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現実・言語・精神

人間は「もの」そのものや「こと」そのものを経験することはできないし、それを伝えることもできない。
人間の感覚モードは限られているからだ。
電磁波を発する物体の「もの」そのものをどのようにしても知覚はできない。ある種の物理学的変換をして、初めて、知覚可能になる。
「こと」そのものをも経験できない。人間はその部分を経験するだけである。「象との出会い」と考えてみても、象の全体との出会いではない。「羅生門」のようであり、すべての裁判は、そのような体験領域の違いを言い合っていて、政治力が裁判官の理解領域を決定する。

そして、なお困ったことに、経験そのものを伝える方法もないのである。
言葉は限定された伝達手段であり、その他のモードでの伝達手段にしても、限られた部分しか伝達できない。絵でも音楽でも。

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人間が言葉を語り、他人の理解を期待しているとき、それは共有の言語に依存しているのであって、全く新しい経験を提出することは原理的に難しい。その言語にすでに内蔵されていたもの・ことを再提出して、共有することが人間のできるせいぜいのことである。

共有の言葉の水平次元を超えて垂直方向に拡大することは共同言語は拒むだろう。
水平次元への拡大はお手軽なもので基本的には認められるし、おもしろがられる。時代によって言語は水平方向に移動しつつ、変形している。

言葉を共有することは人類には決定的に大きな出来事であったが、人間を決定的に、「ものそのもの」「ことそのもの」から遠ざけた。
体験する前から、何を作文すればいいか、何を叫んだらいいか、分かってしまっているのである。

女とは何かについて、徹底的に教育されてから、女を経験する。

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ものそのものに刺激されて発する垂直方向の言葉は共感さえ拒絶している。それでいい。それは、いわば「ものそのもの」としてそこにあるのであって、理解されるためにあるのではない。

言葉は普通は理解されるべきものであって、理解されようとして生成されるのであるが、そのような共有性とは関係なしに、ただ「ものそのもの」として存在することが可能である。まれであるが。絵画も、映画も、音楽もそうである。

水平運動の典型はたとえばいわさきちひろであり東山魁夷であり平山郁夫であり葉祥明であり、絵はがきであり、絵本の挿絵であり、子どもに見せたい絵である。

よい親とよい子の共有するよい絵である。

その反転としての、おどろおどろしいもの、まがまがしいもの、エロス的なもの、それらすべては
よい絵の水平反転であり、垂直方向の運動ではない。
祭りの夜店の幽霊屋敷に予定されている、予定通りの出し物なのである。
それらも水平方向の運動である。

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しかしなかには、ものそのものやことそのものとも関係なく、言語習慣とも関係なく、精神の内界から生成される、垂直方向の突出運動がある。
理解しようとしない人は理解しない。理解したという人も方向違いのことも多い。訂正する手段もない。
人間の精神は、ものそのものと同じだけの固さの存在を作り出すことができる。
その垂直方向のズレは衝撃であるが、見ようとしない人には見えない。

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人間は現実の部分に触れることができるが現実そのものに触れることはできない。

人間は言葉(または絵画、映像、音楽、その他)を共有していて、言葉の内部だけで生きることができる。約束の内部で伝えることができると信じている、その範囲で伝えることができる。

人間は約束の範囲の外部で密かに体験してしまうことがある。そのことを伝えようとしても、言語その他は拒む。垂直方向の拡大は予定していないからだ。

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このように
現実、言語、精神内界はお互いに少しだけの接点をもちながら存在している。

人間にとって、特に教育された人間にとって、言語の領域は大きい。言語で拾い上げることのできる現実が現実である。言語で拾い上げることのできる精神内界が精神内界である。

しかしそれがすべてではない。
ところが人間は現実そのものに到達できず、精神内界そのものに到達できない。

到達できないが、物理学は成立している。
ならば、精神内界についての科学も成立するだろう。
そのようにして精神科学は成立する。

単に脳科学への還元ではないのである。

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この先の議論としては、
結局のところ、
現実、言語、精神のどの領域にしても体験する主体は
「限られた感覚モードで、限られた脳で、教育された言語を用いて」経験しているという
決定的な制約である。

これは入れこ細工のように構成されていて、
一見したところ奇妙なパラドックスのように見える。

こうして考えてみると、こんなことを考えているよりは、
美しい世界を味わったほうが幸せである。

しかしながら、精神病とはなにかを考えるときはこういった
枠組みからの思考が必要になる。

脳内のセロトニンの伝達がよくないということで
膵臓のインシュリンの不足と同じように解釈できる部分の、
その外側に、精神科学の固有の領域が存在する。

セロトニンやドパミンによる精神病の説明は
水平方向の説明であって
精神病について垂直方向の衝撃を何も説明しない

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というようなことを
精神は共有の言語で考えて水平方向に発言しているのだから
原理的に愚かな行為である
と絶望している


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