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言語の誕生とは、無の認識と超自我の誕生である

いないいない遊び

 さて、幼児はどのようにして言語を習得してゆくのであろうか。ぼくたちはだれもがかつて言語を習得してきたにもかかわらず、言語を習得した経緯を忘れてしまっているかのようなのだ。そのため科学的には、言語が習得されるプロセスにはまだ大きな謎が隠されている。そして幼児の頃に一つの言語を習得するのが容易だったのと逆比例するかのように、新たな外国語の習得には苦労するものだ。第二言語の習得の困難さは、幼児の頃の言語の習得の容易さの「報い」であり、負の遺産でもあるかのようである。

 この問題を考えるのに、きわめて示唆的なのが、フロイトの孫の言語の習得における一つの「遊び」の物語である。フロイトの愛娘のゾフィーには二人の息子がいた。その長男のエルントストルが一歳半の頃、「いないいない遊び」をして楽しんでいた。ベッド越しに紐を付けた糸巻をほうり投げて、「糸巻が姿を消すと、子供は意味ありげなオーオーオーを言い、それから紐を引っ張って糸巻をベッドから取り出すと、いかにも満足そうに〈いた〉(ダー)という言葉で糸巻を迎えた」[1]

 ダーはドイツ語で「ここ」を示す副詞であり、オーオーオーは、「いない」を示すフォルトを意味していることは、フロイトも母親のゾフィーも意見が一致していた。エルントストルはまだ言葉をしっかり話せず、言葉を使い始めたばかりなのである。それではこの遊びは何を意味しているだろうか。「いないいないばあ」を一人で演じているのは明らかなのだが。

 ただし奇妙なことは、幼児が「いないいないばあ」遊びできゃっきゃっと喜ぶのは「ばあ」の瞬間であるのに、エルントストルの遊戯では、オーオーの「姿を消す」動作が、「それだけで、遊戯として倦むことなく繰り返された」[2]ということである。そのため最初はフロイトも母親も「姿を消す場面ばかりを目撃していた」[3]のだった。もちろん子供の喜びは、ダーの時のほうが大きかったが、姿を消すオーの遊戯は、「喜びに満ちた結末をもたらす〈いた〉の場面よりも、はるかに頻繁に演じられていた」[4]のである。

遊戯の意味

 フロイトはこの遊戯の意味を次のように解釈している。エルントストルは「母親にとても懐いていた」[5]。そしてこの時期に、母親が不在がちになることが多かった。愛する母親の不在は子供にとってとても苦痛なものだったに違いない。そこでエルントストルは糸巻遊びを考えて、この母親の不在を糸巻のオーで代理させ、それを取り戻してダーで喜んでいたに違いない。

 しかし経験として苦痛なオーが、喜びをもたらすダーよりも頻繁に繰り返されていたのはなぜだろうか。子供はこの母親の不在という「苦痛な経験を遊戯として繰り返す」[6]ことを好んだのはどうしてだろうか。それについてフロイトは二つの解釈を示す。一つは苦痛な経験を自ら反復することで、それを克服することが試みられたというものである。「受動的に経験に〈見舞われた〉」[7]ことを、遊戯のうちで自らが能動的な役割に立つことによって、克服するのである。

 子供が医者に喉を覗きこまれたり、ちょっとした手術をした経験を、人形や遊び仲間を相手に反復することがある。これは「子供が受動性から遊戯の能動性に移行することにおいて、子供は遊び仲間にこの不快な体験を味わわせ、この代理の人格に復讐する」[8]のである。不快な体験や苦痛な体験は、思い出さないように抑圧するのではなく、これを意識して能動的に立ち向かうことで、克服できることも多いものだ。

 

 第二の解釈は、第一の解釈と少し重なるが、この遊戯には自分に十分な愛情を注いでくれなかった母親への復讐の気持ちが込められているというものである。「いいとも、いなくなっちまえ。お母さんなんかいらないさ。ぼくがお母さんを自分であっちにやっちゃうんだ」[9]という意味を込めた遊戯だったのかもしれないのである。

言語の習得と象徴的次元

 フロイトは、人々が苦痛な経験を反復することが多いということから、「死の欲動」という概念を提案するのだが、それは別としてここでぼくたちのテーマにとって重要なのは、この遊戯が子供にとって初めて言葉を使えるようになる経験と重なっているということである。このことを明確に提示したのがラカンである。ラカンにはこの糸巻の遊戯のうちに、二つのことをみいだす。言語が死と根源的な結びつきをそなえていることと、自己のうちの他者の審級、すなわち超自我の確立である。

 ラカンによると、人間が言語を習得するということは主体のうちに象徴的な次元が生まれることである。鏡像段階においては、自己のアイデンティティを確立する方法がなかった。そこに言語というものが登場することによって、象徴的な次元が確立され、自己の同一性が決定される。「フロイトの発見は、人間の本性における象徴的次元に対する人間の関係の入射という領野の発見であり、また、その意味を存在の中で行われる象徴化作用のもっとも根源的審級という地点まで高めたことである」[10]とラカンは評価する。

言語と死

 この象徴的な次元を作りだすものが、無の認識であるとラカンは考える。動物には無の認識というものが欠けているようだ。動物は死なないとハイデガーは語った。動物はただいなくなるだけである。死をたんにそこにいないことではなく、永遠の不在として認識するためには、死と無の認識が、死の概念が必要なのである。この無の認識が人間を人間たらしめるものであることは、「われわれがその遺跡の中に人間性を認識する第一の象徴は、埋葬ということ」[11]であるとラカンが語るとおりである。

 だから言語のもっとも根源的な役割は、人間に概念を、そして何よりも無の認識を与えることだと考えることができるだろう。代数の体系がゼロの発見によって可能となったように、言語は無の認識によって完成する。そのことをラカンは、「実際の用法から解放された象徴的なものが、いま、そこにあることから解放された単語となるためには、ある変化が必要であり、その差は素材の音響としての性質に属するものではなく、その消失していく存在そのものに属しているのである。そしてそこにこそ、象徴は概念というものの永遠性をみいだすのである」[12]と言い換える。

 エルントストルがダーだけではなく、オーを認識した時、それは母親の不在を概念として、言語として認識したということである。子供は無を認識したのだ。フロイト自身も、「この子が五歳半の時に母親が亡くなった。そして母親が本当に〈いなくなった〉(オーオーオー)にもかかわらず、子供は悲嘆を示さなかった」[13]と書いている。言語によって無を認識した子供は、そして遊戯のうちで母親をみずから殺害していた子供は、実際の母親の死に耐えることができるようになっていたのである。

言語と他者の審級

 第二の点は、この遊戯のうちで子供は自己のうちにあって、受動的に苦痛な耐えるだけでなく、その苦痛を味わう自分を眺めて、能動的にふるまうことを学ぶのである。子供は自己のうちに、自分を眺める他者のまなざしを受肉したのである。

 

 ラカンはこう語る。「いない(フォルト)、いた(ダー)。たしかに。彼の孤独の中では、その小さな人間の欲望は、すでに他者の欲望となっている。他者とは、彼を支配する〈他なる自我〉(アルター・エゴ)であり、このエゴの欲望の対象は、それ以後自身の苦痛そのものである」[14]。言語の誕生は、無の認識の誕生であるとともに、他なる審級、超自我が誕生することでもあったのである。

鏡のまなざし

 この他なる自我は、母親の不在に耐えるために、遊戯を作りだす自我であり、子供はこの他なる自我のまなざしのもとで、自分にとっての死の意味を認識するのである。そしてこの死の意味の認識、オーの認識が、フォルトという言葉の習得を可能にし、言語の獲得が、死の意味の認識を可能にするのである。そしてこの他なる者のまなざしが「鏡のまなざし」であることを示す興味深い逸話をフロイトが語っている。エルントストルは自己の不在を、鏡の中に発見したのである。

 ある日、母親が数時間留守にした後で、子供に「坊や、オーオーオー」という挨拶で迎えられた。初めのうちは何のことか、まったくわからなかった。しかしそのうち、子供が長い時間一人でいる間に、自分の姿を消す方法を発見していたことが明らかになった。ほとんど床の高さまでさげられた姿見の中に自分の像を見つけ、次に低くかがみこんで、鏡の映った姿を〈いない〉にしていたのである[15]

 メルロ=ポンティもまた鏡像が無の認識をもたらし、同時に超自我を誕生させる機能をはたすことを指摘している。「鏡像の一般的な機能は、われわれをわれわれの直接的現実から引き離すことにあると言えましょう。それは一種の非現実化機能とも言うべきものです」[16]。鏡のうちに自分を眺め、自分の不在を眺めることは、非現実化、すなわち無を認識することである。

 同時に、鏡像を体験することは、他なる自我を誕生させるものであることについてメルロ=ポンティは、「幼児にとって初めて、自我が、彼がそのつど体験し欲しているところのものと混同されないようになり、そしてこの生きられる自我、直接に生きられている自我の上に、構成された自我、遠くに見える自我、想像的自我、つまり精神分析学者たちの言う超自我が、積み重ねられることになります」[17]と指摘する。

鏡のまなざしと言語の習得

 またこの鏡像と自己の死の認識が、言語の習得と重なるものであることは、「私」という一人称の使い方を習得することが、構造的にこの鏡のまなざしと同じ意味をもつことにも注目しよう。すでに考察してきたように、鏡を眺めることで、幼児は自己の身体を認識すると同時に、自分が他人のうちの一人にすぎないことを認識させられたのだった。「人間の幼児は、本当の生理学的成熟に達する以前に、他人を感じることができ、おのれを他の人たちの中の一つの同類と見なすことができる存在なのです」[18]とメルロ=ポンティが語るとおりである。

 鏡のまなざしによって、自己を他の人々と同類の一人にすぎないことを認識できるようにならなければ、「私」とは言えないのである。子供は幼い頃には、呼び掛けられる名前を一人称に使う。太郎という名前であれば、周囲の人々は「太郎君」と呼び掛けるだろう。子供は自分は太郎なのだと認識し、自分のことは太郎と呼ぶだろう。やがて子供が成長すると、一人称の「私」という代名詞を使うことができるように なるだろう。しかしそのためには、自分が他の人々の同類の一人であり、次郎も自分のことを「私」と言い、花子も自分のことを「私」と言うことが認識できる必要がある。「〈私〉」という語が使用されうるためには、視点というものは相互的なものだという意識がなければならないのです」[19]

 エディプス・コンプレックスの克服において、子供は自分が構造的に父親の立場に立つことで、母親の地位に立つようになる他なる女性を愛することができるようになったのだった。これと同じように、言語を習得することは、ここでは一人称の代名詞が使えるようになるということは、この一人称代名詞は特定の人物を指すのではなく、構造的にそれを語る人を指すものであることを認識できるようになることである。言語を習得したということは、それは「自分の目の前にいるどの人もみなそれぞれに〈私〉と言うことができるし、その人たちはみな自分自身にとっては〈私〉であり、他人からみれば〈お前〉なのだということを、幼児が理解したときです」[20]

 このように言語の習得は、死の認識をもたらし、話者のうちに超自我を形成させる役割をはたす。そして子供は、実際の父親や母親との絆から解き放たれ、欲望の「昇華」という道をたどって、言語によって可能となる文化の世界に乗り出す手掛かりを手にするのである。

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