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17歳の写真に写っている 自己愛

17歳の写真に写っているものは
何だろうと改めて考える

記事では

そこで撮られてもいいと答えるということは目立つということ、友達の外から出るということになる。とにかく、いまの少年たちは目立たないように、目立たないようにというふうにして周りを気にしながら生きている。それは気の毒だなぁと思ったし、恐ろしい事実ですよね、いつも周りを気遣って生きなきゃいけないということは。

と語られていて
私は昔風の「対他配慮」は性格成分としては少なくなっていると思っていたので、
この表現には考えさせられた。

目立たないようにしているけれど
自分はすごいと少しだけ誇大的に思っているようで

たとえば野球の上手な中学生の男の子がいたとして、
野球の名門高校に進学する。
当然のこととして、運動もできないような男の子をうんと見下していて、
生意気盛りだ。
しかし高校の野球部ではさすがに楽々一番というわけでもなくて、
かなりの苦労もする。

そんなときの17歳は多分、
野球部の外ではかなりの天狗だ。
野球部の中ではお互いに牽制し合い、
かなり気を遣いながら生きている。

野球部の中では対他配慮なのだけれど
外ではかなり自己愛的である

そんな感じが普通の子どもにも広がって、
みんながみんな大変になったという説明はどうだろう

野球部の場合は
野球がうまいという価値観はかなり完成していて
コースもだいぶ決まっている
落合さんなどは格別の人で
そのほかにもいろいろな格別の人がいるのだろうが
たいていはあまり語られないで終わる

普通の子どもたちがどの局面で対他配慮的で
どの局面で自己愛的で共感不全で誇大的か
その描写ができればいいのだけれど

野球部は自分で選んだアイデンティティともいうべきものだから覚悟がある
しかし
公立学校のクラスなどは何も特殊な要素はなく
アイデンティティとするには不足のようだ

塾やお稽古やスポーツ教室や親と行くボランティアとか
むしろ学校世界は子どもの全部ではなくなっているように思うのだが
世界の一部でしかなくアイデンティティ・グループにもなっていない集団に
気を遣い続けなければかなり居心地が悪いという現実

強制して収容されて管理されている気分

*****
手がかりは
未熟な自己愛から
社会に公認されたアイデンティティへの
乗り換えがうまくいくかということだろうか

たとえば、現代では、大学や大学院を終わっても、
会社に行って使い物にならないと断定される
それはつらい

集団行動スキルや対人行動スキルの練習の場所としての学校の機能は低下している
学ばないままで社会に出ると
段差がきつすぎて一休みしたくなる
そのままフリーターになってしまう

学校は職業訓練学校としても機能していないし、
教養訓練校としても機能していないし、
さらに忍耐訓練校としても機能していない

親の意識が変わったし
それにつれて先生の意識も変わった

それなのに会社は変わらず仕事で結果を出せといわれる
その段差に耐えられない

その段差がそのまま
自己愛とアイデンティティの段差なのではないか

その段差を昔は17歳で超えていた
だからなんだかんだ言っても18歳で医学部とか工学部とか決めることができた
今は決められないで25から30歳くらいまでかかる

昔は18歳で決めていたアイデンティティを
今は30歳で決める、
そんな様子だ

だんだん博士課程にたまる人が増えて
そうでなくてもモラトリアムのままで過ごす人が増えた

情報化社会、消費社会、権利主張社会、価値観拡散社会、
他人にも事情があると気がつかない社会、お互い様の消えた社会

お互い様がないというのが自己愛の特徴だ
何と言っても自分だけ特別なのである

写真集で出ている17歳はむしろ
まじめで自分に与えられたものをどうやって開花させるか
懸命に生きている感じがする

これは大人の側のものの見方の反映でもあるのだろう
この写真家のように見れば、そのようにも見え、
別の物差しで別の角度から見れば、そのようにも見える。

このような場合に、17歳に何かの物差しを当てて、一発で測定できるというなら簡単でいいのだけれど。
今できることは何か考えてもらったり計算をしてもらったりして
脳の活動がどのように変化しているか
画像でとらえること

それが何を意味しているのかはまだはっきりとは分からず
とりあえずデータが集まりつつある

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