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使いにくい脳でも 自分の脳ならば文句は言わない

使いにくいキーボードにも一年くらいで慣れて適応する
それが人生だ

使いにくい脳でも
自分の脳ならば
余り文句はなくて
むしろ他人の脳に文句があるらしい


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「犀の角」、「第一 蛇の章」、『ブッダのことば スッタニパータ』

犀の角
あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩(なや)ますことなく、また子を欲するなかれ。況(いわ)んや朋友(ほうゆう)をや。犀(さい)の角(つの)のようにただ独(ひと)り歩(あゆ)め。
交(まじ)わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍(わざわ)いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
朋友・親友に憐(あわ)れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
子や妻に対する愛著(あいじゃく)は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡(あいから)むようなものである。筍(たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。
林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴(おもむ)くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
仲間の中におれば、遊戯と歓楽(かんらく)とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭(いと)いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。
四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々(もろもろ)の苦難に堪(た)えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
出家者(しゅっけしゃ)でありながらなお不満の念をいだいている人々がいる。また家に住まう在家者(ざいけしゃ)でも同様である。だから他人の子女にかかわること少く、犀の角のようにただ独り歩め。
葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを棄て去って、在家の束縛(そくばく)を断(た)ち切って、健(たけ)き人はただ独り歩め。
もしも汝(なんじ)が、〈賢明で協同し行儀(ぎょうぎ)正しい明敏(めいびん)な同伴者〉を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。
しかしもしも汝が、〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。
われらは実に朋友を得る幸(しあわせ)を讃(ほ)め称(たた)える。自分よりも勝(すぐ)れあるいは等(ひと)しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過(つみとが)のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。
金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金(おうごん)の腕輪(うでわ)を、一つの腕にはめれば、ぶつかり合う。それを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
このように二人でいるならば、われに饒舌(じょうぜつ)といさかいとが起るであろう。未来にこの恐れのあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。
実に欲望は色とりどりで甘美(かんび)であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪乱(かくらん)する。欲望の対象(たいしょう)にはこの患(うれ)いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
これはわたくしにとって災害であり、腫物(はれもの)であり、禍(わざわい)であり、病(やまい)であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
寒さと暑さと、飢(う)えと渇(かつ)えと、風と太陽の熱と、虻(あぶ)と蛇と、―これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。
肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群(むれ)を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。
集会を楽しむ人には、暫時の解脱(げだつ)に至るべきことわりもない。太陽の末裔(まつえい)(ブッダ)のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。
相争(あいあらそ)う哲学的見解を超え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。
貪(むさぼ)ることなく、詐(いつわ)ることなく、渇(かつ)望することなく、(見せかけで)覆(おお)うことなく、濁(にご)りと迷妄(めいもう)とを除(のぞ)き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。
義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽(ふけ)り怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。
学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁(こうまい)・明敏(めいびん)な友と交(まじ)われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。
世の中の遊戯や娯楽(ごらく)や快楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。
妻子も、父母も、財宝も穀物(こくもつ)も、親族やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。
「これは執著(しゅうじゃく)である。ここには楽しみは少く、快い味わいも少くて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。
水の中の魚が網(あみ)を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩(ぼんのう)の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。
俯(ふ)して視(み)、とめどなくうろつくことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護(まも)り(慎しみ)、(煩悩の)流れ出ることなく、(煩悩の火に)焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。
葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、在家者の諸々のしるしを除(のぞ)き去って、出家して袈裟(けさ)の衣をまとい、犀の角のようにただ独り歩め。
諸々の味を貪(むさぼ)ることなく、えり好みすることなく、他人を養うことなく、戸ごとに食を乞(こ)い、家々に心をつなぐことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
こころの五つの覆(おお)いを断(た)ち切って、すべて付随して起る悪しき悩み(随煩悩(ずいぼんのう))を除き去り、なにものかにたよることなく、愛念の過(あやま)ちを絶(た)ち切って、犀の角のようにただ独り歩め。
以前に経験した楽しみと苦しみとを擲(なげう)ち、また快(こころよ)さと憂(うれ)いとを擲って、清らかな平静と安(やす)らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。
最高の目的を達成するために努力策励(さくれい)し、こころが怯(ひる)むことなく、行いに怠(おこた)ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具(そな)え、犀の角のようにただ独り歩め。
独坐(どくざ)と禅定(ぜんじょう)を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行い、諸々の生存には患(うれ)いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ独り歩め。
妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。
音声に驚かない獅子(しし)のように、網にとらえられない風のように、水に汚(けが)されない蓮(はす)のように、犀の角のようにただ独り歩め。
歯牙(しが)強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥(ざが)に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め。
慈(いつく)しみと平静とあわれみと解脱(げだつ)と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背(そむ)くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
貪欲(とんよく)と嫌悪(けんお)と迷妄(めいもう)とを捨て、結(むす)び目を破り、命(いのち)を失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
今のひとびとは自分の利益のために交(まじ)わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。
(「犀の角」、「第一 蛇の章」、『ブッダのことば スッタニパータ』)


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ネットは何を培養しているか

ネット環境が人間の心理のどの部分を拡大して培養するか
みんなだいたい見当はついているが
すっきりと定式化できていない。

まずうぬぼれ屋がうぬぼれ放題にうぬぼれていられる場所だということだ。
(しつこい言葉遣いで申し訳ないけれど)

他人から攻撃されるということはあるけれど
基本的には肯定しあう人同士が語り合う場所である

先生に作文の添削をされるわけでもないし
討論会みたいに論理の矛盾を指摘されるわけでもない

基本的な事実関係についてもチェックされて削られるわけでもない

たとえば出版でも放送でもいろいろな人がいるとはいうものの
一応業界の中で報酬をもらっている存在であるわけで
集団の一角を占めるだけの社会性はあることになる
ほどほどのつきあいはできる人たちである

ネット社会のいいところは
そのようなマスコミ社会やその他のローカルな社会から排除される理由のある人でも
発信できるところだ

しかしその無制限さが
自己愛的肥大をもたらすことにもなる

これは原理的に仕方のないところだとは思う
傲慢で他人を徹底的に批判する傾向は自己愛人間の特徴であるが
ネット社会ではこの傾向が極端に出る

自分は無批判の立場で有名人や共通の知人を批判できるので
十中八九は過剰な言葉になり、
韓国の自殺事件のようになってしまう。

1.事実のチェックがかからない
2.論理のチェックがかからない
3.言いたい放題である
4.傲慢である
5.共感性がない、お互い様がない、徹底的な批判になる

事実と論理のチェックがかからないなら、つまりは妄想でもいいということになる。
すれすれ妄想の場合もあり、
すれすれ妄想を集団で共有すると外部からはよく分からない動きになる。

新興宗教タイプのマインドコントロールは
ネット上の言葉、映像、画像では充分にはできないと思う。
それよりも、自分からすれすれ妄想を共有することで楽になることができて利益のある人が集まるだろう

大麻の入手はネット社会がハードルを低くしたと指摘されているが
極端な思考様式の集団もやはりネット社会でならばハードルは低くなる

現実の社会で
それはつきあいきれないとか
もっと常識的に振る舞えとか
いわれそうなときにも
ネット社会でならば存在を許容される

弱いものに優しい場所でもあるし
悪いものに無批判な場所でもある

他人が何かを発信するのを止めることができない場所といってもいいかもしれない
自由の見本といってもいいと思う

見るべきか見るべきではないかを決めるために見てしまえば
結局見てしまうわけで
そこが難しい

他人に対しての強制力はないし
他人の見ない自由を奪うシステムではないものの
うっかり遭遇してしまう危険は残っているシステムである
それは改善すべきだと思うが
失うものとのバランスになる

課金システムでいえば
携帯の方が一歩進んでいる

悪の温床
犯罪の培養
という表現もあると思うが
たいていの人は分別はできていると思う

人間は不快なものにそれほど引きつけられることはないと思う
大麻の場合のように
ネット社会や携帯がなかったならば
機会そのものがなかったはずなのにという例はいくつもある

しかしそれは
人間を地理的制約を超えて結びつける道具であるから必然的に生じることである

有害情報を流しているのは人間であって
ネット社会が有害情報を選別しているわけではないし
無害情報がネット社会でいつの間にか有害情報になるわけでもない

そうはいうものの
人の親であれば子どもが何を見ているのか心配にはなるはずだ

性と暴力と犯罪のハードルを低くしている
そのハードルを日本の現在の社会と同程度にできればいいのだと思う
いろいろな情報にコンタクトは可能であるが
それにはお金がかかったり特別な手続きが必要であったりという具合であって欲しいと親は願う

しかしそれは自由の拡大の問題でもあり
何が有害であるかの判断の問題である

魔女狩りや異端審問などが代表であるが
人類は歴史の中でその時点では正しいと思って結果的によくないことをたくさんしてきた
その反省からいえば
個人の自由は最大限認められるべきで
それは他人の自由を侵さず権利を侵さない範囲で許されるはずだと思う

その原則とネット社会の進化の度合いが一致していない
ネット社会ではいろいろなことが可能すぎる

可能な範囲で自由にしていたら
罪を犯してしまうというならば
まったく聖書の通りになっているわけで
少し賢くない

リンゴは食べてはいけませんと言えば
リンゴとは何かを説明することになり
結局食べてしまうことになるだろう

1.事実と論理のチェックがかからない(妄想との関係)
2.傲慢さと無共感(自己愛性との関係)
3.自由と有害情報(自由と自己責任の観点)

論点は
こんな感じで拡散してしまうのだが



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日本的自己愛

自己愛的同一視とうつ病は関係があると昔からいわれているが、考えてみるとはっきりしないところではある。

相手が自分と同じ気持ちを持っていると信じ込むとき、
自己愛的同一視が成立する。

相手が現実的な存在である限り、
破綻が生じる。ここまではいい。
破綻は多くはうつの形をとる。ここがはっきりしない。

師匠と弟子の関係は多くはこのタイプになる。
弟子が成長すると師匠は見捨てられた感覚を抱き、ウツになる。

親身に面倒を見る日本的人間関係は自己愛的と言われる。弟子は自己愛の延長である。

自己愛の対象としては、子ども、ペット、弟子など。

自他が未分化で相手を理想化して、よい関係を想定して関わり合う。
日本的思いやりはこのタイプ。
全体に日本的母性的関わりといっていいのではないかと思う。特有の一体感。
東洋的かどうかといえばよく分からない。
西欧的と日本的の比較対照はよく言われる。

日本的マゾヒズムは相手本位で思いやりがあって共感性が高い。
この場合の共感性は少し意味がずれているかもしれない。共感を強要する感じ。
思いやりも、次の手を読み切って、自分に有利に展開しようという気持ちのようで、
なんとなくまつわりつくべとべとした感じ。

他者の自己愛を重んじる。重んじることでがんじがらめにしていく。重んじることで封じていく。

人権思想はあっても、声高に自分の権利を主張するのではなく、
他人の自己愛を尊重する。
結果として、子どもたちの自己愛を助長する。

母親がマゾヒスティックに尽くし、子どもはナルシスティックになる。
しかしそれは同時に母親がナルシスティックで、子どもがマゾヒスティックにつきあっていることにもなる。
日本的マゾヒズムと日本的ナルシズムは表裏の関係にある。
平たくいうと犠牲になるから尊重しろという約束。
野球で犠牲バントが戦略になっているようなもの。チームのために。

支配と被支配の関係はむき出しにはならず、思いやりと親心の日本的仮面を付けている。

親がマゾヒスティックなポーズをとっていても、実はナルシスティックなのだと分かってくる。
だから子どもは反逆する。
自己愛の延長物と見られている子どももつらい。

会社でも、組織に献身的に尽くすが、それは実は自己愛の満足を要求している。賞賛されたい。
要求が満たされないと逆恨みする。

西洋的自己愛は強欲で人を顧みないで共感がない。
日本的自己愛は日本的マゾヒズムを使う。
いったん自分を引っ込めて、そのことで報われようとしている。
若い世代は自己愛人間の適応様式がシゾイド人間的な形に変化している。
つまり、もう少し対人距離が遠くなり、敏感になり、全体にガラス細工のようにもろくなっている。
傷つくことも傷つけられることもしたくない。
その心性からいえば日本的マゾヒズムは密着しすぎである。

ところが母親の多くは子ども以外に自己愛の対象がない。
特に母親にとっての息子は自己愛そのもののようだ。娘よりも圧倒的に大事だ。
賞賛してやまない。
だから振り込め詐欺も起こりやすい。
俺が困っていると聞くと理性が停止してしまう。

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ボッチチェリ

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これは違う人

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井筒 俊彦 と 中村 元

東洋思想を勉強すれば、
井筒 俊彦 と 中村 元 を読むだろう。

性格がぜんぜん違うところがわたしにはおもしろい。
気質(temperament)の違いというべきか。
あるいは宗教的原体験の違いによるのか。

井筒 俊彦に接したことはないが
著作を読むとあきらかに何かの霊感が作用していると感じる。
中村元は直接接したこともあるが霊感の人ではないと思う。

昔の知識人は、宗教に対してコミットした感じがある。
没入してとりこになっている。

現代では、たとえば浅田彰や柄谷 行人は宗教を相対化はするがコミットはしない。
むしろ、冥王まさ子が「占星術に深い関心を抱き、晩年は神秘主義に傾倒」とある記事が興味深い。

豊かな時代というべきか、
空疎な時代というべきか。



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夏山や 一足づつに 海見ゆる  一茶

夏山や 一足づつに 海見ゆる  一茶

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ロベール・ドアノー イジス

「パリ市庁舎前のキス」1950年

これが1950年かと思う。

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