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不安は精神を彫るメスである


思春期などには、自分というものが不安定になる。その不安定さは、つまりは、「成長しつつある」ということの証しであり、不安定であることは、つまりは成長に伴って避けることのできないトレード・オフである。

 

一方、いい大人になってしまってから往々にして見られる現象であるが、とりたてた成長の徴候なしに不安定になることがある。

そうなんですよ。
それで困る。
大いに、困る。

そのような不安定は、本人を、そして周囲の人を、予想の付かないカオスの中へと巻き込み、その中でかえって、永遠に続く日常のようなものが演出されてしまう。

 

巻き込まれた周囲の人はどう反応したらいいのだろう。
その人がたとえば芸術家として大切すると信じられればそれでもいいが、
普通の社会人として不適格なのかと思えばとてもつらく感じるだろう。
不安は大抵はマイナス要素として考えられるから。
本人が不安を感じていることはマイナスだと判定されるし、
周囲の人が、「自分はその人のことで不安になっている」と感じた途端に、
本人の不安を消去しようとする圧力が生まれる。

永遠に続く日常についてはうまくコメントできない。

不安は、どのようにも精神を彫啄できる、メスのようなものなのだ。

 

しかし多くの場合、メスを入れたことで、結局は、血が出て、形はまとまらず、
傷が乾いたとしても瘢痕を形成し、再発性の痛みを伴う部位になることも多い。
とまあ、こんな風にネガティブに考えないことなんだな。
これは余裕があるからできる考え方だろうか。
待ったなしで月給を稼がなければならない立場に立てば、
自由に精神を彫啄することの意義がない。
そんなことは食えるようになってから悩んでくれということになる。
しかしいったん食えるようになってしまった人は、
この悩みに直面する。
このメス(不安)で精神をどのような形にしたらよいのか、分からなくなってしまう。

街を歩いていて、時折、言いようのない存在の不安とでもいうべき「発作」に襲われることがある。そのような時、これは自分の精神の変化にとって大切な何かであろうと直覚する。

 

「発作」を「大切な何かであろうと直覚する」と表現することにきらめきを感じる。

不安になるとは、いったん造り上げた適応を捨てることだ。
鎧を脱ぎ捨てることだ。
鎧を脱がなくては新しい洋服を作ることはできない。
一時的な不安を感じるのだ。しかしそれが一時的であり、
成長に不可欠のものであると認識できていれば特に困ることもない。

飛行機が離陸する一瞬のようなものだ。

自分の人生が、生きている限り止まることのない不断ナル運動に巻き込まれている、よき証し、好ましき徴候であるとそれを受け入れる。

 

このように受容する方法もあるものか。
このように力のある言葉で受容の具体例が提示されると、実に大きく励まされる。
つまり、すぐれた人間は、不安さえも自己成長の契機にできるのだ。人間の柔軟性を再発見する。

大人の社会は、安定すること、変わらないこと、完成されていること、
あるいは完成されたふりをしていることが、求められることがある。
そのような小さな完成を拒み、大きな不安定を求めることができるとしたら
すばらしいことだ。
そして周囲はその成長を期待を持って見守りたいものだ。

不安を契機とする変容を介助しようではないか。



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