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結局どんな人でも天国に行く-追記

後輩は書きました。

*****

迷い

 お世話になります。
 ふと、分からなくなりました。

 「結局どんな人でも天国に行きますよ」とイエスは約束している・・・。
 すばらしいことです。
 もろ手をあげて賛成です。
 安心させられました。
 自分の不安も除去されました。

 人間を信じたい。信じてよかった。
 しかし、いまだに迷いや疑問があります。心が貧しいのでしょうか。

 悪をなす人たちは、反省や悔い改めることもなく天国へ行くことになるのでしょうか。
 これではヤリ得ではないでしょうか。

 私が現在、悩み苦しんでいるのは、自分を攻撃してくる人たちとの対応です。
 その人たちは、いろんな理屈を繰り出してきますが、よく見ると自分の保身と損得が基本だと思われて仕方ありません。
 その結果、他人を下敷きにすることに躊躇していません。

 下敷きにされた人は、苦しんでいます。経済的問題にも波及し、自分だけならまだしも家族も影響を受けることになると、心穏やかではありません。

 こうした人たちは、何ら罰を受けることなく、天国へ行くのでしょうか。
 私の心が貧しいことは承知していますが、悔しさもあります。
 懺悔しないと赦さないと言っているわけではありません。苦しんでいる人の存在を知ってほしいだけです。
 そして、神はどうみているのでしょうか。

*****
確かに、ごもっともです。理不尽です。

 悪をなす人たちは、反省や悔い改めることもなく天国へ行くことになるのでしょうか。
 これではヤリ得ではないでしょうか。

はい。そうです。
しかし人間には、ヤリ得だと分かっていても、できない人がいます。できる人もいます。
ヤリ得だから俺もやろうとはできないはずです。
ヤリ得でなくてもやる人はやります。
そこのところは損得勘定ではないようにも思います。

結局よく分からないですが
ある種の小心者なのでしょう
ヤリ得だから、機に乗じて、自分はやる、そんな人間であると考えたとき
どんなに惨めな感情になるでしょうと
思いますが
自己評価をそんなにも傷つけてわずかの利益が欲しいでしょうか
それはヤリ得のチャンスが与えられなかった者の考えかもしれません

戦争が終わって
誰の所有か分からない土地があったとき
俺の者だと強く言い張る人を思い出します
損得というより
もう根本的にそのような人間だと思うしかないようにも思います

懺悔などしてもらったところで
過去が訂正されるわけでもありません。
どんなに八つ裂きにしても気が済むということもないでしょう。
一族を含めて100年の間、苦しめ続けるくらいの仕組みを考えないと
リンチとしても不十分。
毎年確実に税金を徴収してやりましょう。
(これが最大の罪滅ぼしかもしれない。自分は税金を使う人、あちらは税金を払う人、そう考えれば痛快かも。
現実に存在しているのが怖いですが。)

 私が現在、悩み苦しんでいるのは、自分を攻撃してくる人たちとの対応です。
 その人たちは、いろんな理屈を繰り出してきますが、よく見ると自分の保身と損得が基本だと思われて仕方ありません。
 その結果、他人を下敷きにすることに躊躇していません。

はい、そうです。その部分に関しては、彼らに痛みの感受性がありません。共感の感受性もありません。
それが人間の実態であると、絶望的すぎるかもしれませんが、わたしは思います。
人間は気まぐれに共感するだけです。
むしろ、余計な共感が起こらないような仕組みをあれこれ考えているように思います。
共感すると損をしますから。
自分と自分の子孫、つまり自分の遺伝子が、ばらまかれて生き延びる方向に、感情も行動も、淘汰されて残っていきます。

 下敷きにされた人は、苦しんでいます。経済的問題にも波及し、自分だけならまだしも家族も影響を受けることになると、心穏やかではありません。

そうですね。しかしあなたに損失が出た分、その無神経な人たちは経済的な利得もあったわけでしょう。
あなたはいいことをしたわけです、一種。
現代ではおおむねゼロサム・ゲームですから、いやむしろ縮小するパイの取り合いの社会ですから、どの人の神経もすり減ります。
利己主義者と同じ原理で利己的に闘うとしても、やはり勝者と敗者は生まれます。

ここから先は難しく微妙ですが、この局面での勝者と敗者は、必ずしも、人生の幸せと重なり合いません。
言ってみれば、ただ甲子園で勝った負けたとそれだけのことです。
経済的困窮は実際大きな問題で、自殺する人も大半は、経済問題です。
しかし貧乏も困窮も神の割り当てた運命です。それを生きてみて何を考えるかと神は私たちに問いかけています。私たちは神の問いに行動で応えましよう。この難しい状況を与えられ、人間として何ができるか、神に応えましょう。
経済的困窮にもかかわらず、仲良く、ユーモアを忘れず、芸術も失わず、生きることができると、そのような形で、神の問いに答えましょう。、

 こうした人たちは、何ら罰を受けることなく、天国へ行くのでしょうか。

はい。ドストエフスキーの罪と罰でラスコーリニコフは金貸しのおばあさんを殺します。神が裁かないのなら、自分が裁くというわけです。しかしラスコーリニコフとて幸せになったわけでもなく、女性の無限の愛に救われるまでは、苦しみ続けます。
天国は広いですから、彼らが行っても、狭くなることはありません。彼らも行けばいいではないですか。
過去は私たちの心の中にしかありません。たったそれだけのものです。
認知症の人たちは過去をきれいさっぱり忘れています。
すべてはなかったことになってしまいます。
それでいいのでしょう。
多分、天国に入るときは、すべてのメモリーがリセットされるような気もします。
過去はその人の心の中にしかありませんし、
その人がうっかり忘れると、本当に消えます。
それでいいと思います。
ヤリ得をした人もただそれだけのことです。損をした人もただそれだけのことです。

 私の心が貧しいことは承知していますが、悔しさもあります。

悔しさも自然で、かつ、必要な感情です。悔しいから、自分を高めて、自分に勝つようにしましょう。

 懺悔しないと赦さないと言っているわけではありません。苦しんでいる人の存在を知ってほしいだけです。
 そして、神はどうみているのでしょうか。

勝者は敗者の苦しみを知りません。しかしまた、勝者には勝者の苦しみがあります。人から受けるはずの嫉妬も、自分のプライドも、人からの賞賛も、思ったほどではないはずで、誰も自分には興味がないのだと分かります。
勝つと言っても、もっと勝っている人はいますし、上には限りがありません。その意味では、必ずみんな負けるのです。鈍感なものだけが平気で生きていられます。
あなたは鈍感になって、図々しく生きたいですか。繊細なままで苦しく生きたいですか。きっとほどほどのラインがあるはずで、人によって、妥協のラインは上下があると思いますが、それだけのことでしょう。
誰をも苦しめないで生きてきた人もいないわけですし、
微細に見れば、結局お互い様なのだろうと思います。

苦しんでいる人の存在を人は知らないと思います。
どの人も自分の努力は報われないと感じているでしょう。これに例外はありません。
泥棒であっても、こんなに努力したのに、どうしてこんなつまらないものしかとれないのか、これでは子どもを喜ばせることができないと思います。泥棒という行為そのものが子どもを喜ばせないのだと気付くには、多分百回くらい輪廻転生しないと無理でしょう。

そして神はすべてを見て、
できることならば現世の内に報われるようにし、
できない場合には、来世で報われるように手配をするわけです。

そして不思議なことですが、来世で報われるのだと考えて、心が穏やかになれば、そのときからすでに、心は報われているのです。この点を考えると、神は単なる思考装置であると考えることもできます。
実在としての神の証明は別になります。

来世で報われるのは確実なのだから、現世で善行を積もう、そう考え、実際に行為して、一日の終わりに、人に感謝され、神に感謝して、終わる。それは幸せではないでしょうか。わたしはそれだけでいいと思います。

ぼろぼろになってもたかだか70年生きるだけです。豪華な衣装を身にまとい、預金通帳にゼロを蓄えたとしても、それだけのことです。たいてい使いきれないものです。高級レストランに行けば、下らないものを食べさせられ、下らない話を聞かされます。ご飯に目玉焼きを載せて、ソースをかけて一人で、または愛する人と食べているほうがずっといい。

他人を下敷きにする人から、逃れられれば、幸いです。
しかしいま現在目の前にいて、日々新しく、下敷きにされる感覚を苦しむ場合には、
話は難しいものがあります。

苦難があるとき、「にもかかわらず幸せに生きる」ことができるのであって、それが信仰の力です。それが神の力です。
神の愛は具体的には隣人愛として現れます。苦難があるとき、隣人を愛し、配慮し、心を遣うなら、そこには神の愛があるのであり、苦難があるにもかかわらず、神の愛が出現しているのです。
神が私たちを愛しているのですから、私たちは隣人を愛するのです。

イエスは汝の敵を愛せよと教えています。
敵もまた隣人であれば、愛の対象です。

旧約聖書での発展段階では、人を下敷きにする悪人はしかるべき罰を受けます。そのようであって欲しい人は、ユダヤ教がいいと思います。
愛の宗教であるキリスト教は拒否したいと言って、サミー・デイビス・ジュニアは、正義の宗教であるユダヤ教に改宗しました。

新約聖書の段階では、汝の敵を許せ、汝の敵を愛せ、敵のために祈れ、右のほほを打たれたら左のほほも差し出せと、無理難題が続いています。しかしそこで言われているのは、正義ではなくて、愛であるという、大きな転換です。

相手がわたしを搾取していても、なお愛しなさい。
自分を下敷きにした人を、イエスが愛するのですから、わたしも愛するのです。
イエスがそうするから、わたしもそうする。それだけです。

これは神父さんのと解釈とは違うと思いますが、隣人を愛するのは、隣人が好きなのでもないし、隣人を許せるからでもありません、ただ一点、隣人の心の中にも、小さな小さなキリストがいるからです。わたしはそのキリストを愛し、奉仕するのです。

本当は、本格的に隣人を愛さなければならないのですが、
現実のわたしには難しい場合も多いのです。
そのときは相手の心の中にいる小さなキリストへの愛と読み替えます。

逆に、人は自分の心をがらくたで一杯にしないで、隙間をたくさん空けておいて、風通しをよくしておかなければなりません。その状態で初めて、イエスキリストはわたしの心にも立ち寄り、少しの間休んで、また風に吹かれて、どこかに行きます。その、キリストが休んでいるしばしの間、それがわたしの心の浄化される瞬間です。ただそのために生きていると言ってよいでしょう。

ニーチェはこれを奴隷の道徳と言いました。
英雄的に生きることを考えろと言いました。
しかしわたしはそうは思いません。
奴隷の道徳のようでいて、高貴な英雄的生き方です。

食べるために生きているのではありません。
イエスのために生きているのです。
ここで妥協してしまえば、現代社会では、きりのない欲望が預金通帳の数字の形で追いかけてきます。ほぼ全員を不幸にして、追いかけ続けます。全員が、あと少しだけお金があったらいいのだけれど、と慎ましやかな希望を抱いています。しかしそれは叶えられることがありません。いつでもその先があるからです。

過去も未来も整理して、現在に集中すれば、今日食べるものと、キリストに対しての祈りがあれば、充分幸せだと思います。猫は貯金をしません。未来を考える脳がありません。
猫は泣きません。過去を悲しむ脳がありません。
ただ脳の発達に応じて機能が付加されているだけですから、猫と人間の関係のように、現代人と未来人の間には
多分大きな違いが生じるでしょう。
この先、人間の脳がどのように進化するのか、興味深いことです。
なんとなく猫が幸せで、命の営みにぴったり合っているような気がしないでもありません。

わたしを下敷きにしている人もためにも祈りましょう。
その人たちも苦しいからこそそのような行いに及ぶのです。
その人たちにも動機はあり、そうせざるを得ないのでしょう。
及ばないながら、愛の力で、神の計らいで、幸せになるように、祈りましょう。

わたしがすべきことは、そのような人たちに、かすめ取られても、なお、笑っていられる余裕を持つことです。
そのためには本当に強くなければなりません。

そして考えてみれば、何が幸せなのか、そんなことは人間には分からないことです。
食べたほうが幸せなのか不幸なのか、あるものが手に入ったほうが幸せなのか不幸なのか、誰にも分からないことです。長い目で見て初めて幸不幸が見えてくるのかもしれません。しかしそれではどれだけ長く見ればいいか?どれだけでも長く見るしかありません。

もうそんなことも忘れて、今日一日よかったことを感謝し、明日一日の予定をお願いし、それだけでいいではありませんか。猫は余計なことを悩まないようです。

悔しさは自然な感情です。抑圧する必要もありません。心のここに悔しさがあると確認しておけばいいと思います。
でも、それだけのことです。人間はただ生きているだけでどれだけの人に苦しみを与えているでしょうか。
大卒なら高卒の人に苦しみを与えています。
健康なら病気の人に苦しみを与えています。
すべて、優位に立つ人は、劣位の人に苦しみを与えています。
そうしたすべてのことについて、反省しなければなりません。そしてその優位の分を社会還元しなければなりません。

もっと極端な悪の場合を考えてみます。
理由のない犯罪に巻き込まれて、命を落とす人がいます。
どのようにして嘆いたらよいでしょうか。
あるいは報復は許されるでしょうか。

報復の感情は当然あるでしょう。わたしにもあります。しかしそうした気持ちが自分の中に確かにあることを観察することで、大人になれるのだと思います。
人間の心の中にあるものは美しい感情ばかりではありません。
サディスティックな攻撃性もあるし、性的な衝動もあります、自分を守るために嘘をつく弱い人はいます、自分を守るために認知を歪め神経症レベルの心理メカニズムで対応する人は多いものです、そのような諸々のことも観察して、存在を確かめましょう。それでいいではありませんか。はっきり認識すれば、症状が治まるのだと、フロイトは考えました。確かにそのような側面があると思います。

わたしを踏みつけにしたあの人と同じ心がわたしにもある、ただ、わたしはそれを現実化する機会がなかっただけだ、そのように納得することができます。チャンスがあればわたしもそのようにしたかもしれない。多分しただろう。そのチャンスがなかったのは幸運だった。

わたしの人生の目標はここ40年にわたって「魂の浄化」ですが、
ただそれだけが目的と考えれば、どんな苦難も、魂を磨く機会です。
魂を浄化し、軽く軽くして、自然に天国に昇っていくようにしましょう。

それを妨げるのは、悪い人ではなく、むしろいい人です。
地上が美しすぎて、人間が美しすぎるとき、わたしは魂の浄化の運動が鈍ると感じます。
徹底的に汚濁した現世が、魂の上昇の浮力になります。

昔でいう、厭離穢土の感覚でしょうか。
即身成仏の考えはわたしは、非常に興味を持ちますが、所詮は私には合わないものだと感じています。
生きている限り悟ることもないと思っています。

*****
追記

最後に一言したいのは私的復讐、リンチについてである。
必殺仕事人、必殺仕置き人などで、はびこる悪を、司法手続きによらず、裁いている。

個人的には、多分そうするしかないと、消極的にであるが、思わないでもない。
テレビを見ている人が同じようなやりきれなさを抱えていて、
それがドラマの中で代償性に解消されるとすれば、
この世界はやはり間違っているのだと思う。

ドラマの中でどうして正しい手続きがとられないのか。
司法によって解決されるとは思えないので、
たとえば、周囲の人たちにアピールして、隣人の力により、解決に至るとか。

暴力によるリンチでは
正義がどこにあるかの検討は曖昧で
要するに自分が正しいという観点しかないので
そこはきつい留保が必要であるが
司法で正義がどれだけ実現されているのかはまたかなり疑問である

たとえばかんぽの宿問題や郵政人事でも
正義との言葉が見えているが
いったい正義とは何で、自分の正義を確認するためにどのような手続きを経過すればよいものか
それもはっきりしない

科学実験のように
定義をはっきりさせて結果が再現されるかを見るような手続きを明確化すればよいのだけれど
正義についてはそのようなことも難しい

自分を下敷きにしてやりたい放題やっている人間に対しては
必殺仕事人も、あるいはそれだけが、有効であるかもしれない。

この報われなさをどうしたらいいのだろう。

*****
このように記してきて、
我々にできることは、この報われなさを共有し、連帯し、
せめて理解し合って、
報われなさがあるとしても
孤独な報われなさではないようにしたいものだと思う。

*****
書かないほうがいいことだと分かっているけれど、
何だか長くなったので、ついでに書くと、

いじめる、いじめられるの関係が発生しているとき、
いじめられる側の対人関係能力が疑問視されることがある
最近はいじめる側の問題だとの議論も盛んだけれど
とりあえずはいじめられる側の特徴が議論されたりする

いろんな人がいるんだから子分になってもおせじをいってもいいから
うまくくやっていけばいいじゃないかと
世の中の半数くらいの人は思うらしい

しかし世の中をそんな風にうまくわたっていける人ばかりではないことも理解して欲しい

うまくわたっていけない人は損をするけれど
どの程度の損をするものか
ということが問題だと思う

ほどほどの損ならば
その分を努力で補う
そのくらいはみんな覚悟しているのである
対人関係が苦手であることを有利な条件だと思ってはいない
不利な条件だけれども生まれつきだし仕方がないと思っていると思う

もともと対人認知のモードが違うのだと思う

たとえば戦争になったときのことを考えてみると
いじめる側の人たちはさっさとまとまって安全地帯に立てこもる
いじめられる人たちは、前線に無理矢理に押し出されて、敵と戦って死んでしまう

そんな感じだろう

報われないことおびただしい

ここで注意を喚起したいのだが
大規模宗教のすべては
いじめる側が作ったものだということだ
戦争になって安全地帯に立てこもり
いじめられている人たちを戦いに駆り立てる人たちが作ったものだ

いじめられる側の宗教など完全に抹殺されている

何かの間違いでいじめられる側・弱者の側の宗教が優勢になったとして、
その教義を取り仕切る人間はやはりいじめる側の頂上の人物なので
結局はいじめる側の道具になってしまう

神は自己犠牲を説いている、神は忍耐を説いている、
神はあの世で報われると説いている、
そういって、現世の悦楽は彼らが独占し、
つらいところは人に押しつけている

いつまでたっても原理的にそのような構造でしかあり得ない
革命があったとして
いじめっ子が新しいいじめっ子に交代するだけである

だからキリスト教は足萎えの道徳であると
ニーチェは言う
奴隷の道徳であるという

宗教など所詮そのようなものであって
社会の中心にいる権力者は道具としか思っていないし
本気でキリスト教など信じている人は
一番最初に神の国の犠牲者になってしまう

そんなばかばかしい宗教であるが
知性があればどんなものでも教訓にできる
毒も適切に使えば薬になり調味料になる

解釈を変えれば役立つものになるのだと思っている

*****
さらに追加

個人的にはこの報われなさについて
不正義の横行について
黙っていられない
断固抗議したいけれど
今のところどうしようもない
ちょっとの間忘れているしかないのが現実だ

しかしわずかな救いもある
私に慰めを与えてくれる人たちがある
その人たちに何か直接の利益があるわけでもないが
それでも私を慰めてくれる
それが愛情というものだろう

それはとてもありがたいことで
人間のすばらしさだと身にしみて感じる
これは苦しい思いをした人でなければ分からないものだろうと思う

だから苦しい体験がいいものだとは思わないが
慰めもあるということだ

神とか天国とかの概念装置がなくても
人と人とが助け合うことができれば
苦難に立ち向かうこともできる

人と人との助け合いだけで充分かといえば
これは人の性質にもよるのだろうけれど
私の場合は
神も天国も必要だと感じている

人と人との輪が水平方向の救いだとすれば
神や天国は垂直方向の救いだと思う

*****
わたしの場合、もう一つ大切なのは多分、
いつも話をしている人が、ほぼ全員、わたしと同じくらいか、それ以上に苦しんでいる人だということだ

通常の友達づきあいをしている人でも
先輩は結構不幸せだし
後輩も結構なくらいに不幸せだし
嫉妬するくらいに幸せな人はあまりいない

わたしとして満たされない思いはあり
この世界の造られ方そのものに異議があるけれど
しかし
とりあえず目の前にいる困っている人を少しでも援助したいと思う
そのことの中でわたしは自分についての
どうしようもない行き止まりの問題についても
しばらくは忘れていられる

これは問題は本質的には解決されていないのに
忙しくして、あるいはいま自分の意識を占めるものを入れ替えることで
当面忘れるという防衛機制の一つであるが
それはそれでいいと思っている

このことの利点は、
困っている人を助けるという点で社会的に肯定されているということ、
(必殺仕事人はやはり社会的に公認はされない)
仕事として、仕事に打ち込んでいる分には、社会はそれでいいと認めてくれることである。

また、宗教は
弱者への視力を更新してくれると思う

*****
さらに追記

宗教に対しての態度は難しい
良いところは参考にする
良くないところはその由来や構造を認識する
ということだと思う

たとえば
「自分自身や他人を傷つけていなければ、他人があなたを傷つけるなどあり得ません。
自分で自分の現実を作り、物語を書いているのです。
他人との葛藤は自分自身の葛藤の反映です。
内面の問題を解決することで、世界の問題を解決できるのです。」
などと書いてある。

もちろん前後の長い全体を理解して、
その上で、この部分を理解すべきなのだけれど、
これだけ読んでも、すでに充分におかしい。

大切なことを言っている、参考にすべき要素は含んでいる、
しかし、この言葉そのものは、やはり真理のなかの非常にせまいものを言い当てているに過ぎない。

「自分自身や他人を傷つけていなければ、他人があなたを傷つけるなどあり得ません。」
などという言い方は、
典型的に、学校に問題はないと言いたい学校の先生と、いじめっ子の言いそうなことなのだ。

わたしは、
「自分自身や他人を傷つけていないのに、他人があなたを傷つけることがある。」と言うべきだと思う。
当然すぎることではあるけれど。
理由もないのに攻撃され、搾取されることがある。

たとえば、いじめられる理由として、「あなたが目立つからですよ」と言われたとして、
納得できるだろうか。
そのように「いじめる-いじめられる」「搾取する-される」の関係があるとして、
第三者として放置できるだろうか。

「いじめられている人は、自分自身をいじめている人なのです」などといわれて
納得できるだろうか。

およそ全部、優位者の、現状維持の倫理であり、破綻していると言うべきである。

こんな変な部分もあるけれど、
隣人が困っていたら親切にしようというのは確かに賛成だ。
そのように読む側で判断しながら、読む側も成長しながら、接していきたいものだ。


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