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善と悪―倫理学への招待 センス 透明な音楽 青い鳥 夏川結衣と豊川 悦司

 善と悪―倫理学への招待 大庭 健著(新赤版1039)

   「悪」を慎み、「善」を行う理由とは?

 「道徳に客観的根拠はあるのか?」―この一見、迂遠とも思える問いに、気鋭の倫理学者が、分析哲学の手法で真っ向から挑む。著者は『なぜ悪いことをしてはいけないのか』(ナカニシヤ出版)で述べているように、徹底して「根拠はある」という立場である。では、なぜ根拠はあるのか。それは一体、なにに基づくのか。また、「善い」「悪い」という判断は、「赤い」「青い」などの知覚判断や「酸性」「アルカリ性」などの科学的判断とはどう違うのか。

 こんな話が、なぜ「倫理学への招待」なのか、といぶかる人もおられるかもしれない。しかし、この問題は、倫理学の発祥した古代ギリシア以来の、古くて新しい問いなのである。その昔、ギリシアのソフィストたちは、伝統に盲従する愚かさを批判し、道徳の無根拠性を暴き「うまく生きる」ことを説いたが、ソクラテスは彼らを批判して「よく生きる」ことを説いた。この対立によって倫理学が生成して以来、「道徳に従う理由」は倫理学の根本問題であった。

 この本によって倫理学の学説史や、個々の倫理問題のガイドラインについて学ぶことはできないが、「倫理学とはどんな学問なのか」というイメージは、おぼろげながら掴むことができるのではないかと思う。それは、著者の次のような言葉にあらわれている。

 「どんなに倫理学説史に通暁しようとも、あるいは諸種の倫理問題の事例に深く通じていようとも、「人生、どう生きればいいのか?」という一人称の問とつながっていないのなら、そうした知識・分析は、倫理学の圏外にとどまる。(中略)この本は、「人生、どう生きればいいのか?」という一人称の問を念頭におきながら書かれている。お読みいただく方も、日々なにげなく下しているご自分の道徳判断と照らし合わせながら、本書を読み進めていただければ、と願っている」(本書「まえがき」より)

 最終的には、「いい人生をおくる」ことと「道徳的であろうとすること」は論理的に無関係ではありえまい、という結論にたどりつくが、それはどういう理由によるのか。それは読んでのお楽しみ、である。

(新書編集部 中西沢子)
    
  ■著者紹介
大庭 健(おおば・たけし)
1946年埼玉県生まれ。1978年東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。
現在―専修大学教授
専攻―倫理学、分析哲学
著書―『はじめての分析哲学』(産業図書)『他者とは誰のことか』『権力とはどんな力か』『自分であるとはどんなことか』(以上、勁草書房)『なぜ悪いことをしてはいけないのか』(共編、ナカニシヤ出版)『私という迷宮』(専修大学出版局)『私はどうして私なのか』『「責任」ってなに?』(以上、講談社現代新書)『所有という神話』(岩波書店)
     
  ■目次
 まえがき
  
  第一章 道徳判断とは  
  生きていくことと、選択すること
「いい・わるい」の多義性
道徳的な「善悪」
道徳判断の特徴
  1 道徳判断は、感情の表明に似てもいる
  2 道徳判断は、知覚判断に似てもいる
  3 道徳判断は、法的判断に似てもいる
  4 道徳判断は、結局は無根拠……? 
    
  第二章 「善し悪しは、その人しだい」とは?  
  「お互いに」という相互性を超えて……?
自分が主語のときは、「痛い」の意味は特別……?
知覚経験の秘私性
私は、善悪の区別の外にいる特別な存在だ……?
特定の視点からの世界の描写
対応づけるという実践
人間として生きる
  1 理由(わけ)がわかる・共に生きていける
  2 対他存在としての私
存在の相互承認
    
  第三章 道徳判断の客観性  
  事実判断の客観性
反省的均衡の追求としての学
観察の説明
投影主義
道徳の説明と、道徳への態度
    
  第四章 行為・人柄の評価と実践  
  反応依存的な特性の還元不可能性
実践に参加している視点
投影と性質の循環
「たがいのために作られている」
希薄な評価語と濃密な評価語
性質とパターン
パターン認知のコンテキスト
気づかいという関心 
    
  第五章 美徳と悪徳――呻きの沈殿と、共感  
  個人的徳目とシステム
想像上の立場交換
共同主観的な沈殿と「第二の自然」
    
  第六章 諸々の徳性と善悪  
  徳性の判断の食い違い
善と悪の区別
痛めつけられる苦悩
「善悪」と諸々の徳性
    
  第七章 道徳原理  
  推論と原理
普遍化可能性
不偏性
最大多数の最小苦悩
所得格差の道徳的是非――ケース・スタディ(1)
いのちの選別の道徳的是非――ケース・スタディ(2)
    
  終わりに いい人生と、よく生きること  
    
   文献案内
 あとがき

*****
さっきから天上の音楽でセンスの古いアルバムを聞いている。
透明な音楽、青い鳥、ハートなど。

夏川結衣が豊川 悦司と共演した。
トヨエツはあまりにも格好いい鉄道駅の職員だった。

夏川結衣は金持ち議員の後妻になって、その田舎町にやって来た。

そして愛が始まる。

*****
先日、NHKドラマ「トップセールス」で夏川結衣が主演していた。

*****
昔は夏川結衣といえば特別な美人だったが、
最近は、東京の街を歩いている娘さんはそのくらい美しい人もいる。
日本人は進化したに違いないと思う。

*****
ドラマ・青い鳥の中で、
トヨエツが小さい頃の思い出を語る。

兄と川で遊んでいて、
兄が水におぼれて死んでしまった。
母親は悲しんで、兄の亡骸を抱きしめながら、
「お前が死ねばよかったのに」
と言った。

その場面は見ているほうの心もひりひりと痛くなる場面で、いまだに覚えている。

*****
不遇な人妻・夏川結衣と精神的孤独者・トヨエツは、破滅の道行きに向かう。

それは「悪」というべきなのだろうか。

「間違ったこと」なのだろうか。

あるいは、それは「愛」と呼ぶべきなのだろうか。

それは愛ゆえの行為なのだろうか。あるいは、お互いの心の満たされない部分を埋めるだけの、補償的行為なのだろうか。

心に隙間があるから、それを満たしてくれる人を求める。
なるべくぴったりの人を。
ぴったりでなくても、まあまあの人を。
それだけのことを「愛」と錯覚する人もいる。
それではじめた愛もまた時間のうちに成熟して、
過不足のないものになる。

*****
これは愛なのか、寂しいだけなのか、誰しも迷う。
一人でいても寂しくもなく不足もない、そんな人は、
自分の愛の気持ちを愛と信じることができると思う。
めったにいないけれど。

わたしには何の不足もない。欠乏がない。
にもかかわらず「あなたを愛する」というなら、それは愛だろう。

*****
しかし欠乏によって始まった愛もまた愛である。
時間がたって熟成すれば、
どんなブドウも、それなりのワインになる。
自分なりの熟成をすればいいのであって、
始まりの純粋性をいつまでも問題にすることは賢明ではない。

*****
夏川結衣の夫は、法律上、トヨエツに損害賠償請求できる。
実際そんなことをする人たちも多くいる。
家裁には沢山。

思うのだが、
倫理の次元と、愛の次元は、別のものと見る人もいる。
中にはそれを同じと見る人もいる。
それは人間観と世界観の違いであって、
どちらが正しいというものでもないのか、やはりどちらかが正しいのか。
状況によるのか。

そのようにして倫理学が始まり、
道徳的判断が始まる。

法律的には、民法としては、
誰かの利益を損ねたかを中心に議論する。

民法というものは、誰をも傷つけない愛しか、認めないものらしい。

倫理の次元で見れば、
民法で規定された夫婦生活のみを愛と規定することが、
土台根本的に反倫理的である。
誰も幸せにならない。
自分の心にさえ忠実になれないで、倫理も何もあったものではない。
少なくとも、自分の情熱に忠実になって何がいけないだろう。
民法はただ財産上の規定に過ぎないと見える。

無論、世の中で財産が一番大事と思う人もいて、
ある女性の母親は、娘夫婦を前にして、
愛情を問わず、
婿に、「あなたは財産目当てでうちの娘と結婚したのか」と
何の財産も提供していないくせに訊くのだった。
愛よりも、娘よりも、財産が大事な人なのだ。

娘は傷つくだろう。
どうしてそんなことを目の前で言われなければならないのか。
母親が、婿に、「財産目当てなのか」と真顔で聞いて、
返答を求めているのである。

母親は娘の女性としての価値をゼロと見ている。
財産ゆえにしかこの男は自分の娘と結婚しないとみなしている。

なんという貧しい状況だろう。
自分の娘を無価値とみなし、人格を財産の下位に置く母親。
語られた言葉に絶望し、
そのような言葉を語る人間に育てられたことにら絶望し、
その人の遺伝子を半分引き継いでいることに嫌悪すると語る。

世の中にはそのような場面がいくつもあって、
今日も繰り返されている。

何も感じない者が一番強い。
一番鈍感なものが一番長く生きる。

そんな世界なのだ。
限りなく鈍感になろうではないか。
何も感じなければ、何も起こらなかったのと同じだ。
そう思って鈍感に強く生きよう。

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