Predicting Brains 脳のなかの幽霊
岩波科学ライブラリー 予想脳 Predicting Brains (岩波科学ライブラリー (111))
- 作者: 藤井 直敬
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/10/05
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
8月15日の花火大会は大田区を思い出す重陽の節
平和都市宣言記念大田花火の祭典
多摩川緑地野球場
なかなかいいものだ
と回想している
エアコンの要らない夜
9月9日重陽の節である
ジャック・ラカンの誕生日だってね
川は流れ
私は残る
上弦の月 半月が心にやさしい
年を感じる
まず甲子園の高校野球で自分が年上になったとき
つぎには孫ができたとき
最近になると
出会う人たちすべてが私の年下である
年上の人と話すことがめったにない
脳は空より広いか―「私」という現象を考える
マインド・タイム 脳と意識の時間
Mind Time: The Temporal Factor in Consciousness (Perspectives in Cognitive Neuroscience)
- 作者: Benjamin Libet
- 出版社/メーカー: Harvard Univ Pr
- 発売日: 2004/03
- メディア: ハードカバー
ユーザーイリュージョン―意識という幻想
国民は何に汗を流せばいいのか
世界は弱肉恐縮であるということである
自給自足して小さくまとまることができるなら
グローバル化から逃れていられる
そうでない場合は当然弱肉強食なのである
国外で弱肉強食、国内で福祉国家、この二つをいかにして両立できるか、
難問というより、不可能である。
誰かスーパーお父さんみたいな人がいて
すごく働いてみんなを養い守ってくれるというはずもない
当たり前に考えて、現在の日本人がおおいに働いて汗を流し、
その成果物を海外に売り、そのお金で海外から物資を買うということになる。
一体一般国民は何の仕事をすればいいのか。
また、金融資産を活用すべきだとの意見も強いのだが、
個々人にそのような芸当ができるはずはなく、
誰かが請け負う。そして庶民には損ばかりが残るだろう。
そんな話は信用してはいけない。
何に汗を流せばいいのか、分からない。
誰が分かっているのか、それもちっとも分からない。
それが現状だろう。
スポーツジムで汗を流していて
中国製品が買えるものだろうか?
外で働いてきたお父さんをつかまえて
もっと家族サービスしろと
依存を強めている家族の光景のようだ
子供は親にワガママをいい
親は政府にワガママをいい
結局誰もどうしようもなく
財政は破綻を待つだけである
職業人になること
職業人になることや
もっと広く大人になることに
夢、希望、理想を抱いていないといわれる。
醒めているというか
はすに構えているというか
そんな状況らしい
そのような態度の人たちが一定数いることはむしろ普通であり、
むかしも高等遊民などと言っていたものだ。
しかしそんな意識の人が多数派になると
どうしたものだろうかと思う。
日本の若者とひとくくりにされるのだが、
いろいろな若者がいるはずで、
地域による特色もかなりあるはずである。
ネットが心に及ぼす影響
あるいは貧しい言葉が映し出されているとして
見るものは
それは醜悪であり貧しいとして判断しているのだが
それで話はおしまいではない
その醜悪なものと貧しいものが
後々見た者の心を蝕んでゆくのだ。
そこが根本的に怖いところである。
父と法と倫理
そこに父と母と子がいる
母は子が自分の子であることに疑問はない
父は疑問を抱いてもおかしくない
顔かたちが似ているとしても
自分の弟との間の子供かもしれないではないか
そこで父は
法、倫理、社会規範、良心、正義、
そうした自分が父であることにまつわるあれこれを代表するようになる。
母はただ母で
おっぱいをあげていれば
全幅の信頼が返ってくる。
至福である。
子は後に問う。
わたしは誰?
それは母の子であることはいいとして、
父は誰なのか知りたいという欲求である。
そしてここで法と倫理が機能する。
お前は父の子である。その歴史はこうである。
歴史のパースペクティブの中で、わたしは誰?の問いに答えが与えられる。
法と規範と倫理の優越を共有
わたしは今日まで生きてきました
時には誰かに裏切られ
そしていまわたしは思っています
明日からもこうして生きていくだろうと
*****
たまに
素直な自己肯定の歌もよい
しかし
時には誰かに裏切られ
というのでは
現代においてあまりに策がない
裏切ったらこう対応
裏切らなかったらこう対応
と通告しておいて
通告どおりに実施する
そのようにして法と規範と倫理の優越を
共有できるまでにする
そのとき友と呼ぶに足る存在になる
愛は?
愛は人生よりも美しい物語である。
ネット社会 真偽の詮索
体裁を取り繕えるし
正体を隠すことができるし
もっともらしい事を発信することもできるし
大嘘も書けるし、
小嘘も書ける。
自分では知らないうちに嘘を伝えていたりもする。
発信者の顔、表情、眼の動き、そのあたりを見たり、
洋服、部屋の様子、友達とのやり取りなど、
総合的な様子を見ていれば、
どの程度信頼できる人物なのかを推定できることになる。
昔から人をだますにはまずそのあたりから
だますことになっていて
まず靴とめがねと腕時計をそろえたりしたものらしい。
そのような手がかりなしに、
文字内容だけから、内容の真偽について詮索するのだから、
かなり高度な知的作業なのである。
今はまだ不完全だとしても必要があれば人間の本能はネット上の情報の真偽について、
またはネット上の情報に込められている情熱について、
正確に読み取るようになってゆくのかもしれない。
ネット社会 情報ハイウェイの過酷な選別 その後の母性的空間
ネット社会では情報の拡散が早い
拡散の過程でゆがめられることも多くあるとはいうものの、
元の情報にたどり着くことも可能であり、
結局、情報は多くの人に共有されることになる。
情報ハイウェイである。
自己愛を支えるのは自分が特別な人間であるという信念であるが、
その根拠となるものをネットの中から拾うことができる。
将棋の実力を測定することができる。
受験勉強の仕方を読み取ることができるし、その結果としての自分の評価を読み取ることができる。
ネット時代以前には、受験勉強の情報というものも、地域差があった。
たとえば仙台ならば東北大学への入学についてはノウハウの蓄積がある。
東京なら東大だし、徳島ならば京都大学となる。
何を勉強してどの程度理解していれば合格可能なのかということを
すばやく理解することも大切な知能である。
知的操作能力とは別にそのような適応力も受験勉強の大切な要素である。
ネット時代になって、基本的に与えられる情報は均一化したと言っていいのではないか。
昔ほどの地域間格差はないように思う。
ここからが問題なのだが、
知能があれば、自分の知能がどの程度であるのかの判定は出来るのである。
いかに自己愛的とはいえ、
自分がどこまでの才能があるのか、学問で、音楽で、将棋で、スポーツで、
才能があればあるだけ、超えられない限界もみえてしまうだろう。
したがって、現代の若者は、早期に一列縦隊に並ばせられて、
前から100人、合格、といったように区切られてゆく。
過酷な選別である。
その現実を突きつけられるのは比較的早いし、すっきりしている。
その事を受け入れられないならば現実をゆがめて解釈しているということであって、
精神機能としては精神病レベルということになる。
神経症レベルである限りは、現実把握には歪みがない。
現実を受け入れるところまでは受け入れる。
しかしそのことでの痛みをいつまでも忘れられない。
痛みを耐えるために引きこもる。
柔軟な変身が出来ない。
敗北をつき付けられて、認めるところまではすばやいが、
その後に、引きこもってしまう。
引きこもった先には、
まるで母子癒着の延長のようなネット世界が横たわっているのである。
厳しい客観的判定を拒み、
それぞれが美しい花なのだなどと言って
自己研鑽の努力なくそのままで認められたいという傲慢な欲望を
100%受け入れている空間がネット社会である。
あなたはそのままでいいのよという
母親的とも
あいだみつお的とも言える
メッセージに身を浸しているうちに、
浦島太郎は竜宮城から出られなくなる。
*****
以上のように、
ネット社会は、
引きこもりまでのプロセスを変えたし、
引きこもってから後の精神状況を変えた。
食べすぎた
ポール・スチュアートの店内で女性用を眺め
20パーセントオフの札を見ていた
全身を映す鏡があちこちにあり
いやでも自分の姿を見たのだが
ずいぶん太っていてびっくりした
食べすぎだと
判定
食生活の是正にとりかかる
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ユニクロとブランド物の差は何もないと思う
うちはユニクロよりもイトーヨーカドーが近いから
それで充分だ
アイロンをかけなくてもいいのが多いので助かる
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そうは思ったものの、
体重、コレステロール、など
すべての標準値を10パーセント・オーバーくらいにまとめることにした