うつ、うつならず
擁也第六-25
子曰はく、こ、こならず。こならんや、こならんや。
「こ」は難しい感じなので出さないが
酒杯のようなもので、正式には六角形だという。
それが最近では六角形が守られず、どんなものでも「こ」だとして通用している。
それが嘆かわしいと言っている。
ーー
君子と言っても名に価しないものが多いし
臣といっても名に価しないものが多いことの嘆きであるともいう
ーー
最近で言えば
「うつ、うつならず」である
いま、うつと言っているものは、昔のうつではない
うつと違うものがうつと呼ばれて
甚だしい誤解を招いている
うつでないものをうつと呼ぶことの利益があるから
そのようなことが流通する
そのことで損をしている人も多分存在している
論語 憲問第14-34
ある人が質問した。
「敵への恨みに対して恨みで報復するのではなく、恩恵を与えて解決するというのはいかがでしょうか」と。
老先生はこうお答えになられた。
「恨みにも恩恵にも恩恵で返していたのでは、同じになってしまうではないか。
恨みには恨みで、恩恵には恩恵で、返すのがよい。」
ーー
「徳を以て怨みに報ゆるは如何」の一節である。
これは7の70倍赦せという新約聖書よりは、
目には目をという旧約聖書に近い。
徳を以て怨みに報ゆるのが
聖人君子と一見思われるのだが
そしてそのような意味合いの部分もありそうだが
ここでは、「そうではない、徳には徳で、怨みには怨みでよい」と語っている。
ーー
これもまた
いいものである。
この延長にゲームの理論がある。
携帯の着信音
携帯のショートメールの着信音がしたように思い
携帯を探したが見あたらない
仕方がないので携帯を探すために電話をしてみると
電話のスピーカーからは呼び出し音
忘れてきたらしい
携帯を忘れているなら役に立たないわけだ
しかしそれでは何の音だったのだろう
WinもMacもあるし電話もプリンターもあり
一回だけ音を出すものがありそうだけれど
どれかは分からないままだ
時計とかフォトフレームも怪しい
ピロンと1回だけ鳴ったけど
新橋の古本市
新橋SL広場で古本市
市の時期になるとたいてい雨
今回もやはり、雨
滅多に買わないのだが魔が差して買ってしまった
講談社学術文庫を集めたコーナーがあったので見ていたら
文庫本なら持ち歩きに便利だと思った
「論語」加地伸行 平成21年に最終校訂を終えて後記を書いている。新しい。
「論語新釈」宇野哲人 昭和4年の本の復刻。うーむ。この方面では吉川幸次郎と諸橋轍次がいてまず参照であるがこの本もたまに見返す。
「荘子物語」諸橋轍次 昭和39年。講演のような語りかける原稿。
「江南子の思想」金谷治 古い原稿を1991年文庫本とした。ワイ南王劉安で有名な書き出しである。学生さんの卒論の手伝いをした頃を思い出す。老子、荘子の系統に属するとされる。
「老子」金谷治 1988年のもの、平成9年に文庫化。本文を見ても、意味の決定は難しい。その分、ロールシャッハみたいに自分を語ることが出来る書物である。
「正法眼蔵随聞記」山崎正一 昭和47年。著者は西洋哲学の人で、専門ではない。読んでみようかというところ。
「建礼門院右京大夫集」糸賀きみ江 2009年の出版。文章も現代的。愛のもつれ、とか、埋み火をかきおこし、とか、いさかいも懐かしく、恋人が信じられず、色好む人に思われて、とか。平家の滅亡は男達の物語でもあるが、こうして女達の物語にもなった。寂光院で建礼門院を想うのもしみじみとしたものだ。
「基本季語五〇〇選」山本健吉 1986年。これほどの情報データベースに驚く。
「影の現象学」河合隼雄 昭和51年。河合先生を信じるのではないが、インスピレーションを与えられることは確かだ。
「精神分析」土居健郎 昭和31年。学生時代に読んで、その後、引用するために確認するなどしている。甘え理論よりも前の文章。今年、土居先生が亡くなった。
ーー
以前は「新平家物語」吉川英治を買ったし、「落語大全集」というおかしなものも買った。
いろいろな悩み
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Win7+Win Live+Win Phone+bing
Win7+Win Live+Win Phone+bing
で 革新的なものはないけれど
後追いの立場の優位があって
昔の白物家電でのナショナルのような立場にある印象がある
電子レンジもパン焼き器もそうだったような気がする
最初は珍しいものでも、ナショナルが製品を出すと世間に「認知された」感じである
普通の新婚さんが買うべきものになる
グーグルやアップルが切り開いて成功した道を
大きな戦車が通る感じで
壮観である
実際使い勝手はいいわけだし圧倒的に優位だと思う
ーー
こうしてみてみると
発想と商売は違うのだと分かる
ーー
こういっては不正確だが
マイクロソフトが本気で参入するまでのあいだ
儲けさせていただくという感じ
マイクロソフトが本気を出したら
そのあとには
ぺんぺん草も生えないだろう
井上陽水について
NHKで井上陽水
いっそセレナーデ など流れている
わたしは この歌を聴いていた頃 恋をしていた
さっきこの歌を聴いて そのことを思い出した
実際のその人はもうおばあちゃんになっている
同業同地域だから顔も合わせる
いい人なんだけどもう恋は感じない
ところがいっそセレナーデを聴いたら
あの頃の恋の感情がよみがえる
恋の感情は「その人」にまつわるものではないのかと
いぶかしく思う
しかしそうではないらしい
あのころ 久保田万太郎の 恋の歌を 「本気」で送った
それがいま思い出せなくて もどかしい
返事は
気持ちはうれしいけれど
わたしは恋の似合う女ではない
とのことだった
いまから思えば
「私は恋の似合う女だ」と思い込ませる魔法をかけるのが男の役割だ
それができなかった自分を悔いている
ーー
別の時
井上陽水の曲を編集してドライブ用に作ってあったものを
人に贈ったことがある
あの全集を全部聴いて自分で選んだのかと驚かれて
感謝されたけれど
一ヶ月位して
私には歌の意味がよく分からないと言われた
司法試験に受かるくらいの学力はある人だったけれど
その人に今ひとつ歌の意味がよく分からないと言われた
現代芸術の殴り書きのどこがいいのか
まあ、美術館でちらっと見るくらいはいいけれど、
自分の家の玄関用に20万円出して買う気持ちにはなれない
子供の絵と何が違うのかわからない
という人だった
これはいまでも印象に残っていて
ひょっとしたら、そうなのかもしれないと思ってもみる
井上陽水の歌詞は厳密な読解には適さないものなのかもしれない
だとすれば
それを愛好する私は
馬鹿の一種であり
井上陽水を愛好する大多数は
厳密な意味の理解を放棄して聴いているのではないか
ということは
一緒に井上陽水を聴いて喜んでいる私と誰かはどうしようもないふたりである
意味不明の二人の馬鹿 Folie à deux である
その人は雨の降る夜、目白の銀杏の並木を
わたしと歩いていて靴を一つだめにした
そのことをいまでも申し訳なく思う
思いやりがなかった
すてきなハイヒールだったのに
車で移動しなかったのはなぜだったのだろう
そのこともいま思い出せない
ーー
それよりも昔、井上陽水とかユーミンとか中島みゆきとか小椋桂などの歌があり
わたしは一時は小椋桂が井上陽水よりも知的で好きだと思っていたことがある
たぶんそのころわたしはいまより頭がよかったのかもしれない
周囲の友人たちは当然、井上陽水は頭の悪い大衆向けのものだと理解していた
井上陽水「も」聴くというと、たとえばテレビでプロ野球を見るくらい、俗な趣味もあるのだと
露悪的な感じで言っていたものだ
堕落したダメな自分
井上陽水は氷の世界で
いつかノーベル賞でももらうつもりでがんばっているんじゃないのか
と歌っていたがもちろんみんなノーベル賞くらいを射程に入れて勉強していたので
一般の人はそんな感じ方をするのかなというくらいに思っていた
ノーベル賞を取るとすれば自分たちだと思うのは自然な雰囲気だった
いまは小椋桂の良さがちっとも分からない
頭が悪くなったのだと思う
時間がたってみると
たぶん
井上陽水、ユーミン、中島みゆき、小椋桂の順に売り上げが大きいように思うが
大衆芸能とはそのようなものだろう
そして私は大衆の好むものの方をより好むようだ
従って自分には特殊な感性はないのだと思う
逆に言えば小椋桂は売れなくても困らなかったのだと思う
本人とその周囲がどれだけ本気で商売をしているかについての温度差もかなりあったように思う
家には井上陽水全集もあるし小椋桂全集もあるが
いまはどちらもほとんど聴かない
10年前は井上陽水を少し聴いた
ーー
この30年で文化が変わったのだと思う
変えたのは、一つはソニーの技術力だ
ウォークマンが流行して、
その技術力が、大衆の耳をダメにして、
結局、ソニーの高級オーディオが売れなくなった
シャカシャカ鳴る安物でいいと思うようになった
ーー
30年前は「みんなが欲しいもの」があったのかもしれない
いまテレビCMを眺めていても欲しいものは何もない
普段私の行くスーパーではテレビCMに流れているようなものは何もない
マクドナルドの前は通り過ぎるだけ
ーー
そういえば 秋の雨の夜 信号待ちをしていて 横断歩道を見ていたら
マクドナルドの黄色と信号の赤が 平行に反射して 濡れた路面を 彩っていた
あれはよかった
信号が変わって 黄色・青・黄色になると 急に現実に返った
マックの黄色、信号の赤、マックの黄色、この並びが雨のアスファルトに反射すると、
たぶん特殊な効が出る
ーー
コンビニに行ってもATMを使うだけ
ある種の雑誌には私の欲しいものが並んでいるけれど
一度買えばある程度長く使えるものばかりだ
消耗品ではない
いまあるオーディオもテレビモニターもかなり完成度の高いもので
買い換えるとしてBOSEの小さなスピーカーは嫌だし
いまよりもいいものが見あたらない
だからテレビ業界は地デジ計画を考えたはずだ
買いたいものでなくても買わざるを得ないようにする
それくらいしか商売の方法がない
Winのバージョンアップと周辺ソフトのバージョンアップは頭のいいビジネスモデルだ
もちろんもっと頭のいい人たちはlinuxで遊んでいるから関係ない
ーー
大衆が馬鹿になれば愚かな物にお金を使うだろうと計算して
せっせと馬鹿になるように教育したら
本当に馬鹿になって働く意欲もないし欲しいものもないような具合になったらしい
着るものはユニクロでいいし
着飾るとしてもブランドマークの入ったものしか思いつかない
生地とかデザインではなくて「マーク」である
これでは文化が育たず
中国とかマレーシアの部品を組み立てるだけでいいと思うはずだ
音楽も本質的に進化はなくて
ただ繰り返しているだけ
化粧品は同じラインで作られて違う瓶に詰められている
椿でもマックスファクターでもあまり違いはない
鯖江でイタリア製ブランドめがねが作られ
ある場所ではマイセンの陶器も作られている
作れないことはないものなのだから作るに決まっている
それに困った人たちは著作権をうるさく言い始め
その結果弁護士に儲けをかすめ取られている
コーヒーも簡単に入れられるものがいいのだし
脂っこいお総菜が満腹感があっていいらしい
ソニーはそのような大衆文化を誘導して
結局、自分が置き去りにされている
ソニーよりも安いので充分だと思う感性を育ててしまった
ーー
そのように大衆は後退運動を続けてきたのだが
後退してきたところに井上陽水が待っていたので
ぴったりときた
そういうことだろうと思う
サッカーの人気もそういうことだろうと思う
みんなが一様に馬鹿になった結果である
あの試合と応援の様子を見て嫌悪を感じない感性が
現代日本の現実なのである
ーー
実際には井上陽水は多面体であり
上のような一元的な説明では済まないと思うが
一つの切り口としてはそういうことになるだろう
一番馬鹿で一番下品な自民党の親父たちが代わり番こに政権を回して尽き果てた
政治記者を相手にしての感情的な反応で程度が分かる
それを選んだのが馬鹿な大衆で
それを誘導したのがソニー大衆文化である
ソニー大衆文化とブランド好きは奇妙に一致していて
そのあたりもパラドックスでおもしろい
井上陽水、もっと後方にサッカー、前方にあったソニーが忘れ去られる、
数直線上に配置して考えることができる