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認知療法の未来型

認知療法では
この一週間を振り返ってもらって
あの時はこう感じたとか
こう言えばよかったとか
考えるのだが

過去の出来事を本人が語ると何るとかなり尾ひれがつくものだ
それはそれで意味があるし大切で
そこから話が進むのだけれど

たとえばの思考実験として
一週間の日記やスケジュール表や認知行動感情記録の代わりに
アクセサリーみたいに見えるマイクとビデオを使って
視線の向いたところと耳から聞こえる範囲のものを記録する
一週間に見たものと聞いたことと話したことを全部記録して
それを診察室で早回しして振り返るとする

その振り返りを本人が考えて圧縮したり抽象化したり
ときには過剰な形容詞で語ることが情報としては大切なところだけれど
その話は難しいので触れないことにして
実際どうだったかを
ビデオとマイクで記録してしまう

こんなことは大抵の人は恥ずかしいからしたくないのであるが
それでも診察室に来て何か話すのも不思議といえば不思議だ

誰にも見せていないいろいろなことが写っているはずで
この日月経が始まったとか
大便のあとではかならず見るのだとか
自分でも分からないはずの睡眠時無呼吸とかも分かってしまうし
静かな場所でのおならも分かってしまう

最近の幼児精神医学は
母子相互関係を分析しようというので
母子の様子を仔細にビデオ録画してそれを分析する
相互作用というくらいで
お互いが変化して成長して行く様子がよくわかる

幼児期における母子関係くらいメキメキと変化するものならば
分かりやすいが
一週間を通じて観察して何を抽出するか、なかなか大変だとは思う

たぶん
こんな装置を使ってみれば結果として
人間は良く考えて行動するようになると思う

あとで後悔しないように
あとで説明しにくいことはしないように
と気を使って生きるようになるので
人生は随分といいものになる

ただそれだけのためにこの装置をつけても価値があるくらいだ

ーー
一週間といわず
一生分を記録してしまえばいいというのが私の以前からの考えだ

だれも賛成しないが
技術的にはもう難しくない

ただ倫理的に難点があることだけだ
それは非常に大きな倫理的難点でやはりだめそうだ

しかし可能なことは誰かが必ずやってしまうので
将来はインドか中国か南アフリカでいくつも例が報告されて
いろいろなことが分かるだろうと思う

人間はどのあたりから否定的な認知を発達させるのかとか
分かる

否定的な認知が適応的であった時期があるはずだ
その背景がわかる

そのとき身につけた否定的認知をなぜいま繰り返しているかも
体験や環境の同型性をたどれば分かるかもしれない

ーー
分かったとして
そのあとが難しい

要するに
否定的認知も肯定的認知も必要なのであるが
どんなときどんな場合に発動させればよいかを学ぶことだ

そのような「メタ適応」も脳の機能で
そこにも否定的認知が入り込む

認知も含めて脳は人間が生きるための道具なのだから
道具として効率的に使えばいいだけだがややこしい

ーー
そんなふうに言えば
生存と繁殖だけが目的になり
進化生物学の言うとおりになりそうであるが
そんなことを考えているのはやは脳だというパラドックスが
どうしても出てきてしまう

脳死は人間の死だと言いそうなのは脳なのだ

脳死であっても
精子を作っていたり
親戚にいい影響を与えて
DNAの生存と拡大に寄与すれば
短期間といえども
立派に生きていると言えるじゃないかというのが
生殖細胞からの意見になる

ーー
脳を道具として効率的に使うのは脳だろうから
ややこしい

ーー
そんな話はあとにしても
子供に一日中帽子をかぶせたり
髪留めをつけたりしておけば
全部わかるのだから簡単というものだ

この子はどこで何を覚えてきたのか
全部わかるのだから
興味は尽きない

倫理問題があるならまず
動物で実験したいものだが
その記録を分析する仕事はしたくない
報告だけ聞きたい

ーー
脳は脳を理解できるかという
原理的な問題が昔からある

脳神経細胞のひとつひとつのつながり方を理解して行くとして
ひとつの脳をもうひとつの脳が理解する頃には
もうひとつの脳が「ふたつ分」必要になってしまうはずだ

だからかなり適切に圧縮をかけて理解しないといけない
そのような圧縮をかけたとして本質的に脳を理解したことになるのかどうか
論争は尽きない

短縮すれば
人生は無意味で努力は無駄だと言えそうだ
だから短縮しすぎもよくない

このようなことを考えるのが脳というものなのだと
脳は考える


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