ソニービル
ソニービルに行った。
テンション上がらない。
ユニセフ?
ブラビア?色に力なし。
ブルーレイはまだ普及しない。高い。
PSは興味ない。
ハイビジョンはきれいだけれど、
その解像度を本当に必要とするだけの映像は、
まだ少ない。
そして、本当は解像度なんかは問題ではない。
感動がこもっているかどうかだ。
感動がこもっていれば、解像度は低くても、全く問題ない。
職員は職員同士で無駄話ばかりしている。
早くも老舗病にかかったのか。
ソニー製品より、革靴に興味を持った。
元気のいい若々しいソニーを望む。
夢がしぼむばかりのソニーだった。
かなりがっかりして帰宅。
あの日、ソニー株を買った人と世界グローバルファンドを買った人とでは、
かなり差が出ている。
もちろん正解は超多角分散投資だけれど。
昔、ソニービルの下にはソニーの販売店があり、
その隣にハンターという中古レコード屋があった。
懐かしい。
いま青春は懐かしむものになっている。
いま青春は不可能である。
ルロール夫人 素材の美
ルロール夫人を一見してまず驚かされるのは、
洋服の表面をきれいに一面に覆う金色の細い糸である。
洋服の表面だけを金糸で飾るように設計されたものと
感じられる。
超現実派、超細密描写、そんな感じに近いだろう。
スーパーリアリズム。
スーパーなどという生やさしい一直線のものではなく、
トランスといった感触である。
洋服に一見の価値あり。
そして隅にある花もまたそれだけで充分に芸術にふさわしい。
彼女はTissotのモデル、美神、愛人。
そして彼女はそれにふさわしい。
画面から溢れ出て放射するものを、
この国ではなんと名付けるものだろう。
布を見事に描ききったことは成功の第一因である。
ソファとクッションの布の皺の具合まで圧倒的に支配している。
そして散りまぶされる黄色という暗号。
次に布に透けて見える女の肌。
これが成功の第二因である。
すべては愛人との時間のためであり、
絵を仕上げることも仕事でありながら愛の営みなのだ。
画家の幸福はここにきわまる。
でも、マラソン監督がいて、マラソン女子選手がいて、
「監督のために走りました。監督に褒められたいです。」
そんなケースとはかなり違う。
エロスに違いはないけれど、
絵の中では、
女は男性の従属物ではない。
女は男性を崇拝していない。
むしろ女が崇拝されているのだ。
そこがマラソン師弟と異なるところだ。
彼女は美神であり、地上に降りた美とエロスのイデアなのである。
あまりにも輝いているルノワール
あまりに輝きすぎている
ルノワールのせいである
こんなにも輝いた少女は
その後どのように生きればよいのだろう
写真ではよく分からないが、
本物の画面には明らかに魔法がある
白いブラウスの何という輝きだろう
瞳の色の何という魅惑だろう
肌の色の何という若さだろう
解説によれば、
ルーベンスの髪の毛、
アングルの顔の輪郭、
クールベの白塗り、
コローの柔らかな花模様の背景、
そしてルノワールの特別な温かみと愛情
こんな輝きを見てしまった私たちは
明日からどのように生きればよいのだろう
生き方を変えないとしたら、
絵なんか見ても意味がない
それにしても、思うのだが、魅力の大半は、
少女に属しているのだろう。
だとすれば、それは平面に絵の具で固定できるものであるはずはないのだ。
魅力のすべてが視覚情報であるはずはないのだ。
それなのに、ルノワールは視覚情報だけで魅力を表現し、
われわれは視覚情報だけで魅力を十分に感じ、
自分たちのに日常生活に欠けている何かを、
痛感させられる。
ただ目が構成するだけのものであり、
しかしそれだけで余りあるのである。