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クスリに頼るのは悪いこと?――「抗うつ薬」の効用と限界

クスリに頼るのは悪いこと?――「抗うつ薬」の効用と限界 泉谷閑示(精神科医) ダイヤモンド・オンラインより

――「うつ」にまつわる誤解 その(10)

 「うつ」の治療において薬物療法が主流の今日ですが、クスリについて誤った認識を持っている方たちはまだまだ多いように思われます。周囲からの誤解や偏見もありますし、患者さん自身の間違った思い込みもあります。また、薬物療法はどんな状態に役立つのか、どんな場合には効果が期待できないのか、つまりその効用と限界について、大まかにでも知っておくことは大切なことです。
 多少専門的な話になってしまいますが、避けて通れない重要なことですので、今回はこのテーマについて触れてみたいと思います。
クスリに「頼っている」
という後ろめたさ

 「まだクスリに頼っているようでは、治ったとは言えないな」
 言葉にしてあからさまに言われるかどうかは別としても、周りからこんな見方をされてしまって窮屈な思いをしている方も、依然いらっしゃいます。また、患者さん自身でも、「クスリに頼ってしまっている」とある種の後ろめたさを感じている方が少なくありません。
 この「頼っている」という非難は、メンタル系のクスリにはどれも「依存性」があるという誤ったイメージを持っているところから来ているのではないかと思われます。
 「うつ」の治療で中心的に用いられる<抗うつ剤>には、通常、依存性はありません(以前、覚醒剤に分類されるリタリンという特殊な薬剤の安易な投与や乱用が問題になり、現在では処方が厳しく制限され、通常「うつ」に投与されることはなくなりましたが、これは例外的に依存性のあるものでした)。
 ですから、抗うつ剤に関して「頼っている」と捉えることは、完全に間違った認識だと言えるでしょう。むしろ、大部分の患者さんは「飲みたくはないけれど、少しでも良くなるように」と祈るような思いで、面倒でも服薬を続けているのです。
 しかし、もし患者さん自身が、クスリの使用に何らかのためらいや後ろめたさを持っている場合には、「クスリに頼っている」のではなく、「クスリを活用している」のだと捉え直していただくことが必要になります。
 クスリは、必要な時にはきちんと用いることが大切で、その後状態が改善するに従って減薬され、あるところから先は必要性がなくなるものです。クスリを活用することが望ましい状態なのに、ためらって医師の処方とは違った中途半端な服薬をしてしまいますと、かえって経過を長引かせてしまうことにもなりかねません。
抗うつ剤を飲んだら
眠くなったのは副作用か?

 「抗うつ剤を処方されて飲んだけど、すぐに眠気がひどく出たので、自分には合わないと思って飲むのを止めました」
 薬物療法開始時に、このような理由で服薬を中止される方がいます。しかしこれは、副作用が出て薬を中止したのだから適切な判断だった、とは言えないところがあるのです。

 以前から使われていた古典的なタイプの抗うつ剤(三環系や四環系と呼ばれる種類)では、確かにそのような可能性もあることは否定できませんが、近年主に使われている新しいタイプの抗うつ剤(SSRIやSNRIといわれる種類)では、古典的なタイプでしばしば問題になったような副作用(眠気、口の渇き、排尿困難など)がかなり改善されており、眠気が副作用ではなく「作用」によって生じた可能性も大いにあると考えられるのです。
 治療を受け始めるまでは、患者さんは慢性的な精神の緊張状態にあり、内部にはかなり蓄積した疲労を抱えているものです。そこに、抗うつ剤が投与されたことによって、精神の緊張が突然ゆるみ、蓄積していた疲労が一気に噴き出してきて、それが眠気として顕在化することは珍しくありません。
 ですからこの眠気は、むしろ望ましい変化の現われである可能性も大いに考えられるわけです。
 この点についての見分けは専門医でなければ難しいことも多いので、独断による服薬の中止はリスクが高いと言えるでしょう。
飲み忘れても
調子が悪くならなかったので…

 「クスリを飲み忘れた日があって、それでも調子は悪くなかったので、もう要らないんだと思ってクスリを止めてしまいました」
 これは、ある程度薬物療法を続けて、安定した状態にある患者さんによく見られる現象で、数日後にガクンと状態が悪化するリスクの高い、危険な誤解の一つです。
 これは、「飲んだクスリはその時に効くものだ」というイメージを持っているために起こった間違いだと考えられます。
 多くの抗不安剤(minor tranquilizer、一般に安定剤と言われるもの)や睡眠導入剤などは確かに効果が現れるまでの時間が短く、一定時間効いた後に効果は減衰していきますので、そのように捉えてもあながち間違っているとは言えません。
 しかし抗うつ剤の場合は、飲み始めても即座に効果が現れず、少なくとも数日以上かかって体内に一定量蓄積された後に本当の効果を発揮し始めるという性質があります。そして、突然服薬を中止しても、体内に蓄積されていた分が徐々に放散されるために、すぐにはその影響が現れてこないのです。ちょうど、電気回路においてコンデンサーを組み込んだような場合に相当します。ですから、断薬の影響は、数日後あたりに急激に現れてくる危険性が高いわけです。
 このように、クスリの種類によって随分と性質が違い、使用上の注意点も異なりますので、これもぜひ専門医のアドバイスを参考にして下さい。
クスリの効かない
「うつ」もある

 「うつ」の状態は、脳内物質(セロトニンなどの神経伝達物質)のアンバランスが原因である、という説が今日では主流になっています。先ほど触れた新しいタイプの抗うつ剤(SSRIやSNRI)は、まさにそのアンバランスを調整してくれるありがたい薬剤です。

 しかし、実際の「うつ」の治療においては、これらのクスリが良く効くタイプの方もあれば、ほとんど効果が生じない方もあります。
 第5回でも触れたことですが、近年「うつ病」の診断が下される病態の範囲がかなり広がってきてしまっていることが、その背景として大いに考えられます。
 大まかに言いますと、「内因性うつ病」や「躁うつ病」といった、旧来「うつ病」と診断されていたタイプの方たちにはかなり薬物療法が有効で、不可欠なことが多いようです。
 しかし、「適応障害」や「パーソナリティ障害」などがベースにあるような、新しく「うつ」と診断されるようになった病態の方たちの場合には、薬物療法で期待できるのはごく限定的な効果にとどまり、むしろ精神療法等によるアプローチが不可欠であると考えられるのです。
脳内物質のアンバランスが、
「うつ」の「原因」なのか?

 さて、先ほども触れた脳内物質のアンバランスが「うつ」の原因であるという説について、ここで1つだけどうしても論じておかなければならないことがあります。それは、脳内物質のアンバランスを「うつ」の原因と言って良いのだろうかという問題です。
 確かに、脳化学的な研究や薬理学的な研究では、そのような「アンバランス」が確認もしくは想定されるでしょう。しかし、これはあくまで現段階の科学で観察され得る物質レベルの「現象」に過ぎず、正確に言えば「中間現象」に過ぎないのではないかと思うのです。「うつ病」や「うつ状態」は、決して先天性疾患ではありませんから、なぜある時までは正常に機能していたのに、急に「アンバランス」が生じたのかと考えると、その「アンバランス」をひき起した「何物か」をこそ、真に「原因」と呼ぶべきではないだろうかと私は考えるのです。
 ですから、「アンバランス」を薬物療法によって整える作業は、厳密に言えば「うつ」という状態に対しての対症療法なのであって、「うつ」をひき起こした何らかの根源に対する根治療法とは言えないわけです。
 この真の原因としての「何物か」は、第4回でも触れましたが、その人の生き方に関わる深い次元での見直しを迫るメッセージを含んでいるもので、各人各様の内容を負ったものと考えられます。
 その次元に向けてアプローチを行なって根本的解決を目指す精神療法と、症状を軽減して療養しやすくすることで治癒力の発現を助ける薬物療法とを、それぞれの目的と限界を把握したうえで、病態や状態に合わせて上手に活用することが治療として大切なスタンスだろうと思います。
 ですから、「クスリさえ飲んでいれば良い」という考え方も「クスリには意味がない」という意見も、いずれも偏った認識なのであり、そのような極論に振り回されてしまうことは危険なことだと言えるでしょう。
 次回は、社会的にも大きな問題になっている「うつ」と「自殺」の問題を考えます。

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なぜ、「死にたい」と思うのか?――「ウツ」と「自殺」の関係
――「うつ」にまつわる誤解 その(11)

 皆さんもよくご承知の通り、自殺は「うつ」における最大のリスクであり、社会的にも大きな問題になっているものです。
 「どのような心理で、人は死を望むようになってしまうものなのか?」
 「死を望む状態の人に、周囲の人間はどう関わることができるのか?」
 非常に重いテーマではありますが、「うつ」を考える上で、決して避けて通れないこれらの問題について、今回は真正面から考えてみたいと思います。
死を望む人の心境とは?

 多くの場合、「死にたい」と訴えるクライアント(患者さん)は、積極的に「死」を望んでいるというよりは、むしろ、終りなく続くように見える苦しみからとにかく解放されたいという気持ちを強く抱いて、「死にたい」という言葉を口にされるものです。
 「死にたいなんて、とんでもないことを考えてはいけない」
 「死んだら周りの人がどんなに悲しむか、考えてごらんなさい」
 「死ぬのは罪であって、人は生きなければならないものだ」
 「生きるのはとても素晴らしいことなのだから、死んではいけません」
 「死にたい」と告げられた周囲の人は、このような言い方で反応することがとても多いようです。どれも「どうにか生きてほしい」という強い願いから発せられたはずの言葉なのですが、しかし、これらの表現では意図に反して相手に「理解してもらえなかった」という落胆をひき起し、さらにその人の自責の気持ちを強める結果を招いてしまうことになってしまうのです。
 さて、それはなぜなのでしょうか?
「死にたい」という言葉
の裏にある気持ち

 「死にたい」という気持ちを口にする人は、たとえわずかでも「ひょっとしてこれを話すことによって何らかの救いが得られるかもしれない」という期待を持っています。だからこそ、言いにくい気持を思い切って打ち明けているのだ、ということを聴く側は見落としてはなりません。
 打ち明けている本人は、「死にたい」と思っていることについて、決して罪悪感を持っていないわけではありません。むしろ、そんなことを考えてしまう自分を、執拗に責め続けてさえいるのです。
 そんなところに、先ほどのような「道徳的な説教」をされてしまいますと、「道徳的に自分を律することもできないダメな自分」という形で、さらに自己否定を強化する方向に追いつめてしまうことになるわけです。
 このような場合にまず必要なのは、本人の感じている辛さへの「共感」の作業です。「死にたい」という言葉が発せられている時点では、まだ「死ぬ」こととイコールなのではありません。むしろ、「死にたいくらい辛い」というSOSのメッセージなのです。
 ですから、何ら有効な助言などできなくともかまいません。中途半端に口を差し挟まずに、ただひたすらに「聴いてくれる」人間がいるだけでも、「死にたい」ほどの辛さは少しでも軽くなる部分があるのです。

「死にたい」が
封じられることの危険

 しかし、ひたすらに「死にたい」という気持ちを聴くことが可能になるためには、聴く側の人間自身が「道徳」という規範から自由になっていなければならないという問題があります。つまり、「死にたいなんて考えるのはよくないことだ」という一般的な道徳の範疇に留まっている限り、「死にたい」人間の気持ちに「共感」することには原理的な無理があるわけです。
 私たちは日頃、「死」というものから遠ざかって生活しているために、「死」という言葉を耳にしただけで、あわてふためいて、目をそむけてしまいがちです。それゆえに、「死にたい」という苦しみが吐露された場合に、それを受け止めきれずに、つい「道徳」や「ポジティブシンキング」などを持ちだして、もうそんなことを相手が考えないようにと封じ込めるような応対をしてしまうのです。
 厳しい指摘かも知れませんが、先ほど挙げたような応対では、相手のことを思って発言しているように見えて、実は「死」から目をそむけたいという無意識が現われた発言になってしまっているわけです。
 死にたいと打ち明けた人は、そのような反応が返ってきた場合に、「もうこの人には本当の気持ちを打ち明けるのはよそう」と考えて心を閉ざしてしまい、「大丈夫。もう死にたいなんて思わないから」と元気な自分を演じ始めるという、痛々しいことになってしまいます。そうして「死にたい」がどこにも言えないような状況がつくられてしまった場合にこそ、最も自殺の危険が高まってしまうことになります。
回復期における
「衝動的な自殺」に要注意

 内因性うつ病など、古典的なタイプの「うつ病」(第5回参照)の場合には、通常、発症以前には「死にたい」という気持ちは存在していません。しかし「うつ病」の病的な働きによって、病状がある程度以上悪化したところから、唐突に「死にたい」という気持ちが出現してくる傾向があります。クライアント自身にとっても、それはどうにも制御不能なものとして、強くのしかかって来ます。
 しかし、「うつ」状態がとてもひどい時期には、すべての意欲も活動性も落ちていますから、かえって自殺の意欲も弱まっていることが多いものです。むしろ心配なのは、その後復調していく途上において、意欲が回復してくるときなのです。いまだ不安定に揺れる気分と、ある程度回復した意欲とが、不幸にも「自殺の意欲」という方向で合体してしまったときに、衝動的に自殺が完遂されてしまう危険があるのです。
 気を付けなければならないのは、このような回復期においてクライアントは、決して持続的・計画的に自殺を考えているわけではなく、「早く治りたい」「治ったらあんなこともこんなこともしよう」と前向きなことを考えられる状態も混在しているので、直前まで自殺衝動が予測しにくいという点です。この「回復期にこそリスクが高まる」ということは、ぜひ皆さんに知っておいて頂きたい重要なポイントです。

 このようなタイプの「うつ病」の方の場合には、薬物療法の果たす役割がかなり大きいので、ある程度よくなったからといって早急に減薬や断薬を行なうことは危険を伴います。
 またこのタイプの方は、性格的に非常に周囲に気を使う傾向が強いので、余計な心配をかけまいと、身近な人にまでも「元気な自分」「前向きな自分」を自動的に演じている場合が少なくありません。ですから、「面倒くさい」「さぼりたい」「今日は調子が悪い」「ずっと休んでいられたらどんなに楽だろう」といった正直な発言が自然体でできるような方向にむけて、医療側も周囲の人間もサポートしていくことが大切なのです。
潜在的な「自殺願望」
を持つタイプも・・・

 さて一方、非定形うつ病・パーソナリティ障害を背景にしたうつ状態・神経症性のうつ状態等の病態(第5回参照)においては、古典的な「うつ病」の場合とはずいぶん内実が違ってきます。
 クライアントは発症するはるか以前から心の奥に自己否定を宿していることが多く、「死にたい」という気持ちは時期による強弱の波はあっても、持続的で然るべき歴史を持っていることが多いようです。ですから、いわゆるリストカッティングなどの自傷行為などを伴ったり、摂食障害などが見られたりすることも珍しくありません。自殺未遂が何度も反復されるケースもあります。
 このような病態では、古典的な「うつ病」に比べて、薬物療法はごく部分的な効果しか期待できません。むしろ、精神療法が果たす役割が大きいタイプであり、たとえば、生育史を丁寧にたどって自己否定の由来を明らかにしつつも、健全な自己愛を蘇生させる方向でガイドしていく、高度に専門的な対応が必要になります。
 心の奥に根深い人間不信や愛情への渇望が潜んでいることも多く、素人が中途半端な善意で関わっても、結果が裏目に出てしまう場合が少なくありません。
 また、「道徳的な説教」などは、このようなタイプの方たちにはまったく通用しません。内的に苦悩し、人間不信にもとづくシニカルな視点で人間観察を重ねてきた鋭い感受性と根深いペシミズム(厭世主義)とが、「道徳」を説く人間の無意識的な自己保身や「死」を突きつけられての困惑などを鋭く見抜いてしまうためです。
 ここで精神療法の具体的内容に触れることはしませんが、このような高い感受性と内省力を備えたタイプの方たちの治療は、然るべき質を備えたものであれば、その資質が社会的に素晴らしい働きを示すようなところまで十分に到達できる可能性があるものです。
 私はこれまでの臨床経験から、「本人が持て余している能力が症状に転化されているので、どうしてもその分症状が派手になっていることが多い」のではないかと感じています。この観点から見れば、このタイプの方たちの「死にたい」という気持ちの激しさは、実は「自分らしく生きられるのならば、生きたい」という心の痛切な叫びであるとも考えられるのです。
 次回は、うつ病の「病前性格」と言われているものについて考えてみましょう。

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「ウツ」になりやすいタイプに“異変”も 
――「ウツ」と「性格」の関係とは?
――「うつ」にまつわる誤解 その(12)

 「うつ」の状態が起こる要因の1つとして、もともとの性格がどうであったのかという問題があります。このように病気が生まれる土壌となる性格を専門的には、「病前性格」と呼びます。
 今回は、「うつ」に陥りやすい性格とはどんなものなのか、また、そのような性格は変えることができるのか、というテーマについて考えてみたいと思います。
「何事も正確に、綿密に・・・」
勤勉で善良なタイプの人が危ない!

 古典的なタイプのうつ病や躁うつ病(第5回参照)については、古くから病前性格についての議論がなされてきましたが、特に代表的な説として「メランコリー親和型性格」と「執着気質」があります。
 1961年にドイツの精神病理学者テレンバッハが提唱した「メランコリー親和型性格」というものは、次のような特徴をもつ性格を指しています。
 ☆作業に正確さを求める
 ☆綿密
 ☆勤勉
 ◆良心的
 ◆責任感が強い
 ◆対人関係では衝突を避け、他人に尽くそうとする
 これらは、いずれも「秩序を重んじる」という点で共通しています。
 これらの内容は、大きく2種類に分類できることがわかります。つまり、1つは作業をどう行なうかという「作業遂行上の秩序」で、もう1つは道徳・責任・人間関係などに関する「社会的な秩序」です。先ほどの項目で言えば、ちょうど上の3つと下の3つがそれぞれに相当します。
 「作業遂行上の秩序」は対象が「作業」ですから、時間と労力を必要なだけ充分にかけさえすれば、その高い要求水準を達成できるかもしれません。しかし、仕事や学業などにおいてはたいていの場合、外部からの制約が課せられてしまうものでしょう。つまり、締め切りで時間が限定されるでしょうし、作業量も自分の都合で勝手に減らすわけにはいきません。
 そのうえ「メランコリー親和型性格」の人は、性分として「正確に」「綿密に」行なわないと気がすまないわけですから、作業量は実質的には課せられたものの何倍にもふくれ上がってしまいます。
 このようにして過度な負荷がかかり、ついには達成不可能な状況にまで陥ってしまうと、「頭」の過度な要求にたまりかねた「心」(=「身体」)がブレーカーを落とすことになってしまいます(第1回参照)。これが「うつ状態」です。
「自分に鞭を打ち、衝突を避ける・・・」
責任感が強く良心的な人が陥りやすいワナ

 ここに、もう1つの「社会的な秩序」を重んじる傾向も加えて考えてみましょう。
 責任感が強く、良心的に業務を遂行すべきだと考える性格ですから、手抜きや期限を破るようなことを自分に許しません。たとえ作業量が多過ぎても異議を唱えたりすることなく、自分に厳しく鞭打って、睡眠時間を削ったりしてやり通そうとします。

 しかし誰にとっても1日は24時間であり、体力や集中力の持続にも当然限界がありますから、それを超えてしまった場合には、やはり破たんを来たしてしまうことになります。
 また人間関係で「衝突を避けようとする」傾向は、いくら自分がそう望んでいるからといって、「相手」のあることですから、時にうまくいかないこともあるでしょう。
 相手から無茶な要求を突きつけられた場合、あるいは、相手が悪意を向けてきた場合や不誠実な相手との関係等においては、「衝突を避け、良心的であり続ける」ことは、どんなにがんばってみてもうまくいかず、裏切られたり傷ついたりしてしまいます。
 そして、「心」から湧き上がってくる怒りや恨みなどの感情すらも「良心的」であろうと考える「頭」によって却下されてしまい、それら行き場のない感情が、「心」(=「身体」)のストライキ、つまり「うつ状態」を招くことになってしまうのです。
 もう1つの「執着気質」とは、精神病理学者の下田光造氏が1950年に躁うつ病者の病前性格として提唱したもので、「熱中性・徹底性・几帳面・真面目・責任感」を特徴とする気質です。熱中性(一度起こった感情が長く強度を持続すること)という項目を除けば、ほぼ先ほどの「メランコリー親和型性格」と重なる内容で、いずれも組織に重宝がられる模範社員・模範学生タイプなのです。
「遊びには行けても、会社には行けない」
新しいタイプの「うつ」になりやすい性格は?

 さらには近年、“遊びには行けても会社には行けない”といった一見怠けているかのように見える新しいタイプの「うつ」も増えてきています(第5回参照)。このタイプの「うつ」においては、性格傾向についてどのような特徴があるでしょうか。
 非定形うつ病、神経症、パーソナリティ障害、適応障害等が新しく「うつ」と診断されることの多い病態ですが、それぞれ様々な性格傾向の違いはあるものの、対人関係への過敏さ、つまり過度に「他人からどう思われるか」を気にする「神経症性」が存在していることや、不当に自己評価が低く、自分自身を無条件には愛せないという「自己愛」の問題などを根底に抱えている点で共通しています。
 この新しい「うつ」に陥りやすいタイプは、傷つきやすい繊細さを奥に秘め、他者からの評価を拠り所とする傾向が強く、それが時には感受性豊かな仕事を生んだり、人並み外れたがんばりを見せたりする原動力にもなります。
 しかし、ちょっとした失敗に挫折感を抱きやすかったり、人間関係による動揺が大きいといった弱点も抱える、敏感な性格傾向だと言えるでしょう。また、古典的な「うつ」についての「病前性格」の傾向も、程度は様々ですが、混在していることも少なくありません。
性格は一生変えられないのか?

 残念ながら、一部の専門家にすら「性格は一生変わらない」と考える向きがあるようですが、これは誤った認識だと言わざるを得ません。

 「性格」という概念を掘り下げて考えてみると、2つの要因によって構成されていることがわかります。
 人にはそれぞれ生まれ持った「資質」というものがありますが、これは一生変わることのない先天的なものです。しかし、「資質」はあくまで「性格」の素材であって、それがその後の環境要因や様々な人生上の出来事によって、後天的に変化発展していきます。つまり、その人の人生の歴史が「資質」という素材を料理し、「性格」を作り上げていくのです。
 「うつ」の問題に取り組んでいくうえで、先ほど述べたように「性格」は、発症の土壌となっている重要な要因です。もしも、この「性格」が変えようのないものだとすれば、治療法としてはひたすらにストレス要因を遠ざけ、症状を薬物によってコントロールする以外にないということになるでしょう。実際、そのように考えているとしか思えない治療が、残念なことに依然として巷にはびこっているように見受けられます。
 しかし、この「性格」に対するアプローチが決して不可能ではないと認識できれば、より根源的な治療の可能性もイメージできるのではないかと思うのです。
短所と長所は同じ資質だった

 先天的な「資質」を変えることはできませんし、変える必要もありません。「資質」自体は素材なのであって、素材が悪さをすることはないのです。問題となるのは、常に後天的な歴史による“変形”なのです。
 抽象的な言い方になりますが、「短所と長所は同じものの異なった現われである」と言うことができます。
 「資質」のプロフィールは人の数だけ様々あるのですが、なかでも突出して持っている性質を良い形で発揮できれば「長所」となり、誤ってマイナスの評価を下してぞんざいに扱えば「短所」になります(ロサンゼルス・オリンピックの柔道無差別級で金メダリストとなった山下泰裕氏が、子供時代にはよく喧嘩をして持て余していたけれども、柔道を始めることによって精神的にも安定するようになり、ついには世界一にまで登りつめたという逸話は、まさにその典型的な実例です)。
 ですから治療としては、「性格」として大づかみに捉えることを止め、そこから先天的な「資質」と後天的要素を丁寧に選り分ける作業を行なうことが必要になります。後天的要素の中には、「自己愛」の傷つきや「神経症性」を生み出す原因となった「心」の歴史も見つかってきます。これらを丁寧に扱い、現在にまで及んでいる心理的呪縛を解く作業を行ないます。
 そのうえで、「資質」が最も望ましい形で開花する方向を明らかにし、「頭」によるオーバーコントロールが解除されるように、ガイドやサポートを行ないます。
 「うつ」を生んでいる土壌である「性格」に対する治療アプローチとは、このように十分に可能なものなのです。
 次回は、「うつと闘う」という考え方についてとり上げてみたいと思います。



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