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視覚情報の補正

外側に見える視覚情報はかなり訂正できるし調整もできる

ジーンズは補正下着そのもののようで
脂肪がある程度あれば形ができるようになっている

脂肪を寄せて大きく見せるブラも同じ

内側から詰物をしても簡単に大きくできるが形は難しい

そのようにして見せるために視覚情報をコントロールしておいて
場合によっては見られるのも嫌だし、ましてや写真をとられるのは嫌だという

そのあたりも仔細に思考実験すると面白い

見せるためであるが写真をとらせるためではない
というのは結局のところ何のためなのか

腹を立てる人もいると思うのであまり言わないが
見せるためなのだが見てはいけないのだ

外側に出っ張って「盛って」いるのは分かりやすいが
見てはいけない

ーー
無理を承知の思考実験だが
肖像権は肖像だから個人の特定が前提である
個人を特定できない「部分」が撮影されたとしても
撮影された本人も自分であることを証明できなければ
何かを言うのも難しいのではないか

ーー
ジョン・ロックの法理論で
個人は自然法により自然権を持つとの話がある

生命や肉体は自分のものだけれど
他人に譲り渡すわけには行かない
これを不可譲と表現している

命や肉体は
神から与えられたもので
個人としては
自分のものであり自分で使用できるのだが
自由に他人に譲り渡すことはできない

そのようなものだ

そこから派生して
個人が労働によって作り出したものは個人に属するか
つまり所有権はあるか
ついで土地に関して所有権はあるのか
などが議論される

土を焼いて作った陶器は多分所有権に疑いはないが
土地の占有に関しての所有権は
権利の根源を遡れば怪しいものと個人的には思われる

空気について所有権は争いはないのは当然でそれは稀少性がないからだ
土地について所有が認められるのは
ある特定の土地が誰かの所有と認定されたとして
他の土地でも似たようなことができるだろうということが前提となる

似たことが決してできないというならば
それを所有権として国家が認定するのは問題がある

しかし似たことが決してできない土地こそが価値のあるもので占有したい土地なのだ

そのあたりになんとなく嘘が見え隠れしている

簡単に言えば
国家が関与する部分を小さくして
土地の争いに関しても個人と個人の取引に還元してしまえばいいのだと思う
それがリバタリアンだ

マーケットが形成されていろいろな条件を取引すればいいだろう

そして国家はその取引のルールというか人殺しをしないように見守る
殺人で決着をつけるのはよくないし
それを防止するためにガードマンや私兵を雇うのは合理的ではないからだ

共産制の対極の私有財産制を突き詰めていれば
個人の自由は極大になり国家権力の統治は弱くなるが
個人間のルールを、国家の関与がなるべく小さいようにと決定するのはやはり国家である
ここの個人と個人の関係を自然法と自然権が決定すれば本当はいいのだけれど
そうはいかない
自然法と自然権はイマジナリーなものでしかない
実体がない
だからジョン・ロックの論の根源はイマジナリーなものでしかなく
結局神様が出てきたり理性とか自然法とか
戯言を述べる
本当は暴力による支配があるだけなのにね

そのあたりの建前の議論が面白い

そしてそんな話の延長として

土地を考えると、土地を耕して、明白に個人の刻印が刻まれたものは個人の所有物と呼ぶべきだと言う

ただ通りかかって果実を採集したり動物を狩猟した場合に
土地に関する個人の所有の特定は弱いだろう

もとにかえって、そもそも誰の土地だったかといえば
もちろん、誰のものでもない
それをたとえば水田として整えたとして
だからどうしたとは言える

戦争はその点での所有権の変更をお互いに承認するものだ
負けたら土地・領土は取られる
そもそも最初の占有の根拠は怪しいのだけれど
時間がたって現実の占有が確認される場合にも
戦争とか金銭取引とか交換によって所有権が移転する
そもそも最初はどうなんだとおもうけれどね

たとえば国家が造成した埋立地について
オークションをして所有権者を決めていくというのはかなりすっきりしている

しかし土地は国家よりも前に存在したものなのだから
国家が全部を占有するのもおかしいし
国家の成立の時点ですでに土地の所有者があらかた決まっているのも怪しい

昔の日本だと荘園制度とか大地主とかあって
土地の所有権が権力制度そのものだったと思う
土地が農業生産の基盤であるから土地によって産物の量と質がおおむね決定される

新しく開墾した土地は自分のものとしていいという取り決めもあったと思う
しかしそれもいろいろな理由をつけて権力者に没収される
それが歴史なんだと思う
その背景にあるのが武力だろう

武力が基本で
武力を養うだけの農業生産力があることがさらに基本となる

旧来の権力に遠い地方、たとえば平泉では
今日権力と距離が遠いというだけで
攻められにくい攻めにくいという条件が発生して安定する

ーー

自分の肉体や自分の手が産み出したものを他人に見てもらうのは本質的に必要なことだ

だから他人に見てもらう事を前提に整えるのである
それが人間関係だからだ
自分の肉体や脳を資源として使うためには他人にアピールしないといけないだろう

写真撮影に関してはそれが商業ベースに乗って撮影者が利益を得るかどうかが問題のようだ

どうせ儲けにならないなら何も言うことはない

ただ、それで儲けが発生していればその一部は自分のものだと言いたいわけだ

では、実際には儲からないが、潜在的に儲かる可能性がある時はどうか

肖像はどうだろうか
肖像ではない身体のパーツの画像ではどうだろうか

肖像でも部分パーツ写真でも
つまりは使用者側が商用ではないと言い張れば
さそこから先は難しいような気する

商業的に使用しない、自分だけが見て思い出とする、
写真をとったのはいいが一度も見ていない、ただし、見たいと思えばいつでも見られる
などの例も思考実験としては考えられる

撮影したけれどずっと忘れていましたとか

商業業的利益についてはいいとして
たとえばそれを友人に見せて自慢したとなればどうだろう

利益の性質に変化があったことになる

肉体の所有者にも同じだけの利益をもたらせと言うならばどうすればいいのだろう
金銭に変換するとしても難しい

たとえば鉄道写真を考えるとして
撮影することに利益が発生しているなら
対価を支払うことに依存はないだろう

しかし鉄道の場合は輸送することで主な対価を得ているわけで
その働く姿を写真にとられても別段どうということはない
見せるためにお金を使っているわけではないからだ
見栄えがいいことを自分の価値と思っていない

自分の顔は価値があって
維持するためにお金をかけている場合もいない場合もあるだろうが
とにかく
私の顔の写真をとったら
お金が発生すると考えるのも
たいしたものだと思う

そのような
積極的な価値ではなくても
撮影されて不愉快な思いをしたという点での損害賠償として構成することもできる

そうなればまた問題は複雑で
たとえば完全な隠し撮りで撮影された本人は全く気がつかなかったときは
そのような不愉快はないはずだ
また
写真の使用が被写体に全く知られなかった場合は
不愉快も発生仕様がない

何かのきっかけで明るみに出たときにはじめて不愉快は発生するのであって
カウントするならそこからだと言うことになる

しかしまた潜在的な被害の要素も考えられる

ーー
などなど
結局、見せるために着飾ったり露出したりしているのに
見てはいけない場合もあり撮影してはいけない場合もある
思いやりの話なのだ


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