SSブログ

「うつ」は心の弱い人がかかるもの?

「うつ」は心の弱い人がかかるもの? 泉谷閑示(精神科医) ダイヤモンド・オンラインより

――「うつ」にまつわる誤解 その(1)

「8人に1人がうつ」の時代

 今年4月に新聞等でも報道されましたが、ファイザー株式会社が12歳以上対象の調査を行なった結果、8人に1人、つまり12%もの人が「うつ病」か「うつ状態」にあると考えられるという報告がありました。この数字が示していることは、もはや「うつ」というものが対岸の火事ではなく、どんな人にとっても避けて通れない身近な問題になってきているということです。
 そこで本連載は、毎回「うつ」について巷(ちまた)にあふれている様々な誤解に1つずつ焦点を当て、それを元にして、従来ありがちだった説明にとどまらず、「痒いところに手が届くような」斬新な「うつ」の見方やアプローチを、わかりやすくお伝えしていきたいと思っています。
「心が弱い」ってホント?

 ――「心の弱い奴が、『うつ』になるんだ」。
 ――「『病は気から』なんだから、強い精神力があれば『うつ』になるはずがない」。
 こんな考えを持っている人は、いまでも決して少なくありません。実際に「うつ」のクライアント(患者さん)の周りにいる同僚や上司、またご家族などでも、表むきは違っても、内心こんなふうに思っている方も結構いるでしょう。
 しかし、ほかの誰にも増してこのように考えているのは、当のクライアント自身です。ひたすら「弱い自分」「ダメな自分」を責め続け、空回りし、状態を自ら悪化させているのです。いわば「へたった馬に、鞭(むち)をひたすら打ち続ける」ような状況に陥ってしまっています。
 それにしても、「心が弱い」ということがあるのでしょうか? また、「精神力」というものの実体は一体何なのでしょうか? そしてそれは、「うつ」とどんな関係があるのでしょうか?
 そこでまずは、「心」や「精神」という言葉で私たちが漠然と指しているものを、一度きちんと整理してみるところから始めてみましょう。
人間を理解するために必要な
「頭」「心」「身体」の関係

【図1】
izumiya0101.gif

 右の【図1】をご覧ください。これは、私たち人間の仕組みを、普段使いなれている「頭」「心」「身体」という3つの言葉を使って簡単に図式化してみたものです。
 最近は「脳ブーム」の時代ですから、「『頭』とか『心』と言っても、そんなの全部『脳』のことだろう?」と思う方もあるかもしれません。
 確かに、大脳生理学的に言えば「新皮質」「旧皮質」といったような分け方をすべきなのかもしれませんが、私がこれからお伝えしたいことを説明していくうえでは、それは必ずしも使い勝手がよくありません。むしろ、皆さんが日常的に使い慣れているこの「頭」や「心」という言葉の方が、きちんと定義付けして用いさえすれば、意外に奥行きがあって、人間のからくりを理解するためには大変有用なツールなのです。
不安な感情は、
「心」ではなく「頭」が生んだもの

 基本的に動物は、「心」=「身体」のみでできていると考えられます。図でおわかりのように、文字通り「一心同体」で「身体」とつながっています。ですから、決して「心」と「身体」は、矛盾したり対立したりすることがありません。喉が渇けば、水を飲みに行く。眠くなれば、寝る。実にシンプルです。

 そこに進化の過程で「頭」という部分がどんどん発達してきて、人間というものが誕生しました。この「頭」は、物事の「効率化」を図るために発達してきた部分です。一度うまくいったことをもう一度うまくやるとか、一人が見つけた獲物の居場所を仲間に知らせるとか、つまり、「二匹目のドジョウ」を狙うための機能を果たします。
 「頭」は理性の場であり、コンピューターのような働きをする場所で、情報処理を行ないます。すなわち、記憶・計算・比較・分析・推測・計画・論理思考などの作業をします。シミュレーション機能を持っていて、「過去」の分析や「未来」の予測を行うのは得意ですが、「現在」については苦手で、「今・ここ」を生きることはできません。(ですから、「過去」の後悔や「未来」の不安などの感情は、「心」由来ではなく「頭」由来なのだということになります。)
 また、「頭」は、must や should の系列の物言いをするのが特徴です。「~すべきだ」「~してはならない」「~にちがいない」といった感じです。
「心」の声に蓋(ふた)を
するとトラブルが・・・

 そして、「頭」は何でもコントロールをしたがる特徴があります。(そもそも「頭」の目指す「効率化」ということは、「うまくいく」ように事象をコントロールすることにほかなりません。)
 「頭」によるコントロールの鉾先(ほこさき)は、外界に向けられるだけでなく、自分自身の「心」や「身体」にも向けられます。先の【図1】のように、「頭」と「心」の間には蓋(ふた)のようなものがありますが、「頭」が「心」にコントロールを加えるときにはこの蓋を閉め、「心」からの発言を遮断してしまいます。そうすると、「頭」vs「心」=「身体」という2つの自分に分かれてしまうことになります。
 人間に生ずる様々なトラブルは、すべてがこの内部分裂と、それらの対立によるものなのですが、「うつ」のからくりを解くカギも、まさにここにあるのです。
「頭」は「心」を見下している?

 一方の「心」は、感情・欲求・感覚・直観の場です。
 「頭」は「過去」と「未来」が得意な時制でしたが、「心」はもっぱら「今・ここ」つまり「現在」に焦点を合わせます。「頭」の計画性とは対極の、自在な即興性を備えています。
 「心」が使う言葉は、want to や like の系列です。「~したい」「~したくない」「好き」「嫌い」などです。「頭」のように論理的思考を行いませんから、決して理由をくっつけた物言いはしません。いきなり結論だけを言ってくるのが特徴です。しかし、それは決してデタラメなものではありません。「心」はそもそも、「頭」とは比べ物にならないほど高度な知性と洞察力を備えているものなのです。しかし、あまりに高度なので「頭」には大抵解析不能です。
 ただし、近代以降の人間は「頭」(理性)の思い上がりが強くなってきているので、「頭」は「心」の出した結論を「気まぐれで当てにならないもの」と決め付け、却下してしまうことが多々あります。これが、人間のさまざまな不自然さや病をひき起こす原因の根本にあると考えられます。まるで、天気予報が外れたときに「予報は正しいのに、天気の方が気まぐれなんだ」と考えるような本末転倒が、私たち現代人の内部では日常的に起こっているのです。

「うつ」は心と身体のストライキ

 それではいよいよ、「うつ」の状態について見ていきましょう。
【図2】

 生き物として人間の中心にある「心」=「身体」に対し、進化的に新参者として登場してきた「頭」が、徐々にその権力を増大し、現代人はいわば、「頭」による独裁体制が敷かれた国家のような状態にあります(【図2】参照)。
 それに対して、国民に相当する「心」=「身体」側が、「頭」の長期的な圧政にたまりかねて全面的なストライキを決行する。もはや、「頭」の強権的指令に一切応じなくなる。これが「うつ」の状態です。(中には、過酷な奴隷扱いがあまりに長期間にわたった結果、「心」=「身体」がすっかり疲弊してしまい、ストライキというよりも、潰れて動けない状態になってしまっている場合もあります。)
「精神力」の強い人こそ危ない

 私はこれまで「うつ」のクライアントをたくさん診てきましたが、どの方にも共通して認められる特徴があります。
 それは、意志力の強さと我慢強さです。これは、先ほどの説明になぞらえれば「頭」のコントロール力が強いということであり、「頭」が「心」=「身体」に一方的に命令をし、クレームを一切聞き入れない体制がガッチリ敷かれている状態のことです。
 ですから、多くの場合、発症前までは、責任感が強く完全主義的でありながらも他者配慮も欠かさないような、いわゆる「過剰適応」であった人たちが、その果てに「うつ」に陥っているのが実態です。巷(ちまた)で「精神力」と言っているのは、まさにこの「頭」の強権的コントロール力のことなのですから、むしろ「精神力の強い人こそ、『うつ』になるリスクが高い」と言うべきです。
「頭」の支配から脱却せよ!

 「うつ」のこのようなからくりがおわかり頂ければ、誰が考えても解決の方向は「民主化」以外にないことははっきりしています。つまり、「頭」支配から脱却し、「心」=「身体」を復権させることです。
 しかし残念なことに、往々にして「頭」は、「心」=「身体」のストライキに対して以前にも増して「働け!」と命令し続け、それでも応じない自分自身を「生きる価値のないダメな奴」と見なし、自殺願望へと向かってしまうというような、泥沼状態のケースも少なくありません。(「心」=「身体」の復権にむけての考え方や療養のポイントについては、次回以降の連載の中でも、様々な形でお伝えしていくことに致します。)
 このように、わけあって「心」が動かなくなったのが「うつ」の状態の真の姿です。それを、事の表面だけを見て「心が弱い」「精神力が足りない」と見るのは、いかに実態と程遠いものであるかがおわかり頂けたと思います。この理解があれば、なぜ「『うつ』の人を励ましてはいけない」と一般的注意として言われているのか、なぜ「うつ」の人を叱ったり発破をかけたりすることでは解決しないのか、などなどがすんなり納得できるのではないでしょうか。
 次回は、「うつ」というものはどのように始まるものなのか、どんな状態が発症の兆候なのだろうかといった、どんな人でも気がかりなポイントに迫ってみたいと思っています。

ーーーーー
自分なら「ウツ」は必ず自覚できる、という誤解
――「うつ」にまつわる誤解 その(2)

得意先への電話がかけられない!

 Aさんは、大手の事務機器販売会社に入社して8年目の営業マン。いくつかの販売店や小さな支店を経て、2年前から現在の都心部の支店に勤務しています。大口の得意先をいくつも任されていますが、それに甘んじることなく新規の顧客開拓にも力を注いできました。
 部内でも常にトップランクの業績をあげ、何度も社内表彰されたこともあります。もともとが体育会系の出身なので、健康と体力だけは誰にも負けない自信がありました。「どんなことでも、やるからにはとことんやる!」というのがAさんの信条で、ちょっとでも納得の行かない点があれば深夜になるのもいとわずに仕事をしました。そんな徹底主義・完璧主義は、ひそかに彼の誇りでもあったのです。
 ある時、商品納入で予期せぬ大きなトラブルが発生しました。
 製造元の事情で、納品が予定期日に全然、間に合いそうにないというのです。得意先は大手企業の本社で、Aさんの日頃の営業努力の甲斐もあり、ある機器の大量購入を決断してもらえたのです。Aさんにとっては、ここ一番という大勝負。それが、このままでは信用をなくす結果に陥ってしまう。Aさんは大いに悩みました。
 しかし、その後の誠実な対応が功を奏して、どうにか得意先にも事情を理解してもらえ、最終的にはどうにか得意先にも喜んでもらうことができたのでした。
 しかし、その頃からAさんの様子にいろいろと変化が現れるようになったのです。
 前ならば何ということもなかったはずの、得意先へのほんの電話一本がかけられないのです。先日のトラブルとまったく関係のない得意先であっても、とにかく電話自体が怖くなってしまっている。そして、気付くと何時間も逡巡してしまっている。
 電話だけでなく、簡単な書類一枚を作るのも、メールを一本打つのも、どうでもいいところで引っかかってしまって、気付くと時間だけが過ぎている。結局、何をするにも以前の2倍も3倍も時間がかかるようになり、その分、残業時間は延び、休日出勤も増えてきていました。
 パソコンに向かいながら、知らず知らず意識が遠のいて、深い眠りに落ちることもしばしば。様子の変化に気付きはじめた上司からも「いつもの君らしくないなあ。体調でも悪いのか? そう言えば、近頃顔色が悪いぞ」と言われる始末です。自分でいくら気をつけようと思っても、どうにもならない。どうしようもないときには、ついにAさんはトイレに入って仮眠をとるようにもなってしまったのです。「どんなに睡眠不足でも、今までこんなことはなかったのになあ……」と、自分のことながら途方に暮れはじめていました。

ある朝突然、身体が動かなくなった

 朝は、眠気とだるさで、洋服を着替えるにも妙に時間がかかるようになってしまい、ほんのネクタイ一本が選び切れない。クローゼットの前で呆然と立ち尽くして、気がつけばもう家を出る時間。うかうかしていたら電車に間に合わない。そんなことは重々わかっていても、身体がテキパキと動いてくれないのです。
 ある朝のことです。
 重たい身体を引きずってどうにか玄関に立ったAさん。玄関で靴を履こうとしたところで、ついに、まったく動けなくなってしまったのです。
――「いったい何が起こったんだ?」「俺は、どうしちゃったんだ?」
 頭の中を、そんな疑問がグルグルと駆けめぐる。しかし、どうやっても身体は動こうとしない。気づくと、涙があふれてきている。
――「悲しいことなんか何もないのに、どうして俺は泣いているんだ?」
 様子がおかしいと気が付いた妻が玄関に駆けつけてみると、そこには、呆然とした表情で目には涙をいっぱいにためた夫が、立ちつくしていました。
 「どうしたの? 何かあったの?」と声をかけてみても、すぐには答えが返ってこない。しばらくして、やっと重たい口がひらく。「なんにも……でも……どうしても、身体が動かないんだ!」
 そして、子供のように泣きじゃくる夫の異常な姿を見て、妻は「これはただ事ではない」と、すぐに病院を受診させることにしたのでした。
 Aさんの「うつ」は、このようにして始まったのです。
「うつ」は自覚できないこともある

 このAさんのように、「うつ」は、必ずしも典型的な抑うつ気分(落ち込んだ気分)から始まるとは限りません。「心」の叫びは、初期の段階では、「身体」のさまざまな不調として現れてくることも珍しくはないのです。
 Aさんの例で見てみますと、まずは「電話がかけられない」という異常が起こり、徐々に集中困難、作業能率や判断力の低下、疲れ易さ、全身倦怠感、眠気などが見られるようになって、ついに出勤時に「動けない」状態に陥りました。そして、本人にも不可解な涙まで出てきています。

 私がこれまで実際に経験したさまざまな「うつ」のケースを思い起こしてみますと、初期症状として現われた身体症状には、かなりのバリエーションがあります。
 たとえば、胸の痛み、過呼吸発作(過換気症候群)、手の震え、声が出ない(失声)、吐気、食欲の減退、性欲の減退、冷汗、めまい、頭痛、胃痛(胃潰瘍、胃炎、胃痙攣)、下腹部痛、動悸、喉に物が詰まったような違和感、眼痛、肩こり、腰痛、等々さまざまです。
 「仮面うつ病」という病名があります。どこかで聞いたことがあるかもしれませんが、これはmasked depressionの訳語で、「隠されたうつ病」という意味です。つまり、身体症状だけが前面に現れている状態なので、「うつ」であるとは全然自覚されずに、身体の病気と捉えられてしまう病態を指します(「仮面」のように無表情な顔をしている「うつ病」のことだと誤解しているむきもあるようですが、そうではありません)。
 ですから、「仮面うつ病」の場合は、本人も身体疾患だと思っているので内科などを受診することが多いのです。精神的な自覚症状が本人にないのですから、内科医も「うつ」が隠れていることを見過ごして、内科的治療だけを続けてしまうことも少なくありません。
 Aさんの場合は、集中困難や眠気等の精神的症状も現われていますので、診断上は「仮面うつ病」には当てはまりませんが、精神的な問題という自覚がないところは、とても似かよっています。
「身体」に症状となって
現われる「心」のSOS

 右図を見てください。
 前回(第1回)にもご説明しましたが、現代人にありがちな、「頭」が強権的に自分全体を支配している状態では、「頭」によって「心」との間の蓋(ふた)が、強力に閉められてしまっています。すると、「心」が出すさまざまなSOS(警告)は「頭」に聞き届けられない。つまり、SOSは意識されないまま、自動的に却下されてしまうことになります。
 そのようにSOSを出しても「頭」に聞き入れられないとすれば、「心」は次の手段に打って出ます。
 「心」は一心同体の同盟者である「身体」に協力を要請し、何らかの身体症状を出現させることで、「頭」(意識)に危機的状況にあることを知らせようとするのです(これを専門的には「身体化症状」と言います)。

身体症状という暗号をどう解読する?

 つまり、出現するさまざまな身体症状は、どれも「心」から発せられるSOSのシグナルなのです。しかし、もし症状がデタラメな出方をしたとすれば、重要な目的であるシグナルとしての役目を果たすことができません。症状には必ず「何についてのどんなSOSなのか」というメッセージが含まれているものなのです。
 しかし、このメッセージはいわば「身体言語」というものに暗号化されています。ですから、これを適切に受け取るためには、暗号解読(デコード)が必要になってきます。難しそうに感じるかもしれませんが、この暗号解読はコツさえつかめば誰にでもある程度可能なのです。
 この暗号は、「象徴化」というコードによって行われているので、それを読み解けばよいのです。つまり、身体症状を一種の比喩として捉えてみればメッセージが見えてくるのです。しかし、そういわれてもピンと来ないかもしれませんので、もっと簡単に説明しますと、身体症状とは「心」の「ある目的」を実現するために理にかなったことをしてきているに違いない、と考えてみればよいのです。そういう見方さえできれば、身体症状を手掛かりにして「心」が訴えたいメッセージを知ることは、さほど難しいものではありません。
 たとえばAさんの場合、まず仕事そのものを妨げる諸症状が現われ、次いで出社そのものをも邪魔するような判断力低下・動作緩慢も出現してきました。しかし、それでもSOSを受け取ってはもらえなかったので、ある朝、ついに出勤そのものを阻止するように、身体を動かなくして実力行使に出たのだ、と考えられるのです。つまり、そこに込められたメッセージは、「このままの過酷なやり方で仕事を続けていくことはもう止めてほしい」という叫びであったと思われます。
自分を「うつ」に
追い込まないためには?

 日々のさまざまなストレス状況を生きている私たちが、自分自身を「うつ」に追い込んでしまわないためには、「身体」にかすかに表れた変調を早めに察知し、「心」のシグナルを受け取れるような心構えを作っておくことが大切です。
 身体の不調を、ただ「困ったこと」と受け取るのではなく、「これは何を言っているのだろうか?」という問いを持つこと。そして、それを手がかりに、自分の「心」に耳を傾けてみること。これを続けていくことで、少しずつ「頭」と「心」の間の蓋(ふた)が開くような自分になっていきます。
 それは、単に「うつ」を遠ざけるのみならず、自然体で生き生きした、本来の自分の姿を取り戻すことにもつながるのです。
 次回は、とても身近なテーマである〈遅刻と「うつ」の関係〉をめぐって詳しく考えてみたいと思っています。

ーーーーー
「ウツ」の人が遅刻や無断欠勤を繰り返すのは、責任感が足りないから?
――「うつ」にまつわる誤解 その(3)

遅刻が止まらない!

 「遅刻をするのは、自分にだらしない証拠だ。もっと責任感をもってきちんと自己管理すべきだよ」
 今月に入って半分以上遅刻が続いてしまった事務職のK子さんは、ついに上司からも注意を受けてしまいました。さすがにここまで遅刻が続くと、上司だって黙って見過ごすわけにいかないのは当然です。K子さん自身も、どうにか直さなきゃと思ってはいても、自分でもどうにもならない泥沼状態にはまってしまった感じで、途方に暮れていたところでした。
 「明日こそ、絶対に遅れないようにしよう!」
 K子さんは、そんなふうに毎晩寝る前に強く思うのですが、翌朝になるとぼんやりした意識の中で目覚まし時計を知らぬ間に止めてしまって、そのまま意識を失い、気がついた時にはもうどんなに頑張っても間に合わない時間になってしまっているのです。
 K子さんは決して元々時間にルーズな方ではなかったし、いわゆる遅刻魔などでもありませんでした。むしろ、責任感も強く、どちらかというと几帳面な性格の持ち主だったのです。
 しかし、先月あたりからポツリポツリ遅刻するようになってきて、その後徐々に頻度が増えてきて、今月に入ってからはどんどんひどくなる一方なのでした。
ついに、無断欠勤

 上司に注意を受ける前から、K子さん自身も「みんなが普通にできてることもできない自分なんて、社会人として失格。意志の弱い人間で、みんなに迷惑ばかりかけている」と、痛いほど自己嫌悪していました。
 そんな風に反省を重ねても、ただ自信を失くして自分が嫌いになる気持ちを強めるばかりで、状態の改善にはちっともつながりませんでした。
 ある日のこと、妙にシーンとした空気感の中で目覚めて、時計に目をやったK子さん。
 「えっ?まさか……!」
 もう、会社の始業時間はとうに過ぎていて、今から支度して急いでも会社に着く頃には昼休みの時間帯になってしまう。
 上司に注意を受けて間もなくこんな大遅刻では、もうあわせる顔もありません。同僚たちの、あきれ返った冷たい視線も想像されます。そうかと言って、仮病を使って休むにしてもこんな時間になってからでは、手遅れ。ああ、どうしよう……。
 そんな風にあれこれ思い悩んでいるうちにどんどん頭は混乱して、会社へ行くことも電話をすることもできないまま、K子さんはもう何もかもどうでもよくなって、ただただ消えてしまいたい気持ち一色になってしまったのです。そして、解決とは正反対のむちゃくちゃな行動だとわかっていながらも、K子さんは布団にもぐりこんでしまうしかありませんでした。
 こうして、K子さんは無断欠勤をも重ねることになっていったのです。

遅刻と「うつ」の関係は?

 ここでまず、お断りしておかなければならないのは、遅刻は必ずしも「うつ」にだけ見られる現象ではないということです。慢性的に遅刻癖のある人も珍しくありませんし、強迫神経症(強迫性障害)など他の病態の場合でもいくらでも遅刻は起こりうるからです。もちろん、社会性が身についていないような人の遅刻も大いにあり得るでしょう。
 しかし、それまで遅刻癖もなかったような人が、ある時期を境にして遅刻が急激に増えて、ついには無断欠勤にまでいたってしまうような経過が見られた場合には、その人が「うつ」の状態に陥っている可能性は高いと考えられます。
 このK子さんの場合は、その意味ではかなり要注意な状態にあると言えるでしょう。そして、上司の発した「自分にだらしない」「もっと自己管理すべき」という注意は、この場合にはまったく役に立たないどころか、むしろ逆効果になってしまったと考えられます。
遅刻のからくりとは?

 さて、遅刻とはどのようなからくりで起こるものなのか、ここで詳しく考えてみましょう。
 さて、今回も毎度おなじみの図が登場しました。
「頭」はいつものように「心」=「身体」との間の蓋を閉めてしまっています。そして、寝ているということは、「頭」も寝ている状態なのですが、目覚まし時計が鳴った時にぼんやりした状態の中で、こう考えます。「今この目覚まし時計を止めても、きっと自分は、5分後にキチンと目覚めるはずだ」と。
 ところが、「心」の方は自然児そのものですから、「頭」が考えるような責任とか義務感などとはまったく関係なく、「まだ眠いから、このまま寝ていたい」と思っているのです。「身体」は「心」と一心同体ですから、目覚まし時計を止めて眼を閉じたら最後、決して5分後に目覚めるなどという〈奇跡〉は起こらないのです。
 「頭」は、蓋を閉めているので「心」の正直な声を聴くことができていませんから、「あるべき自己」しか見えていません。つまり、「キチンと起きるべきだ」という「頭」だけの考えが、「自分はキチンと起きるに違いない」という間違った認識にすり替えられてしまっているわけです。
 また特に、寝覚めの時には「頭」自体がまだぼんやりしていますから、「頭」お得意の「心」=「身体」への強権的コントロールは、うまく機能しません。よって、「心」の刹那的な「このまま寝ていたい」が勝利をおさめることになりやすいわけです。

責任感が足りないから
遅刻するのか?

 K子さんは、上司から「責任感」が足りないと指摘され、「キチンと自己管理すべきだ」と言われてしまいました。しかし、K子さんとしては、いくら気をつけようと思っても、結局遅刻を繰り返してしまう。そんな自分自身に、かなり自己嫌悪してしまっています。
 「あるべき自己」と「ある自己」という言葉を使って心理状態を整理してみると、遅刻してしまう状態の人は、自己イメージが「あるべき自己」一色になってしまっていて、「ある自己」が見えなくなってしまっているのだと言えるでしょう。
 そこに、「自己管理すべき」とか「責任感が足りない」といったフレーズは、「頭」の「あるべき」の方ばかりを強化するような言葉ですから、まったく逆効果にしかならないのは明らかなことなのです。
自分に謝ることが大切

 さて、この「遅刻」というものについて、時間軸を過去にたどって眺めてみると、せいぜいここ百数十年程度しか存在していない、極めて新しい観念であることがわかります。つまり、時計などという反自然的で機械的なものに人間が束縛されるようになって登場した、まったく人為的な事態が「遅刻」なのです。
 ですから、大自然由来の「心」=「身体」にしてみれば、機械の時間に合わせて季節も体調も関係なしに起きなければならないことなど、不自然極まりないことであり、やりたくないに決まっているわけです。それを、社会化された「頭」の命令にいつも無理に従わされて、いやいや毎朝起きているのが現代人の実状なのです。
 そういう認識が普段からできていれば、「あるべき自己」とは、現代社会という人為的「ごっこ」の世界の中では望ましいとされている姿に過ぎないわけで、「ある自己」は、かなり無理をしてそれに合わせてくれているのだということが感じられるはずです。
 そうすれば私たちも、「自己管理」とか「自己コントロール」といった「頭」中心の横柄な発想ではなく、「こんな時代に生まれたので、いつも不自然な無理をかけて申し訳ない」といった謝罪といたわりの気持ちが、自分の「心」=「身体」に対して向かうはずです。
 これで、蓋は開き、「ある自己」を見失わない柔らかく自然な自分が保たれるはずですし、遅刻はもちろん、「うつ」という事態に自分を追い込むこともないでしょう。
 次回は、巷でよく耳にする「『うつ』は心の風邪である」ということについて、考えてみましょう。

ーーーーー
「ウツ」を“心の風邪”と喩えることの落とし穴
――「うつ」にまつわる誤解 その(4)

なぜ「心の風邪」と
言われるの?

 当連載も含めて、近年では「うつ」についての情報が様々なメディアを通じて頻繁に発信されるようになり、いまだ十分ではないにせよ、徐々に一般の方々に「うつ」が認知され始めてきています。そのような情報の中でかなり高い頻度でお目にかかる説明に、「うつは心の風邪です」という表現があります。
 これは、人々の「うつ」に対する偏見や恐怖心を払拭し、早期発見と気軽な早期受診を促すキャッチコピーとして、かなり役立ってきているものでしょう。また、ことに精神論に傾きがちな日本の風潮に対して、このフレーズには「うつ」を身体的な病気に近いイメージで捉えてもらうための、啓蒙的な効果もあるものと思われます。
 専門的なことですが、近年、有効性が高く副作用の少ないSSRIやSNRIと言われる新しい種類の抗うつ薬が登場したことで、薬物療法での治療効果がかなり期待できるものになりました。そういう背景もあって、この表現には「風邪の時に感冒薬で気軽に対処するように、『うつ』も気軽に治療を受けて、早目に治してしまいましょう」というメッセージも込められてもいるわけです。
 また、「うつ」が「風邪」に喩えられた理由としては、かかる頻度の高い病気であるということや、甘く見てこじらせると重症化する危険があるためなのだろうと思われます。
 しかしながら、もう一歩踏み込んで考えてみたときに、この「風邪」という比喩には、さまざまな誤解を生んでしまう一面もあることは否定できません。
本当に「心の風邪」なの?

――「実際うつにかかってみればわかると思うけど、『風邪』なんて甘いもんじゃない。毎日死にたい気持ちとの闘いなんだから!」
――「風邪だったら数日から1週間もあれば治るだろうけど、うつはどんなに早くたって治るのに数ヵ月以上はかかるよ」
 「うつ」を実際に経験した患者さんたち生の声として、こういう意見もよく聞かれます。
 また、実際に「うつ」の診療に従事している臨床医たちからは、
――「そんなに生易しい病気ではない」

――「風邪ならば放っておいて治ることも多いが、『うつ』はきちんと治療を受けなければ、自殺のおそれもある大変に危険なものだ」
――「『風邪』というよりは、治療期間も長く安静を必要とするから、むしろ疲労骨折に喩えるべきだ」
 などの意見も聞かれます。
 確かにそういった意味で、「うつ」というものが「風邪」という表現に収まり切らないことも事実です。
 しかし、ここで私があえて問題提起したいと思うのは、またそれとは違った観点からのことなのです。
2つの誤解を
生みだすおそれ

 「うつは心の風邪である」というキャッチコピーによって、多くの患者さんたちが気軽に医療機関を受診し相談しやすくなったことは事実であり、とても意義のある啓蒙が行われたと言えるでしょう。しかしながら、受診後の治療を進めていくうえで、この表現には、2つの誤解を生んでしまう要素も含まれていると考えられるのです。
 それは、「うつ」の治癒イメージについての誤解と、「うつ」をどう捉えるべきかをめぐっての誤解の2点です。
「うつ」治療のゴールは?

 「うつ」が「治る」ことについて、専門医は多くの場合、「治癒」という言葉は使わずに、「寛解(かんかい)」という専門用語を用います。この「寛解」とはremissionの訳語で、症状が緩和され病気の勢いが治まった状態を指す言葉で、身体疾患では白血病などでよく使われる表現です。
 つまり、これは完全に治った状態を指すのではなく、病気の勢いが衰えて症状が出ていない状態を示す言葉です。さらに言えば、再発の危険性が残っていることを視野に入れた概念だということになります。
 巷で一般的に行われている薬物療法と休養主体のスタンダードな治療では、たいていはこの「寛解」が目標地点になっています。それは、どうしても再発が防ぎ切れないという限界があるためです。
 ですから多くの場合、「寛解」後にも当分の間は再発予防のために「無理をしないように」という指示を守っていかなければなりませんし、少量ですが薬物療法の継続も必要とされることが多いのです。

喩えと現実の
大きなギャップ

 しかし、「『うつ』は心の風邪です」というフレーズを聞いて治療に踏み切った患者さんやそのご家族は、当然のことですが「風邪のように跡形もなくスッキリ治る」ことをイメージされるはずです。そこに、医療者側と患者さん側との間の大きなイメージギャップが生じることになりやすい原因があります。
 私のもとを訪ねて来られる方々の中には、社会復帰しても短期間で再発(再燃)するということを何度も繰り返してきていて、長い治療歴もあって、いらした時点ではかなり疲弊されているケースも少なくありません。
 そのような経緯で来られた患者さんやご家族は、長い期間にわたって指示通り忠実に服薬し休養してきたにもかかわらず、ある程度以上の改善が見られなかったがために、「いつになったら本当に治るんでしょうか?」と、諦めと恨めしさの入り混じった気持ちで疑問をぶつけてこられることがあります。これは明らかに、「治る」ということをめぐる双方のイメージギャップが、曖昧なまま引き延ばされてきたことによるものだと思われます。
 それでは「うつ」において、再発の危険性のある「寛解」ではなく、本当の「治癒」に到達することは望めないのでしょうか?
病は、自分自身を
救い出そうとしている!

 そこで、「病というものは、何らかのメッセージを自分自身に伝えるべく内側から湧き起こって来るものである」、または「病は、その中核的な症状によって、自分自身をより自然で望ましい状態に導こうとしている」という考え方を採り入れてみることが大切になります。つまり、病は「自分自身を好ましくない今の状態から救い出そうとしている」ということです。
 このような観点は、古い医学や民間医療・代替医療の中に見つかることはありますが、近代以降の西洋医学が切り捨て、忘れてきてしまったものです。しかし、この観点を導入して考えてみますと、「うつ」の治療においても、何が見落とされてしまっていたのかが明らかになってくるのです。
「元に戻る」ことが
再発をまねく

 「風邪」が治るとは、風邪をひく前の状態に身体状態が戻ることを指すわけですが、「うつ」を「風邪」に喩えてしまいますと、同じように、発病前の状態に戻ることを目指すようなイメージが作り出されてしまいます。私は、これが「うつ」の再発・再燃をひき起している大きな要因の1つだと考えています。

 「うつ」から回復した方々の体験記がいろいろと出版されたり、TV等でとり上げられたりすることが増えてきて、一般の方たちでも患者さんの生の声を聴く機会が増えてきていると思いますが、そこでぜひ着目していただきたいのが、見事な治り方をされた方たちは、まず例外なく、発症前までの自身の「生き方」や「考え方」について、かなり根本的な見直しをされているという点です。私が担当した方々が語った次のような言葉が、その心境をよく表わしたものとして、強く印象に残っています。
――「そもそも幸せになりたくて仕事をしていたはずなのに、いつの間にか会社のために仕事をしている自分になってしまっていた。そのことに、やっと気が付いたんです」
――「これまで、ひたすら世間的に評価されることばかり追い求め、不自然な努力を自分に強いる生活に慣れっこになって、本当の自分らしさなんてすっかり忘れて、かなり麻痺していたんだなとわかったんです」
 このような言葉からもわかるように、「うつ」からの本当の脱出とは、元の自分に戻ることなのではなく、モデルチェンジしたような、より自然体の自分に新しく生まれ変わるような形で実現されるものだと言えるでしょう。repair(修理)のような治療では、どうしても再発のリスクを残してしまう限界があるのですが、reborn(生まれ直し)あるいはnewborn(新たに生まれ直す)とでも言うべき深い次元での変化が、真の「治癒」には不可欠なのだと考えられます。
一番大切な作業が、
本人任せだった!

 抗うつ薬により、うつ症状の脳化学的原因と見なされている脳内物質(セロトニン等)のアンバランスを改善することができるようになってきましたし、認知療法等によって、悲観的に物事を受け取る癖や無理な努力を自分に強いる考え方を修正するための方法論も整備されてきました。「うつ」の状態や内容に応じて、それらのアプローチが不可欠であることも少なくありませんから、決してこれらの治療を軽視すべきではありません。
 しかしながら、さらにその奥に潜んでいる「うつ」の本当の病根が何であるのか、その大切なメッセージを汲み取る作業は、これまでほとんど、患者さん自身にゆだねられていた状況にありました。そのため、その作業の存在に気付き、みずからそれを成し遂げることができた一部の幸運な患者さんだけが自力で本当の「治癒」を達成できたという、いわば運任せ的な状況にありました。
 しかし、「うつ」がこれほどポピュラーになってきた現代に、われわれ精神医学・精神医療の側も、西洋医学という実証的科学の限界にとらわれることなく、この大切な作業をも視野に入れて、手応えの実感していただけるような援助をしていくべきではなかろうかと私は思うのです。
 次回は、「うつ」と呼ばれているものは果たして1つの病気を指しているのだろうか、ということについて考えてみたいと思います。

ーーーーー
遊びには行けても、会社には行けない――これは本当に「ウツ」なのか?
――「うつ」にまつわる誤解 その(5)

 出版社で課長職にあるTさんの部下E子さんは、「うつ病」で半年前から休職中です。
 E子さんの休職は「うつ病のため、自宅療養を要す」という医師の診断書が提出されての正式なものではあるのですが、上司であるTさんは内心、「E子さんは本当にうつ病なのだろうか?」と疑問を抱いています。
 E子さんは以前から、仕事がいよいよ忙しくなるという時期になると、決まって体調不良を理由に休み始めるパターンを繰り返していました。そのことは、グループ管理者としてのTさんの頭をずいぶん悩ましていたのでした。
 E子さんのこの傾向は年々ひどくなってきていて、当然、部課内の他のスタッフたちも、もうすっかりE子さんを当てにしないような雰囲気になってきていました。
 そして、皆がひそかに予想していた通り、E子さんは半年前についに本格的な病気休職に入ったのでした。
 「結局、彼女は大変な仕事はしたくないってことなんでしょ」
 「あれはきっと、最近よく言われてる『偽うつ』なんじゃない?」
 「まあ、仮病の一種だよな。だって、聞いた話じゃ自宅療養中なのに、旅行とか行ったりして、楽しく遊んでるらしいぜ」
 「えーっ本当? それって、絶対『うつ』じゃないわ! だって、私の叔母さんが前に『うつ』になったことがあるからよく知ってるけど、『うつ』の人って、全然動けなくなったりして、ちょっと外出するのさえ一苦労っていう感じになるものなのよ」
 部下たちのこんなやり取りも、Tさんの耳に入って来ています。
 Tさんには、「うつ病」とはいったい何なのか、段々わからなくなってきていました。折にふれて「うつ」に関する本やTVの「うつ」特集などは気にして見るようにしているのですが、「うつ」についての様々な情報は入ってくるものの、言っていることがそれぞれ微妙に食い違っていたり、そこで言われている「うつ」にはE子さんの状態が当てはまらないところもあったりして、どこか判然としないのです。
医師も戸惑うほど変わる
「うつ病」の定義

 このTさんのように、「うつ」に関して、わかるようでわからないという感想を持っている方も決して少なくないことだろうと思います。
 実際、現場で臨床をしている私自身も、特にこの10年ほどの間で、目まぐるしく「うつ」についての定義や情報が変化してきていることに、正直なところかなり戸惑いを覚えているほどです。ですから、一般の方たちにとってはなおのこと、わかりにくい状況だろうと思います。
 さて、このE子さんが果たして本当に「うつ」なのかどうかを考える前に、少々専門的ですが、いくつか説明しておかなければならないことがあります。
診断法が変わってきた
「お家事情」

 そもそも従来の日本の精神医学・医療は、ドイツ流の精神医学に倣った診断学を基礎にして、診断や治療を行っていました。そして「うつ病」と言えば、主に「内因性うつ病」というものを指していたのです。これは、今日では「典型的うつ病」「古典的なうつ病」と言われたりします。ここに躁状態も加わっている場合には、これを「躁うつ病」と呼びました。

 また、同じく「うつ状態」が認められるものでも、神経症的な傾向がベースにあって起こったものについては、「抑うつ神経症(神経症性うつ病)」という別の診断を下して、「内因性うつ病」とは区別していました。それは、症状の重症度や性質が異なり、病気の経過も違ってきますし、何よりも治療法自体がずいぶん違うものだからなのです。
 そしてまた、他の疾患の一症状として「うつ状態」が起こっている場合には、その原疾患で診断するのであって、決して「うつ病」という診断名にはならなかったのです。
 ところが近年、アメリカ精神医学会が作り出したDSMという診断基準や、WHO(世界保健機関)が作った診断マニュアルのICDというものが登場し、あっという間にこれらが診断法の主流の座に取って代わったのです。
 これらの診断法は、とにかく表に現われている症状のみで診断し、原因は問わないようなもので、≪操作的診断法≫と呼ばれます。
 そもそも身体の病気に比べて、目に見える根拠を持って診断することのできない精神領域の病気の場合、学問的・哲学的見解の相違によって医者ごとによる診断のバラつきがある、という大きな問題がありました。そのため医療情報の共有や統計処理上に不都合も生じていました。そこで、既定のマニュアルに従って症状さえ観察すれば、普遍性をもって誰でも客観的に診断できるこの操作的診断法が考案されたわけです。
現われている症状だけで
診断することの問題点

 しかし、これがかなり特殊な診断法であることは、身体病に置き換えてみれば簡単に理解できると思います。
 例えば、咳が起こる状態をすべて「咳障害」と診断するようなものですから、原因がカゼでも肺結核でも肺癌でも、同じ診断名になるわけです。しかし、この場合に、診断名が同じだからといって治療法まで同じにしてしまったら大変なことになってしまうことは明らかです。(そのため、従来の診断とは区別をつける必要があり、操作的診断法では、「~病」という言い方をなるべく避けて、「~障害」という表現になっていることが多いのです)
 もちろん、症状の性質の細かな違いや持続期間の違い、反復される程度等々細かな項目を立てることによって、この例のように極端なことにならないように工夫はされているのですが、それでもやはり診断法としては不完全なもので問題点も多く、何年かごとにマニュアルが見直され、バージョンアップを繰り返している、いわば過渡的な診断法なのです。
 ですから、臨床的にどのような治療を施すべきかを判断するうえでは、やはり奥行きのある従来の診断学の見方や考え方を使わないわけにはいかないのが、正直なところです。
新しい診断法で
「うつ」が拡がってしまった!

 このように操作的診断法が主流になった現在、「うつ状態」「抑うつ気分」というものがある程度以上認められれば、その病態がいかに様々違うものであったとしても、「うつ病」(正確には「うつ病性障害」「気分障害」)の診断が下される傾向が強まりました。
 しかし、一般の方が「うつ病」という診断を聞いた場合に、きっと一つの「うつ病」という「病気」があるとイメージされることでしょう。ここに、「うつ」についてのわかりにくさや混乱、誤解が生まれやすくなった原因があると考えられます。

 このような現在の状況で「うつ病」と診断が下った場合に、その中身として推定される代表的なものには、大まかに次のようなものが含まれていると考えられます。専門的ですが、一応列挙してみましょう。
■内因性うつ病(典型的うつ病、古典的うつ病、大うつ病性障害)
■躁うつ病(双極性感情障害、双極性障害Ⅰ型、双極性障害Ⅱ型)
■非定形うつ病(俗に「プチうつ」と言われることもある)
■パーソナリティ(人格)障害(自己愛性・境界性・回避性(不安性)・情緒不安定性等の人格障害)
■神経症(抑うつ神経症、パニック障害、強迫神経症、対人恐怖症、社会恐怖等)
■摂食障害(過食症、拒食症)
■適応障害
■気分変調症
■軽症うつ病(これも「プチうつ」と言われたりしている)
 ここでは、個々の病態について詳しく説明することは致しませんが、これらの病態の中には、抗うつ薬が不可欠なものもあれば、まったく無効なものや、むしろ悪化させる恐れのある病態もあります。
 また、精神療法やカウンセリングがとても重要なものもあれば、環境調整が不可欠なものもある。とにかく休養してエネルギーを充電すべき病態もあれば、いくら休んだところで何も解決しないものもある。
 つまり「うつ病」という診断には、これほど多種多様な病態が含まれているのが現状なのです。
「偽うつ」はあるのか?

 さて、冒頭のE子さんの例に戻って考えてみましょう。果してE子さんは「偽うつ」つまり「仮病」なのでしょうか?
 ここでは、その可能性をゼロとは言い切れないとも思いますが、しかし少なくとも私は、これまでそのようなケースを経験したことは一度もありませんし、もし「偽うつ」の人が来られた場合でも、専門家としてきちんと観察しさえすれば、それを見分けることは十分に可能なはずだと考えます。
 E子さんのようなケースで最も推測されるのは、「抑うつ神経症」、「非定形うつ病」、「適応障害」、「パーソナリティ障害」辺りの病態です。
 これらの場合では、「内因性うつ病」のように全般的に行動ができなくなることはまず稀で、「会社」「職場」という特定の場面に限定して「うつ」という拒否反応が起こることも珍しくありません。一種のアレルギー反応のような現象が起こるのです。ですから、その意味では「遊びには行けても会社には行けない」ということも、充分にあり得ることだと言えます。
 ただし、もしこれを単に「うつ病」であると本人に告知・説明しただけで漫然と薬物と休養中心の治療を行なっても、まず改善は見込めないだろうと思われます。このような場合に必要なのは、精神療法によって職場への拒否反応が起こってくるからくりを解明し、今後本人がどう変わってどちらに進んでいくべきか自覚できるようにし、そのうえで、同じ職場に戻ることがふさわしい選択なのかどうかを見極めていく作業を行うことだと考えられるのです。
 次回も引き続き、このE子さんのようなタイプの「うつ」について、さらに踏み込んで考えてみることにしましょう。

ーーーーー
「ウツ」で休職中の私が、なぜ遊びには行けるのか――E子さん側の言い分
――「うつ」にまつわる誤解 その(6)

 前回(第5回)に登場した出版社に勤めるE子さんのケースについて、今回はE子さん側に視点を移して、彼女の中でいったい何が起こっていたのだろうかということを考えてみましょう。
小さなつまずきのはずが・・・

 E子さんは、有名私立大学を卒業後、念願だった出版社に就職しました。当初はかなり張り切って、意欲的に仕事を覚え、残業も意に介さず頑張っていました。部内での人間関係もとても円満で、与えられた仕事はきっちりこなすしっかりした仕事ぶりなので、上司のTさんも、良い新人が入ってきたと高く評価していました。
 そんなE子さんが不調を感じ始めたのは3年前、上司のTさんからある企画内容について軽い注意を受けたことがきっかけでした。
 「君の思い入れはわかるけど、ちょっとこれはこの仕事の本筋からズレてしまっていると思うんだ。理想論としては君の言う通りだけど、会社が求めている内容は、もう少し一般受けするものなんだよ」
 E子さんは、その企画についてはかなりの自信を持っていただけに、Tさんの言っていることは頭ではわかるけれども、心の奥では自分の存在価値そのものが否定されたように感じてしまったのです。
 「はい、わかりました。すみません。もう一度練り直してみます」
 いつもの笑顔でどうにかその場はやり過ごしたものの、仕事が終わって一人暮らしの部屋に帰ってから、E子さんは無性に虚しくなってきて、気づくと買い置きしてあったスナック菓子やインスタント食品を、お腹も空いていないのに次々に無茶食いしていました。その最中は、まるで何かに取りつかれたようで、何の感情もありませんでした。
 正気に戻って、散乱したゴミの山を見たE子さんは、「何をやってるんだろう! 私って、本当にダメな人間なんだ」と強い自己嫌悪に陥りました。しかし、この日を境に、E子さんは過食をするのが習慣になってしまったのです。
自己嫌悪から自信喪失へ
体にも現れる“異変”

 希望に燃えて就いた仕事だったのですが、「頑張ったからといって必ずしも評価されるとは限らない」という現実を、E子さんは受け止めきれずにいました。学生時代までは、E子さんの努力は常にプラスに評価されてきたからです。
 「ちょっと真面目に考えすぎるんじゃない? もっと力を抜いて発想してみたらいいと思うんだけど」
 上司のTさんからのアドバイスも、本当のところでは意味がわかりませんでした。「真面目に努力することが大切だ」とばかり幼い頃からいつも叩き込まれてきたために、それが問題だと言われてもE子さんは混乱するばかりでした。次第にE子さんは、全体的に自分の考えや感覚に自信が持てなくなっていきました。
 そのうち、このような状況になると決まって強い頭痛や吐気、めまいや腹痛などが起こるようになり、E子さんは会社を休まざるを得なくなりました。これらの症状は、繰り返される度に重症化し、休む日数も長くなっていきました。
 しかし彼女自身は、この体調不良がメンタルな問題から来ているとはまったく思いもしませんでした。

 「大切な仕事だから今度こそ頑張って挽回しなければと思っているのに、どうしてまた体調がおかしくなるんだろう?」とE子さん自身、途方に暮れていたのです。
 内科や婦人科等をいくつも受診して様々な検査を受けたりしてみたのですが、どこでもこれといった異常は見つからず、判で押したように「ストレスでしょう」と言われるばかりでした。しかし、いくら漠然と「ストレス」と言われても、E子さん自身には何のことやらピンと来ませんでした。
 しかし、あるところで強く勧められて、不本意ながらも心療内科を受診したところ「うつの可能性があります」と診断されて、E子さんはとても驚きました。
「何もしていない自分」を
責めるばかりの日々

 「うつ病なので、抗うつ薬をしっかり飲んで、自宅療養に専念して下さい」という説明と指示のもと、E子さんは会社に診断書を提出して、長期の病気休職に入ることになりました。とにかく、ゆっくりと休むことが大切だと言われたので、E子さんはなるべく何もせずに日々を過ごすように心掛けました。
 しかし、いくら休んでみても、E子さんは「何もしていない自分」を責める気持ちばかりが出てきて、なかなか気持ちは休まりません。かえって暇な分、マイナスなことばかり考えてしまいます。
 そのうえ、だんだん明け方に寝て夕方にやっと起きる昼夜逆転の生活にもなってしまい、これも自己嫌悪の種になってしまいました。医師からは「規則正しい生活リズムにするように」と言われていたのですが、処方された睡眠剤を使っても、もううまく寝付けなくなっていたのです。そして悪いことに、中途半端に睡眠剤が効いた状態の中で、過食は治るどころか逆にエスカレートしていました。
 E子さんは、療養していても自分の状態が改善してきているとは思えなかったので、自分なりにいろいろと情報を集めてみるようになりました。
 すると、どうも「パーソナリティ障害」と言われているものや、最近「新型うつ病」とか「非定形うつ病」と言われているような状態に自分は近いのではないかと考えるようになり、E子さんは思い切って、これまでの薬物療法中心の診療とは別に、精神療法も受けてみることにしたのです。
 E子さんは、精神療法を始めてから、徐々に自分が次のような問題を抱えていることが見えてきました。
 自分がいかに人からの評価に捉われてばかりいたのか、また、努力し結果を出さなければ自分には価値がないという窮屈な考え方で、いかに不自然な力を入れて生きてきたのかということです。そして、それがすっかり慢性化していたために、自分で自分の心の悲鳴に気づかず、様々な身体の不調を招いていたのだということも、理解できるようになっていったのです。
「いい子」を
演じてきたことへの反動?

 幼い頃から、いつも周囲の人間の顔色をうかがって「いい子」を演じてきたE子さん。努力して人に認めてもらうことが、彼女にとっては何よりも大切なことだったのです。
 子供の頃から、常に人間関係に敏感で、両親がいつも不機嫌そうにしているのも、自分が「悪い子」だからなのだと感じていました。小学校高学年の頃に学校でいじめを受けたこともありましたが、自分自身ですら大嫌いな自分なのだから、人からいじめを受けるのも当然だと思い、辛くても黙って飲み込んで、親に相談することもありませんでした。

 そんな彼女は、自分のことを「価値のない人間」だと思っていました。「価値がない」からこそ、人一倍努力して目に見える成果を挙げなければ、自分は誰からも好かれないし、生きている資格すらないのだとまで思っていたのです。
 そのため、E子さんは何もしないで一日を過ごすことは悪いことのように思っていましたし、「自分が楽しむために時間を使う」のは何より苦手だったのです。E子さんにとって時間とは、常に「何かの為になる」「有意義」なものでなければならなかったのです。
自己否定から徐々に解放され、
「心を休ませる」休み方へ

 そんなE子さんにとっては、自宅療養で何もしないでいること自体が怠けのように思えてしまい、何度も「自分は本当は病気なんかじゃなくて、きっと怠けたいだけのダメな人間なんだ」と思っていました。そして、「会社の人たちに、きっと怠け者と思われているに違いない」とも感じていたので、一日も早く仕事に戻らなければと、とても焦っていたのでした。
 しかし、この状態を「怠け者」と思ってしまうことも、自分の心の奥底に根強く巣食っている「自己否定」の産物であることがセラピーの中で徐々にわかってきて、やっとE子さんも「心を休ませる」休み方ができるようになっていきます。
 すると、それまではいくら寝ても取れなかった疲労感や倦怠感が少しずつ薄らいできて、不思議なくらいエネルギーの高まりが実感されるようになったのです。
 E子さんは現在も療養中ですが、最近ではセラピストの助言もあって、「やってみたい」と思ったならば「遊び」にも出かけてみるように、少しずつチャレンジし始めています。
「遊びに行ける」のは、
改善の証

 「~すべき」「~してはならない」という「頭」の命令に常に従って窮屈に生きてきたE子さんのような人は、自分の「心」の「~したい」「~したくない」という声が聞き取れない状態に陥っているものです(詳しくは第1回をご参照下さい)。
 そこからまずは、「心」の声を聴くことがわかるようになり、それを邪魔する「頭」由来の古い価値観(例えば「遊んだりしていてよいのか?」)の存在に気がつくようになります。そして、その「頭」の批判に惑わされずに、「心」に従った行動ができるように精神療法は援助していきます。
 ですから、特にE子さんのようなケースでは、「遊べるようになる」ことは、大きな改善の証でもあるわけです。これは典型的なうつ病(内因性うつ病)のケースにも当てはまることで、治療過程の後半で、やはり「遊ぶ」ことが大切になってくるものなのです。
 本人の考え方がこの「柔らかい状態」になっていないままに社会復帰を急いだケースは、私の経験上、むしろ早期に再発してしまう確率がとても高いという印象があります。
 さて次回は、E子さんもアドバイスされていた「規則正しい生活が大切」という考え方について、検討を加えてみたいと思っています。

ーーーーー
「昼夜逆転」現象のナゾ――なぜ「ウツ」の人は朝起きられなくなるのか?
――「うつ」にまつわる誤解 その(7)

 「うつ」の状態になると、朝の起床が徐々に困難になってきます。そのため、次第に遅刻や出社不能などの問題も生じやすくなってきます。
 第3回で「うつ」と遅刻の関係については詳しくとり上げましたが、今回はさらに、日中に寝てしまい夜中に起きている「昼夜逆転」の状態について考えてみましょう。
気づくと、
夕方に起きて明け方寝る生活に・・・

 3ヵ月前から「うつ」で休職中のSさんは、奥さんと2人暮らしです。奥さんも会社勤めをしているので、平日の日中、Sさんは1人で家にいる生活です。
 奥さんの協力もあって、朝はどうにか起こしてもらって、出社前の奥さんと一緒に朝食を摂るようにしており、日中も寝てしまわないように、近所の散歩や家の掃除や皿洗いなどをするよう自分で決めました。
 会社の健康管理室の産業医や通院中のクリニックの主治医からも「自宅療養中は、なるべく規則正しい生活を心がけてください」と指導を受けていましたし、Sさん自身も、復職する時に生活リズムが乱れてしまっていては、戻るに戻れなくなるだろうと考えたからです。
 はじめの1ヵ月くらいは、Sさんも自分で決めた通りの生活をどうにか頑張ったのですが、その後、徐々に気力が続かなくなり、日中の眠気やだるさも強まってきてしまい、朝は起こされても起きられず、日中もずっと寝てしまうような日が増えてきてしまったのです。
 一方、日中に寝てしまったので、夜は処方されている睡眠剤を服用してもなかなか寝付くことができなくなっていきました。
 Sさんは主治医にその旨を報告して、睡眠剤をこれまでよりも強力なものに調整してもらいましたが、足元がふらついたりはするものの、頭の芯だけは覚醒していて、やはりうまく眠れるようにはなりませんでした。
 もともとは自分に厳しい性格のSさんでしたから、自分で決めたように療養生活を過ごせない自分は、もうすっかりダメな人間になってしまったように感じて強く自己嫌悪するようになりました。「このまま治らないんじゃないか」「そもそも俺はダメな人間だったんじゃないか」と考えるようにもなってきてしまいました。
症状にも“大切な働き”
があるのでは?

 「うつ」の療養中にSさんのような「昼夜逆転」が起こることは、決して稀なことではありません。むしろ、そうならない場合の方が珍しいくらいだと言ってもよいでしょう。

 一般的に、療養においては「規則正しい生活」を心がけることが大切だと専門家も含めて考えていますし、私も以前はそれを鵜呑みにしていたのですが、その後多くの臨床経験を重ねるうちに、必ずしもそれにとらわれる必要はないのではないかと考えるようになってきたのです。
 私はいつ頃からか、起こってくる「症状」にも何らかの「意義」があるのではないか、と考えてみるようになりました。
 西洋医学的な文脈では、「症状」はひたすら取り除くべき悪者と扱われがちなのですが、そういう視点でいくら治療を行っても、目指している方向とはあべこべに薬だけが増えてしまったりして、どうも納得がいかない。そこで、従来の方法論が見落としているものがあるのではないか、と考えるようになったわけです。
思い切って「昼夜逆転」に
逆らわないでみると…

 クライアント(患者さん)の「昼夜逆転」を治そうとすれば、Sさんの場合のように、寝付けない夜に眠れるようにと、必然的に睡眠剤を強化せざるを得ません。
 しかし、実際のところ、ちょっとやそっと薬を強めても思ったほどの効果は現れてくれません。うまく眠れる日もあるが、まったく効かずにまんじりともせず、明け方を迎えてやっと眠りにつくような日もある。何が何でも確実に毎晩眠れるようにするとすれば、とんでもなく強力で大量の薬を投与せざるを得なくなってしまうのです。
 そこで私は、思い切って「昼夜逆転」をそのままにしたらどうだろうかと考えたのです。日中は睡眠剤なしでも眠気がやってくるのですから、睡眠剤も最小限ですみます。もちろんSさんのような場合には、同居しているご家族にも協力してもらい、本人が罪悪感など持たずに開き直って「昼夜逆転」できるように環境調整も行います。
 すると、クライアントはある期間の「昼夜逆転」を経た後に、自然に、生活リズムがきちんと戻ってくることが観察されました。それだけでなく、抑うつ気分・意欲減退・悲観的などの「うつ」の症状も、とても順調に回復に向かっていく手応えがあったのです。
「昼夜逆転」には
重要な意味があった!

 そのような結果から、私は「昼夜逆転」が決してめちゃくちゃに起こっているのではなさそうだなと思いました。そして、色々なクライアントとのやり取りからも、「昼夜逆転」の意義とでもいうべきものが少しずつ見えてきたのです。

 日中は、世の中全体が活発に動いている時間であり、人々は皆、仕事や学校に出かけ、有意義な活動をしている時間です。そんな時間に、「うつ」の療養で自宅にポツンといる自分。ただでさえ「うつ」によって無力感を感じ自己否定的な気分があるところに、日中起きていて、状況的にも世の中に取り残されたような感じがしたり、自分が無価値な感じを抱いたりしやすいことは、想像に難くありません。
 逆に、夜や深夜の時間は、世の中のほとんどが活動を休止する時間ですから、クライアントにとってはあまり精神的に委縮することなく過ごしやすい時間でしょう。
 ですから、つらい日中の時間帯には眠ってしまうことによって、世の中からヒリヒリと自分に突き刺さってくるものを自動的に避けようとしているのではないか、そうやって「心」の療養がしやすいようにしているのではないか、と考えられるのです。
 つまり、外傷で「かさぶた」が形成されて外部刺激や感染から傷口の弱い部分を守る働きに相当するような意義が、この「昼夜逆転」にもあるのではないかと考えられるのです。
「規則正しい」は、
文字通り正しいことなのか?

 以前、「遅刻」について触れたとき(第3回)にも述べたことですが、現代のように、「時計」という機械に合わせた「規則正しさ」を考えるようになった歴史は、人類にとって意外に新しいものです。
 健康でバリバリ社会適応している時には気づきにくいことですが、われわれ人間は、季節や天候や月経周期を含めたバイオリズムなどによって、日々違う状態にある「生き物」です。それを機械的リズムで規制することがいかに「生き物」の自然に反したことなのか、ということを、改めて考えてみる必要があるのではないかということです。
 特に「うつ」の状態にあるような時には、現代社会が求めてくる価値観から自分を眺めるよりも、「病気」や「症状」が何か大切な働きをしてくれているのではないか、と、しばし立ち止まって、視点を変えてみることも大切なことなのです。
 次回は、「うつ」の状態の人にしばしば見られる「イライラ」の状態について考えてみましょう。

ーーーーー
“イライラ”は、「ウツ」が悪化している兆候なのか?
――「うつ」にまつわる誤解 その(8)

 「うつ」でも、単に落ち込んでしまう状態だけでなく、イライラや怒りっぽさが現れてくることがあります。
 そこで今回は、そのような状態のからくりや意味について考えてみたいと思います。
イライラと自己嫌悪
の悪循環に…

 「まったく、ちゃんとマナー守れよな!」
 朝の通勤時、Nさんは最近やけに、他人の行動が気になるようになりました。うっかりすると後先考えずに喧嘩でもしかねないピリピリした状態になってしまっているのが、自分でも心配です。
 Nさんは、これまでに「うつ」で休職療養をしたこともありますが、今ではある程度回復したので、通院治療を受けながらも、職場には1年ほど前から復帰しています。
 ピリピリした状態は、徐々に職場内でも現われるようになってきました。仕事を要領よく押しつけてくる同僚や、よく考えもせずに業務を丸投げしてくる上司に対して、以前にも増して苛立つようになり、近頃では抑えが利かなくなって、時には声を荒げて反発するようにもなったのです。
 周囲の人たちが、そんな状態のNさんを奇異な目で見るようになってきていることは、彼自身も重々感じてはいるのですが、どうにも自分でコントロールが利かない状態になってしまいました。
 Nさんは、怒りっぽくなってしまった自分を「感情もコントロールできないなんて、最低な人間だ」と思い、すっかり自己嫌悪に陥るようになりました。しかしいくら反省してみても、次の日にはまた同じようにイライラしてしまいます。
 「また調子が悪くなってきているのかも知れない……」
 このところ寝つきも悪くなってきていて、Nさんは自分の状態がとても心配です。
イライラは
なぜ起こるのか?

 Nさんのように、「うつ」の経過中にイライラしやすい状態が現われることは、決して珍しくありません。
 「最近、イライラするようになってしまったんです」という言葉をクライアント(患者さん)が口にすると、治療場面においても大抵の場合は、これを「衝動性の亢進」「情動が不安定になった」として、悪化の兆候と捉えられてしまうことが多いようです。
 しかし、この状態をどう捉えるのかによって、その後の経過がまったく変わってくるので、私は治療上とても重要な局面だと考えます。
 まずは次の【図1】を使って、感情について考えてみることにしましょう。
【図1】感情の井戸

 これは、私が「感情の井戸」と名づけているものですが、第1回で登場した「頭・心・身体」の図のバリエーションです。
 理性の場である「頭」は、「心」との間にある蓋を閉じて、感情のコントロールをしばしば行ないます。

 現代人は、かなり慢性的にこの蓋を閉めている状態になっていることが多いのですが、この図のように、抑えられて出られずにいる感情は、「怒」「哀」「喜」「楽」の順番で溜まっているイメージで捉えられます。
 一般的には感情を「喜怒哀楽」という順番で言うわけですが、私が臨床的に多くのケースを観察した結果、どうもこのような順番になっていると考えられるのです(詳しくは拙著『「普通がいい」という病』【講談社現代新書】をご参照ください)。
「怒り」を抑えること
のデメリット

 この「怒」「哀」「喜」「楽」という順番が、とても重要なポイントになります。特に上の二つの感情は、俗に「ネガティブ(マイナス)な感情」と言われているもので、一番上にあるのが「怒」です。
 ですから、「心」がエネルギーを回復し、「頭」の過剰なコントロールに反発して感情を出そうとしてくる際に、最も初めに顔を出そうとしてくるのが「怒り」の感情ということになります。
 「怒」のボールは、「頭」が閉めている蓋に抗して、これを押し上げようとしてきます。これが、イライラの状態です。いわば、火山が噴火する前に起こる地震のようなものです。
 ですから、このイライラを悪化の兆候と見て、ひたすら感情のコントロールを強化する方向で治療を行なってしまうと、せっかく開こうとする蓋を再び閉めることになり、「心」が回復しようとする芽を摘んでしまうわけです。
 しかし、「怒り」は大抵の場合、抑えるべき感情と捉えられているものですし、やたらにまき散らしてしまえば厄介なトラブルの元にもなることは否めません。そこで、この感情解放の初期段階をうまく経過させるには、ある種のコツが必要になってきます。
「ポジティブ思考」が
長続きしない理由

 「怒り」を抑えているものは、「怒り」をネガティブと捉える道徳的な価値判断や、人間関係への配慮が主なものでしょう。しかし、先ほどの図で示したように、ネガティブな感情が出られなければポジティブな感情も出られません。世に言う「ポジティブ思考」というものが長続きしない訳は、ここにあるのです。
 そもそも感情をネガティブ/ポジティブに分ける二元論的判断のところに根源的な問題があるのではないかと私は考えています。コンピューター的な性質の「頭」は、コンピューターが1/0の二進法を基礎にして作られているように、二元論的判断を思考の基本要素としているので、どうしてもこのようなことが起こりやすいわけです。
 本来「怒り」は、ネガティブというレッテルで差別されるべきものではありません。
 不当なもの、理不尽なもの、愛のないもの、侵害的なもの等に対して自然に「心」から生み出されてくる感情が「怒り」なのであり、人類の歴史を見ても、革新的な試みは常に、旧態依然としたものへの「怒り」が基になって成し遂げられてきました。「怒り」は、閉塞的状況を打開する創造的エネルギーの発露でもあるのです。
 もちろん、巷で目にする「怒り」には、自分勝手な欲望が満たされないために出てくる未熟なものや、古い怒りが溜め込まれ腐敗して八つ当たり的にぶちまけられるもの等々、質の悪い「怒り」がかなり見受けられます。
 しかしながら、その面だけを見て「怒り」をネガティブと誤解してしまうと、「怒り」の持つ大切な意義を見落とし、その力を生かすことができなくなってしまいます。

「怒り」と
どう付き合うか?

 これは「うつ」に限らないことですが、「怒り」の扱いが不適切なために、「怒り」の悪循環に陥っている方がよくあります。
 生み出された時には鮮度の良いもっともな「怒り」であったはずのものが、「怒り」を抑える習慣によって溜め込まれて腐敗し、それが溜まり溜まって圧力が高まり、ひょんなきっかけから不適切な場面で暴発してしまう。それを本人はいたく後悔しますが、それゆえ再び感情の蓋を強固に閉めてしまって、また「怒り」が充満しやすい状態を作ってしまう。これが、悪循環の構造なのです。
 アルコールで蓋が緩んだ時に暴発すると「酒乱(病的酩酊)」ということになりますし、親密な人間関係の場面でコントロールが緩んで暴発する場合には「DV(家庭内暴力)」の形をとるかもしれません。
 このような悪循環から抜けるためにも、「怒り」をただ蓋をしてごまかすのでなく、自分自身が「怒り」を受容しどう処理できるのかが大切なことになります。
 「怒り」を自分で受容することと、やみくもに外部にまき散らすことは違うことです。「怒り」の受容とは、「心」から出てくる「怒り」を、「頭」が共感し承認することなのであって、言動として外に表すかどうかは、まったく別の「社会性」の次元の問題なのです。
 そうは言っても、溜め込まれて充満している「怒り」を扱う場合には、「社会性」を吹っ飛ばして暴発する危険性もありますから、専門家のサポートも重要になってきます。
「心の吐き出しノート」
をつけてみる

 しかし、自分自身でできる工夫の一つとして、私はよく「心の吐き出しノート」というものを勧めることがあります。
 これは、決して誰にも見せてはならないノートです。しかし、そこには遠慮なくどんな罵詈雑言を書いてもよいことにするのです。書きたい時には、何ページでもよいからスッキリするまで書くようにします。もちろん、日記ではないので、書きたくない時に書く必要はありません。モヤモヤ・イライラ・ムシャクシャした時に、これを一人で誰にも邪魔されない状況で行なう習慣をつけるのです。
 「書く」という行為は、必ず「頭」の協力を必要とするものです。そのため、実際に感情を文字にして吐き出す作業に着手することは容易ではありません。しかし、徐々にこれができるようになってきますと、自ずと「心」と「頭」の間の蓋が開き、両者に協働的な関係が作られていくようになります。
 「怒り」を力づくで鎮圧するのではなく、このように自分で受容する方法で解決しますと、「頭」と「心」の関係に本質的な変化が生じます。つまり、「頭」が独裁的に「心=身体」をコントロールするという病的な構造が解消されるわけです。
 ともすれば悪者扱いされてしまう「怒り」も、見方を変え、扱い方を工夫することにより、ジェットエンジンのような力強さで見事な働きを示すものにもなり得るのです。
 次回は、休職している人が「一日も早く職場に戻りたい」と思うことについて、考えてみましょう。

ーーーーー
「早く職場に戻りたい」――復職を願う「ウツ」休職者に潜む落とし穴
――「うつ」にまつわる誤解 その(9)

 このところの急激な景気悪化により、雇用情勢が極端に厳しいものになってきていますが、これが「うつ」等の事情で休職中の方々にとっても、強く焦りを生じさせることになってきている傾向があるようです(ダイヤモンド・オンライン「inside 第262回記事」参照)。
 そこで今回は、「復職」を急ぐ気持ちについて考えてみたいと思います。
焦ってなんか
いないのに!

 Yさんは大手メーカーの企画開発チームのリーダーですが、半年前から「うつ病」の診断で休職中です。
 当初はどうにも動けないくらいの状態でしたので、自宅療養も致し方ないと思って休養に専念する気持ちでいました。しかし、3ヵ月ほど経った頃から、抑うつ気分・意欲減退・疲労感・睡眠障害などの自覚症状が軽くなってきて、1日も早く職場復帰したいという気持ちが徐々に強まってきたのです。メンタルクリニックへの通院間隔も、状態が落ち着いてきたということで、毎週だったものが隔週で済むようになっていました。
 Yさんは、そろそろ「試し出社」ぐらいできそうだと強く思うようになり、休職も4ヵ月が過ぎた頃、思い切って主治医に復職への気持ちを話してみることにしました。すると、主治医からこんな答えが返ってきたのです。
 「確かに、状態は確実に良くなってきてはいます。でも、まだ復職のことを考えるのは早いと思います。会社のことを今は考えずに、もうしばらく自宅療養を続けた方がいいと思いますよ」
 これを聞いたYさんは、納得がいきません。
 「もう十分元気になっていますし、出社できる自信もあります。家でゴロゴロしている方が、私にはかえってストレスなんです。私がいなければ進まないプロジェクトもありますし……。もうしばらくって、いったいあとどれくらいなんでしょう?」
 「今はまだ、Yさんは焦っている感じがします。その焦りがなくなったらということです」
 「全然、焦ってなんかいないつもりなんですが……」
 結局、この時点では主治医から復職の許可がもらえず、Yさんは今でも自宅療養を継続しています。しかし、主治医に言われたような「焦り」が自分にあるとは感じられないので、今でもYさんは、どこか釈然としない気持ちが続いています。
「焦り」という説明では
伝わらないこと

 このYさんのケースに限らず、復職の時期をどう見極めるかということは、医師側の見立てと患者さん自身の気持ちとが食い違いを生じやすく、治療の流れの中でも難しいポイントの1つです。
 このYさんの主治医のように、「焦り」というキーワードで「復職が時期尚早であること」を説明されるのが、一般的にも多いのではないかと思われます。

 しかし、医師からは「焦り」に見える状態であっても、Yさんのように、それを本人が自覚していないことも多く、患者さんにしてみれば、いわば身に覚えのない「焦り」があると指摘されたようなものですから、せっかくの復職の意欲をそがれたとさえ感じてしまうかもしれません。
 そこで、治療者も患者さんも一致できるような状態の見極め方が必要になってくるわけですが、それには少々コツがいります。
「復職したい」は
本当に「心」の声なのか?

 ここでまた、連載第1回で使用した図を参照してみましょう。
 改めて説明しますと、「頭」とは理性がコンピューター的な機能を果たす場所で、「~すべき」というようなmustやshouldの系列の言い方をするところです。
 一方の「心」は感情や欲求の場であり、「~したい」といったwant toの系列の物言いをするところです。
 しかし、今回取り組んでいるようなテーマを考えるうえでは、これだけではうまく説明がつきません。つまり、図式通りに考えた場合には「会社に復帰したい」ということは「~したい」なので、これは「心」の声であると判断されます。それならば、患者さんは良い状態なのだから、復帰を引き留める必要などないことになります。
 しかし、Yさんの場合のように、本人は自覚していないけれども、治療者や周囲の人間には確かに感じられる本人の「焦り」については、これではうまく説明できないのです。
 それでは、この状態をいったいどう考えたらよいのでしょうか。
「頭」は「心」の
ように偽装する

 先ほど、「~すべき」と言ってくる場所が「頭」であると説明しましたが、「頭」はしばしば、これを「~したい」と《偽装》することがあることを知っておく必要があるのです。
 この「頭」が偽装する機能について、便宜的に「偽の心」というものがあると考えて、次の図のようにイメージしてみましょう。
 「偽の心」から出てくる「~したい」は、その正体が「頭」由来の言葉であるために、「心」が「~したい」と望んだ時のようには「身体」がついてきてくれません。そのような状態では、「~したい」という言葉が出てきていても、表情を含めた「身体」の感じが伴っていないちぐはぐさが見てとれます。それが、周囲の人間には「焦り」として伝わるのだと考えられます。
 このように考えてみれば、Yさんの場合の「復職したい」がどういうものであったのか、理解できるのではないかと思います。

本当に復職が可能なのは、
どんな状態の時なのか?

 では、本当に「心」が「復職したい」と言ってくる状態、つまり復職が真に可能な状態とは、どんなものなのでしょうか。
 「うつ」とは、そもそも「頭」の一方的な支配下に置かれてうんざりした「心」「身体」が、「頭」に対するレジスタンス運動としてストライキを起こした状態です。ですから、「頭」の指令によって動くことについては、キッパリとした拒否反応を示します。そのため、「頭」の偽装した「復職したい」によって復職を試みたとしても、うまく長続きしないことが多く、再び休まざるを得なくなるリスクが高いのです。
 Yさんのように「偽の心」由来の復職希望が出てくる時期に、先ほど述べたようなからくりを本人も理解できれば、その後にやっと、真の意味で「心」や「身体」が休養できる時期がくるのです。そうなった状態では、当然ながら「休んでいること」について「頭」が否定的にコメントしてくることはありません。少々大げさに言えば、休んでいることを安心して享受する感じになるわけです。
 極論めいて響くかも知れませんが、事情さえ許せば、人間というものは義務を伴う仕事を決して自発的に「したい」とは思わない生き物であるはずです。しかし、近代化された社会に生きている私たちは、仕事は初めから当然「すべき」ものだと教化され、「したい」とさえ思い込むまでに「社会化」されてきています。しかし、この「社会化」とは、もっぱら私たちの「頭」に対してなされたものであって、自然の摂理を失わない「心」や「身体」は決してそれに染まってはいません。
 ですから、「頭」が余計な口出しをしない「真の休息」状態にいたった際に、「仕事になんて、本当は行きたくない」という最も正直な気持ちが表れてくるのは、いわば当然の理なのです。
「真の休息」の後に
何が起こるか?

 このような「真の休息」の時期を過ごしていきますと、その先に不思議なことが起こってきはじめます。
 それまで心地良かった「休む日々」「好きに遊ぶ日々」が、何か物足りない「退屈なもの」に感じられるように変わってくるのです。ここが、人間が「社会的動物」と呼ばれるゆえんなのでしょう。つまり、社会と関わって自分をその中で生かしたいという欲求が、自然に「心」から湧き上がってくるようになるのです。
 これは、「偽の心」が出してくるものとは、決定的に質が異なります。その違いは、本人にも、周囲の人間にもはっきりと感じ取れるくらいのもので、ある種の「生気(精気)」に満ちた状態と形容することができます。
 このように、「心」由来の真のモチベーション(動機)にもとづいて行われる復職(社会復帰)は、もはや本人自身も周囲も不安を抱くことなく行える永続的なものになります。
 逆に言えば、復帰と休職を何度も繰り返してしまうケースや、長い期間状態が改善できずにいるケースのほとんどは、「真の休息」にいたる前の段階で復帰を急いでしまっているか、「社会化」された「頭」が「心」に「真の休息」をいまだ許していない状態にあるのではないかと考えられるのです。
 次回は、「薬物療法」にまつわる様々な誤解について考えてみることにします。



共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。