水村美苗
読売新聞2010年9月4日朝刊に掲載の水村美苗の文章
若い女が出来た夫に捨てられようとしている五十女の話
女は夫のGメールに入り込む(なぜかGメールという指定である。)
そして文章は以下のように続く
ーー
夫と女が交わした言葉は、アメリカのどこにあるのかも何か所にあるのかもわからない、グーグルの情報貯蔵庫に幾重にも保護され、自分の死後も残る。昔は人が死に、その人を記憶する人が死ねば、その人が存在したという事実は残らなかった。人の身体が塵芥に戻り、自然界の原子の一部となってしまうのと同様、その人の存在は無に返って行った。
なんと清らかなことだったであろうか。
それが今は一度何かをウェブに載せてしまえば、あたかも人類が文字を発明した罰ででもあるかのように、まさに「ちりあくた」としか言いようのない類いの言葉でも、億、兆、京そのまた何億倍という単位でほぼ永久に残る。二十一世紀の初頭に平山美津紀という五十代の女がいて、若い女に見変えられようとしているという記録がほぼ永久に残る。
何たる屈辱であろうか。
歳のいった妻を若い女に見変えるのは、夫が妻に犯しうるもっとも重い罪ではないか。
最低な男。
三津紀はそのような男と結婚していた女として、心からの同情を集めるであろう。
何たる屈辱だろうかと再び思う。
ーー
途中省略しながらの引用。
また別の一節では
ーー
夫が家族の誕生会の写真を女に送っていたらしい
「あんまり気の毒で、正直、比べる気にもなんなかったわ」
わあ、モロ、オバサン、いやあねえ、見ヨ、この首から肩にかけての太々しさヲ、
ーー
何たる屈辱であろうか。
なんと清らかなことだったであろうか。
というような書き方は最近の町田康の感じ
ーー
Gメールがほぼ永遠に残ってしまうものなのかどうかについては
なるほど言われてみればそうなのかもしれない
水に流すことが出来ないわけだ
永遠に刻まれる
そのことを改めてこうして指摘されると考えてしまう面がある
キリスト教的には、もちろんすべてが記録されているのであるが。
ーー
若い女に見変えられる
という表現はあまり使わないと思うがお上品だと思う