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「南の国の少女へ」 1973~1974年

という 書出しで 週1回 エアメールの便箋で 手紙が 届いた
 
消印は 山形県 余目市 珍しい地名なので 覚えている
 
その人は 山形県の 高校の 国語教師
 
夏休みの ある日 専門学校で 実習を演ってるときに 学校見学に やってきた
 
事務の人が ひと通り 学校を案内した後に こっそり 電話番号が書かれたメモを 渡された 
 
横浜の局番である
 
「?」
 
「ここの生徒さん?」
 
「ハイ」
 
「是非 話を 聞きたいので 電話して欲しい」
 
「今日は バイトなので 遅いです」
 
「何時まででも 待っているから」
 
野球キャップに 度の強いメガネ シャツの裾を パンツの中に入れて 黒いベルト
 
(変な 奴)
 
何の気まぐれか 疲れていたのに 日付けが変わる 少し前に TEL を した
 
ワンコール で その人は 電話に出た
 
しまった 名前も知らない
 
その人は 担任している生徒が この学校を希望していて 夏休みを利用して 見学に来たという
 
おまけに バイトの帰りが こんなに遅いのか と 私の心配をした
 
(はぁ~ そんな教師 いるの?)
 
私の 高校の担任は 全校放送で 呼出しておいて 教務員室に 行くと
 
「男を選ぶときには 友達が多い奴を 選べ」 だの
 
軽音楽部の 顧問は 部室に 「Hey Baby!」 と 言いながら 入ってきて
 
生徒のギターで BEATLES の メドレーを 唄いまくる という ふざけた教師がいる高校であった
 
 
 
教師も 警官も 好きではなかった
 
その後 週1回 手紙が 届くようになった
 
教師を 信じていない私は 友達に 手紙を 回して ネタに した
 
3回に 1回くらいは ハガキで 返事を 書いた
 
電話も かかってきた
 
母親の 同級生の男の子の時とは 1オクターブ違う 「先生から お電話よー」 の 声に 反発した
 
ある時 何かの拍子に 「グランドピアノを 買ってくれる人と 結婚する」 と 私が言うと
 
「グランドピアノは 買ってあげられないけど…」 と その人は 言った
 
 
数ヶ月後 その人は 同僚の 教師と 結婚した
 
*****
一年と少し経って家庭裁判所から書類が届いた

その人の妻がわたしを訴えた わたしのせいで結婚生活が破綻しそうだという

損害賠償は200万円 そして今後一切連絡しないという誓約書を書けという要求

わたしは子どもだったし裁判なんて知らないから親に相談した

親も裁判なんて知らない

わたしが他人の家庭を壊したなんて そんな道にはずれたことをしたのかと 母に泣かれた

ありのままを話したし

手紙も見せた

その人が結婚したときに自然に別れた形になっていて 何も問題はないと わたしなりに主張した

しかし裁判は裁判である

向こうの弁護士は わたしがどんなに 悪い女であるか 調べて 脚色して 嘘も交えて 友人の証言もとり 裁判で語った

わたしにとって 向こうの弁護士が一番の犯罪人だった 人の悪口を言い 嘘を言い 平気でいる人種とは何だ

結局のところ 結婚したあとに 連絡した証拠はないということで こちら側の 100%勝訴になった

しかし わたしは 何人かの人に 不正確な不利な証言をされた それも弁護士のやる悪事である 別に大切な友人でもなかったから無視した

しかしそれでも一部では 噂になった

このわたしの受けた被害をどうしてくれるのだろう

新しい裁判を始めるお金もないし 泣き寝入りだった

南の国の少女は

一年の間に被告人になり 有名人になり 無罪にはなったものの いろいろなものを失った 

そのころ わたしが セールスした グランドピアノを使ってくれていた人のところに 調律で年に12回 求められればそれ以上通っていた プロのジャズピアニストで 鎌倉山の中腹あたりに 専用の音楽スタジオを備えた家を持っていた そのスタジオで彼は作曲をしてジャズビアノの可能性に挑戦していた 居間の天井はガラスになっていて 鎌倉山からの星空が見えていた 家のあちこちにあるテレビはソニーの放送局のモニター用のもので プロ仕様のようだった 奥さんがいて 子どもが二人いて しかし スタジオでは わたしと彼だけになった かれはサックスを吹くこともあったので そのときは わたしがピアノを担当した わたしの正確なだけで色気のないピアノが気に入ってくれたようで 作曲にはそれがいいんだといってくれた 若かった私はたくさんのことを学んだ 彼はとても大人だったし わたしは たくさんのことを吸収したくて 待ち構えていた そうこうしているうちに 裁判のことなんか どうでもよくなっていった むしろ裁判という形で 妻としての自分を夫に無理矢理思い出させるしかない 悲しい妻を考えて 気の毒になった その頃はもうわたしにとっての教師の彼は 無色な あるいは 透明な ただの名前でしかなかった 時には6人くらい集まってジャズバンドのようなこともした お酒が入ると踊り出す人たちもいて そんなとき 大人の女はなんて美しいのだろうとどきどきしたことを思い出す それが縁で アルゼンチン・タンゴのスタジオに 出入りするようになった ジャズの人たちの服装コードに合わせて わたしも少しだけ気取った 服装をするようになった ジーンズの時も 格好つけた ワンピースで歩くときは ヒールを履いて 足が最大長く見えるように 神経を集中させた わたしはフォークソングの日常肯定が嫌いだった ジャズで日常を超えたものを求めたかった この日常の景色の向こうに もっと極彩色の大きな可能性があるのだと信じたかった 同じ頃ジムにも通った わたしは肉体改造をして精神改造をしたかった 始めて見たら自分でも驚くほど自分は変われるのだと知った 自分は父と母との遺伝子の混合物ではない 自分は自分が作る何者かであると知った そのようにして次第に ジャズダンスにものめり込んでいった 一時はミュージカルの踊りも踊った

そんな時期があったけれど 所詮は アジアの女で 踊りを職業にできるはずもなく 調律も そのうち ピアノそのものが下火になっていった 家具としておいてはあるけれど 調律したところで誰もひかない どこの家のピアノもそんなピアノになっていた
その頃調律にいった家で 子どもにジャズピアノを 聞かせてあげたくて ピアノを買ったんですよ というお父さんがいた うれしくなって わたしは一週間後 その家で まずショパンとベートーベンで調律の出来を確認して、アルフィーとか W're all alone などを弾いてあげて とても喜ばれた おまけにア・マ・ポーラを弾いてあげて、楽譜もあげてきた。

そんなわけで一区切りつけて わたしは 会計の世界に飛び込んだ 社長がアイディアを出して それを何とか会計処理してくれというときに 多少の無理をしても ぎりぎりで 理屈が通るように工夫を続けて そのことが 快感にもなり 自己達成感にもなった 経営者と一体化して それを会計面から支える仕事は 私の性格によく合っていた あっという間に時間は経ち 気がつくと 仕事に没頭し 短時間だけ睡眠して また仕事の周辺の知識を集める生活になった 熱中性はいつもわたしの生活に塗られた強い色だ

南の国の少女はもう 大人になって 税務署とも対等に渡り合えるようになっていた
数社の会計を担当して しかも各社の特別な事情をくんで 何かの仕組みを考えたりした
それは専門的な仕事だったが すれすれのことで 社長のわがままに つきあうのが つらくなった
いっそ 闇金の 会計指南でもしようかと 思ったこともある ノウハウはあったから
根がまじめだから その方向は とどまったけれど この仕事にはとどまれなかった

わたしのためのグランドピアノと
わたしのための防音室
そして音楽仲間

これから何年かかけて 欲しいものは それだ
自分のライフプランニングといえばこれだと思う

自分の演奏を自動ピアノで演奏して
それに合わせてアルゼンチン・タンゴを踊る
わたしを男性がリードし、男性をピアノがリードする


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