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電池のたとえ 一日電池と一生電池

人間のエネルギー充電池を二つ考えようという考え方があるんです
わたしの考えではないんですが
分かりやすいので利用しています

ひとつは「一日電池」、夜充電して昼使うタイプの充電池
普段はこれで運転しています
朝起きて、すっきり開始出来ればOKです

ひとつは「人生電池」、これは『一日電池』が足りないときに
応援でこっそり使います

普段の生活で無理をしていると、つまり、
『人生電池』を「ちょっぴり応援」と思って使い続けていると
人生電池が空っぽになって、これがうつだという説明です。

だから対処は、人生電池を充電すること。
仕事を休んで休養してください、となる。
一晩寝ただけではもとに戻りません。

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一日電池は、機能的(肉体的)な意味合いが強く
人生電池は感覚的(情緒的)な感じ

体力的に辛くても、しばらくは気力でのりきれることも
あるけれど、限界ある

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人生電池ってどうやって充電するんですか?
仕事休む訳にはいかない人もいるし、
仕事休めば充電できる類いのものでもないですよね?

農業の人は有給があるわけでもないし

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人生電池は昔からいう霊とか魂の領域ではないかと思う

魂をケアすることが必要なのではないか

たましいのケアの仕方の一部は昔からの宗教の中にあると思うが

現代では宗教というものは概ね他人を支配して搾取する部分だけが肥大しているので困ったものだ

キリスト教教会の中で
世間で最も非宗教的な人が
最もかいがいしく「宗教的活動」としての実際的な外向的な活動に活躍しているのを見ると
やっぱり個々も会社のようなもので
宗教の場所ではないと感じてしまったりもする

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ご先祖の墓の前で一日子供とピクニックして
そのあとお墓の掃除でもしてあげようか

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人生電池を充電することは
多面的な考え方とか価値観を取り入れることでもある

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一日電池の話から離れて、

たましいを充電することが
大切な事だと思う

その方法は
やはり別の魂に触れることなんだと思う
実際でもいいし
書物でもいいし
芸術でもいいし
小さなメモでもいいし
ガラクタのようなデッサンでもいいし

そばにいる魂に深く触れてみれば
きっと充電できる

魂は充電し合う性質があるのだろう

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困ったことにすぐ病気のことを考える

魂が充電し合うことを妨げる病気があるのか?

それがいま蔓延していると思う

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そういう魂の機能がなぜもっと公式に議論されないのかと思う

解剖しても「ない」ことが主な理由だと思う

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公式になされる魂の議論が結局世俗の権力闘争に過ぎないことも分かる
何が価値のある議論であるかも3ヶ月とか100年とか2000年とか、それぞれの射程で
価値が定義される

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一日電池は肉体ホルモン電池で
一生電池は自己愛電池だと考えたらどうだろう

肉体ホルモン装置の電池が切れても自己愛電池から気力を補給する

情緒の充電は非宗教の現代では自己愛の充電に当たるのだろうと思う

芸術のありようを考えてみようではないか
現代芸術がどんなに心を慰めないか
いかに不安をかきたてるか

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しかしその自己愛電池が切れたとき
結構深刻なことが起こる

そこから先は一日電池=肉体ホルモン電池しかないんだよ









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