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エクセグランとトピナ

ガミーの本を読んでいたら
うつ病を反復してしかも摂食障害があるときには
エクセグランとトピナ
がいいと書いていた

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精神科専門医師募集

精神科専門医師募集

1.外来診察業務

2.新橋・品川

3.休日、年俸相談

4.性別不問、年齢35歳から40歳くらいまで 

5.精神保健指定医、精神神経学会認定医、必須

6.必要なものは情熱、コミュニケーション能力が高いこと




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うつで品川心療内科に通って3ヶ月までの本 電子出版

http://p.booklog.jp/book/40509

というのを試しに作ってみました
内容はこのブログに書いてあるものと同じです

自分で電子出版するときのご参考になれば 



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謹賀新年2012-1-1

謹賀新年2012-1-1

新橋心療内科は2012-1-4から開始
品川心療内科は2012-1-5から開始です

よろしくお願いいたします。 

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こんなにも親身になってくれた人

自分が苦しいときに
こんなにも親身になってくれた人がいたことを
ずっと忘れないでいようと思う

これはいま、強く、思う

人を援助することが仕事になってしまうと
「親身」の度合いもやや薄くなってしまうものだ
それが毎日の仕事だといえばそうであるが
本当に苦しい思いをして専門家を頼ってやってきた人が
事務的な扱いをされたりすると
やりきれないことはよく分かる
困っている人にとってはそれは人生に一度か二度の特別なことなのだ
しかし医者にとっては病気に接するのは毎日のことである
そこの立場の差はやはりどうしても微妙に存在する

苦しむ人はどうしてこの気持ちが伝わらないのだろうと
自分を無力にも思い
この世界を理不尽にも思い
また誰か特定の人を恨んだりもし
結果としてあまり未来建設的にはならないことも多い

苦しむ人は自分を客観的に過不足なく表現することも難しい
それが苦しむということの本質でもある
ポイントを平明に短く言えたら
そろそろ卒業ということになるはずだ

わたしとしては、まず未来を向こう、そして少しでも幸せになろう、
そのために何が必要なのか、一緒に考えよう、そう思う

過去への怨念に凝り固まって幸せになれるはずもない
そんなことのために生まれてきたのでもないはずだ

しかし人間はしばしば視野狭窄に陥る
これが孤独というものだ
孤独の中で過去の不幸しか見えなくなってしまう

だから連帯するのだ
脳と脳をつなげて
並列コンピュータにするのだ
そのようにして助け合おう

わたしも苦しいときにこんなにも助けてもらったのだ
その身にしみてありがたい体験を忘れないでいよう
苦しいときにどのようにしてもらったらありがたかったか忘れないでいよう
自分なりに体験があれば
それを参考にすることはできるはずだ

忘れないために
ここに書き記す


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問題は、ひとつずつ解決するしかない

問題は、ひとつずつ解決するしかない。
それしかない。

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未来を恐怖し、過去を後悔する

未来を先取りして悩むとき、
それは恐怖につながる。
恐怖症は未来の病理である。

パニックは不安の極端な形で、未来型である。

中井久夫氏は徴候型知覚という言葉を提唱していて、
わずかの徴候から、
未来を、それも多くは、悪い未来を予測する知覚能力で、
敵が来たとか、嵐になるとか、
微細な徴候をとらえる。
統合失調症型の人間に特徴的である。
これも未来の病理である。

過去を後悔して、
取り返しがつかないと悩む。
それはメランコリー型うつ病の特徴である。
これは過去の病理である。

PTSDのフラッシュバックは過去が現在に蘇る。
過去型の病理である。

てんかんは現在型の病理である。
過去にくよくよしないし、未来にくよくよしない。

*****
過剰に予測する人と
過剰に振り返る人と。

最近では、
会社恐怖のうつ病という人がいて、
それは未来を恐怖しているうつ病ということで、
どう見ても、定義からいって、矛盾しているように思われるが、
恐怖症は現在症で、うつ病は根本にある病理と考えてもいい。

*****
恐怖症は、妄想と違うのかといわれれば、難しいところもある。

その怖いものが、蛛ではないのに「蛛」だというなら、妄想幻覚であるが、
蛛を蛛といって、「怖い」というなら、妄想はないように思うが、
それを妄想ではないとどうして言えるだろう。

高所恐怖なら恐怖症だが、
平地恐怖は妄想ということになってしまうのかもしれない。

異性恐怖は妄想かもしれない。
被害妄想との境界線は難しいところがある。

症状は恐怖症で、
性格構造はメランコリータイプとか、
そんな言い方もできる。

しかし昔ながらの言い方で言えば、
メランコリータイプは恐怖症を症状とはせず、
むしろ過去を悔いることを根本とする。

そこの変化が現代的と言えば現代的だし、
うつ病ではないと言えばうつ病ではないとも言えるところだ。

*****
最近は、過去を悔いる人にも、未来を恐怖する人にも、効く薬があって、
まことに便利である。
だから、病理が相互乗り入れするのも、特に問題は、ない。

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変えられるものと変えられないもの

ニーバーの祈り

神よ、

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

THE SERENITY PRAYER
O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.

Reinhold Niebuhr


変えられるものは変える勇気をください
変えられないものは心静かに受け入れることができますように
という話なのだが

実際、
過去と他人は変えられない

変えられるのは未来と自分である

ーー
ところが現実には
未来は変えられそうでなかなか変えられない
自分についても変えられそうでなかなか変えられない
「わかっちゃいるけどやめられない」

他人は変えられないけれど
これは人間関係であるから
こちらが変われば相手が変わる可能性はある
「他人」を変えると考えずに「関係」を変えると考えれば
「関係」を変えるのには、こちらも半分イニシアチブがあるはずだ

過去は変えられない
これは固い真実のようでもあるが
実はそうでもない

過去の結果としての預金通帳とか
公的な経歴とか
そんなものは当然変えられない

しかしながらわたしがいつも目撃するのは
認知症病棟で
過去の素晴らしい肩書きを持った人が
すべてを忘れて風船バレーをしている姿である

県議会議長、国会議員、会社創業者、テレビに出ていた有名人、
みんな仲良くおむつをして風船バレーである
軍歌を歌って機嫌がいい

過去は変えられないのだろうか
この人たちの場合、変えたいと思ったわけではないが、大幅に変わってしまった

目をつむっても、彼らの心に過去はよみがえっては来ない
彼らのこころの中にある過去は小学生時代のことなど
無論、客観的な事実関係としては、過去は存在しているに決まっている
しかし認知症になれば
人生の細部としての過去は失われている
過去の外枠が残っているだけだ

そう考えると
過去はやはり、本質的に、ない
目をつむって考えてみると
過去の感情は
幻のようでもある

わたしが忘れてしまえば
多分誰も覚えていない記憶もたくさんある

その意味で過去ははかないし、存在しないと言ってもいい、
頭の中に残っているだけだ

だとすれば頭の中で急激に失われることもあるわけだし
頭の中で徐々に変形されることも多いわけだ

自分が会社創業者であったことを忘れるのはつらいけれど
自分が会社や学校でいじめられたことも、認知症と同じ原理で、忘れられるのだ

これは過去は変えられる可能性があると言うことだ

過去を変えるという場合、全体的に忘れてしまう方法もあるのであるが
むしろ忘れられないので困るのがいやな過去というものだから
その解釈とか意味づけを変えていくことはできるはずだ

おおむねを言えば
人間は現在が幸せになれば過去をも幸せに解釈するものなのだ

酒を飲めば不幸自慢や病気自慢をするものだけれど
「にもかかわらず俺は立派だ」と語り続けるのである
これも認知の変更の一例ではある

現在が不幸になれば過去をも不幸に考える傾向がある

だとすれば
いやな過去を変える方法は現在と未来を幸せにしてしまうことなのである
簡単なことだし誰でもそうしたいと思うことだし目標としてはとてもまともである

過去をどのようにこころの中にしまっておくかと考える時間があったら
幸せな未来になるように努力した方がいいというのがわたしの結論である

過去に決着を付けるために未来を幸せにするのである

ーー
つまり、過去も他人も変えられる、これがわたしの主義である

ーー
人生だから、それは、いろいろとあった。
しかし目をつむってみて、どうだろう、ほとんどのことは自分のこころの中にあるだけで、
存在しないのと同じではないか。

あのときいやな思いをしたと言っても、
それをした人はもう覚えていないだろう
覚えているのは自分だけ
そして自分が忘れてしまえばもうほとんど存在しないのだ

だとすれば
そんなものは思ってみるだけ無駄というものだ

そして幸せになれば
そんなことも幸せの彩りをまとって記憶の中にあらわれるものだ

たとえば、あのことでわたしは成長できたと思うこともできるのだ

ーー
人に何か言われたという種類のことは
自分の記憶にあるだけで
思い出さなければないのと同じだ

なぜいやな記憶を思い出すかと言えば
いまが不幸だからだ

だから
「ああこんないやなことを思い出すなんて
自分の人生はいま不幸なんだな、人生に申し訳ない、
未来を切り開こう」と考えたらいいのだ

しあわせになれば
ほとんどすべての過去を赦し、受け容れることができるようになる

ーー
だからわたしの場合、ニーバーの祈りは

変えられるものは変えてしまおう
変えられないものがつらいと感じられるのは
いま不幸せだという信号である
だから幸せになって変えられないものも変えてしまおう

となる

ーー
たとえば
子どもが交通事故で死んでしまったとして
そのことがつらいと心を痛めているとする

そのつらさは、心を未来に向けたからといって、現在が幸せだからといって、
なくなるわけではない。

考え方を変えたとしても
子どもの死がうれしくなるはずもない

しかしそのことを遠くから眺めるような気持ちで、鏡のような湖面、というイメージのこころで、
受容する日が来るのかもしれない

人類の歴史、宇宙の歴史、膨張する宇宙、脳内物質の動き、いろいろなことを考えて、
イメージを組み直し、鍛錬し精錬しようではないか

つらいが不可能はない

そしてつらいことや不幸はこの世に満ちていて
その点では人々は連帯できるはずなのだ


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神経伝達など

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