A felicidade と 躁うつ
A felicidade の歌詞に
喜びは終わる
悲しみは終わらない
との一節があり、この部分を
喜びのあとには悲しみが来る
と訳している場合もある
喜びと悲しみが交代するという感覚と
悲しみはずっと持続してあり
喜びは始まっても短く終わるという感覚はずいぶん違う
躁うつもそんなものだ
躁とうつが交代すると昔から考えられているが
そうではなくて、
人間は根本的にうつなのであって、
躁成分が多くなるか少なくなるかで
状態が異なる
結果的には同じだろうと言われるが
わたしにとってはかなり違う
うつ成分は精神の大部分を占め、
いつでも存在し強力である。
それに対抗する形で躁成分と強迫成分が存在する
躁成分は刺激に反応してどんどん反応を増大させるので
いつかダウンする
そのようにして「波」が形成される。
それを「躁うつ」の交代の波と見てきたが、
そうではなくて、
躁の存在と不在なのである。
躁成分が波を描いている。
喜びは終わる
悲しみは終わらない
との一節があり、この部分を
喜びのあとには悲しみが来る
と訳している場合もある
喜びと悲しみが交代するという感覚と
悲しみはずっと持続してあり
喜びは始まっても短く終わるという感覚はずいぶん違う
躁うつもそんなものだ
躁とうつが交代すると昔から考えられているが
そうではなくて、
人間は根本的にうつなのであって、
躁成分が多くなるか少なくなるかで
状態が異なる
結果的には同じだろうと言われるが
わたしにとってはかなり違う
うつ成分は精神の大部分を占め、
いつでも存在し強力である。
それに対抗する形で躁成分と強迫成分が存在する
躁成分は刺激に反応してどんどん反応を増大させるので
いつかダウンする
そのようにして「波」が形成される。
それを「躁うつ」の交代の波と見てきたが、
そうではなくて、
躁の存在と不在なのである。
躁成分が波を描いている。