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「千の風になって」

テレビで紹介していた。
翻訳もうまかった。
やたらに長くないのもいい。

アメリカで9.11に際して朗読された。
イギリスでテロの犠牲者が手紙に引用した。
日本でも受け入れられた。

詩の内容は実に感動的ですばらしいものだ。
この詩に慰められて生きているという人たちがいる。
言葉は力だ。

わたしはお墓にいるのではない
風となり光となり
あなたのそばにいる
あるいはどこにでもいる

死は忘却ではない
亡き者は生きる者の心に存在し続ける

*****
アメリカ、イギリス、日本の各国で受け入れられているということは
何を意味するだろう。
大岡信の文章で、日本の詩の特性について知ったばかりである。
もう、日本人独特の死生観などといっている時代ではないのだろうということだろうか。
独自のものと言い張ることなく、
共通の何か、共有できる何かを大切にすれば、
それがいいのかもしれない。
どの文化も、そのようにして内容を鍛え豊かにしてきたのだと思う。

作者不詳で、書くにあたってどのような状況・動機であったかがはっきりしていない点も、興味深い。
大岡信によれば、西欧の伝統は、個人の個性、才能、天才を評価するものであり、
一方、日本中世歌謡では、作者不詳が多く、成立の背景も分からないものが多い。
しかしこの場合には、
作者の個人的な事情など抜きにして、いい詩であると評価される、そんな作品である。

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読書「時間」の体験

このごろは、自分が書くことについてはやはり全く不満なのであるが、文章を読むことについては、かなり昔の感覚を取り戻しつつあるように思う。昔とは、私が大学院時代を過ごした頃のことだ。

当時は読書の中で筆者の言葉を味わいつつ、語りに乗って、ある瞬間に離陸し、ある時間は一定速度で空間を飛ぶ、そんな体験を持った。音楽の演奏をするように、時間を体験することができた。

その後私は社会の中で役割を持ち読書は青春期の習慣と割り切るようになった。細切れの時間をつなぎ合わせても読書の能率は悪く、没入する体験にまでは至らず、それならばいっそのこと、読書は要らないとまで考えるようになった。必要な情報を得るための読書になった。

日中にほとんどのエネルギーを費やし、精神労働をしていた。その他の時間はやはり休養が必要で、その場合は、映画など、やや受動的な態度でもすませられるものが適していた。読書は能動的なものなのだと思った。

ところが人生は私に再び読書の時間を与えてくれた。ここしばらく読書を優先する生活を取り戻している。読書は習慣であるから、すぐに昔のようにはならない。活字が滑ってしまうことが多かった。また、読書の質としても、きれいなひとかたまりの言葉を見つけて、桜貝を瓶に詰めるように、書き出して保存しておく、そんな時間が続いた。それでも私は楽しかった。仕事の時間に夢見ていた、読書生活の復活、それが実現しつつあるのだと思っていた。

谷川俊太郎の古いエッセイを読んでいる。
1950年代後半のものがある。言葉は古びていない。敢えてあげれば、「真空掃除機」という言葉があった程度で、言葉それ自体も、思考内容も、全く2007年時点で訂正を必要としない。
この本については、実に久々に読書の「時間」を体験しているのだ。谷川俊太郎がベートーベンについて書き、フォーレのレクイエムについて書いている。生活と詩について、書いている。青春について書いている。読書の中でフォーレのレクイエムを心のどこかで演奏し始める。
音楽を聴くことは時間を体験することである。圧縮もできないし、二倍速で読むこともできない。没入する他はない。谷川俊太郎の言葉に乗って、わたしは読書を体験する。
文章を「演奏」するのだとたとえてもいいだろうと思う。
言葉がきっかけとなり、私の中にある、複数の体験が、ひとつにまとまる。
あるいは、言葉が刺激となり、体験の構造が明らかになり、
また、体験同士の内的関連が明らかになる。
何という熟した体験なのだろう。わたしはこの時間に感謝する。



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「子供を産む機械」伊丹十三「日本世間噺大系」

面白かった。
ネタがいい。特に後半のインタヴュー。
言葉の選び方がいい。
・スーパー民主主義……田舎日本の選挙。
・クダショー……いろいろな解釈ができる。
・蜜柑……蜜柑の木を摘果する時のコツ。柑橘類の四大条件。接ぎ木の秘訣。
・クソ水……腸チフスの話。
・博物館……ドイツの博物館。
・天皇日常……インタヴューの中に「子供を産む機械」の語を発見。2007年2月現在、政治のキーワードのひとつである。文庫本の384ページ。

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戦争反対の声の、手前にあるべきもの

新聞で、戦争反対を表明し続けている人達を紹介していた。
それは、昨日よりも今日、さらに緊急の課題となっている。

そして考えてみると、自由が圧殺される道の、現在よりももう少し向こうに、
具体的な戦争はある。
いま、資本主義的支配が日本を苦しめている。
そのことを侵略と呼ばないか、
それを否定するための声を上げないか、
そう思う。
国民の財産と生命が危険にさらされているではないか。
我々はそれを守る意志を表明しないか。
資本の論理が世界共通語のように語られている現状は、
大きな間違いではないか。
かつて日本帝国が国民の戦争拒否を圧殺したと同じ手法で、
いま資本の論理は日本国民を圧殺している。
そう思う。

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日本語が私を語る

私が言葉を選ぶ時、
一方では日本語というシステムを語っている、また、
一方では個人の体験の集積を語っている。

よく考えてみると、私の体験という個人的で一回限りのように思えるものも、
結局日本語のシステムの範囲内に回収されている。

私が日本語を語るというよりは、
日本語が私を語るのだと思う。

悩む時、
日本語のシステムに内蔵された悩みをなぞって悩んでいるだけである。



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「あの素晴らしい愛をもう一度」

青年らしさの感覚がいつでも初々しい
一生のうちに一度でもこんな歌が作れないものかと思う

*****
「あの素晴らしい愛をもう一度」
北山修作詞・加藤和彦作曲

命かけてと 誓った日から
すてきな想い出 残してきたのに
あの時 同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

赤トンボの唄を 歌った空は
なんにも変わって いないけれど
あの時 ずっと夕焼けを
追いかけていった二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

広い荒野に ぽつんといるよで
涙が知らずに あふれてくるのさ
あの時 風が流れても
変わらないと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度



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ダイアナ・クラール歌 「ベサメ・ムーチョ」

ネットリネットリ深刻そうに責めてくれる。
ときに心地よい。

ベサメ・ムーチョは命令形で、
Kiss me many times(much).という感じらしいです。

フランス語でベーゼとかいいますね。
ベサ kiss
メ me
ムーチョ much

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谷川俊太郎「この純潔なるもの」推理小説について

推理小説についての短文である。
なるほどね。

現代に生きる我々が推理小説に求めるものは、
平和、静けさ、単純さ。
テレビドラマの水戸黄門と同じである。
すべては説明され、すべては理詰めである。

現実は混沌としていて、死の意味すら与えられていないのに、
推理小説の中には、美しく構成された、論理的な、完結した世界がある。
死には明確な意味が与えられている。
推理小説の中では、無意味に死ぬ者はいない。
その大いなる安心感。

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谷川俊太郎「沈黙のまわり」

前項の
大岡信は1995年の刊行である。

詩についての論ということでいえば、
谷川俊太郎「沈黙のまわり」のほうが印象的だった。
この本は1956年のエッセイなど、古いものだ。
しかし文章と観察は新鮮である。

中のひとつ、「世界へ!」は、面白かった。
詩と生活について、教えられるところが大きかった。

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大岡信「日本の詩歌」

コンパクトでクリアーだが、私としては不賛成の部分もある。

1.菅原道真
概ね賛成。漢詩が感動的かどうかにつては、個人的には感動的ではない。

2.紀貫之
和歌の成立と宮廷風景については明快な解説。
和歌には自然や超自然に働きかける力があるとする紀貫之の意見を、
和歌に独特のものと書いているようであるが、
これは、中国古典の「詩経」にすでに明白に見られるものと思う。

3.奈良平安の女流
くっきりと輪郭を描きたいと思うあまり、少しどぎつい論になっていると思うが、
いかがだろう?

4.叙景
叙景に託して心情を歌うのは、これも中国古典に広く見られる態度であろうと思う。
しかしながら、漢詩よりもさらに短い詩形の中で独自の発展を遂げたことは
確かである。
少ない言葉で多くを伝えるとすれば、多くの共通する知識や感情を前提とするだろう。
そのことだけが重要であって、
外界の事物と人間の感情が主客未分などというのはあたらないのではないかと思う。
フランス聴衆にサービスしすぎだろう。

5.中世歌謡
遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけむ
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそ動がるれ

この歌について、小西甚一説を紹介、有益と思う。
遊び、戯れの語は、いずれも、男女の性交渉を表現する言葉と解釈する。
遊び戯れている女の子を見ながら、遊女がその少女の行く末の運命を思いやり、
自分と同じようにこの子もやがて哀れな遊女に身を落とすことになるのだろうかと、
深い哀感に襲われているとするもの。

富裕な商人階級の出現などを社会背景として歌謡の成立を
説明するのは明快と思う。

社会の下部構造から上部構造を説明する方式であるが、
少し単純化しすぎているかもしれないと思う。

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