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リバタリアンの倫理

採録

3、リバタリアンの倫理

 

リバタリアンは身勝手な人たちなのか?

 日本では「自由」を唱道すると、つまりそれは「放縦」にすぎないのではないかなどと批判されることが普通です。実際、私の小学校時代を思い出しても、「自由と放縦は倫理的に異なったものである」というような、社会的規制を正当化する類のしたり顔の訓話が、道徳の教科書によく載っていたものです。

 たしかに、大杉栄に代表されるような、政府からの自由を説いたかつてのアナーキストたちの多くは、私生活においても既存の道徳律をほとんど否定して生きていたようです。そういう意味では、倫理的に非難されるような「放縦」、「自分勝手」な人たちであったともいえるかもしれません。

 しかし、現代のリバタリアンの説く自由は、とりたてて既存の道徳律からの自由を意味しているわけではありません。それは実際、いかなる道徳や宗教的な信条からの自由を意味するわけでもありません。それはただ、政府の強制力を使った、他者の精神的支配からの自由なのです。

 この「政府を使う他者からの自由」という概念を、もっと具体的に考えてみましょう。

 私は、個人的にはひじょうに極端な無神論者です。現存する既存の宗教にはそれなりの理解はしており、尊重しているつもりですが、その具体的な行動規範にしたがう気はありません。つまりキリスト教の聖書の説く道徳律に直接的にしたがう気はありませんし、イスラームのコーランの教えにしたがう気もないのです。極端な無神論というからには、正直なところ、七五三や葬式など、日本で常識的に通常おこなわれている、仏教様式や神道様式の儀式に対しても否定せざるをえないでしょう。

 とはいえ、私もひじょうに月並みな世俗的な道徳感情は当然に持っています。たとえば、だますなかれ、盗むなかれ、殺すなかれ、などなどといった、あらゆる地球上の人間社会に基本的・普遍的な道徳律です。そしてまた余談としては、私は心情的にはベジタリアニズムに共感を感じています。ベジタリアンは、「苦痛」を感じる動物を殺して食べることは倫理的に望ましくない、と考える人たちだといってもいいでしょう。

 さて、リバタリアンである私は、自分の持つ道徳的準則やベジタリアニズムを、議会内での多数派工作を通じて議決させ、政府の強制権力を使って他人に強いるべきなのでしょうか。そしてまた私の信じる科学と合理主義、そしてすべての宗教に対する価値的な否定とを、政治的に人びとに押し付けることを考えるべきなのでしょうか。

 答えは、もうおわかりでしょう。

 私が信じる道徳や倫理観を社会に広げたいと思ったとしても、それは政府を通じた「強制」によって人びとに唱道されるべきものではなく、言論や映像などの表現によって、私の価値観に中立的な人たちを、あるいは反感を持つ人たちをも「説得」してゆくべきものなのです。

 もちろん後述するように、ある社会におけるすべての価値観の対立が対話や説得などによって氷解するわけではないと思います。その場合にも、政府による強制力を使って無理やり一方の価値を他方に押し付けるのは、自由な社会でおこなわれるべきではありません。

 豊かで多様な価値観の存在は、それぞれが次の世代への遺産として並存的に継承されるべきです。そうでなければ、新たなる時代にふさわしい思想など、どこからも生まれてくるはずがないではありませんか。

 これがリバタリアンのいう自由なのであり、それは通常の日本語でいうところの、「勝手気まま」という意味の自由とはちがいます。むしろその反対であり、相手の自由を尊重しないというありがちな政治的な決着こそが、自分の意見や都合を一方的に他者に押し付けるという意味で、自分勝手だとして糾弾されるべきなのです。

 さてそれでは話をもっと具体的にして、アメリカにもっとも数多く存在する実際のリバタリアンたちはどのような私生活上の主張をしているのでしょうか。アメリカの保守的自由主義のシンクタンクとして有名なケイトー・インスティテュート(Cato Institute)や、リーズン財団の発行するリーズン・マガジンなどにおける典型的な見解をみてみましょう。

 それらは、ほとんどが保守的、かつ常識的な道徳律であるといえるものです。いわく、売買春は倫理的にのぞましくない、離婚は子どもに悪影響を与えるからのぞましくない、未婚の母は子どもの福祉の観点からみてのぞましくない、地域コミュニティ活動は積極的に参加するべきだ、青少年の健全な育成のためには大人が率先して模範を示すべきだ、ギャンブルなどの賭け事は基本的にはのぞましくない、などなど。

 まったく一見すると保守主義的主張のオンパレードです。

 くりかえしになりますが、彼らのような多くのリバタリアンとその他の多くのクニガキチントの保守主義者をわけるのは、これらの本来個人的な道徳律を政府を通じた強制力を使って、それを価値だと思わない人にまで押し付けるのかどうかという点なのです。

 いうまでもなく、私はリバタリアンのほうが、政府による押し付けを当然視するほとんどの人たちよりも、はるかに道徳的に優れているのだと思っています。先に述べたような保守的な道徳律のすべてを受け入れる必要などまったくありません。自分の意見が正しいと思うのなら、人に政府を使って強制するべきではなく、表現や行動で説得すべきなのです。

 私は、自分の生活の許す範囲のきわめて小額ではありますが、わりあい頻繁に盲導犬協会に寄付をしています。それは至極単純な理由からで、犬が人間を助けて生きるというような情景を想像すると、なにかすばらしく友愛に満ちたもののような気がするからです。そして、かりにこのような小さな募金のような慈善行為が尊いといえるなら、それは無理やりの強制ではなく、あくまでも「自発的」であるからだと思います。

 これとは別に、私は国家に税金をとられ、その一部は別の障害者福祉活動の資金となっています。けれども、これに関しては、私は道徳的にみて、まったく優れた行為をしていないと思います。利他行動がすばらしいのは、あくまでそれが自発的になされたときにかぎります。それが強制によってなされたのであれば、それは単に国家の奴隷として他者の命令に従っただけのことです。そこには人間の高尚な精神性など、まったく見出すことができません。

 リバタリアンは決して身勝手な人たちではありません。むしろ、現実はその反対です。リバタリアンこそが自己の価値観に従って行動しながらも、その相対性を認めているのです。他人の独立した価値観にも敬意を払いつつ、同時に説得を試みるという、真に市民的で健全な精神の持ち主たちだといえるのです。

 

慈善活動は自発的に

 リバタリアンは自由の概念を重視しますが、それでは彼らは、現在の社会国家がおこなっているような、福祉的な慈善活動はすべて消滅してしまうべきだといっているのでしょうか。この答えは、ノージックやロスバードが議論したように、「強制」という概念の中にあります。

 国家には、その集団的な意思に従わないものに対して、物理的な強制力を持って従わせるという正当性が与えられています。国家が福祉政策をおこなうとき、それは税金の徴収という強制力を伴った国家行為によって裏付けられているのです。

 たとえば私は個人的には、エイズの感染予防に関する研究には、税金を払いたくありません。血友病の場合などの特殊な場合を除いて、エイズは結核などのように空気感染することはないからです。エイズが本当に怖いのならば、エイズの恐れがあるような人物といたずらに性交渉を持たないという、世間ではすでに常識的な知識となっている別行動をとる選択肢が存在するのです。

 しかし、私の税金の一部は、確かに国立研究所や科学技術研究費といった国家予算となって、エイズの予防やウィルスの研究となっています。さらには、私の社会保険費用はエイズの治療費に支払われているのが現実です。そして私が税金を支払わないとするなら、国家は私を投獄することも可能なのです。

 ところで、ここで念を押しておきたいことがあります。ここでいう強制とは実際の物理力を行使することが許されているような直接的なものです。それは、ミッシェル・フーコーなどに代表されるような社会学者の考える社会的な「権力」、あるいは社会的な暗黙の「強制」というものではありません。そもそも社会的な権力や強制などという概念は、言葉の使い方によってそうもいえるし、あるいはそうはいえないような非直接的なものにすぎないからです。

 実際、左翼的知識人の依存しがちな、このような強制概念は曖昧であるにとどまらず、危険でさえあります。なぜなら、それは国家の持つ本質的な物理的強制力を、自由な意思で帰属の有無を変更できるような、国家以外の集団の持つ心理的な圧力とを混同させてしまい、われわれに国家の果たすべき役割について考えることを困難にしてしまうからです。

 さて、現在の福祉国家のおこなっているような慈善的な活動は、そもそも強制力を使ってまで、嫌がる人から税金を徴収してなすべきことなのでしょうか。私にはそうは思えません。

 社会にホームレスが多すぎると考えるのなら、そう思う人が自らの責任と資源の拠出において、ホームレスの救済をおこなうべきです。現実的に考えても、やる気のあるNPO活動につとめる人たちのほうが、ホームレス対策を実行するために雇われたわけでもない市役所や県庁の公務員よりも、はるかに人間的で望ましい態度でホームレスの問題に取り組んでいると思います。

 それでは、十分な予算が足りないだろうと心から思う人は、それでは自分の収入のうち、いったいどれだけをホームレス対策に支払う気があるのかを自らに問うてみてください。有り体にいうならば、誰か金持ちの「他人」の金で政策を実行するべきだという高邁な思想を当然視する前に、自分の金をどれだけ支払う覚悟があるのかを三省してほしいのです。

 あるいは、その政策を実行するためにどれだけの労働を自らが提供する気があるのでしょうか。自分が働いて、自らが人様の役にたって手に入れた収入でもいいのです。あるいはもっと直接的に自らがボランティアとして働くことでもいいのです。

 現在の日本では、およそ社会的な慈善行為はすべて国家がおこなうべきものとの意識が強いようです。しかし、巷間よく言われることですが、私が若い日をすごしたアメリカでは、慈善事業や大学の創設など公益性の高い事業は、成功した実業家が自らの資産によっておこなうものだという考えが根強く存在します。

 ハーヴァード大学やスタンフォード大学、カーネギーメロン大学などは私立であり、これらの名門と呼ばれる私立大学の多くが富豪がつくったものです。ちなみにスタンフォード大学は19世紀カリフォルニアの鉄道王レランド・スタンフォードによって、カーネギーメロンは鉄鋼王アンドリュー・カーネギーによって設立されました。さて人類の英知により貢献しているのは、シリコンヴァレーの中心地にあるスタンフォード大学でしょうか、それとも日本政府の手になる東京大学なのでしょうか。

 

スタンフォード大学

 

 一部の人びとからマイクロソフト帝国などと揶揄されることの多いマイクロソフトですが、創始者ビル・ゲイツはその10兆円にも及ぶ個人資産のほとんどを、難病治療などの研究のために拠出することを表明しています。実際に2006年までに、すでに2千億円以上の資産を結核やマラリアなどその他の発展途上国の疾病予防のために寄付しているのです。

 ひるがえって日本が開国してから産業国家として花開くまで、いったい誰が莫大な個人資産によって人類の英知や福祉に貢献しようとしたのでしょうか。

 社会福祉のような本来的に道徳的な行為は、国家のような強制機関によってなされるべきではありません。それは純粋に個人的な人間の博愛や慈善、ボランティアによってなされるべきものです。日本のように豊かな国では、いかなる公共的な善であれ、それを大きな価値だと思うような人々が自らの意思で資金を提供し、そのような活動を自己人格の実現・陶冶だと考える個人によって主体的に実行されなければならないと思います。それでこそ、一流の精神を持つ人びとだ、地球市民だと胸を張っていえるのではないでしょうか。

 

日本人はお上頼みなのか?

 たしかに前述のように、自由を求めて祖国を離れた移民の国であるアメリカで、自主独立の風土が醸成されたのは自然なことだと思われます。しかし、私たち日本人はここで、はたと一つの大きな問題があることに気づきます。それは、日本人はあまりにも政府に依存的なメンタリティを持っている、つまり社会問題のすべてをお上に任せてしまうような国民性がある、という点です。

 日本は明治政府が誕生してから、140年にもわたって強固な中央集権が続いてきました。中央官僚は長い間、「知らしむべからず、依らしむべし」を合言葉に、民衆には真実を知らせずに政治を独占してきたのです。私を含めて大方の日本人が、日本人はアメリカ人と違って、結局はお上に頼るしかないのだ、と感じてしまうのも無理はないと思います。

 しかしここで、江戸時代の逸話を挙げてみましょう。

 天下分け目の関が原で勝利した後、徳川家が幕府を江戸に構えると、大阪は商都として発展してゆくことになります。とはいえ、幕府の政策は江戸の開発に主眼がおかれましたから、大阪に関しては、幕府から多くを期待することはできませんでした。実際、大阪には幕府が直轄する公儀橋があまりありませんでした。

 そこで大活躍したのが、淀屋などの大阪の豪商たちです。大阪には土佐堀川にかかる淀屋橋や長堀川の吉野家橋、東横堀川の葭屋橋(よしやばし)などの屋号のついた橋が多くあります。その名からわかるように、これらはすべて大阪の活発な商業活動に支えられた商人たちによって私費で架設されたものなのです。

 この意味で、大阪は政府である幕府ではなく、民間人たる商人たちが作った町だといえるでしょう。これは大阪人なら誰でも知っている事実です。大阪の町人たちが江戸幕府というお上に頼らず、自らの力で数多くの橋を架けていった心意気は、「浪速の八百八橋」や「水の都」という言葉にあらわれているのです。

 これらの莫大な私財を投じた公共事業の背景には、全国の米が集まってきた「天下の台所」であった大阪の米市場の生み出す潤沢な資金がありました。大阪は当時、世界でもっともすすんだ商品取引所でもあり、当時の世界では類を見ない米の先物市場までもが存在していました。

 1730年にはじまった堂島米会所での先物市場取引は、シカゴのマーカンタイルで商品の先物市場が開設される100年も前のことです。これはつまり、商業活動が真に自由化されていれば、日本人は決して西洋人に劣らないような社会的な革新性をも示せるという証左なのではないでしょうか。

 また同じように、大阪では数多くの私塾が開設され、全国から学生が集まってきていたことも忘れてはなりません。蘭学・医学者であった緒方洪庵による適塾、藩校のなかった大阪に商人たちがつくった漢学の懐徳堂、幕末に乱を起こしたことで有名な大塩平八郎による洗心洞塾などがありました。その後、たとえば適塾は大阪大学になりましたが、長崎遊学を終えた福沢諭吉もまた学んでいたほどの名門だったのです。

 いうまでもないことですが、こういった民間人による公共事業は、なにも大阪にかぎったことではありません。今も残る東京の玉川上水や、和歌山県御坊市の新池など、民間人が私財を投じた、あるいはイニシアティブをとった公共事業は、それこそ町の数だけあるといっていいでしょう。

 今ではあらゆることに関して政府がなくてはどうにもならないように感じる日本人ですが、大阪では、政府がやらないというような状況で、かえって民間人の主体性が発揮されて、政府の消極性を上回るものになったほどなのです。このような公共精神は今でも変わらないと思います。

 政府がやれば民間の2倍の資源を費やすという不効率なものになるだけでなく、その問題の対処もまた、当事者意識を欠いた非人間的なものになりがちです。日本人はお上に弱いなどと決め付けないで、民間部門、いや人さまのことをもっと信じるべきです。いまは政府がおこなっていることでも、政府が撤退したことには、はるかに効率的なNPOが出現するに違いないのです。

 またNPOとならんで、日本の企業も頼りになると思います。たとえば、トヨタなどは累積的な余剰資金が10兆円にもなるほどの世界的な優良企業です。非効率な国家が撤退すれば、かつての大阪の豪商とまではいかなくとも、NPOなどと協力して少なからぬ社会基盤を担う力があるのではないでしょうか。現に中部国際空港などは、トヨタ方式の経営が奏功して、大阪や成田に比べてはるかに効率的な運営をしているのです。

 

どんな団体に寄付をするべきか

 豊かな社会では、人間の自己実現の欲求は多様なものにならざるをえません。なかには私のように平和のうちに大きなこともできずに、大学で講義をしながら平凡に生きる人もいるでしょう。あるいはまた、国境なき医師団に参加するような献身的な博愛主義者もいるでしょう。

 このような現実を前提にして考えてみましょう。途上国の貧困や疾病の撲滅を目指すという慈善的な団体は、たいへんな数が存在します。日本国政府が公式におこなっているような大規模なODAから、ほとんど個人のレベルでおこなわれている草の根シニア・ボランティアまで、ほんとうに多種多少です。もしも、そういった団体に寄付をしたいとするなら、いったいどこにするべきなのでしょうか。

 答えは、比較的単純な法則の中にあります。それは人間は多様であり、すべての組織は時間が経つにつれて必然的に組織優先となっていくという二つの洞察です。

 まず貧困撲滅のために途上国へのODAに寄付する人がいたら、それはなんらかの国家的な慈善事業を期待して国庫に寄付をする奇特な人と同じだといえるでしょう。外務省が主管となっているODAが、いかに援助国の利益を優先し、途上国の実情を無視して非効率的におこなわれているのかについては、ここで今さらいうまでもないと思います。

 何につけても、目的がはっきりしていなくて、漠然と「貧困の撲滅」「社会のインフラ整備」などといっているところは、たいしたことができていないと思います。そのような漠然とした目標では、大きな目標をより詳細な目標へと落としこむ際にかならず、自己組織優先の資源配分がおこなわれることになるからです。

 同じ理由から、私は国連の文化機関であるユネスコなどには寄付すべきではないと思います。世界遺産がすばらしいのなら、個別の遺産を管理している団体に直接寄付するべきです。そのほうが、世界遺産に登録されていないが、個人的にすばらしい価値を持つと感じられる遺産や自然、あるいは、ユネスコの官僚がなかば恣意的に指定した遺産以外をも守ることができるからです。

 同じように、NHKが歳末助け合いと称しておこなっている、共同募金会があります。その目的としては、身体障害者や老人福祉の充実などをうたっていますが、実際には、ほとんど何をやっているのかわからない点で、私には寄付する価値があるとは到底思われません。

 私が個人的に寄付をするのは、つねに小さな単機能の慈善団体です。そういう団体では、外務省やユネスコのような高給で安定した役人生活を楽しむために勤めている人は、ほとんどいないだろうからです。かりにいたとしても少数なはずです。

 これにはたとえば、日本盲導犬協会や国境なき医師団などが典型的に果てはまるように思います。日本の障害者福祉や途上国医療支援などという、あまりにも漠然とした広すぎるカテゴリーを目標にしている政府は論外です。それでは、ほとんどの善意が中間に巣食う団体職員にむしりとられてしまうでしょう。

 私はこの著作の印税は、盲導犬教会や国境なき医師団に寄付したいと思っています。それでは、さらに考えてみましょう。国境なき医師団は、国際赤十字や国際赤新月と同じような活動をしているのに、なぜ私はこれらを区別をするべき必然性を感じるのでしょうか。

 その意味は、組織の結成以来の時間的な長さにあります。ある意味でかんがえれば、組織が長い間あるほど強固で安定した関係を途上国と築くことができるため、援助の効率もいいように思われます。そして、そういう側面も実際に存在すると思います。

 しかし、国際紛争時に危険が迫った場合に退去することを原則とする国際赤十字、戦前から華族の名誉職となってきた日本赤十字よりも、国境なき医師団のほうが、より緊急で重要な任務を遂行していると思います。また、国境なき医師団は、当事国である独裁国家などにおける、政治の実態についても告発することにしています。当然ながらそのような告発行為のためには、あらゆる国家から独立した、より大きな予算が必要なはずです。

 もちろん、国際赤十字は世界中で120年間にも及ぶすばらしい活動をしてきました。それは疑うことのできない事実だと思います。しかし、私がここでいっているのは、私の取るに足らない寄付金の使途の効率の問題なのです。私の資源はあまりにもちっぽけなものであり、有限です。だからこそ、より効率的に使ってほしいのです。

  つまり、私は個人の多様性をほかの人よりも重視しているのです。私が見るところでは、いかなる慈善団体においても、第1世代目はたしかに博愛精神の純粋な発露から組織を作っていることが多いと思います。しかし、その次の世代は創始者の子、甥や姪などの、とくにその団体の高尚な目的とはなんの関係のない人間が、ネポティズム(身内びいき)を主要な契機として組織に入ってくることになります。

 それが50年もたち、三代目になるころには当初の高邁な目的や設立者は、団体の理事室の額縁に筆や写真が残るだけです。組織の事実的な目的という意味ではお払い箱になり、誰からも見向きもされなくなります。従業員はみな、組織の維持と自分の分け前にのみ汲々とし始め、組織全体は非効率かつ、類似の団体を非難・迫害するような組織原理に支配された、グロテスクな存在となるのです。

 明治の元勲が明治政府の礎を築いたたとき、彼らには世界の一等国になる、そしてヨーロッパ列強の侵略に対抗する軍事力を構築するという、比較的に明確で重要な目的がありました。しかし140年が経った現在、いまの日本政府の官僚にそれを望むのはまったく不可能です。

 2005年から次々と明らかになった官僚の汚職事件の1つに、防衛施設庁の官製談合事件があります。防衛施設庁は、設立以来ほぼ一貫して、組織ぐるみで天下りポストをゼネコンその他の施工会社に要求して、見返りに施設工事の発注をしていたのです。このことをみていただきたいのです。組織が公益を担っているという名目のもとで、長期間存続したところほど腐敗はひどいと考えるべきなのではないでしょうか。

 まとめるなら、寄付は、目的を絞った事業におこなうべきであり、漠然と福祉や経済発展を考えているような大きな歴史のある団体におこなうべきでないということになります。このような特定目的の社会貢献のあり方の極限が、アメリカの富豪がおこなってきたような、慈善活動なのでしょう。

 それは特定目的のための組織を自分でつくり、人材をネポティズムではなく、組織の本来の目的にしたがって、外部からスカウトするような組織です。個人として目的に協賛してくれる人材に、それなりの経済的な支援をするということが大切なのだと思います。

 

個人の人格的独立とアイン・ランドの客観主義

 ここまでは「利他的であることは尊い」という、私たちの常識感覚にもなじみやすい主張に基づいて考えてきました。定義的にいって、利己的な行為は自分のことだけを考えたものであり、他の人間たち、あるいは社会を省みないという意味をもちます。そして一般的にいって利己主義は望ましいものではなく、利他主義は他人への共感をなす点で人間的で望ましいと考えられています。

 しかし、リバタリアニズムの中にはこれを是としない人たちがいます。

 1982年になくなったアイン・ランドが創始した社会哲学である「客観主義」では、人は利他的に生きるべきではないと考えます。人は一人一人、むしろ積極的・利己的に自らの目的を設定して生きることこそが第一義的な道徳律だというのです。

 やや風変わりともいえるこのような思想は、いったいどこから生まれたのでしょうか。

 アイン・ランドは社会主義革命前のロシアに生まれましたが、自由を求めて21歳でアメリカに亡命した女性です。ロシアは1917年の共産主義革命によって営業の自由が奪われ、人々は集産的な方法での計画経済の結果、職業選択の自由も、私有財産制度も失ってしまいました。これを嫌ってアメリカに亡命したランドは、移民の国アメリカに人間精神の自由を見出し、それをより純化させたのです。

 

アイン・ランド

 

 

 アメリカで脚本家、作家となり、1930年代から『賛歌』、『われら、生きる者』、を、さらに43年に『水源』、56年には『肩をすくめるアトラス』などの代表作を残しました。すばらしいことは、それらは60年以上たった今もかわらず、アメリカ人に読み継がれる小説であり続けていることです。亡命帰化したロシア人女性が、アメリカ人に自由の精神を唱道しているのです。なによりもアメリカという社会のふところの深さ、そして開かれた性格を如実に物語っているといえるのではないでしょうか。

 1956年に『アトラス』を書いてからのランドは、彼女の小説で表現され、胚胎した思想を自ら客観主義と名づけ、その唱道に残りの人生をついやしました。客観主義の研究サークルには、1987年から2006年まで19年もの間、FRB(連邦準備制度理事会)の議長をつとめたアラン・グリーンスパンがいたことは有名です。ほかにも時期アメリカ大統領候補とも目されるヒラリー・クリントン、歌手のマドンナ、映画監督のオリバー・ストーンなども、ランドの小説から大きな影響を受けたと発言しているのです。

 1998年にアメリカの大手出版社ランダム・ハウスが読者投票をしたところ、20世紀の小説ベスト100の中の1278位がこれらのランドの作品であったのというのは驚き以外のなにものでもありません。それだけ、ランドのいう「利己主義」は美徳であるという考えが、自らの目標を持って旧大陸から移住してきた過去を持つ、アメリカ人の琴線に触れているのです。

 とはいえ、ここでいう、ランドの客観主義の主張する「利己主義」とは、日本語でいう自分勝手という意味の利己主義とはだいぶ違います。もちろん金銭的な利己性の問題ではありません。それはつまり「人間は一人一人が自分自身の価値観と、それを達成するという目的を持ち、その実現のためにのみ生きるべきだ」という意味での利己主義だといってもいいでしょう。

 ランドの代表作の一つである『水源』の主人公ハワード・ロークの発言が、これを具体的にわかりやすく説明していると思います。

 

水源

 

 ロークは、自らの信じる合理的、非装飾的な建築哲学を貫いて生きる、孤高で寡黙な若き建築家です。ところがある時、厳重なる約束に反して、自分がやむをえず他人名義で設計した公共住宅建築を、その本来持つはずだった合理性を本質的に損なった形で建てられてしまいます。ロークはそれを爆破して、裁判にかけられてしまうのです。

 法廷においてロークは、陪審員団に向かって、人間が独創的で独立した存在である必要をとくのです。

 

 「創造者の基本的欲求は、自主独立です。理を通していく知性というものは、どんな形にせよ強制されては機能できません。知性というものは、曲げられたり、犠牲にされたり、どんなものにせよ何らかの考慮に従属させられたりなど、できません。知性というものは、機能において、動機において、全き自主独立を要求します。創造者にとって、人々との関係は、二次的なものでしかありません。」

 

 そして、他人の価値観に依拠した人生を送る人たちを、中古の生き方をするセコハン人間だと称して糾弾するのです。

 

 「一方、中古の生き方をする人間の基本的欲求は、糧を得るために、人々との絆を固めて安定させることにあります。中古の生き方をする人間、セコハン人間にとっては、まず人間関係が何よりも優先するのです。セコハン人間は、人間は他人に奉仕するために存在すると宣言します。セコハン人間は、利他主義を伝道します。・・・しかし人間は他人のために生きることなどできません。・・・今まで人々は、ずっと創造者を破滅させるような教訓ばかり、教えられてきたのです。人々は、美徳として、他人に依存することを教えられてきました。

 他人のために生きようと試みる人間は、依存者です。そのような人間は、動機において寄生虫です。・・・こうした人間関係は相互腐敗以外の何者も生み出しません。・・・現実には、このような人間にもっとも近いのは、つまり他人に奉仕するために生きる人間に一番似ているのは、奴隷です。」

 

 これらの発言からは、人間がその依拠すべき価値観において独立して生きなければならないという強い信念が読み取れるでしょう。

 ロークはさらに続けます。

 

 「この裁判において、私は他人のために存在していない人間だと言明したかったのです。それははっきりといわれなければならないことでした。この世界が、自己犠牲の行為の乱痴気騒ぎによって破滅に瀕しつつあるからです。・・・人間の創造的仕事の完全無欠さというものはどんな慈善的努力よりも大きな重要性があると、この裁判で言明したかったのです。私の言葉が理解できない人間は、この世界を破壊しつつある人々です。・・・私は誰にせよ、他人のために存在することなどに、関心を持ちません。

 私は、私以外の人間に対する義務など認めません。それは同時に、他人の自由に敬意を払うことであり、奴隷的社会に参加しないことを意味します。」

 

 ロークはここで、人間はそれぞれ、周囲の右往左往する人びとから独立した価値観を持つ確固たる個人となるべきであり、それがすなわち道徳的に望ましい市民社会をつくる第一歩なのだと断言しているのです。それは、人が他人の奴隷ではない、他人に精神的に隷属しない、一人一人が独立した人格を実現する社会なのです。

 正直に言って、私自身は、利己性のみが人間にとって善なるものであり、利他主義は他人への本質的な依存でしかないとする考えには、完全には共感できません。たしかに利他主義には他者への共感、思いやりややさしさという固有の美徳があると感じられるからです。マザーテレサはたしかにスラムでの慈善活動に人生をささげ、数多くの人を救ったのであり、彼女が「独自の価値観を持たなかった」と非難するのは、やはりなにか違っているように感じられるのです。

 とはいえ、同時に利己的な追求心なしには、人間社会の偉大な芸術や技芸、科学や哲学などは、とうてい現在のようには花開いてはいなかったでしょう。このことは確固たる事実として認めなくてはならないと思います。明らかに利己的な探究心、克己的なまでの追及心こそが、スポーツや芸術、建築や科学などといった人間のすばらしい文化を、今のような状態にまで高めてきたのですから。

 ノーベル賞やフィールズ賞を受けるような研究者や、著名な芸術家や冒険家、さらにオリンピックやワールドカップに出場するようなスポーツ選手は自らの掲げた目標のために、日々を生きているのです。そしてこの意味で利己的な人びとが人間の多様な文化をより発展させてきた結果、現在の豊かで自由な社会が実現したのだと思うのです。

 他人から独立した強固なる価値観の構築というのは、日本人にとってはまさに弱点だと思います。科学からスポーツまで、私たち日本人は他人の価値観を気にしすぎなのです。そこからは横並びで平等な文化が生まれ、それはそれで評価するべきことかもしれません。しかし、他人の批判にもかかわらず追及する自主独立の精神こそが、新たなる地平を作り出し、基準を設定してゆくのです。

 ときに科学においては、日本人は独創性がないといわれます。青色発光ダイオードを発明し、ノーベル賞に最も近い人物とされる、カリフォルニア大学の中村修二教授は、会社から反対されながらも研究を続けたといいます。そういった頑固さ、自己の信念への忠実さが必要とされることもあるのではないでしょうか。

 

格差社会の到来

 さて、リバタリアニズムに対する典型的な反論には、次のようなものがあります。いわく、すべての資源の配分を自由な市場にまかせてしまうと、所得の格差が一方的に広がってしまう。よって国民の実質的な平等を実現するために国家による経済介入は必要不可欠なのである。

 このような主張の前提として、資本主義がますます高度化しつつ発展する中で、たしかに所得格差に代表されるような不平等が広がりつつある現実があります。これは日本社会が、いわゆる「勝ち組」と「負け組み」に分かれつつあるということです。

 経済学者の間では、第二次世界大戦後、世界的な規模での産業社会の到来と共に、所得は平等化してきたことが知られていました。ところが、アメリカでは1980年代にはすでに所得格差が拡大に転じたことが、報告されていたのです。それが、予期されたとおり、ドイツやフランス、イギリス、日本でも同じような所得格差の拡大となって観察されるようになってきたというわけです。

 このような職格差の拡大の理由を端的にいってしまえば、産業全般のIT化にあるといえるでしょう。

 たとえば高学歴の労働者は、低学歴の労働者よりも、はるかに大きな所得を得るようになってきています。これはいうまでもなく、パソコンなどを使ってワープロやスプレッドシート、あるいはDTPやCADなどの特殊なソフトを使いこなし、プレゼンテーションをできることが大きな意味を持つようになってきているということです。

 また同じように、企業内のデータがデータベースで一元的に管理されるようになると、今度はそのデータを使って分析・判断する能力が問われるようになります。データはそれ自体では何も語ってくれませんから、自分で仮説を立てて検証し、それをデータで確認するという知的な作業が必要になるのです。

 これと歩を同じくして、野球やサッカーその他のプロスポーツにおいても、一流の選手はますます大きな収入を得るようになっています。それはケーブルテレビやスカパーなどの衛星テレビ、さらにはネット配信などの通信手段が発達・普及するによって、有名な選手の活躍は世界の隅々までますます大きく報道され、CM出演など多額の所得が得られるようになったためです。これに対して、一流にわずかに届かない人たちはあまり報道されることはないため、所得はほとんど得られないということになってしまうのです。

 このような格差社会の到来は、2001年から2006年秋まで続いた小泉政権5年間の負の遺産として国会などでもとり上げられています。それはむき出しの資本主義、あるいは規制緩和の結果として生じたものとして批判されているのです。

 これを受けて、2004年には東京学芸大学の山田昌弘が『希望格差社会』を著し、現代の「負け組み」は所得が低いばかりではなく、将来に対する成功の希望すらないという状態であることを指摘しました。職業・家庭・教育の不安定な「負け組み」の子どもは「努力は報われない」と感じ、将来に絶望してしまっているというのです。

 同じく2005年のベストセラー『下流社会』において三浦展は、上流の人ほど「上昇志向で」あるのに対して、下流の人ほど「自分らしい人生という呪文」にかかっており、自己有能感をもっていることを報告しています。

 つまり下流の学生ほど、「将来のことを考えるよりも現在を楽しみたい」という「現状志向」的だというのです。また、「あくせく勉強して、よい学校やよい会社に入っても、将来の生活に大した違いはない」という「成功物語否定的」な価値観を持っていることも報告しています。もちろん、社会学者である著者は、このような状態は社会の長期的な活力を奪う大きな問題だと感じており、現状の日本社会が憂うべき状態にあるのだといいます。

 

所得の不平等がそもそも問題なのか?

 このような現代的な資本主義の発展に伴う格差の拡大に対する、左翼的な批判に対するリバタリアンの反論は、おおまかにいって以下のような三つのものだといえるでしょう。

 まず第一の反論は、「そもそも不平等などは問題ではないのだ!」という、いってしまえば身もふたもないものです。

 いわゆる「負け組み」について考えてみると、そこでいう「負け」というのは経済的な視点から見たものだといえるでしょう。『希望格差社会』においても、そこでの希望とは、一流大学から安定した企業に入り、高い収入を得るというような、きわめて単線的な成功者像が描かれています。やや単純化していえば、戦後の高度成長時代の方がみなが上昇志向の希望をもてただけ良かったのだというような考え方です。

 しかし私には、著者がいうように高度成長時代が低リスクで希望にあふれる社会であったというのはある程度納得できるものの、だからといって、それがこの成熟した社会において望ましいといえるのかは疑問に思われます。

 現代社会における成功というのは、大企業や官庁に入るというようなものばかりではありません。プロスポーツの選手やプロ化まではされていないスポーツ選手、あるいはなんらかの芸能人、ミュージシャンや物書き、フリーのジャーナリストやアナウンサーなどになるというように、一昔前に比べれば多様な選択肢がある時代になってきています。

 しかし、もっとはるかに重要なことは、成熟した社会、多様な人格の存在を認める社会では、そもそも成功という感覚そのものが社会的なものというよりも、むしろ個人的なものであるべきだという点です。高い所得や社会的な名誉というものはわかりやすい成功の例かもしれませんが、成熟社会においての「成功」にはもっと主観的な、傍から見るとつまらないような目標があってもいいはずです。金銭所得の多寡が成功なのだという単線的な思考こそが拝金主義的なのであり、それを越えて、もっと多様で、多元的な自己実現の方法があるべきなのです。

 これは前述したアイン・ランドのいう、「利己主義」の貫徹とあい通じるものだといえるでしょう。「社会」という他者から価値観をかりてくるのではなく、自分の信じる道を行く、それこそが人間の存在意義なのであり、人生の価値そのものなのです。ロークは周囲の価値観に敢然と挑戦し、自らの信じる建築を追及したのです。そこでは、所得などというのは二義的なものでしかありません。

 たとえば、私はこの著作に著されている「自由」の観念を、日本語話者に対して唱道することに、自分の個人的な目標を見出しています。それは金銭所得には直接にはつながらないかもしれませんし、この民族主義の吹き荒れる世界の現状では、将来的にも「社会的」な成功は望めないかもしれません。しかし、それでも私なりに、大きなやりがいとある程度の達成感を感じていきているわけです。

  同じように、『下流社会』における、「将来のことを考えるよりも現在を楽しみたい」若者が増えているという指摘は、私も大学教員として日ごろから感じていることであり、もっともなものだと納得します。しかし、私には、世界的な基準で見て、物質的にはそこそこの生活をしている日本の若者が「現状維持的」であることはなるほどもっとなことではあっても、問題視するべきことではないように思われるのです。

 同じような意見は、大前研一の2006年の著作『ロウワーミドルの衝撃』でも述べられれています。彼は、日本人が所得において二極分化していることを指摘した後、生活者大国であるためには、生活者の意識の変革や行政の変革が必要であるという主張をしています。さらに、若い世代では上昇へのあきらめからか、現状を楽しもうという意識が強くなっているというのです。

 たしかに、日本ではフリーターをしていても年収は200万近くにはなります。私は、そういった国では、毎日朝から晩まで会社に勤めて高額の収入を得るのも、とくに訓練の必要のない単純労務をして余暇を十分に楽しむのも、それぞれの人生の選択の違いだと思います。

 また年収が300万もあれば、最低レベルかもしれませんが、一応の文化的生活は可能だと思います。現代社会は科学技術の進歩につれて、最低限の生活をするため、さらには小さな余暇活動をおこなうための必要経費が下がってきているからです。考えてもみてください、100円ショップとディスカウントショップでほとんどの日用品が、ますます安価に手に入るようになってきているのです。

 実際、高い年収のほとんどは、機能的には無意味に近い、ひじょうに高額のブランド奢侈品に流れていることは明らかです。100万のエルメスのケリーバッグも1000円のヨーカ堂のバッグも、ほとんどその機能にかわりはありません。1000万円のメルセデス・ベンツSクラスも50万円の軽自動車も、その移動・積載するという機能にほとんど差はないでしょう。カシオのソーラー電波Gショックにいたっては、50分の1のプライスでありながら、どのような機能においてもロレックスを上回っていると思います。

 個人的な話をすると、私はユニクロに通うことがよくあります。そこではデパートブランドの5分の一程度の値段で、ほとんど同じ機能のものが買えます。ダイソーなどの100円ショップでは最低限のクオリティかもしれませんが、およそすべての日用品が手に入ります。またサービス過剰な美容院や床屋ではなく、101000円のQBハウスで髪を切りますが、だからといって、そのために私の人格的な尊厳が失われているとも思いません。

 なぜ、そこまで所得の平等が必要なのでしょうか。

 もちろん、「時価総額世界一」を目指すホリエモンのような、ある種の拝金主義者がいてもかまわないと思います。それは成熟した社会に存在する、多様な価値観のうちの代表的なものだからです。それはそれで、個人的な目標として否定されるべきことではないでしょう。

 しかし、だからといって皆が所得の最大化を目指すというのはバカげています。そして所得が平等であるということ自体に価値を見出すのは、そもそもねたみ以外のなにものでもないように思います。大衆週刊誌には、頻繁に「一部上場のあの会社、社員の平均年収は」などというような、これみよがしのねたみ記事があい変わらず掲載され続けています。

 そういったものには惑わされず、その結果としての金銭所得がどうであれ、自分なりの価値観をもって選んだ仕事に専念するべきです。それがどのみち一度きりしかない自分自身の人生における、人間としての矜持というものではないでしょうか。

 

 



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