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Vengeance 復讐について

聖書にある「復讐するは我にあり」はVengeance is mineである。

「ローマ人への手紙」で、パウロはまず、「だれに対しても、悪で悪に報いるということはせず、すべての人々に対して善を図りなさい。できる限り、すべての人々と平和を保ちなさい」と説き、こう続ける。

 「愛する者たちよ、自分で復讐しないで、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『復讐は私がすることだ。私が報復するのだ、と神が言っている(Vengeance is mine; I will repay, saith the Lord.)』と書いてあるからです。あなたの敵が飢えるなら彼に食べさせ、乾くなら彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を摘むことになるのです。悪に負けず、善をもって悪に打ち勝ちなさい」

Vengeance is mineの主語も神で、復讐とか報復という行為ができるのは人間ではなく神のみだ、と言っている。

To me belongeth vengeance; and recompence.
(復讐も報復も私がすることである)とも言っている。主語は、神である。

被害者には復讐する権利もないし、復讐する利益もないということになる。
これが深い考えというものだ。
しかし一瞬の激情はこのようには思わず、さらに、文章や画像、まして報道の世界では、人間が普通に抱く復讐の正当性の感覚を支持するだろう。
復讐する利益があるなら止めないが、しかし、よくよく利害を考えてみれば、損だと思う。損得の勘定ではないのだといきり立つようであれば、人間が生きていることの大半は損得なのであるから、後々困ったことになるだろうと推定できる。復讐が正しいのであれば、現在の復讐心を満たし、かつ、将来の利益も確保してくれるはずだろう。将来の利益を損なうような復讐は、結局、自分に復讐しているようなものなのだ。

復讐は結局、自己イメージを傷つけることが多い。自分はそのような下等な感情に支配されて行動した人間なのだということが、後々まで、自分についての否定的イメージとなるだろう。それが一番残念なことだ。

自分は一番苦しい時にも、自分の人生を正しい、誠実なものであるように、注意を払い、合理的に判断してきたと言えるようでありたい。
「許せん!」という激情に支配されたなら、後になって、恥と思い、未熟と思い、自分の人生を大切にしていなかったのだと後悔するだろう。



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