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ゴーギャンの独特さ

何だろうかね
今日はいいと感じた
平面的な感じで
それが
私のテーマである
三次元と二次元の問題を考えさせる

テレビを見ていて三次元への欲求を感じない
眼鏡をかけていて現実感の欠如を感覚しない
これはどうしてだろう

人によっては、
「風景が絵葉書みたいで、現実感に欠けている」
「風景が、何というか、ガラス戸を一枚通したみたいで、現実感が欠如している」
なんて言う。その実感が私には少し分からない。

三次元像を二次元に再生していることをどう説明すればいいのだろう。

そしてゴーギャンを見ると、
二次元で充分だと思いもする。

コンピュータの世界での二次元という言い方もある。

人間の知覚の性質として、
三次元を二次元の輪郭として描写して、特に不足はないらしい。
それは例えば、臭いのない絵を見て、それで充分に楽しいというのと同じようだ。
輪郭だけで充分のようだ。

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タミフル問題

昨日夜のニュースショーでは各局一斉に、タミフル問題を報じていた。
中高生くらいの若者が、インフルエンザと診断されてタミフルを投与され、
行動異常を呈して、死に至るというもの。
自動車に飛び込んだり、マンションから飛び降りたりしているという。

遺族会が出来ていて、厚労省に、タミフルの危険について啓蒙して欲しいと
申し入れているが、
厚労省では因果関係の認定は出来ないというのみ。
以前の報告書では、医師と患者にアンケート調査を行い、
行動異常の発生とタミフル服用について、
インフルエンザの場合、行動異常はタミフルを服用しなくても起こっており、
タミフル服用時との統計的な有意差はなかったとしている。
数字としては、どちらも10~11パーセント程度に行動異常発生であったと記憶している。
有意差がないということは、この局面では、タミフルは、
悪いこともしていないし、いいこともしていないということだ。
タミフルはインフルエンザウィルスの増殖を抑える薬なのだから、
行動異常発生に関しても、多少は抑制効果が現れてもいいはずだと思う。
別の薬剤、アマンタジンについては、だんだん効かなくなっているという話で、
これもまた困ったことなのであるが、
進化・変化の速いインフルエンザウィルスらしいことではある。
結局、当局見解では行動異常はインフルエンザ脳症によるものだということになる。
インフルエンザ脳症のせいだとして、対策は示されていない。

厚労省としてはタミフル備蓄を指令したメンツもあるだろう。各所との関係もあるだろう。
そして、ここまで問題になっているのだから、実質的に、危険の啓蒙としては充分で、あとは各人で考えて欲しいということなのだろうか。
お役所としては、人間の命も、数字に変換されて、
少数の発生であれば、国として号令はかけないということだ。
私たちは各人の家族の問題として考えなければならない。
それは数字に還元されない。

統計数字としてはそうなのだけれど、どうなんだろう。
タミフルを使用しなくても、
インフルエンザにかかった人のある割合が行動異常を呈し、
ひいては死んでしまう可能性があるとして、
では、どうすればいいのだろう。

行政には行政の都合があるだろうから、それは脇に置いておく。
個人としてどうすればいいのだろう。
自分に中学生の子供がいるとして、インフルエンザにかかり、
医者からタミフルを投与された。
親として、飲ませた方がいいものかどうか。

タミフルを使っても使わなくても、どうせ行動異常が出るのだから、「飲め」とは思わないだろう。
そうではなくて、タミフルを「飲まない」のはもちろん、インフルエンザ脳症による行動異常にどう対処するか、考えなければならないのだ。
数日、あるいは長くても一週間程度でいいのだから、外出しないように厳重に見ているしかないだろう。

急性脳症に関しては、有意差なしだから、タミフルを飲む理由はない。
困るのは、インフルエンザ脳症による後遺症というものがあったとして、
それがタミフルを使用すれば防げたかどうかということだろうか。
タミフルはインフルエンザウィルスを殺すのではなく、増殖を抑制するという程度らしい。
タミフルを飲んで時間を稼いでいるうちに、体内の抗体がてきてウィルスをやっつけるのを待つことになる。

若い人に見られることは何を意味しているのだろうか。
異常な高熱や肺炎や筋肉痛や脱水やそんなことには
タミフルは多分効いているのだろうと思うが、
行動異常について効かないということは、
タミフル投与前に何か異常な反応が起きて、あるいは何かの物質が産生され、
あるいはどこかの組織が破壊され、しているものだろうか。
かなり初期の問題で、だとすれば、そのあとに何をしても手遅れだということになるのだろうか。
そのことと、若い人というキーワードは関係しているように思える。

あるいは別の推定として、
タミフルによってインフルエンザウィルスの増殖は少し抑えられ、行動異常発生についても多少は抑えられるが、
タミフル自身の毒性があり、結果として、有意差なしの水準になる、ということも考えられる。
しかしこの推定では、タミフルの功罪がちょうど拮抗し、最終的に有意差なしになるという不思議な事実を説明しなければならないので、すこし無理があるかと思う。

というわけで、困った問題である。

*****
その後、28日に厚労省が注意を喚起し、熱発したら1~2日は一人にしないで見守るようにと発表した。

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ポリーニの「熱情」

ずっと昔にFMラジオで録音した。
マウリツィオ・ポリーニが何かの演奏会で
ベートーベン「熱情」を弾いたもの。
きちんとしたCD版とは異なり、
熱気が伝わってくる。
久々に聴いて、耳の汚れが一枚吹き払われた感じがする。

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風景写真

映画「イルマーレ」で出てくる家のようです。
住んだら楽しいのでしょうか。
一ヶ月くらいお試しで暮らしてみたいような気もする。









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ページ見物

http://www.tokyo-kurenaidan.com/index.htm

これの何がどうっていうものでもないんですが
よくもここまで育て上げたもんです

http://www.flickr.com/explore/

こんなのも



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それは祈りのように

わずかに下向きにうつむいて
それは祈りの角度のようだ



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無数の実り

世界はひょっとすると
とんでもなく豊かなのだ



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コムスンのコマーシャル

コムスンのコマーシャルを見て、
私たちがどんな社会に生きているのかを考えた。

それは老人介護施設の一場面で、
利用者たちは椅子に座っている。
職員はゴムまりのようなものを手に持って、
ほほえみかけている。

そういえば
施設では風船バレーが好まれる。

先日は施設での虐待の話も出ていたので、
これでもいい方だということなのだろうか。

年をとるということは、
具体的に、こういうことだ。
親切な職員なら幸せだけれど、
親切な人がいますということがコマーシャルになるくらい、
そうでない人もいるということなのだろう。

私が幼稚園児のように扱われるのはいつからなのだろう。
いや、すでにして、そうなのかもしれない。
風船バレーを始めましょう。

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「千の風になって」

テレビで紹介していた。
翻訳もうまかった。
やたらに長くないのもいい。

アメリカで9.11に際して朗読された。
イギリスでテロの犠牲者が手紙に引用した。
日本でも受け入れられた。

詩の内容は実に感動的ですばらしいものだ。
この詩に慰められて生きているという人たちがいる。
言葉は力だ。

わたしはお墓にいるのではない
風となり光となり
あなたのそばにいる
あるいはどこにでもいる

死は忘却ではない
亡き者は生きる者の心に存在し続ける

*****
アメリカ、イギリス、日本の各国で受け入れられているということは
何を意味するだろう。
大岡信の文章で、日本の詩の特性について知ったばかりである。
もう、日本人独特の死生観などといっている時代ではないのだろうということだろうか。
独自のものと言い張ることなく、
共通の何か、共有できる何かを大切にすれば、
それがいいのかもしれない。
どの文化も、そのようにして内容を鍛え豊かにしてきたのだと思う。

作者不詳で、書くにあたってどのような状況・動機であったかがはっきりしていない点も、興味深い。
大岡信によれば、西欧の伝統は、個人の個性、才能、天才を評価するものであり、
一方、日本中世歌謡では、作者不詳が多く、成立の背景も分からないものが多い。
しかしこの場合には、
作者の個人的な事情など抜きにして、いい詩であると評価される、そんな作品である。

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読書「時間」の体験

このごろは、自分が書くことについてはやはり全く不満なのであるが、文章を読むことについては、かなり昔の感覚を取り戻しつつあるように思う。昔とは、私が大学院時代を過ごした頃のことだ。

当時は読書の中で筆者の言葉を味わいつつ、語りに乗って、ある瞬間に離陸し、ある時間は一定速度で空間を飛ぶ、そんな体験を持った。音楽の演奏をするように、時間を体験することができた。

その後私は社会の中で役割を持ち読書は青春期の習慣と割り切るようになった。細切れの時間をつなぎ合わせても読書の能率は悪く、没入する体験にまでは至らず、それならばいっそのこと、読書は要らないとまで考えるようになった。必要な情報を得るための読書になった。

日中にほとんどのエネルギーを費やし、精神労働をしていた。その他の時間はやはり休養が必要で、その場合は、映画など、やや受動的な態度でもすませられるものが適していた。読書は能動的なものなのだと思った。

ところが人生は私に再び読書の時間を与えてくれた。ここしばらく読書を優先する生活を取り戻している。読書は習慣であるから、すぐに昔のようにはならない。活字が滑ってしまうことが多かった。また、読書の質としても、きれいなひとかたまりの言葉を見つけて、桜貝を瓶に詰めるように、書き出して保存しておく、そんな時間が続いた。それでも私は楽しかった。仕事の時間に夢見ていた、読書生活の復活、それが実現しつつあるのだと思っていた。

谷川俊太郎の古いエッセイを読んでいる。
1950年代後半のものがある。言葉は古びていない。敢えてあげれば、「真空掃除機」という言葉があった程度で、言葉それ自体も、思考内容も、全く2007年時点で訂正を必要としない。
この本については、実に久々に読書の「時間」を体験しているのだ。谷川俊太郎がベートーベンについて書き、フォーレのレクイエムについて書いている。生活と詩について、書いている。青春について書いている。読書の中でフォーレのレクイエムを心のどこかで演奏し始める。
音楽を聴くことは時間を体験することである。圧縮もできないし、二倍速で読むこともできない。没入する他はない。谷川俊太郎の言葉に乗って、わたしは読書を体験する。
文章を「演奏」するのだとたとえてもいいだろうと思う。
言葉がきっかけとなり、私の中にある、複数の体験が、ひとつにまとまる。
あるいは、言葉が刺激となり、体験の構造が明らかになり、
また、体験同士の内的関連が明らかになる。
何という熟した体験なのだろう。わたしはこの時間に感謝する。



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「子供を産む機械」伊丹十三「日本世間噺大系」

面白かった。
ネタがいい。特に後半のインタヴュー。
言葉の選び方がいい。
・スーパー民主主義……田舎日本の選挙。
・クダショー……いろいろな解釈ができる。
・蜜柑……蜜柑の木を摘果する時のコツ。柑橘類の四大条件。接ぎ木の秘訣。
・クソ水……腸チフスの話。
・博物館……ドイツの博物館。
・天皇日常……インタヴューの中に「子供を産む機械」の語を発見。2007年2月現在、政治のキーワードのひとつである。文庫本の384ページ。

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戦争反対の声の、手前にあるべきもの

新聞で、戦争反対を表明し続けている人達を紹介していた。
それは、昨日よりも今日、さらに緊急の課題となっている。

そして考えてみると、自由が圧殺される道の、現在よりももう少し向こうに、
具体的な戦争はある。
いま、資本主義的支配が日本を苦しめている。
そのことを侵略と呼ばないか、
それを否定するための声を上げないか、
そう思う。
国民の財産と生命が危険にさらされているではないか。
我々はそれを守る意志を表明しないか。
資本の論理が世界共通語のように語られている現状は、
大きな間違いではないか。
かつて日本帝国が国民の戦争拒否を圧殺したと同じ手法で、
いま資本の論理は日本国民を圧殺している。
そう思う。

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日本語が私を語る

私が言葉を選ぶ時、
一方では日本語というシステムを語っている、また、
一方では個人の体験の集積を語っている。

よく考えてみると、私の体験という個人的で一回限りのように思えるものも、
結局日本語のシステムの範囲内に回収されている。

私が日本語を語るというよりは、
日本語が私を語るのだと思う。

悩む時、
日本語のシステムに内蔵された悩みをなぞって悩んでいるだけである。



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「あの素晴らしい愛をもう一度」

青年らしさの感覚がいつでも初々しい
一生のうちに一度でもこんな歌が作れないものかと思う

*****
「あの素晴らしい愛をもう一度」
北山修作詞・加藤和彦作曲

命かけてと 誓った日から
すてきな想い出 残してきたのに
あの時 同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

赤トンボの唄を 歌った空は
なんにも変わって いないけれど
あの時 ずっと夕焼けを
追いかけていった二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

広い荒野に ぽつんといるよで
涙が知らずに あふれてくるのさ
あの時 風が流れても
変わらないと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度



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ダイアナ・クラール歌 「ベサメ・ムーチョ」

ネットリネットリ深刻そうに責めてくれる。
ときに心地よい。

ベサメ・ムーチョは命令形で、
Kiss me many times(much).という感じらしいです。

フランス語でベーゼとかいいますね。
ベサ kiss
メ me
ムーチョ much

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谷川俊太郎「この純潔なるもの」推理小説について

推理小説についての短文である。
なるほどね。

現代に生きる我々が推理小説に求めるものは、
平和、静けさ、単純さ。
テレビドラマの水戸黄門と同じである。
すべては説明され、すべては理詰めである。

現実は混沌としていて、死の意味すら与えられていないのに、
推理小説の中には、美しく構成された、論理的な、完結した世界がある。
死には明確な意味が与えられている。
推理小説の中では、無意味に死ぬ者はいない。
その大いなる安心感。

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谷川俊太郎「沈黙のまわり」

前項の
大岡信は1995年の刊行である。

詩についての論ということでいえば、
谷川俊太郎「沈黙のまわり」のほうが印象的だった。
この本は1956年のエッセイなど、古いものだ。
しかし文章と観察は新鮮である。

中のひとつ、「世界へ!」は、面白かった。
詩と生活について、教えられるところが大きかった。

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大岡信「日本の詩歌」

コンパクトでクリアーだが、私としては不賛成の部分もある。

1.菅原道真
概ね賛成。漢詩が感動的かどうかにつては、個人的には感動的ではない。

2.紀貫之
和歌の成立と宮廷風景については明快な解説。
和歌には自然や超自然に働きかける力があるとする紀貫之の意見を、
和歌に独特のものと書いているようであるが、
これは、中国古典の「詩経」にすでに明白に見られるものと思う。

3.奈良平安の女流
くっきりと輪郭を描きたいと思うあまり、少しどぎつい論になっていると思うが、
いかがだろう?

4.叙景
叙景に託して心情を歌うのは、これも中国古典に広く見られる態度であろうと思う。
しかしながら、漢詩よりもさらに短い詩形の中で独自の発展を遂げたことは
確かである。
少ない言葉で多くを伝えるとすれば、多くの共通する知識や感情を前提とするだろう。
そのことだけが重要であって、
外界の事物と人間の感情が主客未分などというのはあたらないのではないかと思う。
フランス聴衆にサービスしすぎだろう。

5.中世歌謡
遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけむ
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそ動がるれ

この歌について、小西甚一説を紹介、有益と思う。
遊び、戯れの語は、いずれも、男女の性交渉を表現する言葉と解釈する。
遊び戯れている女の子を見ながら、遊女がその少女の行く末の運命を思いやり、
自分と同じようにこの子もやがて哀れな遊女に身を落とすことになるのだろうかと、
深い哀感に襲われているとするもの。

富裕な商人階級の出現などを社会背景として歌謡の成立を
説明するのは明快と思う。

社会の下部構造から上部構造を説明する方式であるが、
少し単純化しすぎているかもしれないと思う。

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皮膚粘膜移行部

皮膚粘膜移行部という部分が人間にはある。

例えば、口の中は、粘膜部分。
顔の表面は皮膚。
その中間にあるのが、皮膚粘膜移行部で、唇のことである。

唇を舌でぬらせば、口の中と同じように、粘膜の状態になる。
乾けば、皮膚と同じようになる。
両方の性質を持つ部分があることで、
とても便利なのだ。
食事に便利だけれど、
赤ん坊が母の乳首を吸う時、
乳汁をこぼさないのは、
唇が粘膜のようになって、ぴったり吸い付くからである。

別の場所でいえば、性器がそうである。

ヘルペスウィルスは、皮膚粘膜移行部を好む。
これも不思議な性質である。
いったん感染すると神経核部分に潜伏し、
免疫機能が低下した時などに、皮膚粘膜移行部付近に発疹を形成する。
どんなメカニズムなのか、考えるけど、
勿論、分からない。

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映画「ドクトル・ジバゴ」(6)

運命がすべてを押し流す。
暴力と飢餓と肉欲と、そんなものの前では人間はあまりに無力である。
翻弄されるばかりである。

ロシアという国についていえば、
テニスのシャラポアを生んだ国である。
それだけで、尊敬してしまうのだ。

ジバゴとラーラは医師と看護士として苦労を共にした。
この一体感は他に替えがたいものがあるだろう。
医師と看護士という男女のペアは、古くから最強の組み合わせではないかと思う。
男と女の根本はそんなふうにできているのだろうね。

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映画「ドクトル・ジバゴ」(5)

ロシアの革命によって財産が没収される時の感覚。
こんなこともあるなあと思う。

現代日本でも、倒産すると、財産は没収される。
あるいは、会社買収や役員改選や、そんな変動によって、
いままで当然に自分のものだと思っていたものについて、
所有権を剥奪される。
その理不尽さ。
一部は非合法で一部は合法である。
合法的なものまで含めて嘆くなら、「甘い」ということなのだろう。

でもね、これは自分で働いて、こつこつ蓄えたものじゃないでしょう。
合法的な横取りでしょう。
そんなことが人間の感覚として、許されるものだろうか、と思う。

合法的ながら、行為自体は、泥棒だ。

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映画「ドクトル・ジバゴ」(4)

大変な運命を非常にタフに生きているわけです。
これは素晴らしいスタミナですね。
この人たちは生活費をどのようにして工面していたのだろう。
一面に雪景色だけれど、あのふぶきの中で、どのようにして食料を確保し、
暖房燃料を確保したのか。
まず飲料水を確保するだけで大変だったろうと思う。
そんなのに比較すると、現代の我々はひ弱になったのだろうか。

しかし、我々の遺伝子は、過去を生き抜いてきた遺伝子である。
だから、いざとなれば結構強いのかもしれない。
また、現代のストレスは違う方面で問題になっているわけで、
例えば、「食べ過ぎてはいけないストレス」とか、
「用もないのに走って、体重を一定に保つストレス」とか、そんなものになっている。
都会にやたらにたくさんの似た人が集まって、厳しい仕事をしているのも、
特徴ではないか。
みんな電車の中で活字を追い、音楽を聴いている。
通勤に満員電車で片道一時間。
ばかばかしくならないのかね。

現代人もやはりタフだな。

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映画「ドクトル・ジバゴ」(3)

ソ連邦成立に至る武力闘争が描かれているのだが、
政治的志があるとして、どこで戦うかは、
やはりかなり考慮する余地があると思われる。

現在の日本でいえば、
1.政権与党内で勝ち残り、権力に至る。
2.野党側で、権力を目指すが、現体制を維持する。土俵は壊さない。
3.土俵を壊す。体制を壊す。権力を握ったら憲法改正する社会主義革命など。

民主党・鳩山氏の場合など、むしろ、自民党内で順番待ちしていた方が、
権力には近かっただろうと思う。
自民党・河野洋平氏の場合には新自由クラブで回り道をした。それが良かったのか悪かったのか、難しい。



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映画「ドクトル・ジバゴ」(2)

映画の中で、ジバゴがラーラを好きになり愛し合うに至るのは、
運命であり、仕方がないことのようである。
むしろ肯定的に描かれている。
無論、現実にラーラのような女性が現れていろいろあったとすれば、
男性は恋愛感情を開花させてしまうのは仕方ないのかもしれない。
小説では、そのような圧倒的な魅力を持つ女性を描くことが目的なのだろうから、
人物造型としては成功しているともいえるだろう。

映画の中で、ラーラを讃える詩がどんなものなのか、
紹介はなかった。

しかし、女性としては、「やってらんないよ」という気持ちもあるだろう。
どんなに魅力的な異性を前にしても、礼節はあるはずである。

でも、それは百も承知で、六ヶ月も医師と看護士として仕事を共にしても、
一線を越えなかった、分別のある大人の二人で、
しかし、再び偶然が導いてしまって、
それが運命だったのだ、
そんなにもナイスな男性とナイスな女性が存在したのだと描いているのだから、
それで特に目くじらを立てるものでもないのだが、
それにしても、勝手なものである。

革命の混乱、厳しい運命、厳しい気候、すべてを考慮する必要がある。

しかし、それは、
決して高級な感情ではないことを
言い添えておきたい。

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映画「ドクトル・ジバゴ」

パステルナーク原作。いつか読もうと思って二冊組みの翻訳を買ってあるが、いまだに読む機会がない。
どうせ長いので億劫でもある。
映画は、全体で3時間20分の長編である。
しかし最近はドラマを一気に見たりするので、途方もなく長いとは思わない。
筋書きにかなり起伏があり場面も転換するので、その点でも、飽きない。

演技はいいと思う。たとえば、お互いにどうしようもなく惹かれて、
抱き合う場面など、いけないことなのに、どうしようもなく、という表現ができていた。
別れの場面は痛切である。その痛切さを動作で表現できていた。

たっぷり時間をかけて、
ねっとり絡みつく、いい味である。

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日本映画「隠し剣 鬼の爪」

珍妙な方言。
セリフと動作と映画の中での意味が、ずれていて、
そのずれに苦しみ、観客は吐き気を催す。
映像で香りを感じさせる映画もあるそうだが、
この映画は映像で吐き気を感じさせる、
大変な意欲作である。そして成功している。
映画を楽しみに来た客に、吐き気を感じさせて退散させるのだから、
客としてはよいプレゼントをもらってありがたい限りである。

藤沢周平は好きなほうだ。

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白黒映画「ジェーン・エア」

名画のひとつ。高校生の頃ダイジェスト版を読んだ。
それ以後何度か見ていると思う。

*****
私も昔は純情だった

運命が私を変えた

異教徒 邪悪な心

*****
紙芝居みたいなもの。名優が出ているが演技というほどでもないように思う。
最近のアメリカ映画よりはきちんとした英語なのだろう、多分。
頭が疲れている時にボーッと見るにはちょうどいい。
Yahoo動画で見たけれど、CMも無いようでいいですよ。

http://player.streaming.yahoo.co.jp/player/player.html?s_id=t&cp_id=00041&pg_id=v00056&co_id=v0005600000000314464&spid=2013000240&hash=548f849d9d5c1afdd4baadd44ae473ab&ev=1



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ドラマ「ハゲタカ」(2)

資本の論理で言うと、巨大資本の勝利は明白で、
弱小資本がどのように工夫して対抗していくかと言っても、
なかなか方法はないようだ。
巨大資本は当然、グローバリゼーションを求める。

歯止めは、「国家統制」くらいしかないが、
国家もやがて資本に取り込まれる。
時間の問題である。

しかしまた、巨大資本の側も、巨大化すればするほど、
会社員が運営決定することになってしまう。

ソフトバンクの孫子のようになるにはなかなか大変だ。
堀江氏とその側近たちの挫折をニュースショーでさんざん見せられたばかりである。
この国はまだまだあまちゃんで、アメリカで数年前に起こったことを後追いしているわけだ。
後追いしていると思っていたら、少子高齢化が、アメリカやイギリス以上に進んで、なかなか先輩の通りにはできないのだった。

リスクを背負ってビッグ・リターンを狙うとして、
そんな人生よりも、
たとえば研究職として、才能を開花させたいと思う、そういう人も多いだろう。

人の攻撃性にはかなりの差がある。
また、文化の程度が高次になれば、攻撃性を礼儀で包むようになる。
しかし、実際、むき出しの人間の攻撃性は甚だしいものがある。
そんな中で生き抜こうと志を立てる人もいるが、
早々に撤退を決めて、美の鑑賞や真実の探求に身を投じる人もいる。

むき出しになった攻撃性は
どれだけ人を絶望させるだろう
負かしてやってもいいが
空しいだけだと思うほどだ

しかし、そんな感想を「あまちゃん」だというのである。
「どんな生き方」の話ではなくて、ただ「生存する」だけのレベルを言っている。
「生存」するために、人間は攻撃性をぶつけ合い、
欺き合い、罵倒し合うのである。
「隠居」できるなら結構、いいご身分だということだ。
そんなことさえできなくなっているのが、グローバリゼーションの現代である。

でもなあ、難しいものだ。
ハゲタカがいるからといって、
自分もハゲタカになるとも決まっていないだろう

確かに人の悪意や攻撃性にさらされる時はたまらない
「骨身にしみた」とも感じるものである
しかしその先を考えるのもまた高等な人間の知恵というものだろう

結論ではなく、希望として、そう思う

「あまちゃん」が多いもの事実であるが
そんな人たちを信じたいとも思うのだ

ハゲタカも一貫して冷血なのでもない
教会に行ってチャリティに一所懸命である
その矛盾がまた観察者にとっては面白い
生きている感覚が違うのだろう

*****
資産のない人間が如何にして良心を売り渡さずに生きるか
それが問題である

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音と画像の再生 幻聴と幻視

音の再生と画像の再生はかなり違うようだ

音というものは、そのまま音である。ステレオでもモノラルでもいいが、小鳥のさえずりを再生して、像が見えない方向から音を出していれば、あれ、ここに小鳥でもいるのかなというくらいの認識である。

画像というものは、いつも三次元だと思っている。しかし、三次元の画像再生装置は一般的ではない。再生しているのは、二次元像である。
二次元像を見て、あれ、ここに本物がいるのかなと思うことはまずない。小鳥の像が映っていても、そこに手を伸ばしてみることはない。

幻聴が一般的で、幻視はそれよりも稀であるが、こんなところに原因があるのかもしれない。

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