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他人の気持ちがわからない

簡単に「他人の気持ちがわからない」と表現するが
たぶん二つくらいに分けられると思う

(1)文脈・コンテクストに依存せずに表情や言葉から他者の内面を推理する
目の前の人が明らかに怒っていても「何か問題はありますか」と語るような場合。
これは、普通なら、明らかに分かっていて、ケンカを売っているんだろうと思うだろう。
しかしそうではなく、本当に分からない場合があるらしい。

余談だが
朝目がさめたら、天井から夫がぶら下がっていたが、時間なので起きて、朝ごはんの支度をした妻とか。
夫が首吊りに至る心のプロセスを想像するなどという以前の、首吊りに出会ったらどうするかの問題なのだが、経験もないし分からないと答えるかもしれない。

(2)文脈・コンテクストを自分で体験したものとして置き換え、その場合の自分の気持ちを想像してそれを、他者に当てはめる

どちらの意味でも「他人の気持ちがわからない」と表現するが
もちろん(2)のほうが重大である

刺身をおいしそうに食べる日本人に驚く白人という昔の図式に出会うと

昔の白人には「刺身はおいしい」という考えがないので
普通は生で食べないものを
平気で食べる野蛮な人という感情がわく
のだろうと考えて私はその白人の驚きを理解することができる
共感はできないとしても

そのように体験に際してどのような想念がわくものか感情がわくものか
自分の心を参照して、他人に当てはめるのが普通だろう
それ以外に方法はないように思われる

極端に言えばテニスにしか興味のない人間は
テニスのうまい人間が一番素晴らしいと思っていて
(そこまでは普通だし、好き勝手だが)
他人もテニスのうまい人を素晴らしいと思っていると推定するとなると現実に支障が出てくる

テニスだと例えが極端であるが
お金、職業、学歴、異性、などでいろいろな例がありそうである

自分の心の中は自分だけのものだけれど
それは世間の中ではどのくらい特殊でどのくらい普通なものかと
考える

A.内面が偏っていても、その偏りを自覚して世間を感覚していればそれで問題はない

B.自覚がなくても、うちのおばあちゃんのように、ぴったり世間並みなので、
自分の素のままの感情をぶちまけていて、何の問題もない場合もある

C.内面に偏りがあって、それを自覚していない場合は、自分のものさしを他人にも当てはめてしまうので、不都合が起こる。

そんな感じで、「他人の気持ちがわからない」ことが生じる。

せめて他人の心が分からないことを分かればいいのだけれど
人間は自分は数学がわからないとか英語がわからないとは認めるのに
他人の心が分からないとは、なかなか認めない

自分にはカラスは黒く見えている
だから他人にもカラスは「このように」黒く見えていると
素朴に信じる

そう信じるしかないのであるが
それで不都合があったら訂正したほうがうまく楽に生きられるよ
という話






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