「犀の角」、「第一 蛇の章」、『ブッダのことば スッタニパータ』
ネットは何を培養しているか
ネット環境が人間の心理のどの部分を拡大して培養するか
みんなだいたい見当はついているが
すっきりと定式化できていない。
まずうぬぼれ屋がうぬぼれ放題にうぬぼれていられる場所だということだ。
(しつこい言葉遣いで申し訳ないけれど)
他人から攻撃されるということはあるけれど
基本的には肯定しあう人同士が語り合う場所である
先生に作文の添削をされるわけでもないし
討論会みたいに論理の矛盾を指摘されるわけでもない
基本的な事実関係についてもチェックされて削られるわけでもない
たとえば出版でも放送でもいろいろな人がいるとはいうものの
一応業界の中で報酬をもらっている存在であるわけで
集団の一角を占めるだけの社会性はあることになる
ほどほどのつきあいはできる人たちである
ネット社会のいいところは
そのようなマスコミ社会やその他のローカルな社会から排除される理由のある人でも
発信できるところだ
しかしその無制限さが
自己愛的肥大をもたらすことにもなる
これは原理的に仕方のないところだとは思う
傲慢で他人を徹底的に批判する傾向は自己愛人間の特徴であるが
ネット社会ではこの傾向が極端に出る
自分は無批判の立場で有名人や共通の知人を批判できるので
十中八九は過剰な言葉になり、
韓国の自殺事件のようになってしまう。
1.事実のチェックがかからない
2.論理のチェックがかからない
3.言いたい放題である
4.傲慢である
5.共感性がない、お互い様がない、徹底的な批判になる
事実と論理のチェックがかからないなら、つまりは妄想でもいいということになる。
すれすれ妄想の場合もあり、
すれすれ妄想を集団で共有すると外部からはよく分からない動きになる。
新興宗教タイプのマインドコントロールは
ネット上の言葉、映像、画像では充分にはできないと思う。
それよりも、自分からすれすれ妄想を共有することで楽になることができて利益のある人が集まるだろう
大麻の入手はネット社会がハードルを低くしたと指摘されているが
極端な思考様式の集団もやはりネット社会でならばハードルは低くなる
現実の社会で
それはつきあいきれないとか
もっと常識的に振る舞えとか
いわれそうなときにも
ネット社会でならば存在を許容される
弱いものに優しい場所でもあるし
悪いものに無批判な場所でもある
他人が何かを発信するのを止めることができない場所といってもいいかもしれない
自由の見本といってもいいと思う
見るべきか見るべきではないかを決めるために見てしまえば
結局見てしまうわけで
そこが難しい
他人に対しての強制力はないし
他人の見ない自由を奪うシステムではないものの
うっかり遭遇してしまう危険は残っているシステムである
それは改善すべきだと思うが
失うものとのバランスになる
課金システムでいえば
携帯の方が一歩進んでいる
悪の温床
犯罪の培養
という表現もあると思うが
たいていの人は分別はできていると思う
人間は不快なものにそれほど引きつけられることはないと思う
大麻の場合のように
ネット社会や携帯がなかったならば
機会そのものがなかったはずなのにという例はいくつもある
しかしそれは
人間を地理的制約を超えて結びつける道具であるから必然的に生じることである
有害情報を流しているのは人間であって
ネット社会が有害情報を選別しているわけではないし
無害情報がネット社会でいつの間にか有害情報になるわけでもない
そうはいうものの
人の親であれば子どもが何を見ているのか心配にはなるはずだ
性と暴力と犯罪のハードルを低くしている
そのハードルを日本の現在の社会と同程度にできればいいのだと思う
いろいろな情報にコンタクトは可能であるが
それにはお金がかかったり特別な手続きが必要であったりという具合であって欲しいと親は願う
しかしそれは自由の拡大の問題でもあり
何が有害であるかの判断の問題である
魔女狩りや異端審問などが代表であるが
人類は歴史の中でその時点では正しいと思って結果的によくないことをたくさんしてきた
その反省からいえば
個人の自由は最大限認められるべきで
それは他人の自由を侵さず権利を侵さない範囲で許されるはずだと思う
その原則とネット社会の進化の度合いが一致していない
ネット社会ではいろいろなことが可能すぎる
可能な範囲で自由にしていたら
罪を犯してしまうというならば
まったく聖書の通りになっているわけで
少し賢くない
リンゴは食べてはいけませんと言えば
リンゴとは何かを説明することになり
結局食べてしまうことになるだろう
1.事実と論理のチェックがかからない(妄想との関係)
2.傲慢さと無共感(自己愛性との関係)
3.自由と有害情報(自由と自己責任の観点)
論点は
こんな感じで拡散してしまうのだが
日本的自己愛
相手が自分と同じ気持ちを持っていると信じ込むとき、
自己愛的同一視が成立する。
相手が現実的な存在である限り、
破綻が生じる。ここまではいい。
破綻は多くはうつの形をとる。ここがはっきりしない。
師匠と弟子の関係は多くはこのタイプになる。
弟子が成長すると師匠は見捨てられた感覚を抱き、ウツになる。
親身に面倒を見る日本的人間関係は自己愛的と言われる。弟子は自己愛の延長である。
自己愛の対象としては、子ども、ペット、弟子など。
自他が未分化で相手を理想化して、よい関係を想定して関わり合う。
日本的思いやりはこのタイプ。
全体に日本的母性的関わりといっていいのではないかと思う。特有の一体感。
東洋的かどうかといえばよく分からない。
西欧的と日本的の比較対照はよく言われる。
日本的マゾヒズムは相手本位で思いやりがあって共感性が高い。
この場合の共感性は少し意味がずれているかもしれない。共感を強要する感じ。
思いやりも、次の手を読み切って、自分に有利に展開しようという気持ちのようで、
なんとなくまつわりつくべとべとした感じ。
他者の自己愛を重んじる。重んじることでがんじがらめにしていく。重んじることで封じていく。
人権思想はあっても、声高に自分の権利を主張するのではなく、
他人の自己愛を尊重する。
結果として、子どもたちの自己愛を助長する。
母親がマゾヒスティックに尽くし、子どもはナルシスティックになる。
しかしそれは同時に母親がナルシスティックで、子どもがマゾヒスティックにつきあっていることにもなる。
日本的マゾヒズムと日本的ナルシズムは表裏の関係にある。
平たくいうと犠牲になるから尊重しろという約束。
野球で犠牲バントが戦略になっているようなもの。チームのために。
支配と被支配の関係はむき出しにはならず、思いやりと親心の日本的仮面を付けている。
親がマゾヒスティックなポーズをとっていても、実はナルシスティックなのだと分かってくる。
だから子どもは反逆する。
自己愛の延長物と見られている子どももつらい。
会社でも、組織に献身的に尽くすが、それは実は自己愛の満足を要求している。賞賛されたい。
要求が満たされないと逆恨みする。
西洋的自己愛は強欲で人を顧みないで共感がない。
日本的自己愛は日本的マゾヒズムを使う。
いったん自分を引っ込めて、そのことで報われようとしている。
若い世代は自己愛人間の適応様式がシゾイド人間的な形に変化している。
つまり、もう少し対人距離が遠くなり、敏感になり、全体にガラス細工のようにもろくなっている。
傷つくことも傷つけられることもしたくない。
その心性からいえば日本的マゾヒズムは密着しすぎである。
ところが母親の多くは子ども以外に自己愛の対象がない。
特に母親にとっての息子は自己愛そのもののようだ。娘よりも圧倒的に大事だ。
賞賛してやまない。
だから振り込め詐欺も起こりやすい。
俺が困っていると聞くと理性が停止してしまう。
井筒 俊彦 と 中村 元
東洋思想を勉強すれば、
井筒 俊彦 と 中村 元 を読むだろう。
性格がぜんぜん違うところがわたしにはおもしろい。
気質(temperament)の違いというべきか。
あるいは宗教的原体験の違いによるのか。
井筒 俊彦に接したことはないが
著作を読むとあきらかに何かの霊感が作用していると感じる。
中村元は直接接したこともあるが霊感の人ではないと思う。
昔の知識人は、宗教に対してコミットした感じがある。
没入してとりこになっている。
現代では、たとえば浅田彰や柄谷 行人は宗教を相対化はするがコミットはしない。
むしろ、冥王まさ子が「占星術に深い関心を抱き、晩年は神秘主義に傾倒」とある記事が興味深い。
豊かな時代というべきか、
空疎な時代というべきか。