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神の存在を私が知ること-2

問題なのは、
神が存在するかどうかではなくて、
神の存在を私が知るかどうかなのだ。

知っても知らなくても何も世界が変わらないとき、
知ることには何の意味があるだろう。

と書いた。

知ることによって世界のありようが変わるのが、
ベイズ確率である。

ベイジアンは主観的確率を問題にする。

ある問題に関してどれだけ情報が明らかにされているかの問題である。
ある情報が明らかになったとあとでは、世界が変わる。

『マトリックス』は、「白ウサギの後を追え」とパソコンに表示されるように、
『不思議の国のアリス』につながってゆくのだが、
一面では、ベイジアン的世界解釈を提示していると見ることが出来る。

例えば,A が女性であること,Bi が学年( i = 1,2,3,4 )としたとき,Pr{Bi | A} は,ランダムに抽出した学生が女子学生であるとわかったとき,その学生が Bi 学年である確率を表す。

ひとつの情報を知ったあとでは、
世界のありようの確率が変化する。

わたしはコペンハーゲン解釈を否定し、エヴェレット解釈(多世界解釈)を採用している。
世界は量子力学で提示される確率のとおりに存在していると考えるので、
神の存在を私が知るかどうかで、
世界のありようは変わることになる。

これは客観確率は変化しないが主観確率が変化するということだ。

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新しい科学的真理が勝利を収めるのは、反対者を説得して新しい光が見えるように転向させることによってではない。ゆくゆくは反対者が死に、新しい考え方に馴れた若い世代が育ってくるからである。
~マックス・プランク~

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アリスといえば、
何かのおまけでシリーズになっていた、アリスの人形シリーズをいただいたことがあり、
鏡の前に立つアリス、笑うチェシャネコ、外套を着た白兎、三月ウサギ、
その他にもいくつか、飾っていたものだった。

その人からは、
猫のないにやにや笑い
のことを教えてもらった。



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