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昔の話

わたしは若い人には自分の経験を話しません
経験から何が抽出されたかを話すことはありますが
抽象的でなかなか伝わらない

自分の悲惨な経験を話せば
それでも生きてきたという自慢話で
貧乏自慢とか不幸自慢になる

本当に自慢をすれば
実際人は聞きたくないような自慢話になり
これもよくない

8丁目で何か聞かれても作り話ばかりしている
しばらく通い詰めていろいろ話していると
自分では忘れているが
先週はこんな話し聞いて、続きが聞きたいと思っていたのよ
なんて言われて
自分はちっとも思い出さないが
それは口から出まかせだから思い出すはずもないのだが
しかし嬢の口から聞くと
嬢の頭の中で面白かった要素が組み合わされて
少しだけ脚色されて出てくるらしくて
なるほど、こんな話をしていればいいのかと分かってくるところがある

お互いが相手の気を引こうとして必死なのだが
引っ張っているようで引っ張られているようで
面白いようでもある

ーー
わたしの家には
当時のことでやっと電気が通ったばかりだった
テレビはない
新聞は取っていない
(見栄を張って取ったとしても誰も読めない)
ラジオはあったが半分以上は分からない

本は一冊もなかった
遠い親戚の家で
夏目漱石の猫を見たことはある
岩波の豪華装丁の一冊で
それきり

本というものはそれ一冊があれば充分だという判断だったらしい
家に本はあるのかないのかというデジタルな発想だ

家系全体が知能が低かったかといえばそうでもなくて
おじいちゃんは村長もしたし
おばあちゃんは長いこと村の相談役だった

ひいおじいちゃんは人格者で知られ
お寺のお坊さんにアルファベットを教えて
お坊さんにサンスクリットを習っていたというから
どこかで勉強したのだろう

しかしその勉強の結果は
すべての知識を捨てることだった
知識は虚しい

そのことは子どもの頃からよく聴いて育った

知性とか合理性に対する一種の虚無主義があった
それは多分、軍国主義で染め上げられ、
やみくもに興奮するだけの時代の潮流と
仏教的諦念との混合だったのだと思う
祖父の時代はまだ結核で命を落とす時代だったし
鶏卵と牛乳が健康を維持する栄養の第一だった

血縁ではない外戚の親戚は学校教師が多かった
当時のことで日教組運動に熱心だった
その延長で県会議員を何回か務め
その後は衆議院議員になった

何度か当選して
社会党旋風が巻き起こったときはトップ当選もした

選挙になると
血族外戚あげての総応援態勢で
選挙カーからの連呼は実に勇ましい子どもの遊びだった

そんな中で
愛という言葉を聞いたこともないし
恋愛が肯定されることもなかった
男女が人前で睦み合うことは決してなかった
あるいは少なくとも子どもには完全に隠蔽されていた
わたしは父と母が性的存在であったことがいまだに具体的にイメージできないでいる

それが精神・性的成長によかったのか悪かったのかよく分からない
抑圧は完全で
小説などは愚か者の読むもの
第一の愚か者は太宰治で心中などして家族をどんなに苦しめたか
何も分かっていないわがまま者だと
何度も説教されて育った

だからそのような大人の言い分はよく分かっているし
いくらでも同じ言葉で説教できる
そしてそれは正しいのだと心底思うことも
一瞬はできる

わたしは子どもの頃からすでに小説を軽蔑していたし
ましてや子どもの読む物語は
子供用の程度の低い物語であって
大人用の小説以上に愚劣なものだと断じていた

図書館で目にすることはあったが
表紙からしてすでに知能の低さがにじみ出ていて
手に取ることはなかった

推理小説とか冒険小説が少年用で
性的要素とか複雑な心理と関係のない読み物だったと思うが
当然、そのような、脱色された物語などは読む気になれなかった

あの異常な「大人ぶり」はどうしたものだろうかと今でも思う

社会党は反戦・護憲・安保反対・暴力反対・専守防衛、責められても攻撃するなという党だったし
それに共鳴していたのか
家での教育は
徹底して消極主義的だった

スキーはしてはいけない、足を折るかもしれない
水泳はしてはいけない、おぼれるかもしれない
喧嘩はもちろん、追いかけっこやチャンバラもいけない、乱暴になるだけ
自転車もいけない、事故をもらうかもしれない
18歳になっても車の免許もいけない、車などなくても生きていける、
女の子のごっこ遊びなど空想への逃避である、当然いけない、人形が赤ちゃんであるはずはない、
詩作に耽るなど愚かなことだ
思索はなにも生み出さない、時間の浪費である、
昔から頭のいい人がよほど考えてきたのだ、いまさら最初から考えて何になるか、
勉強は長時間すればできるのは当たり前だ、当たり前のことをしても何もうれしくもないだろう、
第一本を読むと目が悪くなる、早く寝なさい、
やるならもっと実際的なことをやれ、
というわけで、

わたしはもっぱらおじいちゃんの経営する
木工所で時間を過ごした

役場から設計図が送られてきて、
その通りに木材を切り、釘でうち、結構複雑な立体を完成させる、
そのことを幾何学を知らない職人たちが昔からの墨壺とか曲尺を使って
巧妙に仕事をしていた

わたしはまず
のこぎりの正確な使い方を体得して
直角に寸法通りに木材を切ることができるようになった
そして釘を正確にまっすぐ打つことができるようになった
中学校の木工ではきりで穴を開けてガイドにするようなことが書いてあったと思うが
そんなことをしなくても狙ったとおりにまっすぐ打つことができた
のこぎりと釘打ちだけできればあとは幾何学の問題だった

小学校の頃から
方程式は使えたし三角関数とか平方根とかも使えたので
図面の中にある隠れた寸法も正確に計算できた
すると四方から正確な寸法で決定できるので、
間違いなく完成品ができあがった

当時から楕円の書き方も、楕円の面積の計算の仕方も、原理から分かっていた。

こんなことをしているうちに
第一にわたしの幾何学的感覚が鍛えられたと思う
幾何学の問題で意外な補助線を引いたりするのは大の得意だった
また一方でごりごりに方程式を解くのも大好きだった
そしてその近似値で寸法を出すと見事に問題は解決された

ここには実際に役に立ち現実を解決する知識と合理性があった
のちにこの幾何学の精神はわたしの精神の範型となる
蒙昧な精神の場合
左からの寸法と右からの寸法が合わないこともしばしばであるが
合理的な精神には
すべての寸法は矛盾なく整合しているのだ

わたしは後に
文学的文章も、法律的文章も、心理学理論も、すべてこのような完全に透明な幾何学的精神で
解決されるのが正しいと
心底信じるようになった
その領域に達していない、精神的に未発達の、どちらかといえば症状丸出しの文章など
読む気になれなかった

のちにはパラダイムチェンジとか脱構築とかいろいろな合理性批判も出るのだが
わたしの場合は素朴な木工加工工場での体験が元にあるので
そのように批判される説も、それらを批判する説も、どちらも曖昧でどうでも良いものに思えた。
そのような意味でわたしは理科系的であり、根本的に合理的であった。
具体的で素朴、右からの寸法と左からの寸法がぴったりと一致する、それだけの合理性である。

思うに、人間の知性はこのレベルのことについて適合するようにできているのであって、
人生をどう生きるとか、
目に見えないような原子の内部構造とか、
宇宙規模の運動方程式とか、
人間の脳の特性に合っていないのだと思う。
人間の脳はやはりセンチメートルとかメートル程度で測定できる出来事のために特化していると思う
だからその範囲のことを考えると
自然の振る舞いに一致するのだ
そして円満に生きることができる

後に素粒子レベルの振る舞いを確率論的な方程式で表現するという学問に接するが
それもわたしにとって見れば
墨坪と曲尺で不正確な仕事をしていた職人と同じで、
理性の不全型としか見えなかった。

もちろん、今では、そうではなくて、原理的な問題なのだと、理解しているのだけれど、
それでも、その不確定性の原理を包摂するような決定性の原理を求めていて、
コペンハーゲン解釈よりもエヴェレットの多世界解釈を自分で考えたし、だからこそ理解して信じる。
シュレーディンガーの猫の問題、観測問題、決定論の問題と続くのであるが、いずれにおいてもわたしの立場は一貫していて、観測する側の認知機能の限界があるだけで、世界が決定論的であることには何の問題もないと考えている。
人間の理性はそのサイズに合うようにはできていないので土台、無理な試みである。

この決定論というのは、世界が無限に枝分かれする決定論であり、
その一つの枝に中にいて他の世界が見えなければ当然、
世界は偶然だと思われるだろうが、
全体としてみれば、実に決定論的なのである。

わたしの感覚では世界を決定することが科学であった
そのようにして幼少の頃の体験は影響し続ける

また第二に、その頃かなり重い材木を持ち上げて、切って、運んでの作業は、体に筋肉を付けた。
クラスの中で運動能力は抜群になった
ソフトボールでは常にピッチャーで4番であり
ほとんどはホームランを打っていたと思う

腕相撲でも、普通の相撲でも負けないし、
喧嘩はしないからという理由でしなかったけれど
したとしても、だれも仕掛けては来なかっただろうと思う
体も大きく筋肉も強かった

そんな少年時代を経過して
そのままで大人になったものだから
大人になるということは
大きな妥協であったし諦めであった
もう下り坂しかないという原理的な諦めであった

今後可能なことは
例えば円周率の精度を高めるようなことで
正直いって細かいところがどうでも余り関係はない

原理的な発見については
脳の限界が関係しているし

そもそも発見するとか認知するとかが根底にあるので
人間の認知機能の限界と向き合うことになる

センチメートルやメートル単位の出来事に関しては
長い進化の過程で
人間の認知機能と
外部の現実がよく一致しているので
楽しい体験ができる

しかし素粒子レベルの出来事の記述や
宇宙規模の出来事の記述となれば
脳の認知機能はそのスケールの出来事との進化論的「すりあわせ」をしないままで
現在に至っているので
数式もあまり役には立たないはずだ

数式というものは
人間の体験の抽出でもあり
自然の側の振る舞いでもあり
その一致は進化論的すりあわせによって
もたらされたものであるが
そのような人間の体験が抜け落ちている微視的な局面や巨視的な側面の場合には
数式はおそらく無力なのである

ーー
文章は
数式の替わりにも使えるし
でたらめな言葉のサラダにも使えるし
また
嘘をつく場合にも使える

それは言語使用の位階ともいうべきものであるが
わたしの場合は
数式レベルと同等の明証性を備えたものを自分の文章として書きたい

その文章が間違っているのか間違っていないのか
決定しようもない文章だとすれば
結局何を言いたいのだろうか

少なくとも間違いである場合には
間違いであることを証明できる文章を書きたいのであって
ここは反証性の原理を採用したいと思う

この方向はポパーやウィトゲンシュタインで
行き着く世界はなんとも特別な世界なのであるが
極端もよくない
きちんとやるけれど、「でも、あんまりじゃなく」やってみたいものだ


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