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The Law フレデリック バスティア著-1

The Law

フレデリック バスティア著
First published: 1850, in French
― 序文
法が悪用されている!そして国家の警察権力も、法と共に悪用されている!
法が、本来の目的を失っているだけでなく、その本来の目的と完全に反対の目的に使われているのだ!
法は、あらゆる種類の貪欲の道具となった!
犯罪を監視する代わりに、法そのものが、本来なら罰すべき邪悪で犯罪的なものとなっている!
これが真実なら深刻な事実である。そして道徳上の義務から、私は市民の仲間への注意の喚起を呼びかけるのだ。
1.人生は神からの恵み
我々は、神から与えられたある恵みを抱いており、それは他の全ての恵みを含んでいる。
それは生命である。肉体的で、知的で、道徳的な生命である。
しかし、生命はそれのみでは維持されない。創造者は、我々に生命を保持し発展させ完遂する責任を与えた。これを達成するために、神は我々に素晴らしい能力をまとめて与えられた。そして神は、多種様々な自然資源の中に我々を置かれた。
この自然資源を、我々の能力を用いて製品にし利用する。
このプロセスが、人生を神の定められた道に進ませる上で必要となる。
生命、能力、製品―別の言葉で言えば、個人、自由、財産―これが人間である。
そして、狡賢い政治的指導者がいかに巧みに偽ろうとも、神に与えられたこの3つの恵みは、人間のあらゆる立法に先立ち、また優先するのである。生命、自由、財産は人間が法を作ったから存在するのではない。反対に、生命、自由、財産が、法に先だって存在していたというのが事実であり、これらが最初に法を人間に作らせたのである。
2.法とは何か?
では、法とは何か? 法とは個人の権利である合法的な防衛行為を集団的体制としたものである。
我々一人一人は、一つの自然権を、神から与えられている。
この権利は、自分自身、自分の自由、自分の財産を守るという権利である。
これらは、人生における必要条件である。
そして、この3つの内の、どの一つの権利を守るうえでも、他のもう2つの権利が確保されて
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いる必要がある。
我々の能力は、自分の人間性を発展させる以外に何の役に立つというのか?また、能力を発展させる上で役に立たない財産などあるのだろうか?
人間は誰でも、たとえ武力に訴えようとも、自分自身と、自らの自由と、自らの財産を守る権利を持っているとするならば、個人の集まった集団は、これらの諸権利を恒常的に守るために集団的武力によって維持する権利があることになる。
このように、集団的権利の原則―その存在理由、その合法性―は、個人の権利に基礎を置いている。そして、この集団的権力は、共通の権利を守るものだが、他の一切の目的や、他のどんな使命も必然的に持たない。それが個人の権利の代用として用いられる以外には。
こうして、一個人は、合法的に他人や、他人の自由や他人の財産に対して、力を行使出来ないのだから、集団がもつ集団的権力は、同じ理由によって、合法的には、他人や、他者の自由、もしくは諸個人や諸グループの財産に対して行使出来ない。
権力の悪用は、いずれのケースであっても、我々の前提に反する。権力は個人的な権利を守るためにあるのだから、同じ権利がある兄弟を破壊するために、それが我々に与えられたはずがない。個人の場合と同じ原則が、この集団的権力に対してもまた適用できるのだ。
つまり、集団的権力とは、個人の権力を寄せ集めて組織化したもの以上ではない。
もし、これが真実ならば、次のこと以上に明白なことはない。すなわち、法とは、合法的な防衛という自然な権利を組織化したものだということだ。
法とは、個人的な権力を、集団的権力で代用するものである。
そして、この集団的権力の対象は、個人が自然かつ合法的に権力行使できることに限定される
つまり、個人と、その自由、財産を守ることによってこれら諸権利を維持し、我々すべてを統治する正義をもたらすためにあるのだ。
3.公正にして持続する政府
もし、国家がこの基礎の上に作られたとしたら、秩序が、人々の行動においてだけでなく、人々の考えにも、行き渡るだろう。このような国家では最も単純で、容易に受け入れられやすく、経済的で、制限された、押し付けがましくない公正さが、受け入れられると思われる。そして、その政治的な形態がどうであれ、想像可能な限りその政府は長く存続できるだろう。
このような統治下では、全ての者が、自らの存在に関わる責任の数だけ特権を持つことを理解するであろう。人格が尊重されており、労働が自由であれば、そして、労働の果実があらゆる不正な攻撃から守られているとしたら、誰も政府のことを問題になどしない。
うまくいっている時であっても、その成功を国家に感謝したりしない。そして、逆に言えば、うまくいかないときであっても、政府を責めることなど考えない。農夫が霜や雹の被害を政府のせいにしないのと同様である。
そのような政府であれば、安全をもたらしてくれる、かけがえのない存在として受け止められることだろう。
さらに言えば、国家が個人的な事へ干渉しないおかげで、人々の欲求と満足が道理にかなった方法で発展する。貧しい家庭が、食べ物もない状態で、文学教育をうけようなどとはしないだ
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ろう。地方の犠牲によって人の集まった都市が潤うこともないし、都市の犠牲によって地方が潤うこともないだろう。
立法上の決定によって、資本、労働力、人口が大きく動かされることもないだろう。
我々の存在基盤は、国家が作り出すこのような移動操作によって、不確実で不安定なものとなっている。そして、さらに言うと、こういった政府の行動が、政府に過剰な責任を負わすのである。
4.法の完全なる悪用
しかし、不幸なことに、法は、決して自らをその本来の役割だけに限定することがない。
そして、法がその本来の役割を逸脱した時、法は単に重要でなく、かつまた議論の余地があることでの逸脱をしてきたのではない。
法は、はるかにこれ以上のことをしてきた。法は、それ自体の目的に直接反する行動をしてきた。
法は、その本来の目的を破壊する目的で用いられてきた。法は、法が本来維持すべき正義を絶滅させるのに用いられている。本来の目的では尊重すべき人々の諸権利を制限し、破壊することに用いられてきたのである。
法は、無法者の支配権力に、その集団的武力を賦与してきた。無法者とは、自分のリスクなく他人を搾取し、自由と財産を搾取する者のことだ。
法は、略奪行為を権利へとすり換えてきた。略奪行為を保護するために。
そして、法は、合法的な防衛を犯罪だとしてきた。合法的な防衛行為を罰するために。法の悪用は、どの程度完成されたのだろうか?そして、その結果はいかなるものであったのか?
法の存在目的が悪用されてきているのには、2つの全く異なる原因が影響している。
その一つは愚かな貪欲で、もう一つは誤った博愛主義である。まず、その最初の一つについて話そう。
5.人類の致命的な性癖
自己保存と自己発展が、人々の普遍的な願望である。
そして、万人が自らの才能を制限無く利用し、労働の果実を自由に処分することを享受できるとしたら、社会の進歩は絶え間なく続き、妨げられることなく、また失敗することもないだろう。しかし、人々には共通の性癖がもう一つある。もし、可能なら他人の出費により生活し、繁栄しようとするのだ。
これは軽率な非難ではない。また、陰気で冷淡な精神から発せられた批判でもない。
歴史の記録は、これが真実であることの証拠となる。たえまない戦争、大量の移民、宗教上の弾圧、世界的な奴隷制、商業での詐欺行為、そして独占。
このような致命的な欲望は、人間の本性に由来するのだろうか?この原始的で、普遍的で、抑制出来ない本能が、人間に対し、可能なかぎり最小限の苦痛によって欲望を充足させるように強いているのであろうか?
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6.合法的略奪の犠牲者
人は、自分が犠牲となる不正行為に対しては自然に抵抗する。こうして、略奪行為が、立法者の利益のために組織化されるとき、略奪される側にある階級の人々は、平和的手段もしくは革命的な手段によって、立法者の側に入ろうとする。
彼らの啓蒙の度合いにより、これら略奪される側の階級が、政治的な権力を得ようとする場合、次の2つの全く異なる手段のうちの一つを提案するだろう。
彼らは合法的略奪を止めさせようとするか、もしくはその分け前にあずかろうとするかのどちらかである。
その国にとっては災難なことだが、この後の方の目的が合法的略奪の犠牲者たちの大部分に広がった場合、今度は彼らが立法権力を掴み取ろうとする。
これが起こるまで、多数者への合法的略奪を行う者は殆どいない。
立法への参加権は、数人に制限されているのが普通である。
しかし、次に、立法への参加が一般的になる。すると人々は相反する利益を、略奪行為を一般化することで均衡させようとする。
社会にある不正を根絶する代わりに、不正を一般化しようとする。
略奪される側の階級が、この政治的権力を得るやいなや、他の階級への報復体制を作り上げるのだ。
彼らは、合法的略奪を廃止することはない。(この目的には、より多くの啓蒙が必要であろう。)
そのかわりに、邪悪な先行者たちに倣って、この合法的略奪行為に仲間入りするのだ。例えそれが、自分たちの利益に反することであってもだ。
このことは、あたかも、正義の統治が実現する前には、万人が残忍な仕返しを受ける必要があるかのように見える。
そのいくらかは、邪悪さに対する報復であり、法の理解の欠如に対する報いという形で。
7.財産と略奪
人は、たゆみなく労働することによってのみ、暮らし、そして、欲求を満たすことができる。
つまり、自らの能力を天然資源に休むことなく働きかけることによってのみ、それが可能なのだ。このプロセスが、財産の起源である。
しかし、人は他人の労働生産物を奪い、消費することでも、暮らし、また欲求を満たすことができるのも事実である。このプロセスは略奪の起源である。
人が本来、苦痛をさける性分にあるから- そして、労働そのものが苦痛であるから- 労働よりも略奪が容易な場合は、必ず略奪行為に訴えるだろう。
歴史はこのことをはっきりと示している。そして、このような条件のもとでは、宗教も倫理観も略奪行為を阻止出来ない。
では、いつ略奪は終わるのか?
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略奪が労働よりも、より苦痛が伴い、より危険なものとなった時だ。
だとすると、法の本来の目的とは、労働より略奪行為に走りやすい人間の致命的な性分を制止するために、その集団的武力を行使することだというのは自明である。
法による措置だけが、財産を守り、略奪を罰するであろう。
しかし、普通、法はある一個人により、もしくはある階級の人間により作られる。
そして、法は認可と多数派の支持なくしては行使出来ないから、この力は立法者に委ねられることになる。
この事実から、欲求を最小の努力で満たそうとする致命的な性分と結びついた、ほとんど普遍的ともいえる法の悪用が説明できる。
これにより、法が不正を阻止するのでなく、いかにして不正行為を行う上での無敵の道具となるのかが容易に理解できるのだ。
立法者が法を用いて、個人の独立を奴隷制により破壊したり、自由を圧制により破壊したり、財産を略奪により破壊したりする理由を理解するのは容易だ。
これらは、立法者の利益の為に行われ、また彼らの権力に比例して行われる。
8.合法的略奪の結果
社会への、これ以上の大きな変化、これ以上の悪の導入は有り得ない。
法を略奪の道具として悪用する以上の悪は有り得ない。
このような法の悪用の結果、どうなるのか?その全てを書こうとすれば、おそらく、何冊もの本を書く必要があるだろう。
であるから、そのもっとも特筆すべきところを指摘するに留めておかねばならない。
まず、第1に、この結果、正義と不正義の区別に関する分別を万人から消し去ってしまう。どんな社会であっても、法がある程度尊重されなければ存続出来ない。最も安全に法を尊重させる方法は、法を尊重に値するものにすることだ。
法と道徳とが互いに相矛盾する場合、道徳観を失うか、法への尊重心を失うかの酷い選択肢しか市民には残されない。
この2つの悪は、同じ原因からの結果である。そして、個人にとって、その2つのどちらを選択するかは、難しいだろう。
法の本質は、正義を維持することである。
人々の心の中では、法と正義は一つのものであり、同じものだと考えられている。
そのため、合法なら必ず正当なものと信じられやすい。
このような信念は非常に広く行き渡っており、法がそうなっているから、そのことは公正だという誤った考えをもってしまう。
このような誤解があるために、略奪行為を公正かつ神聖なものと見せるには、法はただ、略奪を命令し、認可しさえすればよい。
奴隷制、規制、独占といったものは、こうして、法から利益をうる人々だけでなく、法から不利益を被る人達によっても守られることとなるのだ。
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9.法を遵守しない者の運命
もしこのような制度の道徳観について疑義を表明したら、はっきりと、「おまえは危険な革新者か、ユートピア主義者か、理論家か、破壊活動者だ」と言われたり、「社会が拠って立つ基盤を破壊しようとしている」とでも言われるだろう。
もし、道徳や、政治科学について講義でもすれば、次のような内容の不服を政府に申立てる公式の団体が現れるだろう。
これから経済学は、従来のように自由貿易の観点(自由、財産、正義の観点)のみならず、特に、フランスの産業にいきわたっている犯罪と立法(つまり、自由、財産、正義に反する法)の観点からも、教えられることとなるだろう。
そして、政府から与えられた教職の地位である大学教授は、現在、権力をもつ法への尊重の念を、ほんの少しでも傷つけることを厳重に自重することになる。
こうして、奴隷制や独占、抑圧や泥棒を認めるような法があったとしても、その法について言及するものは誰もいなくなるだろう。
法が与える敬意の念を傷つけることなく、言及することはどうしたらできるのだろうか?
さらに言えば、道徳と政治経済は、単にそれが法だからという理由で、公正な法とみなすような法への見地から教えられることとなる。
法の悲劇的な悪用による、もう一つの結果は、政治的な情熱や論争、また政治全般に対して、大袈裟な重要性が与えられることだ。この事実は、何千通りものやりかたで証明できる。しかし、ここで私は例を挙げるに止めておこう。
それは、最近、あらゆる人々の関心を独占してきた問題、つまり普通選挙権の問題である。
10.誰が裁くのか?
ルソー思想の継承者達(彼らは自分を非常に進歩的な人間と考えているが、私に言わせれば二十世紀くらい時代に遅れた連中だ)は、この点、私に同意しないだろう。
しかし、普通選挙権(この言葉の最も厳密な意味で)とは、検証することも疑うこともしてはならないような神聖な教義では決してない。
実際、いろんな異論がこの普通選挙権に対してなしうるであろう。
まず第1に、普通選挙権(Universal Suffrage)の”普通(Universal)”といった言葉そのものに、巨大な誤りが隠れている。
例えば、フランスには3600万人の人がいる。つまり、選挙権を”普通”にすれば、3600万人の投票人がいることになる。
しかしながら、どんなにシステムを拡張してもせいぜい900万人の投票しか可能でない。つまり4人に3人は選挙権から排除されるのだ。そして、このこと以上に、この4分の3の人は、残りの4分の1の人達によっても排除される。この4分の1の人々は、物理的に投票が出来ないことを、他の人へ選挙権を与えない口実として推し進めるだろう。
普通選挙権とは、つまりは選挙権をもつ人達による普通選挙権である。しかし、この事実の問
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題は依然として残る。選挙権をもつのは誰か? 少数民族や、女性、狂人、大きな罪を犯した者たちだけが、選挙権がないとされるのだろうか?
11.投票権が制限されるべき理由
この問題をより詳しく調べてみると、何故、投票権を無資格要件の前提に基づかせているか、その動機がわかる。その動機は、有権者や投票者がこの権利を自分自身だけに行使するからではなく、全ての者に対して行使するからだ。最も拡張された選挙システムも最も制限された選挙システムも、この点に関しては同様である。無資格を構成するものが何かという点でのみこの両者は異なる。
それらには、原理原則の違いはなく、単に程度の違いがあるに過ぎない。仮に、現代におけるギリシャ、ローマ思想の集団である共和党員のように、選挙権は生まれながらのものであり、女性や子供に選挙をさせないのは不正だと主張したとしよう。
なぜ、彼らは選挙権が与えられないのか?なぜなら、無資格であるのが当然だと考えられているからだ。では、なぜ無資格が排除の動機になるのか?なぜなら、この選挙の結果に困るのは選挙人だけではないからだ。なぜなら、票の一つ一つはコミュニティ全体に対して影響を及ぼすからだ。そして、コミュニティの人々には、社会の繁栄や存亡が掛かる行動に対しては保証を要求する権利があるからだ。
12.答えは法を制限すること
私には、これに対する返答がどのようなものであり、どのような反論があるかも分かっている。しかし、ここでは、この本質に対する論争にかまける場ではない。
普通選挙権に関する論争を観察しておくに留めておこう。(他の政治的問題と同様に)
事実、法の役割が、万人の、あらゆる自由と財産を守ることだけに制限されるなら、また、法が、個人的な権利の単なる組織的な寄せ集め以上のものでないとしたら、また、法が略奪を抑制し罰する役目をもち、略奪行為に対する障害物となるものだとしたらどうだろうか?
そのとき、我々市民が、公民権の拡張についてこれほど議論することがあるだろうか?
むしろ、このような状況では、選挙権の拡張が、世の平和という至高の善を危機に陥らせることにならないだろうか?
選挙権を貰えなかった人々が、その権利が自分たちの番に回ってくるまで、おとなしく待つとは限らないのではないだろうか?
選挙権を得た人々が、自分達の特権を油断なく、守ろうとはしないだろうか?
法が、その本来の役割に制限されているかぎり、法に対する万人の利益は、同じものであるだろう。このような条件下では、投票をした人が、投票をしなかった人に対し不利益をもたすことがないのは明らかだろう。
13.合法的略奪という致命的な概念
しかし、一方でこの致命的な原理が、広く行き渡った状態のことを想像してみよう。
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組織、規制、保護、奨励金の口実の下で、法は、ある人から財産をとりあげ、他人にそれを与える。法は、万人から富をとりあげ、その富を数人の者に与える。それは、農民だったり、製造業者であったり、船の所有者であったり、芸術家であったり、コメディアンであったりする。
このような状況においては、まずあらゆる階級の人々が、法を手に入れようとするだろう。そして必然的にそうなるのだ。選挙権が与えられなかった一団は、選挙権を猛然と要求するだろう。そして、これを手に入れられないくらいなら、社会を転覆しようとするだろう。そして、乞食や、やくざ者であっても、異論の余地なく投票権を持つことがはっきりと分かるだろう。
彼らは、こう言うだろう。「ワインもタバコも塩さえも税金を払わないでは買うことが出来ない。
我々が支払う税金の一部は、法によって、特権や助成金といった形で、自分より豊かな者に与えられる。他の者は、パンや肉や鉄、衣類の値段を上げるのに法を用いる。
こうして、皆が皆、法を自分の利益の為に用いるのだから、我々もそれを自分の利益のために用いたいのだ。
我々は貧者による略奪である生活保護権を法に要求する。
この生活保護の権利を得ることで、我々は、投票者や立法者にもなれる。
自分の階級を利するよう保護貿易を大規模に組織化したように、物乞いの大規模な組織化を可能とするために。だが、我々を乞食どもと呼んではならない。
ミメレル氏の提案では、人々のために行動したいと言いながら、犬におしゃぶりの骨を投げあたえるかのように、我々を静かにさせようとして60万フランの大金を放り投げつける。
だが我々には他の要求もあるのだ。いずれにせよ、我々は自分自身のために行動したいと思う。他の階級の人達が自分達のために行動したように。」
では、このような議論にどのように答えることができるだろうか?
14.悪用された法は摩擦を引き起こす
法が、その本来の目的からの逸脱が許される限り、(つまり財産を守るのでなく、財産を侵害するために用いられる限り)全ての人が立法に参加しようとするだろう。略奪行為から自分を守るため、もしくは、法を略奪の目的に用いるために。
政治的な話題は、常に偏見にまみれた、万人を熱中させる支配的なものとなるだろう。
国会議事堂のドアのところでは、先を争って人々がその中に入ろうとし、争いが起こるだろう。また、その中での争いは激烈なものであろう。
これが分かれば、フランスとイギリスの立法府で起こったことを検証する必要は殆ど無くなる。問題を理解するには、単にその結果を知ればよいだけだ。
法の概念のこのような憎むべき悪用により、憎しみと不協和が常に生み出されること、また法には、社会を破壊する性質があることを言うのに、証拠を示す必要があるだろうか?
もしその証拠が必要ならば、合衆国(1850年の)を見るといい。
世界中で、法が万人の自由と財産を守るという本来の役割に収まっている国はUSA以外にはない。この結果として、USAよりも強固な基盤に基づいた社会的秩序を持つ国はどこにもなさそうである。
しかし、アメリカ合衆国においてさえ、2つの問題点があり、(2つしかないとも言えるが、)
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これが合衆国の平和を常に危険に晒しているのだ。
15.奴隷制と関税は略奪である
この2つの問題とはなにか?
それは奴隷制と関税である。この2つがアメリカにおけるたった2つの問題であり、合衆国の基本理念に反するものである。その法は略奪の性質を帯びている。
奴隷制は、法による自由の侵害である。保護的な関税は、法による財産の侵害である。
この2つの合法的犯罪は、旧世界からの悲しむべき継承であるが、合衆国を唯一破滅に導くことのできるもので、また恐らく破滅をもたらすだろうことは、特に注目すべき事実である。
社会のまさに中心において、これより驚くべき事実を想像することは、実際不可能である。法は、不正の道具に至ったという事実である。
そして、もしこの事実が合衆国に酷い結末をもたらすとしたら、つまり、合衆国のように法本来の目的が捻じ曲げられているのは、奴隷制と関税においてのみという社会でさえ、そうなるのだとしたら、ヨーロッパの結末とはいかなるものであろうか?
ヨーロッパでは、法の悪用が体制原理とまでなっているのだ。
16.二種類の略奪
モンタルベール氏(政治家で作家)は、カルリエ氏の有名な声明文に込められた思想を採用しながら、こう言った。「我々は、社会主義と闘争しなければならない。」
この社会主義の定義は、先に、シャルル デュパン氏が与えた定義によるものだ。
彼が意図することは、「我々は、略奪に対する闘いをしなければならない。」ということだ。しかし、彼はどの略奪について話しているのだろうか?
というのも、略奪には二つの種類があるからだ。一つは合法的なものであり、もうひとつは非合法なものである。私は、泥棒や詐欺のような非合法な略奪、これらは刑法が定義し予期し罰するものであるが、それを社会主義と呼べるとは考えていない。
社会の基礎を構造的に脅かす類の略奪ではないからである。
いずれにせよ、この類の略奪への闘いを、この紳士達がやろうとしているのではない。
非合法の略奪に対する闘いは、世界の始まりからずっと続いてきた。
1848年の革命のずっと前に、社会主義の出現などよりずっと以前に、フランスは警察と裁判所、憲兵、刑務所、地下牢、処刑台を用意してきた。これは非合法の略奪に対処するためである。法自体が、この闘いへの指揮をとり、常に略奪に対しこのような態度を維持すべきだというのが私の願いであり意見である。
17.法は略奪を保護する
しかし、法は常にそうあるわけではない。法は、時には略奪を保護し、その過程に参画することさえある。こうして、法の受益者は、自分の行動に対し法がなければ感じたであろう羞恥心、危うさ、気の咎めといったものを容認することとなる。
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法は、裁判所や、警察、監獄、また憲兵といった道具一式を、略奪者へのサービスとして所有することもある。そして、その犠牲者(自分自身を守ろうとしたもの)を、犯罪者とみなす。
簡単に言うと、合法的な略奪といったものがあり、モンタルベール氏が話しているのは疑い無くこの類の略奪のことである。
このような合法的略奪は、人々の法的措置の間にあるポツンとある汚点にすぎないかもしれないが、もしそうであるなら、最小の演説と、最小の非難によって汚点を消し去ることが最善ではなかろうか? 利権をめぐって大騒ぎをするのでなく。
18.いかにして合法的略奪を見分けるか
では、この合法的略奪はどのようにして見分けることができるのか?
それは、いとも簡単だ。
法が、誰かから所持物を取り上げ、他の者にそれを与えるかどうかを見ればよい。
法が、誰か他人の出費によって、別の市民に利益を与えていないかどうかを見れば良い。
その市民が、自分では罪でも犯さない限り出来ないことをしているかどうかを。
では、法をすぐに廃止してしまおう。それ自体が悪なだけでなく、さらなる悪を生む肥沃な源泉となるからである。なぜなら、報復行為をまねくからだ。
このような法、つまり例外的な法が、すぐに廃止されないのであれば、法は広がり、増加し、そして体制にまで発展するだろう。
この法から利益をうる者は、苦々しく不満をいうであろう。その既得権益を守るために。
彼はこのように主張するだろう。政府は、特定の産業を守る義務と、奨励する義務があると。
そして、このような措置は、政府を富ますだろうと。なぜなら、その保護された産業は、こうして多くのお金を使うことができるし、また貧乏な労働者へより高い給料を払うことができるからだと。
既得権者によるこのような詭弁に耳を傾けてはいけない。この議論を受け入れると、合法的略奪を全体の体制の中に取り入れることになる。事実、それは既に起こっていることなのだ。今の時代の思い違いとは、全員の出費でもって、全員を豊かにしようとしていることにある。
そのような無理が可能なふりをしながら、略奪を一般化することが、その目的なのだ。
19.合法的略奪にはいくつもの名前がある
合法的略奪には、いくらでも方法がある。
同様に、略奪行為を組織化するのにも、無数のやり方がある。
関税、保護、給付金、助成金(補助金)、奨励金、累進課税、公立学校、労働保証、最低賃金保障、生活保証制度、労働手段への権利、無利子融資・・、等など。
こういった計画の全ては、おしなべて合法的略奪が共通目的としてあり、社会主義を構成する要素となっている。
このように、社会主義とはいろんな教義が集まったものだという定義をすると、社会主義に対する攻撃としては、その教義への攻撃以上に有効なものはない。もし、この社会主義の教義が
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間違いであり、ばかばかしく、邪悪なものだと判れば、論破すればよい。
その間違いの程度が、はなはだしいほどに、ばかばかしいほどに、邪悪であればあるほどに、それを論破することはより容易になる。
しかしとりわけ、法に忍び込んだ社会主義教義のあらゆる断片を根絶やしにすることから始めて、体制を強化したいと思うのなら、これは、決して簡単な仕事ではない。
20.社会主義とは合法的略奪である
モンタルベール氏は、社会主義に対して武力を用いて戦ったことがずっと責められているが、彼はこの非難から免除されてしかるべきだ。というのも、彼は次のように平明に語っているからである。
「我々の社会主義に対する闘争においては、法、名誉、正義との調和をはかることが必要だ。」
しかし、モンタルベール氏は、自分自身を循環論の中に置いていることが分からないのだろうか?
社会主義に対抗するために法を使うのだと言うが、社会主義が依拠しているものはまさにその法そのものなのだ。社会主義者は、合法的略奪を行うことを欲しており、非合法的な略奪をしようとしているのではない。社会主義者は、他の独占主義者と同様に、法そのものを自らの武器としようとしているのである。
そして、一度、法が社会主義の側につくと、どうやって、法を社会主義に対抗する道具として用いることができようか?
略奪が、法によって扇動される時、裁判も、憲兵も、牢屋も恐れられることはない。
むしろ、社会主義は、法に助けを求めることだろう。
これを防ぐために、社会主義者を立法過程に参加させないようにすればよいのか? 社会主義者が立法府に入ることを阻止すればいいのだろうか? これはうまくいかないだろう。合法的略奪が立法府の主要な仕事であり続ける限りは、私はそのように予測する。実際、そうはならないだろうと考えるのは、論理的でなく、愚かなことだ。
21.我々の前にある選択肢
合法的略奪の問題は、これを最後に解決されなければならない。そしてその解決策としてあるのは、次の3つの選択肢だけだ。
1. 少数者が多数者を略奪する。
2. 万人が、万人から略奪する。
3. 誰も、誰からも略奪をしない。
我々には、制限された略奪、社会全体による略奪、略奪をしない、の3つ選択肢がある。
法は、このうちの一つだけを追求できる。
制限された合法的略奪をする:このシステムは投票権が制限された時に広まっていた。社会主義の侵略を防ぐためには、このシステムへ後戻りすることになるだろう。
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社会全体による合法的略奪をする:我々は、公民権が一般化した頃から、このシステムにずっと脅威を与えられつづけている。新しく公民権を与えられた大衆は、投票権が制限されていた時と同じ合法的略奪の原理を用いて法を策定することを決めた。
合法的略奪をしない:これが正義、平和、秩序、安定性、調和、論理の原理である。
私は、この原理を自分が死ぬ日まで肺の力が続く限り唱えることだろう。
22.法の本来の役割
そして、略奪がない事以上に、法に要求されることが、嘘偽りなくあるだろうか?
法は、必然的に権力の使用を要求するのだろうか?
法は万人の権利を守ること以外に合理的に使われうるのか?
私は、法を悪用せずにそれ本来の目的を超えて拡張しようとして、結果的に権力と権利を敵対させる人間を許さない。
これが最も致命的で不合理な社会的な悪用なのは、容易に想像されることだ。
社会関係の領域において長く研究されてきたように、本当の解決とは、次の単純な言葉の中にある。「法とは組織化された正義である。」
また、このことは言っておく必要がある。正義が法によって秩序付けられる時(つまり権力によってなされた時)、法を用いてあらゆる人間活動を秩序づけようとする考えは排除される。労働であろうと慈善であろうと農業、商業、産業、教育、芸術、宗教であろうと。
法によって、このどれか一つが秩序化されることがあっても、不可避的に基本的な秩序である正義を破壊してしまう。
実際、市民の自由に敵対して力が用いられれば、同時に正義に敵対して力が行使されたことになる。また、こうして本来の目的に敵対したものとして用いられるのだ。
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23.社会主義の魅力的な誘惑
次に挙げるような考えに、我々の時代の最も一般的な誤りがある。
法が正義であるだけでは充分でなく、博愛的でもなくてはならないという考えだ。
法が、全ての市民に、自由と、身体的、知的、道徳的な自己改善の為に対して、害にならない程度に用いられるだけでは充分でなく、その代わり、法が直接的に福祉、教育を拡大し、国家が道徳の改善までしなければならないという考えだ。
これは、社会主義の魅力的な誘惑である。そして私は再び繰り返して言う。このような法の2つの用い方は直接に相反するものであると。
我々はそのどちらかを選ばなければならない。
ある市民が同時に自由であったり、不自由であったりは出来ないのだ。
24.博愛の強制は自由を破壊する
ラマルティン氏は、かつて私にこのように書いてよこした。
「あなたの教義は、私の計画の半分でしかない。あなたは自由の段階で止まってしまっているが、私は博愛の段階まで突き進むのです。」私は彼にこう答えた。「あなたの計画の後半は、前半を破壊してしまうでしょう。」と。
事実、私には“博愛”という言葉と、“自発的”という言葉を区別することが出来ない。
自由が法によって破壊されることなく、また、正義が法によって蹂躙されることなく、どうして博愛を法により強制できるのか、まず理解出来ない。
合法的略奪には2つの根源がある。
その内の一つは、以前言ったように、人間の欲望の中にあり、もう一つは誤った博愛精神の中にある。
まず、この点について私が略奪という言葉でなにを言おうとしているのかをはっきり説明しておいた方がよいだろう。
25.略奪は所有権を侵害する
私は、略奪という言葉を、しばしばなされるように、曖昧でハッキリとしない、大雑把な、暗喩的な意味では決して使わない。
私は、科学的に承認されている意味で用いる。例えば、所有(給料、土地、お金、その他諸々)の反対の概念を意味する言葉として用いる。
ある人が所有する富の一部が承諾なく、もしくは一切の代償なく、所有していなかった別の誰かに移動したとすれば、私はそれを所有権の侵害とみなし、略奪行為とみなす。暴力によろうと、詐欺によろうと。
私は、このような行為こそ、まさに法が、いつでもどこででも抑制すべき行為だとする。
法が、本来抑制すべき略奪行為を自ら犯すとき、略奪はやはり起こったとみなす。さらに社会と福祉の観点から見た場合、このような権利に対する侵害は、一層悪質なものだと私はみなす。
このような合法的略奪の場合、その利益を受ける人間は、略奪行為に対する責任は、いずれに
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The Law
せよない。この合法的略奪の責任はその法自体と、立法者、そして、その社会そのものにある。そこに政治的な危険性が横たわっている。
略奪という言葉に、攻撃的なニュアンスがあるのは残念なことだ。私は、別の攻撃的ではない言葉を捜そうとして無駄な骨折りをした。というのも、私はいつでも(特に今は)、意見の相違に対して、神経を逆撫でするような言葉を増やしたくはないからなのだ。
だから信じられるか否かは別として、私は他人の意思や道徳感をほんのすこしも攻撃するつもりはないと断言しておこう。
むしろ、私は自分が誤っていると信じる概念に対して攻撃を加えているのだ。私にとって不正と思えるような体制に対して攻撃を加えているのである。
その不正とは、個人的な意図からあまりに独立しているがゆえに、我々一人一人が、望まなくても、そこから利益を得られる類のものであり、また災いの原因を知ることなく、被害をうけるものなのだ。
26.略奪の3つの体制
保護主義、社会主義、あるいは共産主義の支持者達の誠実さを、ここでは問題としない。
そのようなことを試みる作家はみな、政治的精神や政治的恐怖に影響されているに違いない。
しかしながら、保護主義、社会主義、共産主義は基本的に同じ植物であり、ただ生育が異なる段階にあるものだと言えるだろう。
合法的略奪は、共産主義において、よりはっきり観察されると言われるのは、それが完全な略奪だからに過ぎない。保護主義では、その略奪は特定のグループや産業に限定される。
こうして、これら3つの体制のうち、社会主義が最も曖昧で、最も不明確で、またそれゆえにその発達の段階が一番進んだものという結論が導かれる。
しかし、誠実か不誠実かといった、個人の意図は問題外だ。
事実、既に述べたように合法的略奪は、部分的には博愛精神に基礎がある。それがたとえ偽りの博愛精神であるとしても。
この説明で、その価値(その起源と傾向)を評価してみよう
社会全体の福祉を、社会全体からの略奪によって実現しようとするこの一般的な願望を検証してみよう。
27.法は権力である
社会主義者は、法は正義を体系化したものなのだから、どうして法は労働や教育や宗教さえも体系化しないのかときく。
法が、こういった目的に用いられてはならない理由は何か?
なぜなら、法は正義を破壊することなしに、労働、教育、宗教を体系化することは出来ないからだ。法は権力だという事実を思いだす必要がある。そしてその当然の結果、法の本来の役割は、権力の本来の役割を超えて、拡張されてはならない。
法と権力が、正義の限界の内に人間を拘束しておくのなら、たんなる禁止以外の何物も課すことはない。法は、人々に対し他人を傷つけることを慎むように強制するだけである。
法は、人々の人格も自由も、財産も侵害する事はない。
むしろ法は、これら全ての防波堤になる。法は防衛的なものである。そして、万人の権利を平
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等に守るものだ。
28.法とは消極的な概念である
法と、合法的な防衛行為が無害なのは自明である。その有用性は明白であり、かつ合法であることは疑いがない。
私の友人の一人がかつてこう言ったように、法が消極的な概念であることは、あまりにも自明な真実であり、そのため法の目的を統治のための正義をもたらすことだとするのは、厳格な意味で正確な説明ではない。
法の目的とは、統治において不正義を防ぐことにあると言うべきである。事実、実体があるのは、正義ではなく不正義の方である。正義は、不正義がない時にのみ達成されるものなのである。
しかし、その法が、必要不可欠な代理手段である権力を用いて、人々に労働規制を強制したり、教育方法や教育科目、宗教上の信仰や信念を強制したりすれば、法はもはや消極的なものでなく、人々に対し積極的に働きかけるものとなる。
立法者の意思を、人々の意思に刷りかえる。立法者たち自身のための主導権を、人々の主導権に刷りかえる。このようなことが起これば、人々はもはや議論したり、比較したり、前もって計画をする必要がなくなり、法がすべてを代わって行うことになる。
知性は、人々にとって役に立たない支えとなり、人々は人間であることをやめ、人格を失い、自由を失い、財産を失う。
権力により強制された労働規制で自由の侵害とならないものや、権力に強制された富の移転で財産侵害でないものを想像してみればよい。
もし、このような言葉の矛盾を解消出来ないなら、法は、不正義を組織化せずに、労働や産業を組織化することは出来ないと結論しなければならない。
29.政治的なアプローチ
政治家が、自分のオフィスの仕切り部屋から社会を眺めるとき、そこから見える社会の不平等な光景に打ちのめされる。
彼は、社会の欠乏状態を嘆き悲しむ。それは我々同朋の多くがしている。
欠乏は、贅沢や富と比較するとより悲しいものに思える。
多分、その政治家は、こう自問するだろう。この事態は、旧い征服や略奪によって引き起こされたものではなかったのか、そしてより最近の合法的略奪によって引き起こされたのかと。
多分、その政治家はこのような主張について考えるだろう。「万人が快適な暮らしと、完全さを求めるなら、正義であることが、進歩への取り組みを最大化し、個人的責任と両立が可能な平等を最大限引き起こすに、充分な条件ではなかったのか?
悪と善の選択、またその結果としての罰と報酬の選択をするようにと、神が人間に個人的自由を与えたという考えと一致するのではなかったか?
だが、政治家は、決してこうは考えない。むしろ、組織や、組合、取り決めの問題、つまり、
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法、もしくは明らかに法で決められたことの方に目が向くのだ。
その悪を治そうとして、まさにその悪を最初に引き起こしたもの、つまり合法的略奪を、増大させ、永続させてしまう。
我々は正義が消極的な概念であることを見てきた。
略奪の原理を含まないような、積極的な法的行動など一つでもあるだろうか?
30.法と慈善
人は「お金を全くもっていない人がいる。」と言い、法に救いを求める。
しかし、法はミルクを湛えた乳房ではない。それどころか、法におけるミルクを作り出す乳腺は、社会の外にその源があるのだ。
ある市民や階級にとって有益な公共財源には、別のある市民や階級がお金を入れるように強制されないかぎり、そこにお金が入ることはありえない。
もし、誰も公共の財源に自分で入れた量以上のものを引き出すことがなければ、法が誰も略奪していないのは本当だ。
しかし、このやり方では、お金を持っていない人に対して何もしていないことになる。
これは、収入の平等を促進しない。法は平等化の手段になるが、それは法がある人からお金を取り上げ、別の誰かに与えるときだけである。
そして法がこれを行うとき、法は略奪の道具となるのだ。
このことを頭に入れておき、次のようなものを考察してみればいい。保護関税、補助金、利益保障、職保証制度、福祉制度、公共教育、累進課税、無担保融資、公共事業といったものを。
これらが、つねに合法的略奪、つまり組織化された不正義によるものだとわかるだろう。
31.法と教育
人は「世の中には教育をうけていない人がいる。」と言い、法に救いを求めようとする。
しかし、法はそれ自体が、松明のようにその光を外部に照らすものではない。
法は社会に広がり、そこではある人は知識をもっており、ある人はそれを持たない。そこではある人は学習の必要性があり、またある人は何かを教えることができる。
この教育の問題については、法のもつ代替策は二つだけだ。法は、教えー教えられる関係の取引が自由に行われるのを許可することができる。そこに権力を行使する必要は無い。
もう一つは、法はこの問題において、人間の意思を次のように強制することができる。
政府の教育指導免許を与えられた教師へ充分なお金を払うことのできる人達から、無料で金を引き出すことによってだ。
しかし、この二番目の場合、法が、自由と財産を侵害するという合法的略奪を犯している。
32.法と道徳
人は「道徳観や宗教を欠いた人達がいる。」と言い、法に救いを求める。
しかし、法とは権力である。道徳観や宗教の問題に対し、権力を用いることが、いかに野蛮で、不毛な努力かを、私がここで改めて指摘する必要があるだろうか?
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いかに自己満足的な社会主義者とはいえ、この怪物のごとき合法的略奪から目をそむけることは出来ないだろう。合法的略奪は、このような仕組みと取り組みの結果として生じるのである。
しかし、社会主義はどうするだろうか?
彼らは賢くも、自分をも含む他者からの合法的略奪を博愛精神、一致団結、組織、結社といった魅力的な名のもとに偽装しているのだ。
我々が、法をほとんど求めず、正義しか要求しないために、社会主義者は、我々が当然、博愛精神や結束、組織、協会を拒否しているのだと考える。
社会主義者は、我々に個人主義の汚名を着せるのである。
しかし、我々は社会主義者に対し、こう断言する。我々は強制された組織だけを拒否するのであって、自然に生まれた組織を拒否するものではないと。我々は、我々を強制する組合の形態を拒否するが、自由組合を拒否するわけではない。我々は、博愛の強制を拒否するが、真の博愛を拒否するわけではない。我々は、人工的な結束を拒否するが、そのことが個人の責任を人から奪い取るだけだからである。我々は、神の摂理に基づく自然な人々の結束を拒否するものではない。
33.言葉の混乱
社会主義は、その起源となる古代における概念と同様に、政府と社会の区別を混乱させる。
この結果として、我々が政府のすることに反対する度に、社会主義者は我々が全ての事に反対していると結論づけるのである。
我々は、国家の教育を認めない。すると社会主義者は、我々は教育そのものに反対していると言う。
我々は、国家の宗教を認めない。すると社会主義者は、我々が宗教を全く欲していないと言う。
我々は、国家の強制した平等に対し反対するが、すると社会主義者は、我々が平等そのものに対し反対していると言う。そして、以下同様で、このような調子なのだ。
これは、我々が国家に穀物を育てるよう要求しないから、我々が食事そのものを拒否しているのだと言って責めているようなものだ。
34.社会主義作家の影響
政治家たちは、このような奇妙な考え、つまり、法には含まれない富や科学、宗教といったもの(これらは積極的な意味では富を構成物するもの)を作り出すことができるといった考えを、一体どうして信じるようになったのだろうか?
これは、同時代の広報作家達の発言による影響なのだろうか?
現代の作家達(特に社会主義学派の)は、その様々な理論において、ある一つの仮説を基礎に置いている。かれらは、人類を二つの部分に分ける。一般的な人々は、(その作家達本人を例外として)第一グループに属している。作家は、自分一人で、その二番目の、また最も重要となるグループを構成するのだ。間違いなく、このような考えは、今まで人類の頭の中に生まれた考えの中でも、もっとも異様な考えであり、また最も思いあがった考えだ。
事実、広報作家たちは、人々には自分自身で識別する能力や、行動のモチベーションがないと
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想定することから始める。
作家達は、人々が生気のない物体で、受動的な粒子であり、動きのない原子であり、せいぜいよくいって草木の類で、自らの存在のあり方に全く関心の無い存在だといった想定をしているのだ。
彼らは、当然のごとく、人間はいかなる形にでも作れると考えている。他人の意思と手によって、どんな形にすることも可能で、対称的にでも、非対称な形にも作れるし、芸術的にもできれば、完全な形にすることも可能だと考えているのだ。
そればかりでなく、これら広報作家の誰一人として自分自身が、計画家、発見家、立法者、創始者といった名の下に、その意思であり手だとみなすことを躊躇しない。
この普遍的な原動力、この創造的な権力は、その崇高な使命を、これらバラバラの素材(つまり人々)を鋳型に入れて加工し、一つの社会にすることにある。
これら社会主義の作家達は、人々を、庭師が木々を見るのと同じような態度で見るのだ。
ちょうど、庭師が気紛れに木々の形を、ピラミッドや、傘や、立体や、花瓶や、団扇や、その他諸々の形に刈り込むのと同じように、社会主義の作家達は、気紛れに個々人をグループやクラスや、中央や中央の横や、蜂の巣状、労働組合、等、いろんなバリエーションに形づける。
そして、ちょうど庭師に、斧や剪定ハサミや、のこぎりや大バサミが、木々の刈り込みに必要とするのと同じように、社会主義者の作家達は、人々の形を整えるために法の中にのみ存在する”権力”を必要とする。
こうした目的のために、社会主義者たちは、関税法、租税法、弱者救済法、学校法などをひねりだしてくるのだ。
35.社会主義者は神の役割を演じたがっている
社会主義者たちは、人々がどんな社会的なものにでも変化させられる素材とみなしている。
彼らがそのように人々を見ているのは、まさに事実なのだ。もしたまたまでも、社会主義者がこのような合成の成功にすこしでも疑いをもったとしたら、人類の一部を実験道具としてとっておいてくれと要求するだろう。
全ての体制を試してみるといった、よくある考えは、よく知られている。
そして、ある一人の社会主義の指導者が、憲法制定議会に対して、小さな地域を、その住民ごと、彼の実験材料として与えてくれとまじめに要求したことが知られている。
発明家が、実物大の機械を作る前に、模型を作るように、化学者は、アイデアを実験してみることで、薬品をある程度無駄にする。農夫が種と土地を無駄にするように。
しかし、庭師と植木の関係や、発明家とそのマシンの関係、化学者とその薬品の関係、農夫と種の関係にどんな違いがあるのか。そして、その社会主義者は大まじめで、彼と人類の間の関係も同じだと言い出すのだ。
19世紀の作家達が、社会を、立法者の天才による創造物と考えることは、意外ではない。
古典的教育の結果であるこのような考え方は、この国の全ての知識人、有名作家の心を捉えてしまったのだ。これら知識人や作家達は、人々と立法者の関係は、粘土と陶芸家の関係と同じだと見ているのだ。
さらにいうと、人間の奥深いところに行動の本質と、人間知性の識別力の本質があることに同
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意したとしても、彼らはこの神の恵みを、致命的な贈り物とみなすのだ。
そして、この二つの贈り物により、人間は致命的なまでに自分達自身を滅ぼすことになるだろうと考える。
立法者が、人々を抛っておき、その本性にゆだねさせておけば、人々は信仰をもたず無神論者になり、知識を得るかわりに無知となり、生産や交換を行うのでなく、むしろ貧困に陥ると考えているのだ。
36.社会主義者は人類を軽蔑している
社会主義作家たちによると、ある種の者たち、つまり統治者と立法者たちは、神から、この正反対の資質を与えられている。また、その才能を自分の為だけでなく、世の人々の為に授かっており、それをとても幸運なことだとしている。
人類は邪悪になびく性分があるが、立法者たちは善に向かう性分がある。
人類は暗黒に向かって進んでいるが、立法者たちは啓蒙を求めており、人類が悪徳に惹きつけられるのに対し、彼らは徳に惹きつけられるとしている。
立法者たちは、これを世の真実の状態と決めつけており、そのために人類の性向を自分達の性向で置きかえるために、権力の使用を要求するのだ。
哲学、政治、歴史の本の、どのページでも適当に開いてみると、この国に、いかに深くこのような考えが根底にあるかが分かるだろう。
つまり、古典研究の子にして、社会主義の母となる考えである。
全ての本の中に、人類は単なる不活性な物体であり、国家の力によって生活、組織、道徳、財産を授かるものという考えがあるのがわかる。
そして、さらに悪いことに、人類には退化する性分があり、立法者の神秘的な手によって、人々はこの堕落する性分が食い止められていると述べられている。
伝統的な古典的な考えによくあるものは、受動的な社会の背後に、隠された権力があり、法と立法者(もしくは、他の、無名の人や明白な影響と権威ある人々をしめす用語によって)と呼ばれるものが、人類をつき動かし、管理し、利益を与え、進歩させるといったものだ。
37.強制労働の擁護
最初に、ボシュエの引用について考えてみよう。
エジプト人の精神に最も強く印象づけられた(誰によって?)ものは、愛国主義であった。・・誰も国家に対して無駄な存在となることが許されない。
法は各人にその仕事を割り当てる。その仕事は父から子へと引き継がれる。誰も職業を2つもつことはゆるされない。
まして、ある仕事から別の仕事へと移ることは許されない。・・しかし、全ての者が従わないとならない一つの仕事がある。それは、法と知恵の学習だ。
その国の宗教と政治的規制に対して無知でいることは、どんな状況であってもいいわけは通用しない。
それどころか、それぞれの職業はある地域に割り当てられた(誰によって?)・・その良き法の中でも最高の一つは、全てのものが、服従するように訓練された。(誰によって?) - 19 -
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このことの結果として、エジプトでは素晴らしい発明がたくさん起こり、そして人生を安楽で静かなものにするもので無視されたものは何もなかった。
こうして、ボシュエによると、人々は自分自身からは何も生み出さないとされる。愛国心、財産、発明、農業、科学、これら全てのものは、支配者による法の行使により人々へ与えられた。
人々が成すべき事はせいぜい指導者に対し頭を下げることだけであった。
38.温情主義政治の擁護
ボシュエは、この国家に対する考えを、あらゆる進歩の源として支持しており、ディオドロスがレスリングと音楽を拒否したエジプト人を訴えたとき、ボシュエは反論までした。
彼は言った。
どうしてこんなことが可能なのか?それらはトリスメギスタスが創案したものなのに。
(彼は、エジプトの神であるオシリスの書記だったと主張されている。)
そして、ペルシア人に対しても、ボシュエは同様なことを主張している。
王に課せられた重要な責任の一つは、農業を振興することであった。・・軍隊を統制するための部署、農作業を指導する部署と同様に・・ペルシアの人々は、王室の権威に対する溢れるほどの敬意を抱くことで啓蒙されていた。
また、ボシュエによると、ギリシャの人々は、甚だしく頭がよかったけれども、犬や馬のように個人的な責任感を欠いていた。ギリシャ人自身は、最も単純なゲームでさえ発明できなかった。
ギリシャ人は、生まれながらに頭がよく、勇気があったが、彼らは、早い時期からエジプトから来た王によって教養を与えられていたのだ。エジプトから来た統治者たちにより、ギリシャの人々は運動や、徒競争、戦闘馬車のレースなどを学んでいた。
しかし、エジプト人がギリシャ人に教えた最も素晴らしいことは、素直で御しやすくなることであり、公共の利益の為に、法によって組織化されることを受け入れさせたことだった。
39.受動的な人類という概念
全てのものは、自分たちの外の世界からやってきたものだという、このような古典的な理論(後世の教師、作家、立法者、経済学者、哲学者によって発展させられた)の真偽が問題とされることはない。
他の例として、フェヌロン(大司教、作家、バーガンディの公爵の教師)を挙げることが出来る。
彼はルイ14世の権力を目の当たりにした人間だった。これに加え、彼が古典的教育をうけ、古代崇拝者であったという事実によって、フェヌロンは次のような考えを自然に受け入れること
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となった。
つまり人類は、受身の存在であるべきであり、人々の災難も繁栄(悪徳と美徳)は、法と立法者による彼らへの権力行使による外部的影響によって起こる。といった考えだ。
こうして、サレンタムのユートピアにおいては、彼は人間を、人間の全ての興味、能力、欲望、所有物を、立法者の絶対的な指導の下におくのだ。その結果がなんであれ、人々は自分自身の為になにかを決定することがない。王は、国家を構成する形のない人々の集団の魂として描かれる。王にその考え、予見性、全ての進歩、そして、全ての組織の原理があるとする。こうして全ての責任は、王にあるとする。
フェヌロンのテレマクスの10巻全体がこのことを証明している。私は読者にその本を参照して確認してもらいたいと思っている。私は、この著名な本からランダムにいくつかの文章を引用するだけで満足しなければならない。全ての観点から私はその本に対し正当な評価を与えた最初の人間である。
40.社会主義者は理性と事実を無視する
驚くほどの軽信(これは古典主義者に特徴的だが)でもって、フェヌロンは理性と歴史的事実を無視してエジプト人が概して幸福だったという見方をとっている。そしてその原因をエジプトの人々の英知にではなく、王の英知に帰しているのだ。
「岸の両岸をみれば、豊かな街と国有地が非常に快適に配置され、野辺に未開墾のところはなく、黄金の作物で毎年埋め尽くされる。牧草地は人であふれ、大地の耕作者への恵みの果実をいっぱいに背負って腰を曲げた労働者がおり、羊飼いは、そのパイプとフルートからの優しい音を、こだまさせている。
良き指導者が言った。”幸福とは、人々が賢明な王によって統治されていることだ。”・・
その後、良き指導者は、22000の街が数えるエジプトを覆う充実感と豊富さを私がみることを望んだ。
王は、よき警察による町の管理、金持ちに対して貧乏人に与えられた正義、従順で、労働を愛し、真面目で、芸術や文学を愛する子供を育てる良き教育、全ての宗教的儀式が行われる完璧さ、無私であり、名誉に対する高い敬意、人々への忠実さ、そして全ての父が子供に教える神様への畏怖心。
彼は、この国の豊かさを賞賛するに終わることなく、こう言った。「幸福とは人々がこのように賢明な王によって統治されることだ。」
41.社会主義者は人々を組織化しようとする
フェヌロンがクレタ島について描いた牧歌的情景は、もっと魅力的だ。
良き指導者はこう語った。
「この素晴らしい島で見る全てのものは、ミノスの法に起因している。
子供の体が強靭なのは、子供の為に制定した教育のおかげである。子供たちを倹約と労働
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にうんと早くから馴染ませている。感覚的な快楽は、心身を弱くするからだ。
こうして、子供たちには、徳と栄光を手にすることによって無敵の人間になること以外は、一切の喜びを許さない。・・
こうして、他の人々の間では罰せられることの無い3つの悪徳、つまり忘恩、偽善、貪欲を罰する
虚飾と浪費に対し罰する必要はない。なぜならクレタ人には、そのようなものがないからだ。お金のかかった家具も、見事な衣服も、おいしいご馳走も、金めっきを施した宮殿も、一切許されていないのだ。」
こうして、良き指導者は、生徒を鋳型にはめ、他人にうまく操られるようにする。
間違い無く最高の意志であるイサカの人々によって。
この考えにある英知を生徒に確信させるために、良き指導者はサレンタムの例を挙げる。
我々が最初にうける政治的な概念とはこのような類の哲学からきているのだ!
我々は人々を、農業指導者が農夫に土地の手入れの方法を教えるかのごとくに、扱うよう教えられている。
42.名高い人物と邪悪な考え
では、同じ主題に関する、偉大なるモンテスキューの話しを聞いてみよう。
「商業の精神を維持するためには、あらゆる法がそれを優遇する必要がある。
法は、商業においてなされているように比例的に財産を分けることで、全ての貧しい人々に充分に安楽な環境を提供し、他のものと同じように労働を可能にさせる。
これと同じ法は、全ての裕福な市民を、財産を保持し増やすために、労働を強制させるような低い環境に置くべきだ。」
こうして、法は全ての財産を廃棄することになるのだ!
「真の平等が、民主主義国家の魂ではあるけれども、この実現があまりに困難であるため、この問題にたいして極端な処方箋をとることは必ずしも望ましいものではない。
富の違いを、ある幅の中で減らし、是正しようとするコンセンサスが確立していることで充分だ。
これがなされた後で、金持ちに重荷を与え、貧乏人の救済を認めることで、不平等を平等化するのが固有法の役割だ。」
ここに再び、財産を、法つまり権力によって平等化するという考えを見出す。
「ギリシャでは、2つの種類の共和国が存在した。その一つはスパルタで、軍事国家であった。もう一つはアテネで商業国家であった。
前者では、市民が怠惰なことが望まれ、後者では労働が奨励された。
これら立法者の驚くべき天才に着目しよう。全ての確立している伝統を貶め、-徳に関する全ての通常の概念を混ぜ合わせることによって-、世界がその知恵を崇拝するであ
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ろうことを前もって知っていたのだ。
リクルガスは、スパルタの町に安定性をもたらした。大規模な泥棒行為を正義の概念と結びつけることによって。最も極端な自由と、最も完全な束縛をむすびつけることによって。もっとも非人道的な信条を、最も偉大な中庸と結びつけることによって。
彼は、町の全ての資源、芸術、商業、お金、防衛を奪ったように見える。スパルタにおいては、野心に対する、物質的な報酬の希望がなかった。人間が自然に持っている愛情には、その表現手段がなかった。なぜなら誰も子供も妻も父も持っていなかったからだ。貞節ですら、もはやふさわしいものとは思われなかった。この道によって、リクルガスはスパルタに栄光と偉大さをもたらしたのである。
ギリシャの体制に見出されるこのような露骨なやり方は、我々の時代の衰退と崩壊のさなかにおいても繰り返されている。
精錬潔白な立法者が、スパルタにおける勇敢さと同じくらい自然な正直さを備える人々を作った。
まれに存在する正直な立法者が、人を鋳型にいれ、誠実さがスパルタにおける勇気と同じ位自然なものと見えるようにすることがある。
例えばウィリアムペン氏は、まさしくリクルガスである。たとえ平和の実現がペン氏の目的だったとしてもーリクルガスにとって彼の目的は戦争だったが、- 彼らは、お互いに良く似ている。
彼らの自由な人間への道徳的な威光が、偏見に打ち勝つことを可能にし、受難を抑制し、それぞれの民衆を、新しい道へ導いた点で似ているのだ。
パラグアイの国は、もう一つの例(その人々が、彼らの善のために、立法者によって鋳型に嵌められた)を我々に提供する。
ここで、他人に命令することの喜びが人生における唯一の喜びだとみなしているとするなら、彼は、社会に対し犯罪をなそうと欲しているに等しい。
しかしながら、人々をより幸福にするような方法で統治することは常に賞賛に値するであろう。
これと同様の体制を構築することを欲している者は、次のようにすべきである。
プラトンの共和国のように財産の共同所有制を確立せよ。
プラトンが命令したように神々を崇拝せよ。
慣習を守るために、人々が異国人と交じり合うのを防げ。
市民のかわりに国家に商業を完成させよ。
立法者は、贅沢のかわりに芸術を供給すべきであり、欲望の代わりに必要を満たすべきだ。」
43.恐るべき考え
すぐ俗悪な心酔をするような人々は次のように大声でわめくかもしれない。
「モンテスキューがこう言った! だからこれは素晴らしいのだ!崇高なことなのだ!」と。
私としては、自分の意見を言う勇気を持っている。
私はこう言う。「なんだって!こんな酷いことを素晴らしいと言う神経を持っているのか?これは恐るべき考えなのだ!それは忌むべき考えなのだ!このようなモンテスキューの著書からの無作為な引用を読むと、モンテスキューが人や自由、財産(人類そのものを)立法者が自分
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らの見識を試すための物質でしかないと考えていたことを意味しているのだ!」と。

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