コンビニ弁当を主食とし、会社のソファをねぐらにする
そもそも中小のゲーム会社の社長なんてのは、コンビニ弁当を主食とし、会社のソファをねぐらにすることを運命づけられた職種である。
さらに言えば、育ったと思った人材はとっとと辞めていってしまう業界なもんだから、社員に給料を払いながら社会適応の授業をしているような割の悪さがある。
社内のパーティーに向けて「ボンゴレのパスタをつくるからアサリの買い出しを頼む」と金を渡したら、「これしかなかった」とハマグリを買ってくる、いわゆるR25世代を雇い集めて利益を出さなければならない現実…これが僕のゲーム会社の現実である。
信じがたいような事件を、就業経験の浅い若手社員たちが日々起こしてくれる中小企業という環境は、だから、一度でも大企業に居たことのある人なら誰しもが「なんでそうなるねん?」とこの理不尽さにめまいがするところなのである。
こういうストレスフルな日々のせいで免疫力が低下するのを実感するうち、「いつまでこんな生活を続けるのだろうか?」という疑問が湧いてきたわけです。
「大企業では当たり前にしか見えないことが、中小ではかなり得難い」
どんな業務だって専門性というものがある。ただ、それを教えてくれる教師が社員1人に対して何人居るか、というのが企業成長のスピードを決める。コミュニケーション能力の高い人材を集めても、監督が1人しか居ない職場は成長が遅い。
ある年、事務担当の女の子がこう提案してきた。「社長、今年はクリスマスカードをいつもより早めに準備しましょう」と。
さっそくメインのデザインをいつもより2週間も早く決め、あとは「メリークリスマス」などの定例の文字を入れて印刷に回すよう社内のデザイナーに指示した。
それから数日後、この年は例年よりも早く印刷されたカードの束が届いた。私は満足げにその印刷物を手に取って「いいじゃない」とニマニマ眺めていたのだが、よく見たら、Merry Christmasとすべきところが“Mary” Christmasとなっている。「おい、これ綴りが違うぞ。マリーは“結婚”だよ…」と僕はつぶやいた。「雰囲気だけで作っちゃダメだよ。ちゃんと辞書とかで確認しないと恥をかくことになる」とデザイン担当者に注意すると、「僕は英語は専門じゃありませんよ」という逆切れ風の開き直った返し文句。
それから1週間ほどして、「修正が間に合いました」と第2刷りが届いたので、再び手に取って見た次第。「今回は複数の人がスペルミスをチェックしたの?」と聞くと、「はい」という自信ありげな返事。
ほっとしながらカードを見てみると、今度は地図の目印となっているWendy’s(ウェンディーズ/麻布十番駅のシンボル的ハンバーガー店)の綴りがWednesday(水曜日)となっているではないか…。うっかりそれを口にしてしまったら、デザイナーは逆にふてくされてしまって口も利いてくれない。周囲の女子社員たちの顔からは笑顔がすーと消えて、会社の空気は凍り付いしまった。
その晩、僕は年齢の近い同業の社長を誘って飲んだくれた。そしてこう愚痴った。「英語は専門じゃない、と開き直られたけれど、プログラマやデザイナーに、ごくごくの一般常識を求めてはダメなのか?」と。確認のために辞書を引くとか、そういう基本的な行いは義務教育で習う範囲ではないのか?と。
大企業というのは、商売をするシステムができている。その線路の上で求められるものは、特殊な才能ではない。特殊な才能が必要なのは、最初の線路を引く側の話だ。
客というのは、ただで担当者を叱ってくれる教師だ。
「就職情報」でも「とらばーゆ」でも、要するにフォーマットが決まっているメディアを広告で埋めてゆく。風土づくりさえできれば、実に効率がいい事業だ。日々、短いスパンの仕事を何回もくり返す中で、学習効果が出てくる。
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仕組みを作るのは難しいし
成功すればすぐに資本力のある組織にパクられるし
もともと職人というものはこつこつと自分の仕事がしたいものなのだし
そのために会社を作るのに、必然的に人事関係に忙殺されるなんてことになり
いろいろ難しい
でも会社がすきだから 会社のソファで寝てしまいます
給料払いながら教育してしまいます そして感謝もされません
「割に合う」仕事をする人たちはやっぱり頭がいいんです
頭が悪いから 我々のように 割に合わない仕事を続けているわけで
でも、人生って、結局、割に合わないですよね、思うに
それが大前提ですから、もうそこから先はあまり考えないようにしています
結局徒労だと言えば確かにそうで すべては無駄だと ムーミン谷の哲学者みたいになるわけですが
その虚無の認識よりも何かをしたい情熱が強いんだ
盲目的なものでしょうね、その情熱は