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病は気から?――「ウツ」は“闘って”治るものなのか?

クスリに頼るのは悪いこと?――「抗うつ薬」の効用と限界
――「うつ」にまつわる誤解 その(10)

 「うつ」の治療において薬物療法が主流の今日ですが、クスリについて誤った認識を持っている方たちはまだまだ多いように思われます。周囲からの誤解や偏見もありますし、患者さん自身の間違った思い込みもあります。また、薬物療法はどんな状態に役立つのか、どんな場合には効果が期待できないのか、つまりその効用と限界について、大まかにでも知っておくことは大切なことです。
 多少専門的な話になってしまいますが、避けて通れない重要なことですので、今回はこのテーマについて触れてみたいと思います。
クスリに「頼っている」
という後ろめたさ

 「まだクスリに頼っているようでは、治ったとは言えないな」
 言葉にしてあからさまに言われるかどうかは別としても、周りからこんな見方をされてしまって窮屈な思いをしている方も、依然いらっしゃいます。また、患者さん自身でも、「クスリに頼ってしまっている」とある種の後ろめたさを感じている方が少なくありません。
 この「頼っている」という非難は、メンタル系のクスリにはどれも「依存性」があるという誤ったイメージを持っているところから来ているのではないかと思われます。
 「うつ」の治療で中心的に用いられる<抗うつ剤>には、通常、依存性はありません(以前、覚醒剤に分類されるリタリンという特殊な薬剤の安易な投与や乱用が問題になり、現在では処方が厳しく制限され、通常「うつ」に投与されることはなくなりましたが、これは例外的に依存性のあるものでした)。
 ですから、抗うつ剤に関して「頼っている」と捉えることは、完全に間違った認識だと言えるでしょう。むしろ、大部分の患者さんは「飲みたくはないけれど、少しでも良くなるように」と祈るような思いで、面倒でも服薬を続けているのです。
 しかし、もし患者さん自身が、クスリの使用に何らかのためらいや後ろめたさを持っている場合には、「クスリに頼っている」のではなく、「クスリを活用している」のだと捉え直していただくことが必要になります。
 クスリは、必要な時にはきちんと用いることが大切で、その後状態が改善するに従って減薬され、あるところから先は必要性がなくなるものです。クスリを活用することが望ましい状態なのに、ためらって医師の処方とは違った中途半端な服薬をしてしまいますと、かえって経過を長引かせてしまうことにもなりかねません。
抗うつ剤を飲んだら
眠くなったのは副作用か?

 「抗うつ剤を処方されて飲んだけど、すぐに眠気がひどく出たので、自分には合わないと思って飲むのを止めました」
 薬物療法開始時に、このような理由で服薬を中止される方がいます。しかしこれは、副作用が出て薬を中止したのだから適切な判断だった、とは言えないところがあるのです。

 以前から使われていた古典的なタイプの抗うつ剤(三環系や四環系と呼ばれる種類)では、確かにそのような可能性もあることは否定できませんが、近年主に使われている新しいタイプの抗うつ剤(SSRIやSNRIといわれる種類)では、古典的なタイプでしばしば問題になったような副作用(眠気、口の渇き、排尿困難など)がかなり改善されており、眠気が副作用ではなく「作用」によって生じた可能性も大いにあると考えられるのです。
 治療を受け始めるまでは、患者さんは慢性的な精神の緊張状態にあり、内部にはかなり蓄積した疲労を抱えているものです。そこに、抗うつ剤が投与されたことによって、精神の緊張が突然ゆるみ、蓄積していた疲労が一気に噴き出してきて、それが眠気として顕在化することは珍しくありません。
 ですからこの眠気は、むしろ望ましい変化の現われである可能性も大いに考えられるわけです。
 この点についての見分けは専門医でなければ難しいことも多いので、独断による服薬の中止はリスクが高いと言えるでしょう。
飲み忘れても
調子が悪くならなかったので…

 「クスリを飲み忘れた日があって、それでも調子は悪くなかったので、もう要らないんだと思ってクスリを止めてしまいました」
 これは、ある程度薬物療法を続けて、安定した状態にある患者さんによく見られる現象で、数日後にガクンと状態が悪化するリスクの高い、危険な誤解の一つです。
 これは、「飲んだクスリはその時に効くものだ」というイメージを持っているために起こった間違いだと考えられます。
 多くの抗不安剤(minor tranquilizer、一般に安定剤と言われるもの)や睡眠導入剤などは確かに効果が現れるまでの時間が短く、一定時間効いた後に効果は減衰していきますので、そのように捉えてもあながち間違っているとは言えません。
 しかし抗うつ剤の場合は、飲み始めても即座に効果が現れず、少なくとも数日以上かかって体内に一定量蓄積された後に本当の効果を発揮し始めるという性質があります。そして、突然服薬を中止しても、体内に蓄積されていた分が徐々に放散されるために、すぐにはその影響が現れてこないのです。ちょうど、電気回路においてコンデンサーを組み込んだような場合に相当します。ですから、断薬の影響は、数日後あたりに急激に現れてくる危険性が高いわけです。
 このように、クスリの種類によって随分と性質が違い、使用上の注意点も異なりますので、これもぜひ専門医のアドバイスを参考にして下さい。
クスリの効かない
「うつ」もある

 「うつ」の状態は、脳内物質(セロトニンなどの神経伝達物質)のアンバランスが原因である、という説が今日では主流になっています。先ほど触れた新しいタイプの抗うつ剤(SSRIやSNRI)は、まさにそのアンバランスを調整してくれるありがたい薬剤です。

 しかし、実際の「うつ」の治療においては、これらのクスリが良く効くタイプの方もあれば、ほとんど効果が生じない方もあります。
 第5回でも触れたことですが、近年「うつ病」の診断が下される病態の範囲がかなり広がってきてしまっていることが、その背景として大いに考えられます。
 大まかに言いますと、「内因性うつ病」や「躁うつ病」といった、旧来「うつ病」と診断されていたタイプの方たちにはかなり薬物療法が有効で、不可欠なことが多いようです。
 しかし、「適応障害」や「パーソナリティ障害」などがベースにあるような、新しく「うつ」と診断されるようになった病態の方たちの場合には、薬物療法で期待できるのはごく限定的な効果にとどまり、むしろ精神療法等によるアプローチが不可欠であると考えられるのです。
脳内物質のアンバランスが、
「うつ」の「原因」なのか?

 さて、先ほども触れた脳内物質のアンバランスが「うつ」の原因であるという説について、ここで1つだけどうしても論じておかなければならないことがあります。それは、脳内物質のアンバランスを「うつ」の原因と言って良いのだろうかという問題です。
 確かに、脳化学的な研究や薬理学的な研究では、そのような「アンバランス」が確認もしくは想定されるでしょう。しかし、これはあくまで現段階の科学で観察され得る物質レベルの「現象」に過ぎず、正確に言えば「中間現象」に過ぎないのではないかと思うのです。「うつ病」や「うつ状態」は、決して先天性疾患ではありませんから、なぜある時までは正常に機能していたのに、急に「アンバランス」が生じたのかと考えると、その「アンバランス」をひき起した「何物か」をこそ、真に「原因」と呼ぶべきではないだろうかと私は考えるのです。
 ですから、「アンバランス」を薬物療法によって整える作業は、厳密に言えば「うつ」という状態に対しての対症療法なのであって、「うつ」をひき起こした何らかの根源に対する根治療法とは言えないわけです。
 この真の原因としての「何物か」は、第4回でも触れましたが、その人の生き方に関わる深い次元での見直しを迫るメッセージを含んでいるもので、各人各様の内容を負ったものと考えられます。
 その次元に向けてアプローチを行なって根本的解決を目指す精神療法と、症状を軽減して療養しやすくすることで治癒力の発現を助ける薬物療法とを、それぞれの目的と限界を把握したうえで、病態や状態に合わせて上手に活用することが治療として大切なスタンスだろうと思います。
 ですから、「クスリさえ飲んでいれば良い」という考え方も「クスリには意味がない」という意見も、いずれも偏った認識なのであり、そのような極論に振り回されてしまうことは危険なことだと言えるでしょう。
 次回は、社会的にも大きな問題になっている「うつ」と「自殺」の問題を考えます。

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病は気から?――「ウツ」は“闘って”治るものなのか? 泉谷閑示
――「うつ」にまつわる誤解 その(13)

 一般的に現代人は、何らかの病気にかかると、「闘って克服すべきだ」と考える傾向があります。これは「うつ」の場合も例外ではありません。
 しかし、この「病と闘う」という考え方そのものが、実は「うつ」の回復を妨げてしまう側面をもっていることは、案外気づかれていません。「一日も早く治りたい」と思えば思うほど、「病を克服せねば」「病気に負けるな」と考えてしまうのは当然の心理なのですが、それが皮肉なことにかえって「うつ」を長引かせる結果を生んでしまうのです。
 では、この厄介なジレンマをいったいどう考えたらよいのでしょうか。今回はこの点について掘り下げて考えてみましょう。
「治そう」という気持ちが足りないのか?

「何も生産的なことをしないで一日中横になっているなんて、本当に自分はダメな人間だ……」
 程度の差はあれ、大概の患者さんはこのように自己嫌悪しながら療養しています。
 そこに運悪く、古風な精神論を信条としている人が周囲にいて下手に関わってきたりしますと、「なかなか治らないのは、『治そう』という気が足りないからだ!」といった心ない言葉を発せられてしまうことがあります。また、実際誰かにそう言われたのでなくとも、患者さん自身が自分でそういう見方をしてしまっていることも珍しくありません。
 その結果、患者さんは、「私はきっと『治そう』という気持ちなんか持っていないんだ。私はたんに怠けたいだけなんだ」と、「怠け病」のレッテルを自分自身に貼ってしまい、いっそう自己嫌悪に陥ってしまうことになります。
 「治そう」という気持ちは、治療に対するモチベーション(動機づけ)のことであり、そういう気持ちはあるに越したことはないじゃないか――常識のレベルで考えれば確かにそうでしょうし、それなしには治療自体が始まらないわけですから、もちろん不可欠なものでもあります。
 しかし、そのレベルだけで「うつ」の治療を進めていきますと、残念ながらあるところで壁にぶつかってしまって、先に進むことができなくなってしまうのも事実なのです。
力ずくの「北風」方式には限界が……

 近代以降の西洋医学の考え方は、「病気」を悪とみなして、治療によって駆逐しようとする傾向がベースにあります。この考え方は今日、医療側のみならず、一般の人たちにもすっかり浸透したものになっています。
 しかし、イソップ童話の『北風と太陽』の話に喩えれば、これは力ずくで目的を達しようとする「北風」のやり方に相当するもので、力を込めれば込めるほど皮肉にも裏目の結果を招いてしまうという限界をはらんだ方法論になってしまっています。

 近代以降の西洋医学は「病気」を自分とは別個の異物として対象化し、それを悪とみなして除去したり、薬物などの爆弾を投下して一掃しようと試みたりしてきました。しかしながら、このやり方が通用するものにはどうしても限りがあり、また、たとえそうできたとしても「再発」の不安が拭いきれないという限界があります。つまりこの方法論は、いわばテロによる逆襲のリスクを残してしまうような実力行使型のアプローチなのです。「うつ」の治療の難しさは、まさにこのような西洋医学の方法論自体の限界と密接に関係があると考えられます。
 それでは、「太陽」の方式に相当するアプローチとはどのようなものでしょうか。
「うつ」にはメッセージが含まれている

 西洋医学は歴史的に進歩発展を遂げる途上で、大切なものをいくつも切り捨ててきました。それはたとえば、「病はメッセージをもっている」という考え方であり、「症状は本人をより望ましい状態に導くための作用の現れである」といった捉え方です。
 以前、「昼夜逆転」についてとり上げた際(第7回参照)には、「昼夜逆転」という症状の意味を〈汲み取り〉、あえて症状に〈従ってみる〉という考え方を提案しました。これが、従来の治療で見落とされていた視点を生かした新しい発想の一例です。「昼夜逆転」は症状の1つに過ぎませんが、では「うつ」という病気全体については、どのように発想できるでしょうか。
 「うつ」の運んでくるメッセージは、重層的なものであると考えられます。つまり、「無理が続いたのでゆっくりと休養しましょう」といったわかりやすいメッセージもあれば、深く本人の存在基盤を問い直すものにいたるまで何重もの水準があるものです。
 もちろん、その内容は個々のケースによって千差万別であり、それを〈汲み取る〉には個別の丁寧なアプローチが欠かせません。しかし残念ながら、通り一遍の診療の中ではそれらが見落とされていることが多く、患者さん自身もそれを受け取れないまま、症状がいたずらに長期化(遷延化)してしまっていることも少なくありません。これは実にもったいないことだと思います。
しっかり「うつ」をやってみるという“逆転の発想”

 長期化してしまった状態の患者さんを担当する場合、当然ながら抗うつ剤による薬物療法などはすでに一通り行われてきていますし、充分以上の療養期間も経てきているわけですが、そこで見落とされてきたポイントを見つけ出しアプローチすることが必要になってきます。そこで見えてくるポイントの1つは先ほど述べた「メッセージを汲み取る」作業ですが、もう1つ大切なことがあります。それは、療養の「質」を見直すことです。

 はじめのところで、「病と闘う」という考え方自体が「うつ」の回復を妨げてしまう側面があると述べましたが、それはつまり、「病」を駆逐すべき対象として捉えることによって、自分の「心」(=「身体」)への「頭」によるコントロールを強化してしまうことになり、それが「うつ」をひき起こしたのと同じ内的な状態を生み出してしまうからなのです(第1回参照)。つまり「病と闘う」と考えることは、自分の内部で「心」(=「身体」)と「頭」が闘う状況を生み出し、「うつ」を自ら再生産しているような悪循環に陥ってしまうわけです。
 そこで、「病」に〈従ってみる〉という逆転の発想が、療養の「質」を変える鍵になります。
 「うつ」に〈従ってみる〉とは、「何もしたくない」といった「抑うつ気分」や「意欲減退」に身を任せてみることを指します。私は診療において、「しっかり『うつ』をやってみて下さい」とお伝えすることがよくありますが、これによって「自分を責めながら」になっている療養を「質」の良いものに変えようと働きかけるわけです(ただし、あくまでこの「抑うつ気分」のように一次的な症状に〈従ってみる〉のであって、決して「希死念慮(死にたい気持ち)」のような二次的に生じた症状に従うものではありません)。
 放電しながらの充電では延々と充電は完了しないものですが、「自責」という放電の原因になる考えを止めることによって、「療養」という充電がはじめて有効なものになっていくのです。そして真に充電が完了してはじめて、「心」(=「身体」)は「頭」の関与なしに自発的で自然な意欲を発するようになります。つまり療養の「質」は、「自責」をいかに排除できるかにかかっているわけです。
 現代人の「うつ」は、大まかに言えば、「頭」によるオーバーコントロールに対する「心」(=「身体」)の反逆という要素を必ず含んでいます。そういう事態から生じた「うつ」という病態に対して、力ずくの「北風」方式のアプローチでは、事態を泥沼化させることになってしまいます。そこで、「今はすべての義務からいったん解放されて、とことん休みなさい」と言っている「うつ」の症状に従ってみることが、本当の回復に向かうための「太陽」方式の療養の第一歩なのです。
 次回は、復職や復学など「社会復帰」の際に見落とされがちなポイントについて考えてみたいと思います。

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「試し出社」で会社アレルギーは消える?―ウツ休職者の段階的復帰プログラムの問題点
――「うつ」にまつわる誤解 その(14)

 「うつ」で療養されていた方が職場などに復帰する際に、通常、段階的な復帰プログラムが用いられることが多いようです。また患者さん自身でも、家事や外出などの負荷を段階的に増やしていく方法でリハビリを試みる方もあります。しかし実際には、常にこのアプローチがうまくいくとは限らず、挫折してしまうケースも少なくありません。
 そこで今回は、この段階的に負荷を増やす方法に潜む問題点について考えてみたいと思います。
順調に「試し出社」を開始したけれど……

 Uさんは会社を「うつ」で休職し、半年ほど自宅療養を行なってきました。自宅で過ごすうえでは不調になることもなくなり、主治医やカウンセラーの勧めもあって、そろそろ少しずつ職場復帰に向けてリハビリをしていこうということになりました。
 そこで、まずは朝の通勤時間に会社のある駅まで電車で行き、会社には寄らずに、そのまま帰って来るという方法が提案されました。Uさんは、さっそくこれを実行し、はじめは恐る恐るではありましたが、どうにか1週間続けることができました。
 第1段階をクリアーしたので、次は第2段階として会社の近くの喫茶店まで行って、そこで小一時間ほど新聞や雑誌を読んで過ごしてから帰るというやり方にチャレンジすることになりました。Uさんは、「会社の人間に会ってしまったらいやだな」という不安も多少ありましたが、これもどうにか1週間やり通すことができました。
 主治医からも「この調子なら大丈夫だろう」と言われ、会社の産業医の承諾も得られたので、いよいよ「試し出社」を行なうことになり、まずは午前中の数時間だけから試してみることになりました。
 久しぶりに出社してみると、職場の上司や同僚もUさんの復帰にとても協力的で、仕事も負担のないものに配慮してもらえました。客観的に見てもストレスの少ない状況が用意されており、Uさん自身も「この調子なら、順調に行けそうだ」と感じていました。
 しかし、試し出社を始めて3日目の朝、Uさんはいつも通りに起床はしたものの、「出社したくない」という気持ちが理由もなく強烈に湧き上がってきてしまいました。「何もストレスなんかないはずなのに……」と何度自分に言い聞かせてみても、身体も心も頑として言うことを聞いてくれません。結局この日は出社できず、翌日以降も出社できなかったため、Uさんは再び自宅療養に戻ることになったのです。
整形外科的なリハビリではうまくいかない!

 Uさんは、きちんと段階を踏んで復帰プログラムを実行したわけですが、なぜ途中で出社不能になってしまったのでしょうか。

 このように、段階的に負荷をかけて行なうリハビリテーションの方法は広く一般的に行なわれているものですが、これは「整形外科的リハビリ」をモデルにしたアプローチだと考えられます。
 整形外科的リハビリにおいては、弱ってしまっている筋力や固まってしまった関節などを回復させるために、徐々に負荷を上げていく方法が採られるわけですが、Uさんも復職にあたって、まさにこの方法論によるアプローチを提案され実行したのでした。
 しかし、途中で心と身体が拒否反応を示し、このUさんのリハビリは残念ながら成功しませんでした。これは、「うつ」というものが、整形外科的な外傷や疾病で生ずる問題とはずいぶん質の違う問題を抱えているためだと考えられるのです。
 「花粉症」などに代表されるアレルギー性疾患では、アレルゲン(花粉などの抗原)によってアレルギー反応がひき起されるわけですが、これはよくご存じの通り、たとえアレルゲンの量が少なくてもわずかでも取り込んでしまうとアレルギー反応が起こってしまうものです。ですから、例えば「花粉症」を治すために、徐々に花粉の被曝量を上げていくような治療アプローチは通常は行なわれません。
 「うつ」は、「心」(=「身体」)が拒否反応を起こした状態に相当することは第5回でも触れた通りですが、これはアレルギー反応ととてもよく似た現象です。ですから、このような病態に対して、整形外科的リハビリ・モデルは原理的にミスマッチだと考えられるのです。
何が拒否反応をひき起こしたのか?

 「うつ」がアレルギー反応的なものであるとすれば、Uさんの場合も、職場に戻ってから拒否反応が現われているので、そこにいわばアレルゲンがあると考える必要があります。
 Uさんの場合は、どうも職場の人間関係が問題というわけでもなさそうです。すると考えられるファクターとしては、Uさんの職務内容に何かあるのかも知れません。例えば「この仕事をしていくことに、もう意義が感じられない」という気持が心の奥に潜んでいたり、「この仕事をすること自体が、自分を裏切っている行為に感じられる」ということがあったりするのかも知れません。
 患者さんによってそれぞれ拒否反応のポイントは千差万別なので、何が問題なのかについては、丁寧に個別のアプローチをしなければ見えてこないものです。しかも、そのような気持ちは心に深くしまい込まれてしまっていて、本人が自覚できていない場合も少なくありませんから、専門的なアプローチも必要になってきます。
抱えるテーマによって拒否反応が出るポイントが違う

 Uさんの行なった復帰プログラムを例にして考えてみた場合、ケースによってはもっと早い段階で拒否反応が現われることもあれば、もう少し後になって挫折してしまう場合もありうると考えられます。

 「頭」による自己コントロールを長年強力に行なって生きてきたタイプの人が、それに対する「心」(=「身体」)の反発で「うつ」状態になった場合には、仕事がどうのという以前に、「復帰プログラムを実行する」という「頭(理性)」主導の方法をとること自体にアレルギー反応を示すでしょうから、初期段階で失敗してしまう可能性が高いと考えられます。
 あるいは、その「会社」自体に強く嫌悪感を抱いてしまっているケースでは、会社の近くまで行ってみるリハビリ段階で拒否反応が出る可能性も高いでしょう。
 また、通勤電車のところで拒否反応が現われる場合もあります。この場合には、都市生活自体が私たちに強いてくる非人間的な不自然さに対して、「心」が激しく嫌悪感を示しているのかも知れません。
 これらはほんの一例にすぎませんが、患者さんごとに様々なテーマが潜んでいるもので、その深さや拡がりも決して一律ではないのです。
拡がってしまったマイナス・イメージを絞り込む

たいていの場合、「うつ」を発症した時点では拒否反応を感じる対象は、かなり広範囲に拡がってしまっていることが多いようです。
 人間はイメージというものに大きく左右される生き物ですが、マイナスのイメージというものは、我慢して過ごしているうちに、知らず知らず周辺のものにまで拡大していく性質があります。例えば、会社の特定の人物に激しく嫌悪感を抱いていたものが、会社全体への嫌悪感に発展し、さらには会社の所在地周辺にまでおよび、業種全体にもおよび……といった具合です。
 ですから、治療のアプローチでは、この拡がってしまっているマイナス・イメージを、丁寧に絞り込んでいく作業が欠かせないことになります。その作業が進んでいってはじめて、拒否反応をひき起こしていた核となるオリジナルのテーマが抽出されてきます。そしてそのテーマにもとづいて、その患者さんが社会復帰する望ましい方向性も、自ずと明らかになってくるものです。
 その方向性は、以前と同じ仕事や人生に戻ることである場合もあれば、大きく人生の軌道を変えることがふさわしい場合もあります。
 同じ職場などに戻ることを目指して整形外科的リハビリ・モデルを当てはめても一律にうまくはいかないことがあるのは、一口に「うつ」と言っても実に多様なテーマが潜んでいるものであり、解決の方向も個別的なものであるためなのです。
 ただし、その人の拒否反応の原因になっていたポイントや「うつ」が担っているテーマを十分に扱ったのちに、ふさわしい場所に向けて社会復帰をはかる場合には、いきなり通常の負荷をかけるやり方では乱暴なので、そこから先のプロセスは段階的な復帰プログラムでアプローチすることが望ましいのは言うまでもありません。
 次回は、「うつ」の患者さんの周囲の人が陥りやすい、「間違った接し方」についてとり上げてみたいと思います。

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間違っていませんか?―「ウツ」の人への接し方
――「うつ」にまつわる誤解 その(15)

 「うつ」で療養中の人に対して、ご家族など周囲の人から「どう接したらよいのでしょうか?」「何か注意すべきことはありますか?」といった質問を受けることがよくあります。周囲の方たちにとってみれば、「うつ」の状態の心理は理解しがたいものでしょうから、接し方について戸惑ってしまうのも無理はありません。
 しかし、よく言われているような「励ましてはならない」といった単発のマニュアルに従ってみても、それが表面的なものに終わってしまうことが多いようです。
 そこで今回は、周囲にいる人たちが「うつ」について少しでも理解を深め、表面的でない接し方ができるためにはどんなことが大切なのか、考えてみましょう。
なぜ「励ましてはならない」のか?

「うつ」の方に対する間違った接し方には実に様々なものがありますが、いずれも「うつ」が起こるからくりが理解できていないところから来ている問題だと思われます。
 第1回でも触れましたが、「うつ」とは、「頭」の一方的な独裁に対して、「心」(=「身体」)がある時点でたまりかねてストライキを決行した状態です(右の図参照)。
 「頭」とは《理性の場》であり、自己コントロールを志向する《意志の場》でもあります。それに対して「心」(=「身体」)の方は、大自然の原理を持っていて、欲求や感情を生み出す《意欲の場》です。そして、人間の生き物としてのエネルギーの中心は、ここにあります。
 このような人間の基本構造と「うつ」のからくりが理解できれば、なぜ「励ましてはならない」と言われるのか、そのエッセンスがはっきり見えてきます。
 つまり、「励ます」ということは、「頭」の《意志》による自己コントロールを再び強化せよと言っているわけですから、ストライキに対して軍隊を向けるようなもので、事態が泥沼化するのは明らかです。しかも患者さんの「頭」は、「自己コントロールが十分に効いて有意義な活動ができるような自分でなければ、自分には価値はない」という考えを持っていることが多いため、励まされても思うように動かない自分自身を情けなく思い、いっそう自己嫌悪に陥ります。これが場合によっては、自殺願望を強めてしまう恐れもあるわけで、だからこそ「励ますこと」が危険なのです。
小手先の気遣いは「うつ」には通用しない

 しかし周囲の人は、表向きは「励まし」たりしなくとも、一日でも早く「有意義な活動」ができるようになってほしい、と期待して待っていることが多いものです。もちろん、患者さんの一日も早い社会復帰を願うことは、現代社会に生きる周囲の方々にとっては、ごく当たり前な気持ちでしょう。

 しかし、残念ながら「うつ」はそれを大目に見てはくれません。なぜなら、「うつ」という状態をひき起している「心」(=「身体」)は、先ほど述べたように大自然の原理で動いている場所だからです。
 現代社会が重きを置くような「人間は働くべきものだ」「少しでも無駄なく人生を進めるべきだ」「毎日を有意義に過ごすべきだ」「常にキャリアアップを目指そう」「時は金なり」「寸暇を惜しんで勉強せよ」「努力してこそ成功する」「常に右肩上がりの成長が望ましい」等々の価値観に、大自然由来の「心」はもうすっかりうんざりしていて、その気配には相当敏感になっています。
 厳しい指摘かもしれませんが、患者さんは周囲のちょっとした言葉や気配から、元のままの現代的な価値観や生活に戻るように期待されているらしいことを敏感に感じ取るものです。表面を取り繕っても、ごまかしはききません。患者さんは元々、周囲の期待に過剰なまでに応えようとする傾向がありますから、そのような期待にうまく応えられないことで、焦りと自己否定をさらに強めかねないのです。
「よくなった」と周囲が喜ぶことにも落とし穴が!

 「うつ」の経過において、療養によりエネルギーが回復してきて、見た目には調子の悪さが消えてくる時期があります。周囲の方たちも、明らかに「よくなった」と見えるので、やっと一段落といった気持ちになります。
 しかし、この時期にこそ最も自殺の危険性が高まることが、従来からよく知られています(第11回参照)。それは、いったいなぜなのでしょうか。
 「うつ」の状態が非常に強いときには、すべての意欲が減退しているために行動が全般的に困難なので、危険な行動化も生じにくいのですが、エネルギーが回復してきたときに、意欲が潜んでいた自殺願望と結びついてしまうと、とても危険なのです。
 これは従来からもよく指摘されていたことなのですが、これとは別にもう1点、ともすると見逃されがちなポイントがあります。
 周囲の人に「よくなった」と見える状態であっても、実は、患者さんが再び「周囲の期待に応える」というスタイルを復活させただけであることが、案外少なくないのです。
 エネルギーが枯渇していたどん底の時期には、「期待に応える自分」を演ずることはできなかったのですが、エネルギーがある程度戻ってくると、再びそれを演じてしまうことがあります。特に「自己愛の不全(自分自身を愛することがうまくいっていない状態)」をベースに持っているタイプの方では、「周りの人にもうこれ以上心配をかけられない」と思い、不調時には衝動的に吐き出せていた「うっ積した感情」を、「また吐き出したりしたら、せっかく『よくなった』と喜んでいる周囲を悲しませてしまう」と考え、再び飲み込んでしまうのです。

 つまり、周囲が「よくなった」と言って喜んでいることが、患者さんに対して「もう決して逆戻りしたような悪い状態を見せられない」といったプレッシャーになってしまっている場合があるのです。
“望まれる患者像”を演じることも

 周囲の人が表面的に言動だけを整えたとしてもどうにもならないのが、「うつ」の方のサポートの難しさです。
 治療者ですら、自身が現代社会的な価値観に身を置いたまま治療を行っていることは珍しくないので、患者さんはそんな治療者に本心を話すこともできず、「望まれている患者像」を演じ続けていることもしばしば見られる状況です。そんな状況の中で、「心」が発した拒否反応のメッセージを正しく受け取り「うつ」を脱する作業を進めることは、患者さんにとって大変困難になってしまっています。
 右を向いても左を向いても、「有意義に生産的に生きなければならない」「一日も早く社会復帰すべきだ」といった「頭」重視の価値観だらけの社会の中で、もし誰か1人だけでも、そのような価値観から自由な人間が周囲にいれば、患者さんにとっては、その存在が大きな救いになります。
 ですから、周囲の人にできることがあるとすれば、簡単ではありませんが、その人自身が「頭」支配を脱した存在になることを目指すことなのです。
「うつ」は、現代人すべてに警告を発している

 「うつ」という病は、今日もはや、個々人に起こった病として考えることではすまないところまで来ていると思います。大局的に見れば、現代社会全体が追い求めている価値観のはらむ問題や、現代人の不自然極まりない生き方に対する大きな警告のメッセージを、現代の「うつ」は告げようとしているのです。
 およそ人間的とは言えない満員電車に押し込まれて毎日通勤し、機械仕掛けの時計の時間に追い立てられ、効率優先・利潤優先の要請に追い回されて、プライベートを楽しむための方便として仕事に行くはずだったものが、仕事の疲れをとるだけのプライベートになってしまう本末転倒。老後の心配の方に重点がシフトして「今を生きる」ことがなおざりにされ、生きる楽しみの大切な一つであるはずの食事までもガソリン補給のようなものになり下がる。翌日起きなければならない時間のために就寝時間が決められ、すぐに寝付けなければ「不眠症」ということになってしまう……。このような現代人の生活に疑問を抱かないことを「適応」と呼び「正常」と見なし、そこに戻すことを治療のゴールと思い込んでいる現代の医療も、「うつ」の発する警告を真摯に受け取る必要があるでしょう。
 治療者も含め、往々にして患者さんの周囲にいる人間は、「自分は正常だ」という前提を疑うこともなく「うまい接し方」だけを求めがちなのですが、残念ながらそのアプローチは実を結びません。
 「うつ」に本気で関わるということは、患者さんと共に「うつ」が知らしめようとしている現代人へのメッセージを受け取り、自分自身が率先して、より自然な生き方に身を開いていこうとすることにほかならないのです。
 次回は、「自分が何をしたいのかわからない」という悩みについて、考えてみることにします。

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もはや「ウツ」の人に限らない―「何をやりたいのかわからない」現代人の悩み
――「うつ」にまつわる誤解 その(16)

 「うつ」が本格的に悪化しますと、人は「何もできない」状態に陥ってしまいます。この時期には、何よりもしっかりと休養をとることが必要なのですが、たとえ療養に入っても、はじめのうちは「動けない」自分を責めながら「身体」だけを休ませるような過ごし方になりがちです。
 この自責の気持ちを緩和できるかどうかが、治療初期における大きな課題です。これがクリアーされると、やっと疲弊していた「心」(=「身体」)が本当に休める状態に入ります。こうなってはじめて、充電が少しずつ行なわれるようになり、徐々に動ける状態も見られるようになるのです。
 しかし、その頃から新たな悩みが出現してくることも少なくありません。それは、「何もしたくない」「自分が何をしたいのかわからなくなってしまった」というものです。この悩みは、「うつ」と診断されていない方でも、若い世代を中心に、多くの人が心中密かに抱えているポピュラーな問題でもあります。
 今回は、この悩みについて掘り下げて考えてみることにしましょう。
なぜ「何もしたくない」のか?

 人間は本来、好奇心のかたまりのような生き物です。
 幼い子供を観察してみれば、そこに懐かしい人間の原型が見てとれるでしょう。何でも知りたがり、何でもやってみたいと思い、子供は一時もじっとしていません。これが、「心」(=「身体」)がのびのびと動いている状態です。
 しかし、それがその後のしつけや教育によって「社会化」されてくるなかで、たくさんの「すべきこと」「してはならないこと」が「頭」にインプットされます。元々の旺盛な好奇心や自然な意欲がうまく温存されることは残念ながら稀で、大概の場合には、求められた課題をきちんと遂行できるような自己コントロールが効く人間になるよう教化されます。こうして、「頭」が「心」(=「身体」)を支配する体制が、私たちの中に形成されるのです。
 第1回でも触れましたが、「頭」とは「~すべき」「~してはならない」といったmustやshouldの系列のことを言ってくる場所ですが、一方の「心」は、「~したい」「~したくない」とwant to系列の発言をします。
 現代人は日常的に、「頭」が独裁的に自己コントロールをかけて「心」(=「身体」)の「~したい」「~したくない」といった声を抑え込み、無視してしまっていることが多いのです。

 これまで何度も述べてきたことですが、「うつ」状態とは一口に言って、この長期にわたる「頭」の独裁に「心」(=「身体」)がたまりかね、反逆のストライキを決行した状態です。ですから、まずは「何もしたくない」という抗議の主張が強く行なわれるのは、当然のことなのです。
沈黙してしまった「心」を
目覚めさせるプロセス

 「心」(=「身体」)のストライキによって、「頭」の支配体制がダメージを受け、その結果、ようやく「頭」は「心」の声に耳を傾けざるを得なくなります。
 そこで「頭」は「心」(=「身体」)に向かって、「本当は何がしたいの?」という質問を向けるのですが、これに対して「心」(=「身体」)は何も答えてくれません。なぜなら、この質問が不適切だからです。
 長い間「頭」によって弾圧され、発言を許されなかった「心」(=「身体」)は、その間にいわば退化させられてしまったようなもので、これが再び動き出すためには、幼児の「自我の目覚め」に相当するプロセスをもう一度経ることになります。
 幼児は、2~3歳頃に自我が目覚めはじめると、親の指示にことごとく「イヤイヤ」を言うようになります。「寝なさい」と言えば「寝ない!」と返し、「寝ちゃダメよ」と言えば「寝る!」と言うのです。これを「イヤイヤ期」と言うのですが、これが自己主張の初期の形態です。
 この時期の主張は「指示に従いたくない」という一点だけなのであって、主張内容における一貫性はあまりありません。しかし、この「イヤイヤ期」を経て徐々に、一貫性を持った「~したくない」が表われて来て、やがて「~したい」という高度な自己主張が表明される段階に移行していくのです。
 一度退化させられた「心」(=「身体」)は、はじめのうちしばらくは、この「イヤイヤ期」に相当する状態になるのです。この時期には、とにかく「頭」の指示に対して、「心」(=「身体」)はことごとく「イヤ!」と言います。ですから、この時期に「何がしたいの?」といくら尋ねてみても、何も期待する答は返って来ません。
徐々に「~したくない」が絞り込まれていく

 「イヤイヤ期」にあった「心」(=「身体」)は、段々にやみくもな「イヤ」ではなく、その対象を絞り込んでいくようになります。人と会うのも外出するのもすべて「イヤ」であった状態から、特定の相手や場所・状況に対する嫌悪感や拒否反応に限定されていくのです。

 この変化のプロセスを丁寧に見極めていくことが、「うつ」の治療において大切なポイントの1つです。
 たとえば、出社できなくなった「うつ」のケースにおいて、その患者さんがその会社自体に問題を感じて拒否反応を起こした場合もあれば、特定の人間関係にダメージを受けての場合もあります。また、その職種自体にどうしても馴染めないことが原因のこともあれば、まったく仕事自体に問題はなく、その人が物事に取り組む際のストイックな性格傾向が原因になっていることもあります。これは、なかなか治療初期の段階では見極めの難しいところであって、経過を観察ながら丁寧な面接を行なっていかなければわからないことも多いのです。
 よく、「うつ」状態の時に人生上の大きな決断をしないほうがいいと言われますが、これは、拒否反応がまだ絞り込まれていない時点で自身の方向性を決断すると、問題でない環境を問題だと捉えてしまう危険があり得るためなのです。
「したくない」ことと
「したい」ことは表裏一体

 「~したくない」の対象が絞り込まれてきますと、そこに、その人が譲れないものが、ちょうどネガのように反転した形で見えてきます。
 人にはそれぞれ、決して妥協できない「中心的なこだわり」が木の幹のようにあり、一方には多少の妥協をいとわない「周辺的なこだわり」を枝葉のように併せ持っているものです。
 絞り込まれた「したくない」こととは、その人の「中心的なこだわり」に反するものだと考えられます。これを無理に行ない続けると、その人が自分自身を裏切り続けることになり、必ずや再び何がしかの「心」(=「身体」)の反発を招いてしまうことになります。ですから、そのような方向で「社会復帰」を目指すと、往々にして再発しやすくなってしまいます。
 大切なのは、絞り込まれた「したくない」を手掛かりにして、小さな声でつぶやき始めた「したい」に耳を傾ける作業です。
 「頭」による長い弾圧の後に「心」(=「身体」)が語りはじめる声は、小さく微かです。それは「なんとなく」とか「ふっと気まぐれに」といった感じで現われることが多いので、揺るぎない理由や功利性を求める「頭」が大声で割り込んでしまうと簡単にかき消されてしまいます。ここが難しいところで、良質なサポートが大切になってきます。その人独自の「中心的なこだわり」から発した「~したくない」を十分に尊重しつつも、その奥に聞こえる「~したい」に耳を澄ますこと。これが、その人の真の「社会復帰」の方向性を見つけるうえで欠かせない重要なことなのです。
 次回は、療養中の人に対してなされることの多い「身体を動かすべきだ」「少しでも外に出た方がよい」といったアドバイスの問題点について考えます。

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「ウツ」の人には余計なひとこと?―外出や運動のすすめ
――「うつ」にまつわる誤解 その(17)

 「そんなに家に閉じこもってばかりいると余計に気分がふさいじゃうでしょ。少しは外に出て気晴らししてみたら?」
 「寝転がってばかりいないで、ちょっとは身体を動かさないと気分も晴れないわよ。近所を散歩でもしたらどう?」
 「うつ」状態で療養をしていると、こういったアドバイスを周りから受けることがよくあるようです。しかし患者さんにとっては、ちょっとした外出や運動であっても、かなりの負担に感じてしまう場合が少なくありません。
 そこで今回は、「うつ」の人にとって、外出することや運動することがどのように感じられるのか考えてみましょう。
人間は「心理的なバリヤー」を張って生きている

 人間は普段、外出することなど何でもない当たり前のこととして生活していますが、ひとたび「うつ」の状態に陥ってしまうと、突然、外出することが大変な勇気を必要とするものに変化してしまいます。
 「家の中でそこそこ動けるんだったら、近所に出かけるくらい大丈夫だろう」と理屈の上では考えられるかもしれませんが、これが心理的にはそう簡単にはいかないのです。人間の行動というものを、目に見える肉体の動きだけで捉えてしまっては、こういった現象をうまく理解することはできません。
 人間は外界との接触に際して、目に見えぬバリヤーのようなものを自然に作り出していて、外界から侵害されないように防御しながら生きていると考えられます。ちょうど、免疫機能を備えることによって外界の細菌やウイルスに対する抵抗力をある程度持っているように、人間は心理的にも抵抗力と呼べるようなものを備えているわけです。
 しかし、精神的なエネルギーが低下してしまってこの心理的なバリヤーが弱体化してくると、今まで何でもなかったはずのことに次々と支障が出てくるのです。
親しい家族との接触すら負担になることも……

 「うつ」の話から少々外れるように思うかもしれませんが、ここで「ひきこもり」に陥った人の状態について考えてみましょう。
 人間の心理的バリヤーが最も弱体化したときに陥るのが、近年「ひきこもり」と呼ばれているような状態です。
 心理的バリヤーが極端に弱まると、慣れ親しんでいるはずの家族との接触すらも大きな精神的苦痛を伴うようになってしまい、自分の部屋に「ひきこもる」ようになります。これは、心理的バリヤーが張れないので、その代わりに、壁やドアで囲まれた自分の部屋という物理的なバリヤーを必要とするためだと考えられます。

 「うつ」ではそこまでの状態に陥ってしまうことはあまりありませんが、しかし、自分以外の人間との接触が、たとえ仲のよい家族とであってもつらく侵害的に感じられてしまうことは、「うつ」の方にも十分ありえます。
 これは、周りにいる人たちがぜひ心に留めておきたいことです。
「ひきこもる」ことには意味がある

 このように、人は心理的なバリヤーが弱体化した時に物理的バリヤーの中に「ひきこもる」わけですが、それは決して単に身を守るためだけではありません。
 ここで、ちょっと「卵のふ化」について考えてみましょう(右の図1~3参照)。
 1のように、中身がドロドロで十分に形を成すことができないうちは、その外側に固い殻が必要です。そして殻に守られながらも、その内部では徐々に何かが形づくられていきます(2)。それが殻を必要としない強さにまで成長すると、おのずと中から殻が破られ、形あるものが誕生することになります。
 「ひきこもった」状態とは、まさにこの1や2のような殻の中の状態に相当します。それは、外界から身を守りつつ、次に誕生する新しい自分を準備していることでもあるわけです。
 以前(第4回)にも「真に治るとは、元の自分に戻ることではなく、モデルチェンジした新たな自分に生まれ直すことである」と述べましたが、その「生まれ直す」プロセスとは、まさに、この「卵のふ化」に相当するような順序を経るのです。
「体力」がなくなったわけではない!

 ですから、「ひきこもり」的状態にいることを単によくないことと見てしまって無理に引っ張りだそうとすることは、大切な「ふ化」を邪魔してしまう危険があります。
 まだ自分から動き出したい状態になっていない段階で、外に出ることや運動を勧めることは、先ほどの図で言えば1や2の段階で殻の外に出るように促しているようなものですから、当然、よい結果を生みません。
 もちろん、どうしても止むに止まれぬ用件があって、外出したり人と会ったりしなければならないこともあるでしょう。しかし、そのあとで異常なほど疲労を感じてしまう場合には、まだ3の段階には至っていないと考えるべきでしょう。ちょっとした外出だったのに、そのあと数日以上寝込まなければならなかったといった話を、患者さんからよく聞くことがあります。

 時々、そんな自分の状態について、「大して歩いたわけでもないのに……」と不思議に思い、「ずいぶん体力がなくなってしまっている」と考えてしまう方もあります。しかしこれは、「体力」が主たる問題だったのではありません。心理的バリヤーが十分に張れない段階で外界に触れたことによる、精神的エネルギーの消耗が主な原因なのです。
 これを「体力の低下」と捉えてしまって、そこから「運動をしなければならない」と考える方がありますが、この段階で「~しなければならない」という「頭」のmust的な指令で自分を動かそうとしますと、「心」(=「身体」)は必ずや強硬に反発を示すため、この方策は、まずうまくいきません。
 しかし、療養が進んで3の状態になれば、必ず「心」(=「身体」)は自発的に身体を動かしたくなったり、外に出てみたくなったりするものです。ですから、それまでは「体力」という発想を持ち込まず、むしろ「億劫さ」や「怖さ」に従って過ごすことが、質のよい療養のポイントだと言えるでしょう。
「電話一本」の勇気が出ない

 「うつ」の初期段階において、「電話一本かけられない」とか「電話に怖くて出られない」といった状態もよく見られます。
 たとえばある朝、会社に行けそうになく調子が悪いと感じる。当然、職場に「調子が悪いので休みます」という電話を一本入れるべきところですが、これがなかなかできず、結果として無断欠勤になってしまう。そんなケースはとても多いようです。
 これも、その人が1のような状態に陥っているために、電話で話すだけのこととはいえ、他人という外界と接触しなければならないことがたまらなく怖く感じられて、「ほんの電話一本」が心理的に負担が大きいために起こる現象なのです。
 普段は社会的常識があってマナーをわきまえている人でさえも、ひとたび「うつ」状態に陥ってしまうと、このように電話一本かけられなかったり、とれなかったりしてしまうことがあり得るわけです。
 このように、心理的なバリヤーの問題を考慮に入れることによって、元気な人にとっては何でもないような行動が、「うつ」状態の方にとってはとても大きな困難を伴うということが、少しでも理解しやすくなるのではないかと思います。
次回は、「逃げてはいけない」という考え方に潜んでいる問題点について考えてみたいと思います。

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「逃げる」のは悪いこと?―ウツの人にもよく向けられる精神論
――「うつ」にまつわる誤解 その(18)

 日本人の大好きな精神論の1つに「逃げてはならない」という考え方があります。これが昔から日本人の勤勉さや忍耐力の支柱となり、社会の繁栄に貢献してきたことは間違いのないところでしょう。特に、封建的な社会を生き抜いたり、貧困等の問題を克服したりしなければならない状況下では、この種の精神論は有用なものだったと考えられます。
 しかし、今日の多様化した時代を生きる私たちの内部では、このような旧来の精神論と「自分らしく生きたい」という自然な欲求とがしばしば不調和を起こし、さまざまな苦悩を引き起こすようになってきています。「うつ」状態に陥る人が増えている背景としても、この問題の存在は無視できません。
 また、「うつ」の状態について周囲から「逃げ」と見られてしまったり、本人自身もそう思って自責の念にとらわれてしまったりすることもあります。
 今回は、この「逃げ」というテーマをめぐって考えてみましょう。
“逃げ”は積極的な危険回避行動

――これって逃げなんでしょうか?
 よくクライアント(患者さん)から質問されるフレーズです。
 これに対して、「そうですね、逃げだと思います」または「いいえ、決して逃げではありませんよ」と答えることは、いずれも適切ではありません。それはなぜでしょうか。
 まず、この問いかけにおいては、「逃げ」という言葉にあらかじめネガティブな意味が込められています。これをそのままにして返答するのでは、それがYesであってもNoであっても、「逃げ」=「悪いこと」の価値観が温存されたままになってしまっています。
 この問答では、たとえ「逃げではない」という話に落ち着いたとしても、いずれ別の問題に突きあたったときに、再び「この決断は逃げではないだろうか?」と、同じ問いを発しなければならなくなってしまいます。そこで必要なのは、この「逃げ」という言葉に付着したネガティブな意味を引きはがしてしまうことなのです。
 たとえば、家が火事になったら人は逃げるものでしょうし、戦国時代の合戦などにおいて明らかに形勢不利な場合には、いったん兵を引き上げて(つまり「逃げ」て)援軍を得たりするでしょう。
「心」にとって「逃げ」は自然な反応

 このように、決して一概に「逃げ」が「悪いこと」や「消極的なこと」だとは言えないわけです。生き物である私たち人間は、自分が置かれている状況が自分にとって危険だったり不快だったりする場合には、自然な反応として「逃げよう」とするものです。これは、私たちの「心」(=「身体」)が行なう反応です(第1回参照)。

 これに対して「頭」の方は、「逃げてはならない」という価値観がすり込まれている場合には、「心」(=「身体」)が「逃げよう」とすることを承認せず、対立が生じます。
葛藤は良いが、抑圧は危険!

 心理学で葛藤や抑圧という言い方がありますが、「頭」と「心」(=「身体」)が対立した場合には、人はこのどちらかの状態におかれます。
 図1は葛藤の状態を表していますが、「頭」由来の△と「心」由来の○とが、「頭」(意識)の中で対立しています。これが自覚的に「悩んでいる」状態に相当します。
 次の図2は抑圧の状態で、「頭」が「心」との間の蓋を閉めてしまい、「頭」(意識)の中は△しか見えず、「心」由来の○は意識されません。意識の水準においては、△の一人勝ちの状態になっています。
 葛藤は、自覚的に悩まなくてはならないという意味では辛いものですが、しかし、「心」の声をシャットアウトしていないという点において、健康な状態の1つだと言えます。
 しかし、この自覚的に悩む辛さを解消しようとして、人はついつい蓋を閉めて「心」の声を封じ込めてしまいがちです。これが抑圧という状態なのですが、ある限度を超えて封じ込めを行なってしまった場合には、「心」(=「身体」)がストライキを起こして「うつ」状態に陥ったり(第1回参照)、身体症状という形で悲鳴を上げたりすることになってしまいます(第2回参照)。
 ですから、「逃げてはならない」という考え方は、揺るぎなく「頭」に採り入れられてしまった場合には抑圧の体制をつくりやすく、「うつ」等の問題を引き起こす危険性も高いと言えるでしょう。
「根気がない」という非難

 「逃げてはならない」という精神論のヴァリエーションとして、「根気がない」「1つのことが長く続いたためしがない」という非難もよく耳にします。
 ことに日本人は、1つのことに専心して「道」を極めることをとても賛美する傾向があるように思われます。もちろん、その人が一生をかけるに足るものと出合えた場合には、結果として、このような生き方が達成されることでしょう。

 しかし、多様化した現代にあって、何をして生きていくのかという選択肢は無数に近いほど多く、自分がこれだと思えるものに人生の早期に出会える確率はかなり低くなっているように思います。
 ましてや、幼少期から「お受験」等の事情により、大人顔負けの過密スケジュールで塾や習い事に通わされ、親の決めた方針の学校に入り、本人の好奇心やモチベーションをゆっくりと待ってもらえることがなく、バーチャルな知識を消化することにばかり重点が置かれた教育が、切れ目なく行なわれていきます。
 ことに、ゆるやかで退屈な時間がたっぷりあって、その退屈さゆえに好奇心を発動してオリジナルな遊びを見つけていくべき幼少期や学童期において、「あとで受験の苦労をさせたくないから」という一見合理的な理由の下に「お受験」の日々を強要してしまうことの弊害は、後々になって現れてくることが多いように思います。
 そんな日々を過ごしてきたあとで、ある年齢が来るといきなり、自分の進路を決めるよう求められるのですが、はたしてそこでどれだけの若者が、自分の一生をかけるに足る間違いのない選択ができるでしょうか。
試行錯誤は必要な回り道

 第16回では、「何をやりたいのかわからない」という悩みが増えていることを取り上げましたが、このように情報処理にひたすら追われる状況下で人が育てられてしまうと、「頭」というコンピューターを動かすことには習熟していても、「心」(=「身体」)が「~したい」「~が面白そう」と自由に発言することが慢性的に抑制されてしまっているので、「逃げたい」「やめたい」という拒否反応を発するのが意思表明として精一杯であることも少なくありません。
 ですから、その意味では学生や社会人になってから遅ればせながらの試行錯誤が行なわれるのは当然のことであり、また必要な回り道であるとも考えられるでしょう。
 「心」が本当に「面白い」「やってみたい」と思うものに出会ったとき、人は多少の障害があっても、「逃げ」たり続かなかったりしないものです。
 しかし、「心」が十分に力を持ち、また真にそういうものと出会うまでには、周囲が思っているよりも長めの猶予期間が必要とされるものです。その試行錯誤の最中には、本人自身が周囲の誰よりも「これは単に逃げているだけなんじゃないか?」「何をやっても根気がないダメな自分なんじゃないか?」と厳しく自分を疑っていることを、理解しておく必要があります。
 次回は、「有意義」ということに潜む問題について考えてみたいと思います。

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“何もしない時間”は無駄なのか?――「ウツ」を引き起こす「有意義」という言葉
――「うつ」にまつわる誤解 その(19)

 現在の社会では、何につけても効率が優先され、通勤時間などでも寸暇を惜しんで知識を身につけることが奨励されるような風潮があります。
 経済効果や経済効率が最優先される価値観は、いつの間にか「時は金なり」という考えと結びついて、私たちの生きる時間についても、常に「有意義」に過ごすべきであるという強迫観念を生みだしてしまいました。
 何かを「する」ことにばかり価値が置かれ、何も「しない」時間は無為に浪費された時間と見なしてしまう現代人の意識は、「うつ」をひき起こすオーバーワークの精神的土壌になっていますし、「うつ」の治療に欠かせない「何もせずに」療養するという際にも、罪悪感や焦燥感を抱かせる原因になっています。
 今回は、この「有意義」という病に取りつかれてしまった私たち現代人と「うつ」の関係について考えてみたいと思います。
幼少期から始まっている強迫的な時間管理

 相談にいらっしゃるクライアント(患者さん)の幼少期からの歴史をうかがってみると、常にすき間なく習い事や塾、友だちとの遊びの予定等でスケジュールがびっしり埋められていたということが珍しくありません。
 幼少期においては、親の影響下で毎日が「有意義」にしつらえられ、何をするわけでもなくダラダラと過ごす時間が奪われてしまうことが多いようですが、後にそれが習慣化して、本人自身もスケジュール帳に空白ができることに不安を覚えるようになったりします。
 学校では、長期休みにすら「日課表」「予定表」の作成が義務づけられ、それをきちんとこなせることが良い過ごし方であるとすり込まれます。
 社会人になってからも、余った時間はスキルアップを目指して「有意義」に使うべきだという考えがあちらこちらから聞こえてきます。また、仕事場においては、近年徐々に時間効率が厳しく管理されるようになってきている流れも見られます。
 このような時代ですから、何も「しない」でダラダラと過ごすことが問題視されることはあっても、何かを「する」ことで埋め尽くされた状態について問題視されることは滅多にありません。しかも、目に見える「有意義」なことをしていることは周囲からプラスの評価を受けやすいため、「有意義」に傾く傾向は、疑いを抱くこともなくどんどん強化されていくことになります。

「うつ」は「有意義」への反逆

人間の「頭」とは、そもそも「二匹目のドジョウ」を狙うような効率化を目指して発達してきたコンピューター的な部分です。ですから、予定を立てたり計画をしたりするのは、「頭」の得意分野ですし、それを実行に移す意志力も「頭」由来のものです(第1回参照)。
 「頭」はコンピューター的に情報処理を行なう部分なので、量的に把握可能なもの、つまり目に見えるものを重視する傾向があります。ですから、自分自身の価値を考える時に、「何をしたのか」「何が達成されたのか」などの生産性を目安に評価しようとします。
  しかし、人間はそもそも何かのための「生産マシーン」として生まれたわけではありません。ですから、「常に有効に稼働しなければならない」という考え方は、生き物としての自然に反したものだと言わざるを得ません。
 「頭」がコンピューター的で自然の原理から遠い部分であるのに対して、人間の生き物として自然な部分は「心」(=「身体」)の側にあります。ですから、「頭」が過度に効率を求めたり「有意義」であることを自らに課したりしますと、「心」(=「身体」)はそれにたまりかねて、ある時点から反逆を始めるのです。
  反逆とは、相手が最も嫌がるようになされるのが常です。「頭」が効率的で「有意義」であることを強要し続けてきたことに対して「心」(=「身体」)が反逆するとすれば、自分を「無為」で「何の生産性もない」状態に置くのが最良の方策になるわけです。
 「うつ」の状態では、意欲が減退し、集中力は低下し、作業能率が著しく阻害されます。また、強い倦怠感とともにすべてに価値が感じられない状態にも陥ります。これぞまさに、常に「有意義」な「生産マシーン」であることを強要されたことに対して「心」(=「身体」)が激しく反逆した姿として捉えることができるでしょう。
過食症も「有意義」への反発である

 現代の「うつ」においては、もともと摂食障害と言える状態にあった方が途中から「うつ」状態も併発するようになるケースが珍しくありません。
 摂食障害には拒食症と過食症がありますが、どちらか一方の状態だけで経過することは珍しく、実際には拒食に始まり、途中から過食が主になるケースが多く見受けられます。

 摂食障害の方たちに共通して認められる特徴は、意外に思われるかもしれませんが、自己コントロール力の強さです。そのために、大概の人ならば挫折するはずの無理なダイエットでも継続できてしまったりして、それを契機に摂食障害が発症することも多いようです。
 本来人間は、「心」(=「身体」)が必要なものを必要な分量だけ「食欲」という形で要求してくる見事なシステムを備えています。そこにダイエットという「頭」による計算が強制的に介入し、食行動にコントロールをかけてくると、ある限度を超えたところで「心」(=「身体」)側は、食欲のストライキ(拒食)か暴動(過食)という形で、レジスタンス運動を始めることになります。
 特に過食症においては、過食の後に自ら嘔吐するパターンが多く、大量に摂取された食物は、ほとんど吸収される間もなく吐き出されることになります。しかし、この「無意味」で「無駄」な行為にこそ、症状の反逆としての意義が潜んでいると考えられるのです。
 自己コントロール力の強い方たちは、強力な「頭」の監視下で、絶えず「有意義」であることを強いられて生活しています。その息の詰まる生活に対して「心」(=「身体」)が反逆し風穴を開けようとしたのが、「無意味」で「無駄」な過食嘔吐という症状なのです。
何もしない時間がなければ、
「心」の声は聴こえない

 何も「しない」空白の時間は、「生産マシーン」としては「無駄」な時間に見えても、実は「心」(=「身体」)にとってはなくてはならない大切な時間です。
 人間は、何も「しない」空白の時間があってこそ、内省や創造と言われるような内的作業が可能になるもので、ボンヤリと様々なことに思いを巡らしてみたり、自分自身との対話を行なったりします。また、その退屈さゆえにどこかに新しい世界はないかと模索してみたり、とりとめもない空想にふけったりするのです。このように自由な精神活動こそが、人類の文明や文化を築いてきた根源でもあると言えるでしょう。
 「頭」はいつも大声で主張してきますが、一方の「心」のほうは、普段はかすかな声でささやくだけです。そのかそけき「心」の声を聞き届けるには、どうしても空白の時間が欠かせないのです。
 知らず知らずのうちに現代人をむしばんでいる「有意義」という病に対して私たちが対抗できる方法があるとすれば、それは、あえて「無為」な空白の時間を大切にする意識を持つことでしょう。
 次回は、「自信が持てないという悩みについて考えてみたいと思います。

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「自信が持てない」―現代の「ウツ」に潜む悩み
――「うつ」にまつわる誤解 その(20)

 「自信が持てない」「自分のことが認められない」といった問題は、現代の「うつ」を考えるうえで、どうしても避けて通れない重要なテーマです。
 このような問題を抱えている方たちは、学業や仕事などで成果を上げて代償的に自己評価を維持しようと、無理を重ねがちです。しかし、この努力にはどうしても限界があって、ある時点でブレーカーが落ちたように「うつ」状態に陥ってしまうケースも少なくありません。
 以前(第5回)にも触れましたが、現代の「うつ」にはさまざまな病態があります。その中でも、新しいタイプの「うつ」(非定形うつ病、パーソナリティ障害、摂食障害など)の場合には、いくら薬物療法や休養を行なってもそれだけではなかなか回復が難しく、この内的なテーマがきちんと扱われない限り、状態は一進一退を繰り返してしまうことが多いのです。
 今回は、この「自信」ということをめぐって考えてみましょう。
「自信」に根拠は要らない

 「自信が持てない」と訴えるクライアント(患者さん)に対して、私はよく「どのようにしたら自信が持てるようになると考えていますか?」と質問を投げかけてみることがあります。これに対して大抵は、周囲から評価を得られるような成果を上げたり、何かを成し遂げられたりしたら、こんな自分に変われたら……、といった答が返ってきます。
 では、そもそも「自信」とはどういうものなのでしょうか。
 「自信」は「自分を信じる」と書くわけですが、この「信じる」とはどういうことなのか、これが「自信」を考えるうえで重要な鍵になります。
 目に見える努力や成果、あるいは周囲からの評価を拠りどころにすることは、いわば、自分の価値についての「保証書」や「鑑定書」を求めることだと言ってよいでしょう。しかし、もしそういう「保証書」が得られたならば、もはやそれだけで十分に「保証」されているわけですから、わざわざ「信じる」という大げさな言葉を持ちだす必要はないわけです。
 つまり「信じる」ということは、本来、「保証」や「根拠」を必要としないものだと考えられます。
 たとえば「神を信じる」という人は、「神の存在証明があるから信じます」というわけではないでしょう。つまり「信じる」というのは、対象についてのその人の態度や決意を表わす言葉なのです。
 よく「根拠のない自信」という言い方が人を揶揄するように用いられることがありますが、このように考えてみると、そもそも「根拠のない」のが「自信」本来の姿だったわけです。

 「根拠を求めない」ということは、「条件を付けない」ということでもあります。ですから「自信」とは、決してある条件をクリアしたら持てるといった類のものではないのです。
「良い自分」と「悪い自分」

 さて、「自分が自分を信じる」という場合、自分のどこが自分のどこを信じるということなのでしょうか。
 これまで何度も登場した図を用いて、これについて考えてみましょう。
自己評価や自己イメージというものは、この図で言えば、「頭」が行なっていると考えられます。
 第1回でも説明しましたが、「頭」はコンピューターのように情報処理をする場所です。コンピューターは、そもそも電気信号のon/offを2進法の1/0に見立てて、それを集積した巨大計算機です。人間の「頭」もこれと同様に、基本に2進法的な原理、つまり「二元論」的性質があると考えられます。
 「二元論」と言うと一見難しそうですが、対象を「良い」か「悪い」かのどちらかに分けるような判断のことです。
 「頭」はこのような基本特性を持っているために、自己評価を行なう際にも、自分自身について「良い自分」と「悪い自分」に分けてしまいがちです。そして、この「頭」による「二元論」的判断が、自分自身を無条件に「信じる」ことを妨げ、目に見える「良い」成果を求める傾向を生み出してしまいます。
 「マイナスの部分が克服されたら認めてやろう」という条件を付けて自分に向かう「二元論」的な態度は、「自分をあるがままに信じる」という「一元論」的な態度から最も遠いものであり、これは完全に「頭」の罠にはまりこんでしまった状態だと言えるでしょう。
「条件付け」が「偽りの自分」を作り出してしまう

 「自信が持てない」と悩む人たちは、幼い頃から周囲の期待に応えるよう努力を重ねたり、望まれるような人格を演じたりしてきた歴史を負っていることが少なくありません。

 望ましい成果をあげれば報酬を与え、期待に反すればペナルティを課す。このような動物のしつけにも似た「条件付け」を親が行なった場合には、当然子供はその「条件付け」を取り込んで、望まれるような「偽りの自分」を生きるようになってしまいます。
 しかし、必ずしも親がそのような「条件付け」を行なわなかった場合でも、子供の側が生まれながらにして鋭敏な感性を持っている場合には、子供が言外に親が期待しているであろうことを察知し、自ら「良い子」「できる子」を演じ、率先して「偽りの自分」を生きてしまうということもあります。
 よく、「子供の頃は手のかからない良い子だったのに……」といった発言を親御さんから聞くことがありますが、それは、親に合わせて子供が「偽りの自分」を演じていたに過ぎなかったりするのです。
「正しい選択」よりも「自分で選ぶこと」を

 幼少時から、本人のモチベーション(動機付け)で物事や進路を選択する十分な猶予が与えられずに、親などが先回りして選んだ「正しい」ものを与えられ続けてくると、一見人生が順調に進んでいるように見えても、本人の中に「経験」が積み上がらないというアンバランスが生じます。これも、後々「自信が持てない」状態を引き起こす恐れのある問題です。
 ここで言う「経験」とは、単に何かをするという「体験」とは違って、本人が自分の考えで選び、実行し、結果もすべて本人が引き受けることを指すものです。
 「経験」においては、良い結果であれ失敗であれ、丸ごと結果が本人にフィードバックされるので、借り物ではない新たな認識が本人の内部に刻み込まれます。一方、他からの指示に従って行なわれる「体験」では、うまくいっても自分自身の成果なのか与えられた指示が良かったのか区別できませんし、また、結果が思わしくなかった場合には、やり場のない後悔で気持が腐ってしまう感じになります。
 「どのようにしたらうまくいくか」という情報があふれている現代においては、「失敗しないこと」「正しい選択をすること」「即断すること」「後悔しないこと」「回り道をしないこと」「結果を出すこと」が過度に重視され、本人自身が試行錯誤をしながらゆっくり「経験」することを許してもらえない風潮があります。
 しかし、人間の「自信」を生み出す母体としては、ひとつひとつ自分で選んできたという「経験」の積み重ねがどうしても欠かせません。周囲の人間が「よかれ」と思って提供したものが、当人の「経験」を先回り的に奪ってしまう危険もあるということに、私たちはもっと自覚的でなければならないだろうと思います。
 次回は、「うつ」に移行したり「うつ」を合併したりすることもある「パニック障害」について、とり上げてみたいと思います。

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パニック障害と「ウツ」――“いま”を生きづらい現代人への警鐘
――「うつ」にまつわる誤解 その(21)

 突然、強い不安とともに動悸や息苦しさ、冷汗、吐気などの発作(パニック発作)におそわれるパニック障害は、現代において「うつ」と同様、多くの方々が悩んでいる問題です。
 初めてパニック発作におそわれた人は、身体的な問題ではないかと考えて内科などを受診することが多いのですが、検査を行なっても特にその原因と思われるような異常は見つかりません。
 新しいタイプの「うつ」では、このパニック障害との境界線はかなり曖昧で、両者が合併していると診断されるケースもあれば、パニック障害から始まって後に「うつ」が徐々に現われてくるケースもあります。
 今回は、このパニック障害という病態について掘り下げて考えてみたいと思います。
「死ぬかもしれない」不安は、なぜ起こるのか?

 パニック障害は従来「不安神経症」と呼ばれていたもので、その特徴である発作(パニック発作)は、もともと「不安発作」と呼ばれていました。このことからもわかるように、パニック障害は強烈な不安を伴っているところが最大の特徴です。
 この不安は「このまま死ぬかもしれない」と感じられるようなものであることが多く、それがあまりに強烈であったために、予期不安と呼ばれる「またいつ発作が起こるかわからない」という心配におびえ、生活にもさまざまな支障を来たすようになります。
それにしても、なぜ「死ぬかもしれない」といった不安が、わざわざ自分の内部から起こってくるのでしょうか。
 第4回で「病というものは、何らかのメッセージを自分自身に伝えるべく内側から湧き起こってくるものである」、あるいは「病は、その中核的な症状によって、自分自身をより自然で望ましい状態に導こうとしている」という見方で「うつ」について考察しましたが、ここでもその考え方を用いてみましょう。すると奇妙なことに、「死ぬかもしれない」と自分自身に思わせることにパニック障害の意味がある、という話になってしまいます。
 さて、これはいったいどういうことでしょうか。
“メメント・モリ”――死を忘れるな

 古いラテン語の格言に、“メメント・モリ(memento mori.)”というものがありますが、これは「死を忘れるな」「死を想え」という意味の言葉です。
 同じことを、古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスも、次のように述べています。「一万年も生き永らえるであろう者のように振る舞うな。(死の)運命はすでに迫っている」(『自省録』鈴木照雄訳、講談社学術文庫)

 これらの言葉は、「死というものを視野に入れて生きなければ、人間は限りある生の大切さを忘れて過ごしてしまうものだ」という意味の警句です。空気がなくなって初めて空気の存在の大切さに気づいたり、米不足になってから急に米についての意識が高まったりするように、人は「死」を身近に突きつけられて初めて、いまの自分の生き方を検証せざるを得なくなる。つまり、「いまの生き方で、あなたは後悔なく死ねますか?」と厳しく問いかけられることになるわけです。
 パニック障害の「このまま死ぬかもしれない」という不安自体に何らかの意味があるとすれば、この“メメント・モリ”のメッセージしかないのではないか。ある時私はそう思いいたって、以来、パニック障害の方との面接においてこのテーマを採りあげるようになりましたが、はたして実際、ほとんどの方がハッとされ、何らか思い当るところがあるという反応を示されました。
なぜ、地下鉄や特急電車でパニック発作が起こりやすいのか?

パニック発作や予期不安は、特に地下鉄や急行・特急電車の中で出やすい傾向がありますが、同じ乗り物でも、地上を走る各駅停車の電車やタクシーなどは比較的大丈夫なことが多いようです。
 これは、地上なのか地下なのかによる「閉塞感」の違いや、「降りたい時にすぐに降りられるかどうか」という点が重要なポイントになっていることを示唆しています。ここからある大切なことが推測できるように思います。
 つまり、その人はすでに心理的にいまの生き方に「閉塞感」を感じ、「降りたい時に降りられない」レールの上を走っているような人生になってしまっているのではないか、ということです。そうだとすれば、まさに同じような状況が物理的にもたらされた時に、その人は心理的・物理的に二重に「閉塞」させられるわけで、それに反発して発作が起こりやすいのも不思議はないと考えられるのです。
いまを生きよ!

 先ほどの“メメント・モリ”と対にして考えられる言葉として、やはりラテン語で“カルペ・ディエム(carpe diem.)”というものがあります。ホラーティウスという詩人が残した詩の一節で、「今日という日を摘め」という意味です。すなわち、「いまを生きよ」というメッセージなのです。

 現代の私たちの生活は、常に「将来に備える」ことを求められ、いまを生きることをかなり犠牲にせざるを得なくなっています。もちろん、この時代を生きるうえではある程度避けられないことではあるのですが、あまりにそのバランスが将来への投資に偏ってしまった時に、私たちの「内なる自然」はやむなく警鐘を鳴らしはじめるのだと考えられます。
これまで何度も用いてきた「頭」「心」「身体」の図式(第1回参照)で、今回も考えてみましょう。図1をご覧ください。
【図1】

 「頭」というコンピューターはシミュレーションが得意ですから、過去の分析やそれにもとづいた未来の予測を行ない、あとで少しでもうまくいくようにと計画を立て、現在を犠牲にしてでも「将来に備えよう」とします。
 しかし一方、自然の原理でできている「心」(=「身体」)のほうは常に「いま・ここ」という現在を重視するので、「現在を犠牲にせよ」という「頭」の指令を基本的には歓迎しません。「頭」の計画によほど説得力があれば、「心」側もある程度までは妥協し応じてもくれますが、それにはやはり限度があるのです。
「将来に備える」価値観の落とし穴

 いくら将来のためとはいえ、現在を生きることに手応えが欠けてしまっては、「心」(=「身体」)は早晩、実力行使に訴えてくることになります。
 その実力行使が、パニック障害の形をとることもあれば、「うつ」の形をとることもあるでしょう。しかし、重篤な身体疾患を引き起こし、仮想の“メメント・モリ”ではなく、身体的で現実的な死の恐怖の形で“メメント・モリ”を突きつけてくることもあるのではないか。
 つまり、象徴的な次元でメッセージが発せられた時にはメンタルのトラブルの形をとりますが、現実的な次元でなければメッセージが届かないとなれば、やむなく身体的疾患の形をとることになるのではないかと私は考えるのです。
 「将来に備える」という考えは、仏教的に観れば「執着」と捉えるべきものでもありますが、今日ではこの考えが真っ当なものとして、個人のレベルを超えて社会全体の風潮にまでなっています。しかし、「将来に備える」という一見正しく合理的に見える価値観は、「いま・ここ」を生きるという自然な在り方を犠牲にする危険な側面も持っていることを忘れてはなりません。
 忍耐強く禁欲的であることを美徳として勤勉に生きてきた私たち日本人は、ともすると「いま・ここ」を大切にすることに罪悪感すら抱いてしまう傾向があります。しかし「将来への備え」の正体とは、実のところキリのない「執着」であり、「いつかそのうちに」と思って「いま」を浪費しているうちに、貴重な人生の時間は終わりを迎えてしまうかもしれないのです。
 「死を想え」という古い格言や「今日という日を摘め」という古い一節は、今日の私たちにとって決して無用なものではありません。古今東西、人間の生きている実感とは、常に「いま・ここ」以外で得られたことはなかったのです。
 次回は、「うつ」を生み出す精神的背景として、私たちの中に根強く潜んでいる「努力」信仰について考えてみたいと思います。

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「努力」に価値を置く危険性――「ウツ」を生み出す精神的母体
――「うつ」にまつわる誤解 その(22)

「努力することにこそ価値がある」という考え方は、私たち日本人の精神性に奥深く浸透しているものの1つです。
 しかし、「うつ」に苦しむ人々の多くは、元来、意志力の強いタイプで、発症以前には人並み以上に「努力」を重ねてきた歴史を持っているものです。意欲がなくなり活動性が低下してしまう「うつ」の症状は、「努力」に価値を置いて生きてきたことへの大きな反動、と見ることもできます。
 「うつ」が急増している今日、私たちにすり込まれている「努力」信仰とでも言うべき価値観について、その病理性を明らかにすることは、治療上も予防の観点からもとても重要なことだと考えられます。
そこで今回は、この「努力」信仰の価値観が持つ問題点について考えてみたいと思います。
「努力」した人が成功する、という誤解

 ある野球少年が、毎日熱心に日が暮れるまで練習をしていました。そして、その野球少年は、後々、大リーグで活躍するほどの選手にまで成長したとしましょう。
 その近所に住んでいた家族がこんな会話をしています。「○○君は、毎日欠かさず日が暮れるまで努力したからこそ、あそこまで成功したんだ。やっぱり、人一倍努力した人間が最後には勝つんだ」
 しかし、当の本人にこの話をぶつけてみると、意外にもこんな反応が返ってきました。「いや、僕は人一倍努力をしたという自覚はありません。ただ野球が好きで、もっとうまくなりたいという一心で、やりたいからやってきただけなんです」
 これは他愛のないフィクションに過ぎませんが、様々なジャンルで活躍している人たちの発言をいろいろと総合してみると、かなりこれに近い現実があるように思えるのです。つまり、本人にとって「熱中」と呼ぶべきものを、ともすると、傍で見ている人間が「努力」と誤って見てしまうのではないかということです。
 子供が砂場で日が暮れるまで砂の城を作ったり、ゲームを徹夜でクリアしたり、エレキギターの練習に夢中になることは、周りからは滅多に「努力」と呼ばれることはありません。しかし、ことこれが勉強やスポーツのトレーニング、ピアノやヴァイオリンの練習などの場合には、たとえ本人にとっては「熱中」と呼ぶべき内実だったとしても、周囲からは一律に「努力」として捉えられがちな傾向があって、周囲の見方とはこのように当てにならない偏りを持っているものなのです。
「努力」と「熱中」の違い

 その人間がどのような資質を持っているかによって、同じことをしてもそれをどう感じるのかは大いに違ってきます。
 生まれ持った資質にかなうことであればそれを面白いと感じ、資質の乏しいことについては苦痛に感じるように人間はできています。

 ですから、野球の適性の高い資質をもった少年にとっては、野球の練習はさほど苦痛にならず面白いものに思える可能性が高いわけですが、その資質の乏しい少年にとっては野球の練習は苦行以外の何ものでもないでしょうし、「努力」してもあまり上達は望めないことでしょう。
 そもそも「努力」という言葉には、「つらいことを我慢して」というニュアンスが少なからず含まれていますが、「熱中」については、「好きなことに自発的にのめり込んで」といった意味合いがあります。
 先ほどのフィクションのように、「熱中」したがゆえに成功した人間を見て、周囲の人間がそれを「努力」と誤解したところに、今日の「努力」信仰が作り出されてきた原因があるようにも思われます。
「努力」信仰はなぜ危険なのか?

 このように、「努力」を信奉する人生観は、その人にとって資質の乏しい方向に進むことすら、無理に奨励してしまいかねない危険をはらんでいます。
 人間が生来備えている快/不快のセンサーは、その人の生き方についてもその人の資質にかなった方向に導いてくれる大切な働きをするものです。しかしこの「努力」信仰は、ともすると不快なことであっても忍耐することを美化してしまい、自虐的な傾向を生み出してしまいます。
 第1回から再三用いてきた「頭」「心」「身体」の図式で言えば、「心」(=「身体」)は自分の資質に合わない行為について不快というシグナルを発しますが、「頭」にすり込まれた「努力」信仰によってそれは却下されてしまい、ひたすら苦行を忍耐させられてしまう恐れがあるということです。
 これは「頭」の意志力による一方的な独裁体制であり、奴隷のように扱われる「心」(=「身体」)の忍耐が限界点に達した時には、何がしかの反動が起こることは必至です。「心」(=「身体」)が全面ストライキの形をとって反発した場合には、「うつ」状態がひき起されることになってしまうのです。
「努力」の〈駱駝〉から「熱中」の〈小児〉へ

 ドイツの哲学者ニーチェの代表作『ツァラトゥストラ』に「三様の変化」という章があります。そこでニーチェは、人間の成熟のプロセスを、動物に喩えて表わしています。そこには、〈駱駝〉が〈獅子〉になり、そして最終的には〈小児〉になるという道筋が示されています。
 〈駱駝〉は、忍耐・従順・諦念・畏敬の象徴で、「汝なすべし」と命ずる巨大な〈龍〉に従っています。
 それがある時、「われは欲す」を叫ぶ〈獅子〉に変身して〈龍〉を倒します。〈獅子〉はこれによって自由を獲得し、自分という領域を確保します。
そしてその後に、〈獅子〉は〈小児〉に変身します。〈小児〉とは純粋・無垢・遊戯・自発性・創造性の象徴であり、「然り(その通り・あるがまま)」という聖なる言葉を発します。

「努力」を信奉している状態とは、まさに〈駱駝〉の状態に相当するものです。「汝なすべし」と命令する巨大な〈龍〉とは、さしずめ「頭」の中の「努力」信仰に相当するでしょう。「うつ」状態とは、この〈駱駝〉が〈龍〉に鞭打たれすぎて、へたりこんでしまった状態に喩えられます。
 治療においては、まずこの疲弊した〈駱駝〉を〈龍〉から引き離して十分に休息してもらい、それから〈獅子〉に変身することをサポートします。これにより、「頭」の中にいた〈龍〉(すなわち「努力」信仰)が追い出されます。その後に〈獅子〉は自ずと〈小児〉に変身し、創造的な遊戯を始めるようになります。これが「熱中」という状態なのです。
「努力」をやめても「熱中」が待っている

 人間は、自分の内に抱えている言葉によって、知らず知らずのうちにその在り方までもが規定されてしまう特殊な生き物です。
 ですから、「努力」という〈龍〉の言葉を信奉していることによって、私たちは奴隷的な〈駱駝〉の状態に縛りつけられてしまい、生き生きした状態から遠ざかり、場合によっては「うつ」状態にすら陥ってしまうのです。
 そこで、「努力」という言葉を捨て、自発性・創造性に満ちた〈小児〉の遊戯を表す「熱中」を新たなキーワードとして立ててみることが、私たちの在り方を少しずつ生命力に満ちたものに変えてくれる秘訣だと言えるでしょう。
 しかし、もし「努力」というスローガンを手放してしまったら、自分は何もしない怠け者に堕落してしまうのではないかという恐怖心を強くすり込まれていることも珍しくありません。これもまた、私たちを〈駱駝〉に縛りつけておくための、巧妙な〈龍〉のやり口なのです。
 〈駱駝〉の従順な勤勉さを脱したとしても、その先に待っているのは決して堕落した自分の姿ではなく、〈小児〉の創造的「熱中」があるということ。これが、窮屈な〈駱駝〉の自分から脱していくうえで、欠かせぬ大切な認識です。
人間は、義務に束縛された状態から解放された後、ある期間は反動として「何もしたくない」という状態を経過するものですが、それが満たされた後になってまで、何もしない退屈さや単調さに耐えられるほど忍耐強くできてはいません。必ずや、何か「熱中」できるものを探し始め、創造的遊戯を行なおうとする積極的な生き物なのです。
 次回は、新しいタイプの「うつ」でしばしば見られる、自傷行為や過食の問題を採り上げてみたいと思います。

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なぜ自分を傷つけてしまうのか?――新しい「ウツ」に見られる自傷や過食の病理
――「うつ」にまつわる誤解 その(23)

 近年新しく「うつ」と呼ばれるようになった病態(第5回参照)の中には、リストカッティング(手首自傷)などの自傷行為や、過食・嘔吐などの摂食障害を伴うタイプも存在します。
 そのような病態では、パーソナリティの基盤となる「自己愛」の部分に問題を抱えていることが多く、通常行われているような休養や薬物療法中心のアプローチでは解決が困難で、適切な治療に出会えずに経過が長引いてしまっているケースも珍しくありません。
 今回は、こういった自傷行為や過食といった現象がなぜ起こるのか、また、そこから読み取るべきメッセージは何かといったことについて、考えてみたいと思います。
自己破壊ではなくリセットが目的だった

 自傷行為や過食は、その行為自体が奇異で自己破壊的に見えるために、周囲からはネガティブなものと捉えられ、専門家による治療の場面でさえも「今後は決してしないと約束して下さい」と言われてしまうことがあるようです。
 確かに、このような症状を消失させることは治療の重要な目的の1つではありますが、それを急ぐ前に、なぜこのような症状が起こっているかを理解しておく必要があります。つまり、症状の意味を汲み取っておくということです。
 このような症状を抱えている人たちは、根本のところに「自分自身のことを認められない」「自分を愛せない」といった「自己愛」の問題を抱えており、それゆえ、生きること自体が苦痛に満ちた状態になってしまっています。
 自傷や過食にいたる心境を詳細に聴いてみると、「もうやらないようにしよう」といくら意識で止めても、それをしのぐ強い衝動が突き上げてきて、自分が別モードに入ったような解離状態の中で行為に及んでいることがわかります。そしてそれは、自分の中に溜まった歪みをリセットするかのような、一種の自己治療の意味合いを持っているのだということもわかってきます。
「頭」の圧政から解放されたい衝動

 「自分自身のことを認められない」状態とは、「頭(理性)」が「あるべき自分」を勝手に設定し、その基準や条件を満たしていない「実際の自分」を嫌悪してしまっていることです。
 そのために、普段は「あるべき自分」に近づけるべく「頭」が自分自身を強力にコントロールしていることが多く、コントロールされる側の「心」(=「身体」)はかなりの無理を強いられています。そして、その無理がある程度以上に蓄積されてくると、自傷や過食の衝動が突き上げてくるようになるのです。

 つまり、「心」(=「身体」)側が、「頭」によって強いられ生じた歪みをリセットしようとするのが、自傷行為や過食なのです。
 地殻プレートの歪みがリリース(解放)される時に地震が起こるようなイメージで、これを捉えることもできますし、「頭」の独裁的な圧政にたまりかねた国民(「心」=「身体」)の暴動として捉えることも可能でしょう。
自傷行為による自己確認

 自傷行為や過食によって、「自分が自分でなくなっている」といった離人状態が少し改善する、という話を患者さんからよく耳にします。
 「頭」が強力に自己コントロールをかけている状態においては、「頭」と「心」の間のフタが閉じられているために、「頭」と「心」(=「身体」)は断絶してしまって感情や感覚も感じられにくくなるので、離人状態に陥ってしまいます。これが、自傷による痛みや出血、過食後の嘔吐などによって「身体」の存在が呼び覚まされて、離人状態が軽減するのでしょう。
 一方、「頭」からすれば、そもそも自分自身を否定的に見たり嫌悪したりしているので、ともすると、要求通りに動かなかった自分に懲罰を加えたくなったり、嫌悪する自分を否定したくなったりします。そのため、「心」(=「身体」)とは別の動機ではあるものの、自傷行為に同調してしまうのです。いわば、呉越同舟の関係です。
 また、「自分を愛せない」ことの代償として「誰かから愛されたい」と他者依存的な状態に陥っている人の場合は、自傷行為は「こんなに私は苦しんでいるんだ」ということを周囲にアピールする効果があるため、症状を手放しにくいという側面もあります。
 このように、本人の中のさまざまな思惑が複合的に合致するうえに、刹那的な満足も得られやすいために、たとえ「止めたい」という本人の意志があって「もうしない」と治療者と約束をしたとしても、それでも歯止めが利かないような強い衝動が生まれてしまうのです。

コントロールに対する反逆現象をどう扱うべきか

 このように複合的な要因が生み出している状態へのアプローチは、「頭」の意志力に働きかける方法では、どうにもならないことは明らかです。
 つまり先ほども述べたように、「頭」によって行なわれる「あるべき自分」を目指した強力なコントロールによって生じている現象なのですから、「もうしないと約束させる」ようなやり方では、「自傷(や過食)をしてはならない」という新たな「あるべき」ミッションを付け加えてしまうことになってしまい、うまくいかないのです。
 もちろん、かといってこのような行為を奨励するわけにもいきません。それでは、いったいどうしたらよいのでしょうか。
 これらの症状は、見かけが派手であるため、これを解消することを優先的目標に考えてしまいがちですが、それは功を奏しにくい。ここはやはり、幹に存在する「自己愛」の問題やオーバーコントロールの問題にまっすぐにアプローチすることが、一見遠回りに見えても最も有効なアプローチなのです。幹の問題が変わらない限り、枝葉である症状に対して躍起になっても、症状が別のものにシフトしてしまうだけで、真の解決にはいたらないものです。
「あるべき自分」という幻想

 このような症状に苦しむ方たちに限らず、私たちの多くも、「あるべき自分」の幻想に大なり小なり囚われていると思われます。
 知らず知らずのうちに、「実際の自分」は怠惰で邪悪なものであって、「あるべき自分」に向けて自分自身を律し鍛え上げていくべきである、という人間観を根本のところにすり込まれてしまっていることが多いのです。
 18世紀フランスの思想家ルソーは、今や教育論の古典とされている『エミール』という主著の冒頭で、次のようなことを述べています。
 創造主の手から出るとき事物はなんでもよくできているのであるが、人間の手にわたるとなんでもだめになってしまう。…中略…人間はなにひとつ自然のつくったままにしておこうとしない。人間自身をさえそうなのだ。人間も乗馬のように別の人間の役に立つように仕込まずにはおかないのだ。庭木と同じように、人間の好みに合わせて、かならず曲げてしまうのだ。(永杉喜輔・宮本文好・押村襄訳、玉川大学出版部)
 人間本来の姿を、このルソーのように「よくできている」と捉えるか、それとも、私たちがすり込まれてきたように「怠惰で邪悪なもの」と捉えるか。この違いは、私たちが「心」(=「身体」)を信じ尊重して生きるのか、それとも「頭」優位で絶えず自己コントロールの緊張の中に生きるのかを大きく分けるものになるのです。
以前は稀にしか見られなかった自傷行為や過食の問題が近年急増してきたことは、自然な人間の在り方を認められずに「あるべき姿」に向けて捻じ曲げようとしている現代人への警告であると、私には思われてなりません。
 次回は本連載の最終回になりますが、「うつ」から何が新たに始まるのか、というテーマを考えてみたいと思っています。

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「ウツ」が治るとは、元に戻ることではない――新しく生まれ直す“第2の誕生”
――「うつ」にまつわる誤解 その(24)

 「うつは本当には治らない」「うつは再発しやすいものだ」といった認識が、依然として、あちらこちらでささやかれ、信じられているように見受けられます。これらは、「治る」ということを「元の状態に戻ること」と捉えて行なわれている治療のはらむ現実的な限界を多くの人が見て、流布されるに至った残念な風評です。
 第4回でも触れましたが、repair(修理)ではなくreborn(生まれ直し)あるいはnewborn(新生)といった深い次元での変化こそが、真の「治癒」には欠かせません。この変化を「第2の誕生」と呼ぶことにしましょう。
 最終回の今回は、その「第2の誕生」とはどのようにして可能なのか、そこからどんな生き方が始まっていくのかということについて、触れておきたいと思います。
「自力」と「他力」

 仏教では、よく「自力」と「他力」ということが言われます。「自力」は自分の力を頼みにしている在り方を指し、「他力」は仏の力によって導かれることに開かれた状態を指しています。
 何度も用いてきた「頭」「心」「身体」の図で考えてみると、「自力」とは「頭」の知力や意志力を頼みにしている状態であり、一方の「他力」は、大自然由来の「心」(=「身体」)にゆだねた状態と見ることができます。そう考えてみると、さしずめ「うつ」とは、「自力」が尽きた状態に相当すると言えるでしょう。
 ある日突然に朝起きられなくなる、会社に行こうとして自分に号令をかけても身体が動いてくれない。「うつ」の始まりによく見られるこのような状態は、「頭」が命令しても、もはや「心」(=「身体」)がストライキを起こし従ってくれなくなった状態と理解できます。
 第12回でも触れましたが、「うつ」に陥りやすい人は、この「自力」を頼みにして自らに努力や忍耐を強いてきた場合が多く、それがある時点で破綻してしまったのが「うつ」状態なのです。
 仏教学者の鈴木大拙氏は、「自力」と「他力」について、こんなことを述べています。
 自力というのは、自分が意識して、自分が努力する。他力は、この自分がする努力は、もうこれ以上にできぬというところに働いてくる。他力は自力を尽くしたところに出てくる。窮すれば通ずるというのもこれである。〈―中略―〉底の底まで進んで破れないというところまで進んで、やがて自力を捨ててしまう、そして捨ててしまったところに、自然に展開してきたところの天地、その天地というものは、やがてまたわれわれの客観界ではないのか知らんと思う。あるいは絶対客観とでもいうべきであろうか。(『禅とは何か』春秋社より)
 さて、ここで述べられている「自力を尽くしたところに他力が働いてくる」ということを、「うつ」について当てはめてみると、どんなことが見えてくるでしょうか。

「自力」の根を取りきれるかが重要なポイント

 通常、「うつ」状態に陥った時点で、患者さんはまだ「自力」を捨て去ってはいません。「頭」は、そう簡単には自己コントロールの主導権を「心」(=「身体」)側に明け渡そうとしません 。
 それゆえ、動かない自分を嫌悪し再び鞭打って動かそうと焦ったり、休まざるを得ない自分を「価値がない」と否定的に捉えたり、罪悪感を抱いたりすることになりやすいのです。
 「心」(=「身体」)がストライキを起こして意欲も出ず、動けなくなっているにもかかわらず、「頭」が最後の意地を張り続けているこの状態が、治療においてもっとも根気の要る時期です。
 ここでいかに徹底して「自力」の根を取りきれるかが、その後の経過を左右する重要なポイントになります。
 ある程度の期間休養することによって、エネルギー自体は回復するので、一見状態が改善したかに思われがちです。しかし、「自力」の要素が残った状態で急いで社会復帰を行なってしまうと、発病前の「頭」支配の体制に逆戻りしやすくなってしまい、どうしても再発のリスクを残してしまうのです。
「動けない」から「動かない」へ

 「動けない」「何もしたいと思えない」「起きられない」などの表現が出て来ているうちは、まだ「自力」の要素が色濃く残っていることがわかります。つまり、いずれも「動くべきである」「何かしたいと思うべきである」「起きられるべきである」といった「頭」由来のmustやshould系列の考え方(第1回参照)がまだ前提になっていて、それが実現しないことを「頭」が嘆いている状態なのです。
 これが次第に、「動かない」「何もしたくはない」「起きたくない」といった「心」由来のwant to系列の表現に変わってくると、療養が良質なものになってきたことがわかります。そこからさらに、「こんな風に何もしないで過ごすのは、何て快適なんでしょう」「このままずっと休んでいられたら幸せだろうなあ」といった感じで休むことが満喫できるようになってくると、やっと「自力」が尽きて、「他力」にゆだねた状態になったと見ることができるのです。
「他力」の現われとして、自然な意欲が湧き上がってくる

 「自力」が尽きたところに、徐々に「他力」が現われ始めます。
それはまず、療養に身をゆだね、休んでいることを安楽に感じるところから始まりますが、これが次第に、療養していることに退屈を感じるようになり、好奇心も少しずつ発動するようになっていきます。

 このようなプロセスを踏んで現れてきた意欲は、「心」(=「身体」)が自然に生み出したものなので、「頭」が焦燥感を偽装して作り出した「偽の意欲」とは違い、これに従って活動しても、まず問題は生じません。
 このような自然な意欲にもとづいてなされた社会復帰は、再発のリスクを残さない最も望ましい形であり、周囲の人から見ても明らかに安心して祝福できる様子になっているものです。
 しかしこのようにして実現する社会復帰は、はじめにも述べたように、「元に戻る」こととは一味違っているものです。
 それは決して、同じ職場に戻ったり同じ学校に戻ったりするのではない、という意味ではありません。たとえ見かけ上同じ所に戻った場合でも、本人自身が内面的に大きく変化を遂げているという意味で、「元に戻る」のではないということなのです。
数々の思い込みが再検討され、人間としての成熟が始まる

 この内面的な変化とは、「頭」の意志によって何でもコントロール可能だと思い込んでいた驕りが捨て去られ、大自然の摂理で動いている「心」(=「身体」)に対し「頭」も畏敬の念を抱くようになり、その大いなる流れに身をゆだねる生き方に目覚めるということです。それは、近現代の人間中心主義から離脱するような大きな世界観の変化であると言うこともできるでしょう。
 この変化により、以前には見えなかったものが新たに認識されるようになります。
 たとえば、「適応」することイコール「正常」であると信じていた思い込みが脱落し、「適応」とは「麻痺」の別名でもあることが見えてきたり、よく言われる「何だかんだ言って、メシが食えなけりゃ始まらないだろう」といった言い方の中にも、人間を骨抜きにする毒素が巧妙に混入されていることが透けて見えてくるようになったりします。
 このように「自力」から「他力」に抜け出ることによって、生来すり込まれてきた思い込みの数々が再検討され、ものごとの真の姿を新たに捉え直す働きが起こってきます。
 金銭・名誉・出世などへのこだわり、他人からの評判を気にする神経症性、表面的な人間関係にとらわれたり孤独を恐れたりして群れようとする傾向、無批判な組織への忠誠心、成果主義に振り回されて効率を追い求める非人間的環境、等々への疑いや幻滅が次第に明瞭になり、そこから離脱したまったく別種の価値が見出されるようになっていくのです。そして、生きるうえで価値を置く優先順位が、ダイナミックに変化することになります。
 「第2の誕生」とは、このように内面的な大変革が起こることを指します。しかし、それを経たからといって、その人が仙人のような浮世離れした生き方をすることになるわけではありません。
 現実社会の中で日々を過ごしながらも、そこに充満している手垢のついた価値観に振り回されたり、時代の風潮に流されたりすることなく、曇りなく自分が感じ取ったことをもとにして、自分自身で丁寧に考えるような在り方に変わるということなのです。つまり「うつ」は、現代における重要な覚醒の契機の一つと見ることができるのです。



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