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終わりから再生へ

現在45億歳の太陽は、これから数十億年後に赤色巨星になって終わりになる。

一つの文脈だけにはまって、
その中で最適化するというのは居心地の良いことだが、
一方で精神を弛緩させる。

あるライフスタイルがずっと
続くと思えば、どうしても精神は弛緩する。

いや、これがずっと続くわけではない、
次には、全く新しいフェーズが来るのだと思えば、自ずから精神は緊張するし、
それに備えて様々な準備をしようと思う。

そんなひんやりとした感覚は
生きる上で誰にでも必要なのではないか。

石ころを見ていると、ずっと動かない。
その中心にある原子は、限り長い間そこにあり続けることだろう。

生命は違う。常に変化の中にある。
じっととどまっていることなどできない。
生きものであるのに、石ころのように振る舞ってはいけない。

常に前のめりで、一つの生の中でいくつもの新しいフェーズに入っていく。
そのように時間を過ごして、初めて潜在力を発揮することができるのだ。

一生のうちに、何回も「終わり」がある。
太陽系の誕生から消滅までも、何回も経験する。
そんな人生が良い。

*****
茂木健一郎 クオリア日記の一節を改編。

続けて言うとすれば、
命は「存在を続けること」ではなくて、
「経験すること」が大切なのではないかと思うのだが。

経験することを、
たとえば、魂の遍歴と考えて、この世で魂が何を見るかということでもよいし、
またたとえば、
DNAがこの世界への適応度を試しているのだと考えてもよいだろう。

*****
地球から木星まで光の速度で約45分だという。

太陽が45億歳だということは、
おおむね、地球は45億回、太陽の周りを回ったのか?

拡大し続ける宇宙のへりは、最初のビッグバンのときから
ずっと続けて拡張し続けているのか?

*****
命が時間の中で永遠ではなく、
変化を続けるものであるなら、
変化の時に苦しいとどうして意識は感じるのだろう。

意識はもっと変化を楽しめばよいはずなのだ。

いや、楽しんでいるはずである。
変化を苦しいと思うのは、
生命にとって例外に属するもかもしれない。

私の日常は
変化を苦しいと思ってしまう例外を生きているのではないか。
何かがずれているのだろう。
意識として本来の設定ではない。

コンピュータでたとえるとして、
長い間運転している間に、
設定がこっそり書き換えられているのではないかと疑う。

この億劫さ。変化に対する恐怖。

あのときも新しい環境に対する恐怖感が
私の意識を圧倒していたと思い出すことができる。
おかしなことに私の中にそのような恐怖の回路がある。
なぜそんな回路ができてしまったのだろう。
生育歴の中でなにかあったというのだろうか?



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