わせるための労災認定の闘いに勝った、最初の家族である。彼は29歳で亡くなった。
 原子力産業における初期の悪習の発覚後も、貧困者の募集が止むことはなかった。誰の代行か分からない男達が、頻繁に、東京、横浜などの都市を巡って、働き口を提供して回る。そこに潜む危険を隠し、ホームレスたちを騙している。発電所は、少なくとも、毎年5000人の一時雇用労働者を必要としており、藤田教授は、少なくともその半分は下請け労働者であると考える。
 最近まで、日本の街では生活困窮者は珍しかった。今日、彼らを見かけないことはほとんどない。原発は余剰労働力を当てにしている。日本は、12年間経済不況の中にあり、何千人もの給与所得者を路上に送り出し、一人あたり所得において、世界3大富裕国の一つに位置付けたその経済的奇跡のモデルを疑わしいものにしている。多くの失業者が、家族を養えない屈辱に耐え兼ねて、毎年自ら命を絶つ3万人の一員となる。そうでない者はホームレスとなり、公園をさまよい、自分を捨てた社会の輪との接触を失う。

“原発ジプシー”
 原発で働くことを受け入れた労働者たちは、原発ジプシーとして知られるようになる。その名は、原発から原発へと、病気になるまで、さらにひどい場合、見捨てられて死ぬまで、仕事を求めて回る放浪生活を指している。「貧困者の契約は、政府の黙認があるからこそ可能になります」。人権に関する海外の賞の受賞者である樋口健二氏は嘆く。
 日本の当局は、一人の人間が一年に受けることが可能である放射線の量を50mSvと定めている。大部分の国が定めている、5年間で100 mSvの値を大きく超えている。理論上、原子力発電所を運営する会社は、最大値の放射線を浴びるまでホームレスを雇用し、その後、「彼らの健康のために」解雇し、ふたたび彼らを路上へ送り出す。現実は、その同じ労働者が、数日後、もしくは数ヵ月後、偽名でふたたび契約されている。そういうわけで、約10年間、雇用者の多くが、許容値の何百倍もの放射線にさらされている説明がつくのである。

長尾光明、78歳、多発性骨髄腫に罹患。東電・福島第一原発で働いた自分の写真を抱える/ 撮影:樋口健二
 長尾光明さんは、雇用先での仕事の際に撮られた写真をまだ持っている。写真では、彼は、常に着用するわけではなかった防護服を着ている。病気になる前、5年間働いた東電・福島第一原発で、汚染除去の作業を始める数分前にとった写真である。78歳、原発ジプシーの間で最も多い病気である骨の癌の克服に励んで5年を経た今、長尾さんは、原発を運営する会社と日本政府を訴えることに決めた。興味深いことに、彼は、契約されたホームレスの一人ではなく、監督として彼らを指揮する立場にあった。「大企業が拘わる仕事では、何も悪い事態が起こるはずはないと考えられてきました。しかし、これらの企業が、その威信を利用し、人々を騙し、人が毒される危険な仕事に人々を募っているのです」と長尾さんは痛烈に批判する。彼は、許容値を超える大量の放射線にさらされてきたため、歩行が困難となっている。
 30年以上の間、樋口健二氏は、何十人もの原発の犠牲者の話を聞き、彼らの病を記録してきた。彼らの多くが瀕死の状態で、死ぬ前に病床で衰弱していく様子を見てきた。おそらくそれ故、不幸な人々の苦しみを間近で見てきたが故に、調査員となった写真家は、間接的にホームレスと契約している多国籍企業の名を挙げることに労を感じないのだ。東京の自宅の事務所に座り、紙を取り出し、書き始める。「パナソニック、日立、東芝…」。

広島と長崎
 企業は、他の業者を通してホームレスと下請け契約をする。労働者の生まれや健康状態などを追跡する義務を企業が負わずにすむシステムの中で、それは行われている。日本で起こっている事態の最大の矛盾は、原子力を誤って用いた結果について世界中で最も良く知っている社会の中で、ほとんど何の抗議も受けずに、この悪習が生じているということである。1945年8月6日、アメリカ合衆国は、その時まで無名であった広島市に原子爆弾を投下し、一瞬にして5万人の命が失なわれた。さらに15万人が、翌5年間に、放射線が原因で亡くなった。数日後、長崎への第二の爆弾投下により、ヒロシマが繰り返された。
 あの原子爆弾の影響と、原発の下請け労働者が浴びた放射線に基づいて、ある研究が明らかにしたところによると、日本の原発に雇用された路上の労働者1万人につき17人は、“100%”癌で亡くなる可能性がある。さらに多くが、同じ運命をたどる“可能性が大いにあり”、さらに数百人が、癌にかかる可能性がある。70年代以来、30万人以上の一時雇用労働者が日本の原発に募られてきたことを考えると、藤田教授と樋口氏は同じ質問をせざるをえない。「何人の犠牲者がこの間亡くなっただろうか。どれだけの人が、抗議もできずに死に瀕しているだろうか。裕福な日本社会が消費するエネルギーが、貧困者の犠牲に依存しているということが、いつまで許されるのだろうか」。
 政府と企業は、誰も原発で働くことを義務付けてはおらず、また、どの雇用者も好きな時に立ち去ることができる、と確認することで、自己弁護をする。日本の労働省の広報官は、ついに次のように言った。「人々を放射線にさらす仕事があるが、電力供給を維持するには必要な仕事である」。
 ホームレスは、間違いなく、そのような仕事に就く覚悟ができている。原子炉の掃除や、放射能漏れが起こった地域の汚染除去の仕事をすれば、一日で、建築作業の日当の倍が支払われる。いずれにせよ、建築作業には、彼らの働き口はめったにない。大部分が、新しい職のおかげで、社会に復帰し、さらには家族のもとに帰ることを夢見る。一旦原発に入るとすぐ、数日後には使い捨てられる運命にあることに気づくのである。
 多くの犠牲者の証言によると、通常、危険地帯には放射線測定器を持って近づくが、測定器は常に監督によって操作されている。時には、大量の放射線を浴びたことを知られ、他の労働者に替えられることを怖れて、ホームレス自身がその状況を隠すことがあっても不思議ではない。「放射線量が高くても、働けなくなることを怖れて、誰も口を開かないよ」。斉藤さんはそう話す。彼は、「原発でいろんな仕事」をしたことを認める、東京、上野公園のホームレスの一人である。

原子炉の内部。下請け労働者のグループが日本の原子炉内部で働く。彼らのうち何名かは原発奴隷である。彼らは、何らかの技術的知識が与えられることはなく、国際協定で認めら れた最大値の1万7000倍の放射線を浴びている/撮影:樋口健二
 原発で働く訓練と知識が欠如しているため、頻繁に事故が起きる。そのような事故は、従業員が適切な指導をうけていれば防げたであろう。「誰も気にしていないようです。彼らが選ばれたのは、もしある日仕事から戻らなくても、彼らのことを尋ねる人など誰もいないからなのです。」と樋口氏は言う。一時雇用者が、原発の医療施設や近くの病院に病気を相談すれば、医者は組織的に、患者が浴びた放射線量を隠し、“適性”の保証つきで患者を再び仕事に送り出す。絶望したホームレスたちは、昼はある原発で、夜は別の原発で働くようになる。
 この2年間、ほとんど常に藤田、樋口両氏のおかげで、病人の中には説明を求め始めた者達もいる。それは抗議ではないが、多くの者にとっての選択肢である。村居国雄さんと梅田隆介さん、何度も契約した末重病にかかった二人の原発奴隷は、雇用補助の会社を経営するヤクザのグループから、おそらく、殺すと脅されたために、それぞれの訴訟を取り下げざるをえなかった。

毎日の輸血
 大内久さんは、1999年、日本に警告を放った放射線漏れが起きた時、東海村原発の燃料処理施設にいた3人の労働者の一人である。その従業員は、許容値の1万7000倍の放射線を浴びた。毎日輸血をし、皮膚移植を行ったが、83日後に病院で亡くなった。
 労働省は、国内すべての施設について大規模な調査を行ったが、原発の責任者はその24時間前に警告を受けており、多くの施設は不正を隠すことが可能であった。そうであっても、国内17の原発のうち、検査を通ったのはたったの2つであった。残りについては、最大25の違反が検出された。その中には、労働者の知識不足、従業員を放射線にさらすことについての管理体制の欠如、法定最低限の医師による検査の不履行なども含まれた。その時からも、ホームレスの募集は続いている。
 松下さんと他10名のホームレスが連れて行かれた福島原発は、路上の労働者と契約する組織的方法について、何度も告発されている。慶応大学の藤田祐幸教授は、1999年、原発の責任者が、原子炉の一つを覆っていたシュラウドを交換するために、1000人を募集したことを確認している。福島原発での経験から3年後、松下さんは、「さらに2、3の仕事」を受けたことを認めている。その代わり、彼に残っていた唯一のものを失った。健康である。2、3ヶ月前から髪が抜け始めた。それから吐き気、それから、退廃的な病気の兆候が現れ始めた。「ゆっくりした死が待っているそうだ。」と彼は言う。

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 この新聞は、インタビューを受けられた樋口健二氏より提供された。記事の訳内容の一部は、樋口氏によって訂正されている。なお、原文では、写真は全てカラーで掲載。
訳責:美浜の会
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「福島原発は欠陥工事だらけ」

担当施工管理者が仰天告白 

週刊朝日2002年9月20日号配信

資源エネルギー庁の原発推進PR費だけで、年間70億円もの税金が使われている。一方で次から次へと明るみに出る東京電力の損傷隠しに、「もっと大きなものを隠しているのではないか」という声さえも漏れるほどだ。福島原発で実際に建設に取り組んだ元技術者たちが、驚くべき現場のずさんな実態を本誌に語った。(編集部注:本誌2002年9月20日に掲載。年齢、肩書き等は当時のものです。ご注意ください)


 福島第一、第二、柏崎刈羽原子力発電所で起きた東京電力の損傷隠しは、日本の原発への信頼性を大きく揺さぶった。東電のうそつき体質が明らかになり、チェックもできず判で押したように「安全宣言」を出してしまう経済産業省の原子力安全・保安院の無能さが世間に知れ渡ってしまったのだ。

 だが、原発にまつわる「不正」「ずさんさ」はじつは、これだけにとどまらない。

 鹿児島大学非常勤講師の菊地洋一さん(61)は、厳しい口調でこう語るのだ。

 「国はすぐに『安全だ。安全だ』と言うが、原子炉メーカーや現場の実態も知らずに、複雑で巨大なシステムの原発を簡単に安全などとは言ってほしくない。保安院も東電も原発の基本的な仕組みしかわからないから、原発推進の御用学者たちの言うことに振り回されているのだろう。だが、今回のシュラウドのひび割れだって大変なことで、地震が起きたらどうするのか、そういう危機感を持たない保安院や東電の意識は非常におかしい。すべてが現場を知らない机上の空論で成り立っている。そもそも、『安全』と言う前提には、建設工事のときから完璧な材料を使って、かつ完璧な施工がされたというのが絶対条件だろうが、建設現場ではそれはあり得ないこと。現場は試行錯誤の中で手探りで仕事をしているんです」

 じつは、菊地さんは今回問題になっているGEIIの前身のGETSCOの元技術者で、東海第二(78年運転開始)と福島第一の6号機(同79年)の心臓部分である第一格納容器内の建設に深くかかわっている。GETSCOは沸騰水型炉を開発したGEの子会社で、GEがこの二つの原子炉を受注したのだ。

 菊地さんの当時の立場は企画工程管理者といい、すべての工事の流れを把握して工程のスケジュールを作成する電力会社と下請けとの調整役だったという。現場では、自分の作業内容しか知り得ない技術者がほとんどだが、第一格納容器の隅々までをつぶさに知る数少ない人物の一人だ。

 「建設中に工事の不具合はいくらでも出てくる。数えたらキリがない。当然のことですが、ちゃんと直すものもあります。でも信じられないことでしょうが、工期や工事費の都合で、メーカーや電力会社が判断して直さないこともあるんです。私が経験した中では、福島第一の6号機に今も心配なことがある。じつは、第一格納容器内のほとんどの配管が欠陥なのです。配管破断は重大な事故に結びつく可能性があるだけに、とても心配ですが......」

 ほとんどの配管が欠陥とは、穏やかな話ではないが、どういうことなのだろうか。

 主要な配管の溶接部分についてはガンマ線検査があるため、溶接部分近くに穴があいており、検査が終わると、外からその穴にガンマプラグという栓をはめていくのだそうだ。ところが6号機の第一格納容器内では、プラグの先が配管の内側へ飛び出してしまっている。仕様書では「誤差プラスマイナス0ミリ」となっているのに、最大で18ミリというものまであった。

 原因は、度重なる設計変更だ。当初の計画では肉厚の配管を使う予定が、いつのまにか薄い配管になってしまっていたのだった。

 担当外だった菊地さんが気づいてすぐに担当部署に相談したが、最終的には配管工事を請け負った業者の判断に一任され、結局、直されることはなかった。

 菊地さんが続ける。

 「確かに配管を直したら、プラグの発注から始まり検査や通産省立ち会いの耐圧試験も含め、半年や1年は工事が延びたと思う。工事が1日延びれば、東電側に1億円の罰金を支払わなければならないというきまりもあった。GE側は業者の判断によっては違約金の支払いも覚悟していたが、最終的には業者側の直さないという判断を尊重した形になった。でもこの配管を放置しておけば、流れる流体がプラグの突起物のためにスムーズに流れなくなり乱流が生じ、配管の一部が徐々に削られていき、将来に破断する可能性だってある。それが原因で、何十年後かにドカンといくかもしれないのです」

 今回の損傷隠しで、6号機はジェットポンプの配管のひび割れが未修理のまま運転されていることが明らかになっている。このずさんな工事と関係があるのだろうか。
 
◆大型のジャッキで圧力容器を矯正◆

 菊地さんは、6号機を東電に引き渡した後、退社したが、その後も第一格納容器内の配管が破断し、暴走する夢を見たという。

 実際、86年には米バージニア州のサリー原発で、直径45センチの配管が破断する事故が起きた。それまで「配管の破断前には水漏れ状態が続くため、完全破断する前に対策をとれる」ということが「定説」になっていたが、サリー原発では瞬間的に真っ二つに断ち切れる「ギロチン破断」と呼ばれる状態になった。定説を覆す、予期できないことが原発には起きるのだ。

 福島第二原発の3号機のポンプ事故(89年)後、菊地さんは、6号機の配管も、「全部めちゃくちゃだから直すように」と東電本社に直訴した。東電からは一部主要な配管は替えたものの「ほかはちゃんと見ているから、安全です」という答えが返ってきたという。

 「東電はこの配管の問題性をちゃんと認識しているのか。通産省(当時)に報告しているのか。報告しているのなら、通産省がどんな調査をし、どう判断したのか。そのうえで東電は安全だと言っているのか、はなはだ疑問だ」(菊地さん)

 では工事をチェックする立場の国は、何をしていたのだろうか。菊地さんがこう説明する。

 「まったくあてになりませんね。通産省の検査のときに、養蚕が専門の農水省出身の検査官が来たという話も聞いたことがあるほどです。現場では国の検査に間に合わなくて、ダミー部品をつけておいて、検査が終わってから、正規の部品に取り換えるということもやった。もちろん、検査官は気がつきませんよ」

 こんなこともあった。

 東海第二の試運転を前に国の検査があった。だがその前日、電気系統がトラブルを起こし、使えなくなってしまったという。試験当日は国の検査官を前に、作業員が機械の前で手旗信号で合図し、電気が通って機械が作動しているように見せかけた。それでもしっかりと「合格」をいただいたというのだ。まるでマンガのような話だ。本当に、おかしなことを挙げていけばキリがないようだ。

 「いかに国の検査が形式的でいい加減なものかということがわかるでしょう。何よりも問題なのは、いい加減な検査を受けた原発が、いま現在も動いていて、国が安全だとお墨付きを与えているということなのです」

 菊地さんは次々に起きた浜岡原発の事故や今回の損傷隠しを契機に50ccバイクで全国をまわり、自らの体験を生かし反原発を訴えていくことを計画しているという。

 今回の損傷隠しのきっかけは、2年前のGEIIの元技師による内部告発だった。原発に関する内部告発は、じつは14年前にもあった。

 現在、科学ジャーナリストの田中三彦さん(59)がメーカーの不正な工事過程を告発したのだ。

 内容は、田中さんが日立製作所の関連会社のバブコック日立の設計技師だった74年に起こった出来事だった。

 同社は日立製作所が受注した福島第一原発4号機(78年運転開始)の原子炉圧力容器を製造していたが、製造の最終過程でトラブルが起こった。高さ約21メートル、直径約6メートルの円筒形で厚さ約14センチの合金鋼製の圧力容器の断面が、真円にならず、基準を超えてゆがんだ形になってしまったというのだ。

 これも冗談のような話なのだが、容器内部に3本の大型ジャッキを入れ、610度の炉の中に3時間入れてゆがみを直したというのだ。田中さんは当時、原子力設計部門から別部門に異動していたが、急遽呼び戻され、どれだけの時間をかけて、何度の熱処理をすべきか解析作業を担当させられた。作業は国にも東電側にも秘密裏で行われ、ゆがみを直した後、東電に納入されたのだという。

◆国と業界一体で「安全」ゴリ押し◆

 田中さんはその後退職し、88年に都内で開かれた原発シンポジウムで、
 「ジャッキで無理に形を整えた圧力容器が実際に運転しており安全性を心配している」
 と"告発"したのだ。

 田中さんが懸念したのは、ジャッキで力を加えた熱処理による材料の性質の変化などで、それによる原子炉の安全性の問題だった。

 しかし、告発からわずか数日後、東電と日立製作所、そして通産省までもが、
 「問題ない処置だった」
 と口をそろえ、またもや得意の"安全宣言"を出した。

 田中さんはこの経過を90年に出版した『原発はなぜ危険か―元設計技師の証言―』(岩波新書)に詳細にまとめている。田中さんはこう話す。

 「ゆがみの矯正は明らかに違法行為であり、日立側は私との話し合いで、最後まで当時の生データも出さなかった。また告発後、通産省も東電も日立から事情聴取することもなく、すぐに安全宣言を出した。今回の東電の損傷隠しでもこれが繰り返されている」

 なぜ、こうも国はちゃんと調べずに安全宣言を出してしまうのか。そして何よりも恐ろしいのは、この福島第一原発4号機も、その後も十分な検証が行われないまま、今も稼働しているということだ。

 「根本的な問題は、電力業界の体質そのものです。彼らには罪の意識はまったくなく、逆に合理的な判断の上に成り立っていると思っている。それは給電の計画変更などのコストの問題、同じ構造の原子炉を持つほかの電力会社への影響など、結局は電力会社サイドの勝手な都合で決められている。国も『あうんの呼吸』でそれを見守ってきた。国も電力会社も原発が壊れるまで『安全だ』と言うのでしょう。いつかはわからないが、大事故は必ず起きる。早急に脱原発の方向に切り替えるべきだが、その前に、せめて国の技術的なレベルを上げ、原発に対する管理能力をきちんとすべきです」(田中さん)

 最近、70年代半ばに通産省の検査官が逆に東電に損傷隠しを指示した疑惑も報道されている。まさに「あうんの呼吸」を持つ官業もたれ合いの原子力行政そのものであり、「原発は安全だ」と喧伝する中で、官業一体となって「損傷隠し」までしてきてしまったというわけだ。

 いずれにしろ、欠陥だらけの原発が稼働し続けているという、この恐ろしい状態を脱するには、保安院でも東電でもない第三者機関にきちんと調べてもらうしかない。  (本誌取材班)


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