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折指

母性原理に基づいた感情的葛藤=甘えや依存を許しあう二者関係

「何かとてつもない生まれながらの空恐ろしい存在としての自分」という、
無意識的罪悪感や加害者感に苦しんできた私にとって
「未だ生まれないときから怨みをもっている者だったのだ」という
根源的な暗黒の烙印を押されてしまった絶望的な恐怖でした。

王もまたその子を恐れて、
夫人とともに高い塔の上から投げ捨てたのですが
一本の指を折っただけで無事だったので、
阿闍世王のことを別名「折指(しゃくし)」とも言います。

このように仏典では、
父王を殺したのはあくまで阿闍世であり、
仙人の死が待ちきれずに仙人を殺したのも父王なのです。

阿闍世の物語は、父親殺しがテーマになっているので、
骨格はギリシア悲劇「オイディプス王」と変わりません。

仏典では阿闍世は、
典型的なエディプス・コンプレックスの対象だったといえます。

中核的問題として、フロイトがいっている 
両親との三角関係の中から起きてくる葛藤よりも 
むしろ母親との二者関係に 
その中心的問題があることを見出しました。 

古澤・小此木両氏は、日本人特有の心性として、 
自分にとって100%の母でなかったことに起因する 
「裏切られ感」と「怒り」からなる母への怨みを重視したといえます。 

阿闍世の父の殺害は、 
フロイトのいうところの母に対する愛欲によるものではなく 
母の煩悩にその源を発していること、 
生命の根源たる母を、愛するがゆえに破壊しようとする傾向を指摘し、 
さらに、父殺害の呵責に苦しむ罪の意識を「罪悪感」と名づけ 
その罪が許され救済されたと感じた後に生じる罪の意識を 
宗教的心理からくる「懺悔心」としています。 

自分の存在との一体感を求めた母に裏切られた怨みから、 
父母の殺害を意図し、 
その攻撃的願望が処罰されるという罪悪感に対して 
予想に反した「許し」を与えられることにより 
罪の意識に変化が生じるという心的過程を論じようとしているのです。 

古澤氏は、まずフロイトの技法に則って
患者に洞察を求める努力をしているうちに
分析することが患者の心を
いかに切り刻むことになっているかに気づき、
しだいに「自己と患者との融合体験こそが
患者の生命の出発点であり、
患者がこの一体感や対人関係での親密な融合感を
体験しうるようになることこそが治療の目標である」
と考えるようになりました。

いわゆる「とろかし療法」と呼ばれたものです。

本来、中立的態度を通じて
患者に洞察を求める精神分析療法のなかで
このような治療者の態度の変化は、
古澤氏が深く傾倒していた
浄土真宗に負うところが大きいといわれています。

また一方では、
こうした古澤氏の姿勢の変化は、日本の患者が、
父子関係を中心に語る欧米の患者とは違って、
母子関係を中心に語りやすい事実にも由来しているといわれます。

フロイトのいうような父親の処罰に基づく罪意識とは違った罪意識、
いわば母子関係に由来する罪意識のあることに気づいたのです。

日本人のもつ依存性、特に母親への依存的固着を重視し、
その心理を母親の献身によって、
いわば治療者の献身によって癒そうとしたのです。

阿闍世コンプレックスは、
母親と子どもの二者関係における
『甘え・憎悪・許し・謝罪』
などの複合的な感情なのですから、
父親のような社会的存在としての他者は
はじめから存在していないのです。

『自分が悪い事をしたのに、
相手から許されてしまったことによる申し訳のなさや
後悔・謝罪としての罪悪感』であり、
「悪い行為をした加害者(子ども)」を
「罰する」のではなく、「許すこと」によって
自己懲罰的な罪悪感を自発的に抱かせようとするものであって
阿闍世の母・イダイケのエゴイズムと
愛情・保護という母性原理に基づく
『母親=寛容な情・許しの体現者』なのです。

エディプスが父からの復讐を恐れて
罪悪感を持ったのに対して
阿闍世は自分の行為によって被害を受けた母に
「許される」という体験に由来する罪悪感なのです。

母親が真の「母性」を取り戻したことによる
子どもの病からの回復というストーリー・・・・

相手に献身的に尽くすことで恩を感じさせ、
反対に、
相手から懸命に尽くされることで自分が恩を感じる。

こういった関係性のあり方は
「自己犠牲的な他者への献身」と
「世話役割」へと身を投じていく女性の
家父長制における共依存的な関係性が
その根底にあるようにも思えます。

日本人の罪悪感は、西洋人の罪悪感のように
超越者との関係から導かれるものではなく、
自分の所属する集団の人たちの
信頼を裏切る時に強く感じられるもので、
その罪悪感は、人間関係の関数であるともいえます。

普遍的な法や倫理を破ったために生じる
客観的な罪悪感というよりも、
自分の知っている他人や世間に
迷惑や心配を掛けてしまって申し訳ないという
後悔や謝罪の念に基づいた罪悪感なのです。
(ここは二者関係が、社会にすり替っている)

土居健郎氏は、
こうした『甘え』を根底にした対人関係のあり方と
その関数である罪悪感は、
さまざまな形をとって日本人の精神病理を
特徴づけているとも考察しています。

日本的一体感=甘えとその相互性、
日本的恨みとマゾヒズム、
日本的許しと罪悪感
という三つの構成要素からなる一つの全体的な心理構造が
日本人の母子体験の源流にあると指摘しています。

視点を変えればこの物語は
父権を主張する夫の言いなりに子どもを産まなければ
自分の地位を保つことさえ出来ない女性の不安や
こうした夫の仕打ちに耐えて、
わが子を産んだり殺したりしなければならない
母親のDV物語であり、
また、その妊娠を喜ばれることなく殺されそうになった
虐待された子どもの物語でもあり、
さらに、胎児期に子どもを殺そうとした
虐待する親の物語であるとも読み取れます。


ーーー
指きりげんまんを連想した

エディプスでも阿闍世でも男中心だもんね
これが驚く

昔は男の子は弱くてすぐ死ぬから大事だったんでしょうね





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