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井上陽水について

NHKで井上陽水

いっそセレナーデ など流れている

わたしは この歌を聴いていた頃 恋をしていた
さっきこの歌を聴いて そのことを思い出した

実際のその人はもうおばあちゃんになっている
同業同地域だから顔も合わせる
いい人なんだけどもう恋は感じない

ところがいっそセレナーデを聴いたら
あの頃の恋の感情がよみがえる

恋の感情は「その人」にまつわるものではないのかと
いぶかしく思う
しかしそうではないらしい

あのころ 久保田万太郎の 恋の歌を 「本気」で送った
それがいま思い出せなくて もどかしい

返事は
気持ちはうれしいけれど
わたしは恋の似合う女ではない
とのことだった

いまから思えば
「私は恋の似合う女だ」と思い込ませる魔法をかけるのが男の役割だ
それができなかった自分を悔いている

ーー
別の時
井上陽水の曲を編集してドライブ用に作ってあったものを
人に贈ったことがある

あの全集を全部聴いて自分で選んだのかと驚かれて
感謝されたけれど
一ヶ月位して
私には歌の意味がよく分からないと言われた

司法試験に受かるくらいの学力はある人だったけれど
その人に今ひとつ歌の意味がよく分からないと言われた

現代芸術の殴り書きのどこがいいのか
まあ、美術館でちらっと見るくらいはいいけれど、
自分の家の玄関用に20万円出して買う気持ちにはなれない
子供の絵と何が違うのかわからない
という人だった

これはいまでも印象に残っていて
ひょっとしたら、そうなのかもしれないと思ってもみる
井上陽水の歌詞は厳密な読解には適さないものなのかもしれない

だとすれば
それを愛好する私は
馬鹿の一種であり
井上陽水を愛好する大多数は
厳密な意味の理解を放棄して聴いているのではないか

ということは
一緒に井上陽水を聴いて喜んでいる私と誰かはどうしようもないふたりである
意味不明の二人の馬鹿 Folie à deux である

その人は雨の降る夜、目白の銀杏の並木を
わたしと歩いていて靴を一つだめにした
そのことをいまでも申し訳なく思う
思いやりがなかった
すてきなハイヒールだったのに
車で移動しなかったのはなぜだったのだろう
そのこともいま思い出せない

ーー
それよりも昔、井上陽水とかユーミンとか中島みゆきとか小椋桂などの歌があり
わたしは一時は小椋桂が井上陽水よりも知的で好きだと思っていたことがある
たぶんそのころわたしはいまより頭がよかったのかもしれない
周囲の友人たちは当然、井上陽水は頭の悪い大衆向けのものだと理解していた

井上陽水「も」聴くというと、たとえばテレビでプロ野球を見るくらい、俗な趣味もあるのだと
露悪的な感じで言っていたものだ
堕落したダメな自分

井上陽水は氷の世界で

いつかノーベル賞でももらうつもりでがんばっているんじゃないのか

と歌っていたがもちろんみんなノーベル賞くらいを射程に入れて勉強していたので
一般の人はそんな感じ方をするのかなというくらいに思っていた
ノーベル賞を取るとすれば自分たちだと思うのは自然な雰囲気だった

いまは小椋桂の良さがちっとも分からない
頭が悪くなったのだと思う

時間がたってみると
たぶん
井上陽水、ユーミン、中島みゆき、小椋桂の順に売り上げが大きいように思うが
大衆芸能とはそのようなものだろう

そして私は大衆の好むものの方をより好むようだ
従って自分には特殊な感性はないのだと思う

逆に言えば小椋桂は売れなくても困らなかったのだと思う
本人とその周囲がどれだけ本気で商売をしているかについての温度差もかなりあったように思う

家には井上陽水全集もあるし小椋桂全集もあるが
いまはどちらもほとんど聴かない
10年前は井上陽水を少し聴いた

ーー
この30年で文化が変わったのだと思う

変えたのは、一つはソニーの技術力だ
ウォークマンが流行して、
その技術力が、大衆の耳をダメにして、
結局、ソニーの高級オーディオが売れなくなった
シャカシャカ鳴る安物でいいと思うようになった

ーー
30年前は「みんなが欲しいもの」があったのかもしれない

いまテレビCMを眺めていても欲しいものは何もない
普段私の行くスーパーではテレビCMに流れているようなものは何もない

マクドナルドの前は通り過ぎるだけ

ーー
そういえば 秋の雨の夜 信号待ちをしていて 横断歩道を見ていたら
マクドナルドの黄色と信号の赤が 平行に反射して 濡れた路面を 彩っていた
あれはよかった
信号が変わって 黄色・青・黄色になると 急に現実に返った
マックの黄色、信号の赤、マックの黄色、この並びが雨のアスファルトに反射すると、
たぶん特殊な効が出る

ーー
コンビニに行ってもATMを使うだけ

ある種の雑誌には私の欲しいものが並んでいるけれど
一度買えばある程度長く使えるものばかりだ
消耗品ではない

いまあるオーディオもテレビモニターもかなり完成度の高いもので
買い換えるとしてBOSEの小さなスピーカーは嫌だし
いまよりもいいものが見あたらない

だからテレビ業界は地デジ計画を考えたはずだ
買いたいものでなくても買わざるを得ないようにする
それくらいしか商売の方法がない

Winのバージョンアップと周辺ソフトのバージョンアップは頭のいいビジネスモデルだ
もちろんもっと頭のいい人たちはlinuxで遊んでいるから関係ない

ーー
大衆が馬鹿になれば愚かな物にお金を使うだろうと計算して
せっせと馬鹿になるように教育したら
本当に馬鹿になって働く意欲もないし欲しいものもないような具合になったらしい

着るものはユニクロでいいし
着飾るとしてもブランドマークの入ったものしか思いつかない
生地とかデザインではなくて「マーク」である
これでは文化が育たず
中国とかマレーシアの部品を組み立てるだけでいいと思うはずだ

音楽も本質的に進化はなくて
ただ繰り返しているだけ

化粧品は同じラインで作られて違う瓶に詰められている
椿でもマックスファクターでもあまり違いはない
鯖江でイタリア製ブランドめがねが作られ
ある場所ではマイセンの陶器も作られている
作れないことはないものなのだから作るに決まっている

それに困った人たちは著作権をうるさく言い始め
その結果弁護士に儲けをかすめ取られている

コーヒーも簡単に入れられるものがいいのだし
脂っこいお総菜が満腹感があっていいらしい

ソニーはそのような大衆文化を誘導して
結局、自分が置き去りにされている
ソニーよりも安いので充分だと思う感性を育ててしまった

ーー
そのように大衆は後退運動を続けてきたのだが
後退してきたところに井上陽水が待っていたので
ぴったりときた

そういうことだろうと思う

サッカーの人気もそういうことだろうと思う
みんなが一様に馬鹿になった結果である
あの試合と応援の様子を見て嫌悪を感じない感性が
現代日本の現実なのである

ーー
実際には井上陽水は多面体であり
上のような一元的な説明では済まないと思うが
一つの切り口としてはそういうことになるだろう

一番馬鹿で一番下品な自民党の親父たちが代わり番こに政権を回して尽き果てた
政治記者を相手にしての感情的な反応で程度が分かる
それを選んだのが馬鹿な大衆で
それを誘導したのがソニー大衆文化である

ソニー大衆文化とブランド好きは奇妙に一致していて
そのあたりもパラドックスでおもしろい

井上陽水、もっと後方にサッカー、前方にあったソニーが忘れ去られる、
数直線上に配置して考えることができる


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