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人生をかけるに足る真理探究と現実対応 胎児の人権

試験というものは、ガリレオ・ガリレイのように、
「それでも地球は回っている」と
カトリック教会を相手に回して闘うことではないのだ
と書いた。

書いていて、やっぱり科学はいいと思った。真理探究である。
真理も相対的と言われようが、そんなことは外側で議論してくれればいい。
内側では、くっきりと真理があるのだから、取り敢えずはそれでいい。
一種の取り敢えず主義である。

社会科学というが、社会科学のどこが科学なのか、さっぱり分からない。
そのうち科学になりたいという気持ちは分かるが、
科学になってから標榜してはいかがか?

自然科学のいいところは、実験で証明できるところで、
理不尽な人事もあり、イジメもあり、予算枠もあり、いろいろと問題があるとしても、
結局実験できるのだし、当座は無理でも、長い時間の後には正しいことが証明されたりもする。
そのことのためになら、人生をかけてもいいではないか。

たとえば、夫婦喧嘩があって、どっちの言い分がどれだけ正しくて、慰謝料はどうするとか、
そんなことに付き合ってみても、どうも永続する価値には結びつかない。

たとえば、犯罪があって、その構成要件はどうで、妥当な量刑はどうかなどという議論も、
地球は回っているかどうか、のような、真実をめぐる議論ではない。

会社の会計をどのよにすれば税務署も株主も納得してくれるかなどに至っては、
真理とはかなり遠い感じもする。
ガラス張りにして全部出すべきものだと思うが、よく分からない。

*****
逆に言えば、地球が回っているのかとか、神は存在するのかとか、
一時的に棚上げにしておいてもいい程度の問題ではある。

当面、生活費をいくら、養育費をいくら、出さないのなら差し押さえとか、そんな話のほうが
母子が当面きていくには大切だ。

収賄罪を構成する要件はこう、罪刑はこう、と決めて、どの程度の社会的抑止力があるかを議論するのが、とりあえずは大切だ。

生きる意味については当座よく分からないところもあるが、
目の前にある命は助けたい、それも大切だ。

*****
これは真理探究の気分に通じるのだけれど、
自分を主張できない人の人権を代弁するという仕事があり、大切だ。
たとえば、精神障害者がそうだ。
相手を充分説得できない場合がある。
その場合、代理となって、本当は、こういうことが言いたいのだと、説明する。

またたとえば、胎児や子供の人権である。
胎児が堕胎されようとしているとき、胎児は何を叫んでいるか、
それを代弁する人間が必要だと思う。
父母、そのまた両親、周辺の人、いろいろと事情はあるだろう、
しかし、胎児は自分の立場を主張できない。
それでも、命である。
むしろ未来の命であり、
今生きている人が全部死んだ後に生きているかもしれない命であり、
その命のために代弁することは、
ガリレイの仕事と同じくらい大切なことだと思う。

胎児の人権はいつ発生するかと議論があり、
人間の側で恣意的に決めているが、
胎児としては、連続した人生を生きているだけで、
どこから人権が発生するかなど、生きている人間の決めた事情に過ぎない。

*****
堕胎に当たる産婦人科医師もある意味で死刑執行人といえるだろう。
苦悩は深いと思う。

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