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「エビデンス」と「スピリチュアリティ」 水島  広子

1999 年,WHO(世界保健機関)の
総会において,健康の定義として従来の
「身体的(physical)」「精神的(mental)」
「社会的(social)」の 3 つに加え「スピ
リチュアル(spiritual)」という要素を
含めることが議論された。これによって
「スピリチュアル」という概念が広く知
られることになったが,宗教ではない
「スピリチュアル」という概念は現代日
本人の多くにとって決してストンと落ち
るものではないだろう。
 一方,最近の日本ではにわかに「スピ
リチュアル」がブームになっている。そ
の内容は玉石混淆で,現実世界からの単
なる逃避に近いものも多いようである
が,中には犯罪的な霊感商法などもあり,
「スピリチュアル」という言葉を聞いた
だけで「怪しげ」と感じる人が多いのも
無理はないかもしれない。「怪しげ」と
いうのは,何も犯罪のことだけではない。
一般に私たちは人を洗脳するようなもの
を「怪しげ」だと感じるものである。何
かを信じれば救われる,という概念に洗
脳されてしまい,周囲が何を言っても聞
かなくなってしまう状態,すなわち主体
的なコミュニケーションができないよう
な状態を,人は「怪しげ」だと感じるの
だと思う。
 私は精神科医としての仕事の他に,ボ
ランティアでアティテューディナル・
ヒーリング(AH)という活動をしてい
る。AH とは,1975 年に米国の精神科
医ジェラルド・G・ジャンポルスキーが
始めた活動であるが,簡単に言えば,心
の平和を唯一の目的として,怖れを手放
していくというスピリチュアルなプロセ
スである。自分は心の平和を選びたいの
か,選びたくないのか,ということを
自分に繰り返し問いかけることになる。
「他人が変わってくれなければ自分の心
は平和にならない」という考え方も手放
す,という点では,「社会に変化を起こ
したければ,自分がその変化にならなけ
ればならない」と言ったマハトマ・ガン
ジーの考え方にも通じる。
この活動は日経新聞などで紹介された
こともあり,広く知られるようになった。
ビジネスパーソン,医療福祉関係者,教
育関係者,社会活動家,障害当事者など,
さまざまな立場の人がまったく対等な個
人として参加しており,大変な好評を得
ている。ワークショップをそのまま実録
した『怖れを手放す』(星和書店)も広
く読まれているようである。
ところが,おもしろい現象として,
「周囲の人に勧めたいが,『ヒーリン
グ』とか『スピリチュアル』という言葉
が怪しげに感じられてしまうので,何か
違う名前に変えられないか」という相談
を時々受ける。私も真剣に考えてみた
が,せいぜい「愛」を「あたたかい心」
に変えた程度で,「ヒーリング(癒し)」
や「スピリチュアル」に代わる言葉は思
いつかない。それにしても,AH を「怪
しげ」と感じるとは,何とも皮肉なこと
である。なぜかと言うと,AH は,先
ほどの私の定義によると「怪しげ」の
代名詞とも言える「洗脳」とは対極にあ
るものだからである。「心の平和を選び
なさい」という教義を持っているわけで
もなく,単に「心の平和を選ぶか選ばな
いか」という選択肢を提示するだけであ
る。しかし,自分の心のあり方は状況に
よって自動操縦的に決められるのではな
く「それ以外の」選択肢があるという気
づきは時として人の人生を変えるほどで
ある。これは認知療法の構造にも似てい
るが,認知療法はスピリットではなくマ
インドのレベルに働きかけることを意図
して作られたものだと私は理解している。
このたび岩崎学術出版社から訳書『対
人関係療法総合ガイド』を刊行してい
ただいた。私は 1994 年頃より対人関係
療法の勉強を始め,1997 年に『うつ病
の対人関係療法』(岩崎学術出版社,共
訳)において初めて対人関係療法を日本
語で詳細に紹介した。今では対人関係療
法専門クリニックを開くに至っているし,
厚生労働科学研究の「精神療法の実施方
法と有効性に関する研究」にも入れてい
ただき,日本でおそらく最初となる対人
関係療法のエビデンスを得るべく微力な
がら努力している。
 対人関係療法の魅力の一つは,そのエ
ビデンスの確かさと豊富さにある。もち
ろん,精神療法も治療法として薬物療法
と同じくらいの検証を受けるべきだと私
は信じているので,精神療法のエビデン
ス研究には大きな可能性を感じている。
 一方,対人関係療法の魅力は,それだ
けではない。私は以前から,なぜ対人関
係療法がこんなにもよく効くのだろうと
不思議に思ってきたが,その鍵の一つが
スピリチュアルな変容にあるということ
をここ数年実感するようになってきた。
たとえば治療においては「ゆるし(過去
の手放し)」が自然と起こることが多い。
「ゆるし」は現在においてしか起こらず,
そして,自分の感情に本当に向き合わな
い限り起こらないが,対人関係療法は過
去ではなく現在に,そして感情そのもの
に焦点を当てる治療法であり,かつ患者
に無条件の肯定的関心を伝える基本姿勢
を持つため,そのような土壌が本質的に
あるということなのだろう。「ゆるし」
はマインドではなくスピリチュアルな次
元で起こるものだと私は考えている。
エビデンスで知られる対人関係療法に
おいてスピリチュアルな変容が起こる,
と言われてもちぐはぐな感じがするだろ
うか。でもエビデンスとはしょせん現実
に起こっていることを可視化しようとす
る試みである。「精神療法のエビデンス
研究」と言われたときに人が違和感を覚
えるのは,「人間の心はそんなに単純に
表せるものではない」という感覚のため
だと思う。「そんなに単純に表せるもの
ではない」ものを可視化しようとして,
エビデンス研究はこれからも未完成なま
ま前進を続けるのだと思う。そして,そ
の過程で,治療において感じられる「ス
ピリチュアルな変容」もとらえられるよ
うになるかもしれない。エビデンスとス
ピリチュアリティは決して相矛盾する概
念ではないと思う。
 学術的な場ではまだまだスピリチュア
リティについて語りにくい雰囲気がある
が,よく見てみれば,精神医学の領域で
も,例えばクロニンジャーが提案してい
るパーソナリティ 7 因子モデルの「自
己超越(self-transcendence)」は明らか
にスピリチュアルな概念である。有効な
治療の過程でスピリチュアルな変容が起
こるのであれば,それについての学術的
な基盤もいずれ追いついてくるだろう。
日本でも,これからいよいよ「スピリ
チュアル」という概念が咀嚼される必要
があると思うが,究極のところ,他人を
変えなければ気がすまないものは「怪し
げ」で,自分の心のあり方だけに責任を
持とうとするものが本来の「スピリチュ
アル」と言えるのではないだろうか,と
いうのが私の現時点での考えであり,今
まで「エンパワーメント」という言葉が
示そうとしてきた概念に近いものではな
いかと思っている。つまり,外部の条件
によって自動操縦されるのでもなく,ま
た,小手先のスキルを云々するのでもな
く,自分の中に本来備わっている力との
つながりを見出すこと,と言ってよいの
ではないだろうか。まさにそれは精神療
法が目指してきたものの一つではないか
と考える今日この頃である。








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「過食費」と「深い癒し」水島 広子 

 近著「摂食障害の不安に向き合う―
対人関係療法によるアプローチ」を読
んだ方から,「過食のお金や,アルバイ
トをした場合の収入の扱いなど,ずい
ぶん現実的なことを細かく扱っている
ので驚いた」という感想をいただいた。
その感想を聞いて思い出したのが,米
国では,対人関係療法(interpersonal 
psychotherapy: IPT)が,精神科医や
臨床心理士だけでなく,ソーシャルワー
カーの方たちに多く活用されていると
いう事実である。ソーシャルワークと
IPT のアプローチに共通点が多いから
だということを,IPT 創始者ワイスマ
ンに聞いたことがある。患者の現在の
対人関係と症状の関連に焦点を当てる
IPT では,治療の過程で,様々な現実
的な問題が解決することも多いし,ソー
シャルサポートの量的・質的充実も重要
な治療目標の一つである。これは,ソー
シャルワークを専門とする人たちには,
極めて親和性の高いアプローチだろう。
 振り返ってみれば,IPT が治療法と
して開発される際に多くを参考にしたサ
リバンは,当時圧倒的に優勢だった精神
内界的アプローチとは異なり,「精神医
学とは,人々についての,そして人々の
間のプロセスについての科学的学問であ
り,心や社会や脳だけに焦点を当てるも
のではない」と教えた。この時点で,精
神医学がソーシャルワーク的な領域に踏
み出したと言える。そして,サリバンの
考えは現在では多くの臨床現場に共有さ
れていると思うし,ソーシャルワーカー
の方たちの活躍の場が増えているのも,
それが必要なことだと認識されているか
らだろう。
 一方で,こうした現実的なテーマを扱
うと,単なるソーシャルワークになって
しまい,「深い」治療にならないのでは
ないか,と懸念する人々がいるのも事実
である。もちろんそのリスクは否定しな
い。例えば,治療者側が一方的に問題解
決をしてしまうようなやり方だと,治療
的なプロセスは進まないだろう。むしろ,
患者の無能力感や依存心を増すだけかも
しれない。要は,どういうスタンスで扱
うかということだと思う。IPT の魅力
は,現実的なテーマを通して患者の力動
を扱えるところにあると私は思っている。
そこで得られるものは,症状の寛解にと
どまらない。ゆるし,深い癒し,患者や
家族の人間的な成長に感動することも少
なくなく,まさに精神療法に期待するも
のが得られるという印象がある。
 私が拙著に書いた一つの例は,過食症
状を持つ摂食障害患者の場合に必ずと
いってよいほど問題になる過食費の話で
ある。過食には膨大なお金がかかる。患
者の多くは若年女性であり,とても自分
でカバーできる金額ではないことが多い。
一人で何とかしようとすると追い詰めら
れて売春にすらつながり,家族に負担し
てもらうと,何らかの不和が生じること
が多い。そういう意味では,明らかに現
実的なテーマである。
そのようなケースに対して,私は細々
とした話を聞いて対応していくのだが,
私が持っている明確な原則は,過食費は
「家族が払うべき性質のもの」というも
のである。これは,摂食障害が病気であ
り,過食は症状であって本人のコント
ロール下にはないということを考えれば,
実は当然のことである(当然だと思わな
い方は拙著を読んでいただきたい)が,
こうしたことを敢えて明確に形にするこ
とは,大きな意味を持つ。患者の罪悪感
を扱うことになるからである。
 過食をやめられない自分,家族が苦労
して稼いでくれたお金で買った食べ物を
嘔吐してただトイレに流す自分,そもそ
も経済的に自立できておらず家族にいつ
までも苦労をかけている自分……お金に
ついての罪悪感を持っていない過食患者
を私は見たことがない。そしてその罪悪
感が放置されることで,病気の経過はま
すます悪くなる。患者の罪悪感は明らか
に治療で扱うべきものであるが,その有
用な「とっかかり」が「お金」なので
ある。IPT の「医学モデル」を適用し,
過食を病気の症状と位置づけた上で,患
者の自立も視野に入れながらお金の流れ
を細かく規定していく作業は,様々な治
療的プロセスを伴うものとなる。
 考えてみれば,「お金」は,私たちの
生活の中で様々なものを象徴している。
過食患者においては,「家族が苦労して
稼いでくれたもの(家族との関係性)」
であり,「自己コントロールの悪さの象
徴(自分の性質)」であり,「経済的に自
立していない,だめな自分を示すもの
(自分の能力,社会における位置づけ)」
であり,「今後の生活の安定を脅かすも
の(将来への不安)」である。「自己」
「世界」「将来」という,悲観的認知の
三徴のすべてがここに含まれているくら
いに,私たちの精神生活の全域に及ぶも
のだと言える。これほどホットな領域を
扱わない手はない,というのが私の考え
であるし,患者の現在に密着する IPT
では扱わざるを得ない領域でもある。患
者が実際に困っている領域を扱うことは,
治療関係を強固にするし,患者の治療意
欲も高める。そして結果としてソーシャ
ルワーク的な側面も達成できるのであれ
ば(IPT は治療であってソーシャルワー
クではないので,本当のソーシャルワー
クが必要になったときにはもちろんソー
シャルワーカーを紹介する。ソーシャル
ワーカーの活用を考えるところまでが,
IPT の守備範囲である),患者にとって
それほど「お得な」治療はないのではな
いだろうか。
そして,「お金」というテーマのやり
とりを通して,身近な他者との関係性の
中で,罪悪感が扱われ,無力感が扱われ,
将来への不安が扱われ,最終的には無
条件の肯定的関心を感じることが,IPT
で経験される深い癒しにつながっている
のだと思う。そもそも,私たち人間が,
細々とした現実的なことに従事しながら
毎日を生きているのであり,私たちの心
のあり方は,現実との関わり方に間違い
なく反映されている。心に触れる治療を
行うために,現実的なテーマを扱うこと
は,大変理にかなったことのように思え
る。



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お前はアスペルガーだと言われたら、それはお前だと言い返せ

「自己」と「他者」の区別がついている・・・自我が形成されている
「言語」を獲得している・・・言葉で論理的に考えることが出来る
多分その上で心の理論が成立する

ーー
しかしそもそも自我というものが何であるか非常に怪しい

わたしはそれは意味のある錯覚なのだと考えている。その錯覚がなくなったとき、自我障害が発生する

ーー
言語も非常に疑わしい

嘘をつく習慣のある人はいて、これはおそろしい。嘘と真実の境界線を自分でコントロールできる気になる。
そして相手もそうしているだろうとみなす。そうしたことは言語が引き起こす必然の副作用である。
あるいは真実もそのようないい加減な捏造物のひとつにすぎない。
シェイクスピアが言うように、現実は夢と同じ成分で作られている。

ーー
お前はアスペルガーだと言われたら、それはお前だと言い返せ
そのようにレッテルを貼るものではない
しかしその次元で喧嘩を売られたらその次元で買う


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境界性人格障害と双極Ⅱ型

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体感型メンタルヘルス研修

「変えられないもの」……外的ストレス要因
「変えられるもの」……思考と行動

 ストレスの原因となるものを自分で変えることは出来ません。
 ストレスとなりうる原因を「変えられないもの」として受け容れ、ストレスとして受け止めない思考と行動のスキルを学ぶ。
 
(1)何をストレスに感じるのかという自己特性を理解する
(2)変えられるものと変えられないものを区別し、コントロール可能な領域を把握する
(3)直接的には変えられないストレスの要因に対して、自己の思考と行動を変えることにより対処できるようになる

こんなプログラムで1日30人で140万円の請求書が会社に届く。
こんなものより社員にお金で分配して欲しいけれどね。ひとり4万円。



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いい女は不幸になる 誤解系の男女

佳人薄命というが
いい女は不幸になるというのが最近のわたしの観察である

わたしが観察しているいい女といっても
8丁目の健全な職員さんたちのことで
ママさんたちはもうこれ以上不幸になりようがないくらい不幸であるから除外する

彼女らはOLさんとして勤めていても特に目立たない程度の人が多い
だから比較的きれいかなという程度の人である
本当の美人がどうなるのかについては知らない
芸能人はたいてい仕事の近くの人とくっつくようで案外まともな選択をしているのかもしれない

そんなわけで少しだけ様子のいい女がいるとして
たいていの分別のある男性はためらう
もちろん、自分などが釣り合うとは思えないからだ
どこかのすごい男があらわれて
やっと釣り合いがとれるのだろうと思っている

女のほうも自分はかなりいい女だと思っているので
当然釣り合うようないい男を待っている

生まれつきのいい女もいるし
全身美容整形したようないい女もいる

話を聞くと、美人さんたちは人間嫌いになるようだ
わたしが整形したとたんに手のひらを返したようにちやほやし始めた
まったく信用できない
若い子が新しい整形したらそっちに行くに決まっている
と絶望的な真実を観察している
頭は悪いのにこんなところだけはしっかりと分かる

高嶺の花にアタックするのは誰だろうと思っていると
本当にすごい男ではなくて
自分はすごいと誤解している男なのである
本当にすごい男は8丁目なんかには来ない
やることがたくさんある

いい女たちも最初は分別がある
「バカね、自分はすごいと誤解しているんだわ、お門違いよ」
と言えるのである
しかし、人間は魔が差す

なぜかどういう分けか知らないが
そんな男のひとりが選ばれてしまう
誤解系男以外の男にはまともに相手にされないで時間が経つのが
よくないのかもしれない

とにかくいろいろな意味で誤解系男が
押し続けて果実をもぎ取る

いったいどういうことなのかと最初は思うが
どうも見ているとそれなりにふさわしい二人のようでもある
いい女というものは頭の中は誤解系女なのだ、たいていは

長い間の習慣で誤解系女になってしまうのかもしれない

誤解系男と誤解系女が長くうまく行くほど世の中は甘くないので
次の誤解系を探す
男はだんだん誤解度が増す
女は次第に誤解度がダウンする
そんな傾向があるように思う

本当に世の中は難しいものだ

子供が生まれると
ママは美人なのにどうしてわたしは美人じゃないのと言われるらしい
その誤解型性格以外は遺伝しないに決まっている


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搾取の構造を訂正しようと訴えるなら

搾取の構造を訂正しようと訴えるなら
国内規模か
国際規模かと考えて
国内だけにとどめる理由はないはずである

自分にも他人にも貧乏を強制できる権力というものが成立するものかどうか

ここから先
賢者は沈黙する

良心的な人間は祈り続ける

世俗的な人間は何にせよチャンスだと思う

飢えて死んでいく子どもたちにとって
文学的実験など無意味である
あらためて何度でも無意味である

そして文学的実験にとって
飢えていく子どもたちは無意味である

みんないんちきをしている

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横浜元町雑貨屋さん

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横浜元町の雑貨屋さんなどで買い集めた人形などが好きだった
破壊されたまま元に戻らない
こんな事は深く恨みに思う

破壊してしまえる人がいるのだと心底恐怖を感じる
人間は戦争を起こして子どもも含めて根こそぎ殺してしまえる存在である
パレスチナでの戦争をニュースで見るがそれは特殊な人たちではなくて

私の人形を破壊したと同じ種類の人間がいまも人殺しをしている
それがあなたの隣人なのである

そして聖書は隣人を愛せと教えているのである

写真は残った

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自然崇拝

テレビを眺めていると
自然崇拝の発言はよくある

さすが大自然は人知を超えているとか
自然の生薬、漢方薬は根本的に治すとか

自然に不思議があることは確かでそれは驚嘆に価するのだが
キリスト者ならば神の創造であるということになり
自然崇拝者にとっては長い期間の生命の不思議になる

いずれにしても生命賛美になる

ーー
生命が生命を崇拝し賛美するのだから自己愛ですな


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弁護士の理性

原則は理解していて以下は暴論なのだが
ちょっと思考実験してみると
民事でAさんとBさんが対立して
それぞれに弁護士がついて争うとする

するとそれぞれの弁護士の判断が違うということ自体が
理性を逸脱している

事実認定が一致していれば
判断の違いは生じないのが原則である

事実認定をどうするかについては
A、B、それぞれの弁護士で話しあえば
裁判官はほとんど要らないはずである
どの人にも理性があれば

まあ、それを言えば、A、Bに理性があれば判断できるわけだけれど

法律は一定の価値観を背景に持っているのであって
振幅があるとしても
本来は適切な範囲がわかるはずで
それは弁護士費用よりも小さいと思う

すると
弁護士は金を払えば嘘をついてあげると契約していることになるのだ
困ったことである
という暴論である

実際、懲戒される弁護士の多いこと


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弁護士の半分は嘘つきである

考えてみると
民事裁判は勝ち負けがあるので
弁護士の半分は嘘を付いているはずだ

裁判官の判断が間違っている場合もあると思うが
いずれにしても片方は嘘つきである


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言葉が人を傷つけるなら

言葉が本当に人を傷つけるなら
それと同じ程度に
言葉が人を癒すはずだと思う

人の言葉なんかに傷つかない人は
人の言葉になど癒されないだろう

その意味で
傷つく人は救われる

傷つかない人は
救われもしない


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