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思い出づくり

知人に教えられた文章

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修学旅行で思い出すのは、矢口高雄の漫画『蛍雪時代』の第10話「思い出づくり」である。何度読み返しても泣ける名作。

『蛍雪時代』は矢口氏の中学時代を回顧する漫画。戦後まもなくの秋田県の山村の中学校が舞台で、生徒たちの家はほとんどが農家だ。学校が終れば農作業を手伝う毎日。高校への進学は珍しい時代。
だからこそ皆、中学校生活への思いは強い。ホームルームでは活発な議論がなされ、文化祭や運動会も自分たちの創意工夫で築き上げていく。教師たちは生徒の自発性を伸ばそうと温かく見守っている。暗い戦争の時代が終わり、戦後民主主義教育が希望に輝いていた時代なのかもしれない。あの幻の名文、「あたらしい憲法のはなし」が学校で読まれていたのも、この頃ではないだろうか。

第10話「思い出づくり」は、修学旅行の話だ。中学校生活の、否、ほとんどの生徒にとっては生涯最後になるであろう修学旅行は、格別の思いがあるわけだ。ましてや秋田県の山村の子らにとって、大都会・東京へ行く修学旅行は夢のようであった。

しかし、クラスメイトには何人か「長欠者」がいた。「長欠者」というのは家が貧しいために、長いこと登校できない状態にある生徒のこと。子どもでも農作業の手伝いをしなければ、一家がやっていけないのだった。

矢口たちは、長欠者たちも修学旅行に一緒に連れて行こうと、クラス一丸となって石運びなどのアルバイトに精を出す。そうして費用を捻出し、みんな揃って修学旅行に行けることになった。動物園、国会議事堂、浅草、二重橋、六大学野球観戦、旅館のテレビ・・・東京見物は夢のような旅だった。

帰ってきて旅の思い出を文集にまとめることになった。皆の原稿が集まって目を通してみると、なんとほとんどが同じ内容だったのである。東京見物についてよりも、石運びのアルバイトのことについて書かれていた。みんなで汗を流したことが、一番印象深かったというわけだ。

漫画は最後にこう締めくくられる。
「その目的が達成されたうれしさはだれに胸にも終生忘れ得ぬ想い出として刻みこまれたのでした」
「長欠者はこの修学旅行を契機に精力的に登校するようになり全員そろって卒業を迎えました。そしてその卒業式でもっとも多くの涙を流したのは彼らだったように思います」。

立場の弱い人を「見捨てる」「置き去りにする」「あきらめる」のではなく、みんなで力を合わせて助けることによって、「人を信じる」「自分たちで状況を変えて行く」という展開が生まれてくる。

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たしかにいい話だと思うのである。

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しかし、その先のことも思う。
この体験は彼らにはとてもいい体験になった。いい学習だった。

しかしでは、誰かが裏切ったり、期待通りに動かなかった場合、どうだろうか。
それでも、彼らには人生のよい勉強になったと思うのである。

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この話でいえば、石運びのアルバイトを始めたはいいが、参加者が一定しない。仕事ははかどらず、不満ばかりが聞かれるようになる。参加する、参加しろ、などと喧嘩が始まる。雇い主は子どもの遊びと思って値切るし支払いを遅延する。やっと支払ってもらったお金を、一部の生徒が飲み食いに使ってしまう。
それでも何とか旅行に行ってきたとして、作文を見ると、みんなが不平不満を書く。強制労働させられた、暴力をふるわれた、独裁だ、もうまっぴらだ、あの金で酒を飲んで女遊びに行った奴がいる。助けてもらった子どもも、本当は行きたくなかったのに、あんなことになって、行かざるを得なかった。家では、どうしてそんな金があるのかと叱られるし、クラスの一部からは非難される。こんなことなら行きたくなかった。旅行はちっとも楽しくなかったし、旅行から帰って腹をこわして寝ていた。行きたくなかったのに、クラスの偽善の思いつきに利用された、自分は被害者だ、損害賠償請求をする、という話になる。背後には悪い弁護士がついている。悪い弁護士は長々と悪い裁判をして、裁判官はサラリーマン的な判決を書く。
思い出文集を読んでみんなが失望し怒る。自分が一番悩んでいて大変だったと思っていたのに、誰もが、そう思っていて、他人を非難していたから。担任教師は、どうしてみんなそれぞれの立場を主張するだけで、人の立場を分かろうとしないのかなどという。一部の生徒はそれに賛成する。しかし、放課後に、その生徒は呼び出されて、暴力制裁を受ける。さらに、直後の父兄会で問題となり、強制労働である、生徒の本分は学業である、先生は何をしていたと、非難され、謝罪させられ、遠くへの転勤が命ぜられる。

というような、いやな話になったとする。
そうした流れの方が、よっぽど勉強になるのではないかと思う。
どうせ人間はそんなものだ。自分に都合よく解釈して、それでおしまい。
他人のことは、分かるようで、実は、まったく分かっていない。
つらいのは自分で、他人は楽をしていると思う。

それが現実と知って、社会に出て行く方が、いいような気がする。
そのようなきつい現実の中で、「それでもなお」、どうやって生きていくのかというのが課題なのだ。
裏切られても、めげない。
無理解にあっても、凹まない。
倒れても、立ち上がる。
夜は長いが、朝を待つ。
誤解されるのはしょっちゅうである。
自己中心的な人間ばかりである。
10年もたって、やっと、自分もそんな自己中心的で仕方のない人間なのだと思い知る。

そこからまた、人生は深まる。

あきらめない、人を信じる、その結果がどうだったか、人生が教えてくれる。
人を信じたいと思ったことの代償がどのようなものになるか、人生が、いやというほど、教えてくれる。

むしろ、そこからが出発である。
赦すものは赦すが、赦さないものは赦さない。
忘れるものは忘れるが、忘れないものは忘れない。
人生はそういうものだろう。
行為に応じた報いを受けるのがいい。

他人は仕方がない。これはどうしようもない前提である。
自分もまた仕方のない人間である。これは人生の半ばでやっと思い知る現実である。
そこから人生は深まるのだ。

そんなことはありません、みんなにいいところがあるんですと
学校の先生はいいそうだ。
結構。そう思っていなさい。
わたしも、そのように思える人生を送りたかった。本当は。

幸せな人と、不幸せな人がいるのだと思う。仕方がない。

しかしまた、思う。
とても悪い人に出会ったあとは、とてもいい人に出会うのかもしれない。
人生はそれで帳尻が合う。
悪い人のおかげで、いい人のありがたさが身にしみたりもする。
事柄と時間を丁寧に生きていれば、分かることがあるし、報われることがある。
それは表面的な幸せではない。
不幸な認識であったとしても、それも到達点であり、ある種の報われ方ではある。

悲惨な体験だったとしても、学ぶことはできる。
それが人間の知性である。


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