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品川の洋服屋

品川には洋服屋さんもないし靴屋さんもないような気がする
よく探したらあるのかな
アトレにシャツ屋さんはあるけれど
100円均一の店もないような気がする

なんて思いながら
カップ焼きそばに
インスタントコーンスープをかけて食べた




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背中まで45年

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桜の咲いていたあの庭で
出会ったときは中学生
違う小学から来た同級生
それが45年前
きれいだったなあ

もちろん憧れているだけで
なにもなくて
高校は同じで
それでもなにもなくて
やはり桜が咲いて卒業したのが39年前
目に沁みるようにきれいだったなあ

そのあとは何も知らず
その人は結婚して苗字が変わっただろうと思い
結局何も知らない時期が長く続いて

しかしそれでも偶然に話は聞こえて
幸せらしいと知ったのが25年前
わたしは不幸のどん底

子どもが育って離婚したと聞いたのが15年前で
私も離婚した頃

再婚したのが10年前で
私も再婚した頃
似ているものだと思ったり
そんな年だと納得したり

死別したのが5年前

背中の指が静かに跳ねて温熱マッサージ
ホットヨーガのあとで
局部にゼリーをゆっくり塗っている

遠回りだったね

いえ短かかったわ

それがいま

中国人留学生から教えてもらった鍼灸で背中を温める
背中まで45年

短かったわ 45年


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党派性

党派性ということを考えている

優秀な人は子分になることを嫌う
するとゆくゆくは親分になれない

党派性を受け入れ継続するのは
優秀な人達ではないらしい

優秀な人達に嫉妬する人たちが
集団で利益を確保しようとする
そこに党派性が生まれて
親分と子分が生まれる

最初は一匹狼で最後は党派のボスという生涯は考えにくい


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これは私の妄想ですか

パートナー選択に当たりいろいろと相談がある

ーー
お見合いのような事になり
結婚する本人以外は全員が賛成しているとする

しかし本人は気が進まない

なぜ嫌なのかを合理的に説明できない
なにしろ周囲の全員が賛成するくらいいい人なのだ
しかし気が進まない
どうするか

これはわたしの妄想なのだろうか

ーー
逆に
恋愛が進展して結婚したいと思うが
周囲の全員が反対している場合もある

周りの人達はあの人のいいところを知らないのだと思う
でもこれは私の妄想なのだろうか

ーー
妄想なのかどうか

さて妄想とはなんだろう
そして客観的判断で正しい判断とはなんだろう

ーー
関係者が30人くらいいて29人が賛成で自分だけが反対という場合は
どうだろう

それでも自分が正しいと言うためには特有の手続きが必要である
科学的真理を証明する手続き
しかしこれがまたややこしい
誰がどこで行っても同じ結果が出るという認証実験が必要だ
しかし実際にはそんなに単純ではない
(誰がどこで行っても同じ結果が出る婚姻などというものはない)

また一般人にとっては
頭のいい人間に丸め込まれる危険があるので
科学の手続きも信じられない
(頭のいいやつがいい女を手に入れるに決まっている)

そんなわけで
現代社会はおおむね多数決の原則を採用している

正しいとは限らないが
政治的に最悪の決定は回避できる可能性がある
などと苦しい弁明が用意されている

なんだ結局、多数決を正しいことと採用している社会なのだ

ならば結婚に際しても多数決しかないではないか

多数決で負ければ妄想に過ぎない

ーー
多数決の原理の向こうにある事情は次のようなものだ

頭の悪い人間は
統計の原則により優れた人間は少数に決まっているし
少数派が頑張ってもどうせ多数派が暴力で勝つと思う

頭のいい人間は
多数決は洗脳でどうにでもできると思う
殺し合いよりは合理的だ

だから多数決で物事が決まるのが合理的だと
みんなで合意している

どちらも自分が優位だと信じているが
これは頭の悪い側の錯覚である

ーー
そうはいうものの結婚には特別の事情がある
神から授かったこの美貌を自分の自由にしてよいのかという問題である
女性の9割くらいはこの悩みで眠れない日がある

肉体も知性も命もDNAも神から授けられて
一時的に私が守っているものだ
それは最大限大切にしなければならない
自殺してはならないのはそれが理由である

神の意志はどこにあるか
私の妄想ではない、神の意志はどこにあるか

そう考えるとやはり多数決が正しいような気もしてくる

30人のうちの29人が賛成しているならば
たぶんそれがいいのかなと普通ならば思う
それが集団の中で生きる人間の同調性でもある
同調圧力である

ひとりだけ違う方向で生きるのは
とても疲れて能率が悪い

わたしは私のものだから私の好き勝手にしていい
なんていうのはあるはずがないのだ

ーー
ということは
周囲の意見に反して
ある人を好きになったり嫌いになったりするのは
おかしいことになる

みんなが好きなスターをわたしも好きなのは
健全なのだ

だからこそ
魅力のピラミッドが出来て
淘汰圧が発生して
種の進化が促進されるのだ

ーー
しかし
政治的に多数決を採用している社会が
婚姻に関しては多数決を採用せず個人の意思決定の自由だとしているのである

これは
目もくらむような矛盾ではないか
憲法はおかしい

社会にとって次世代を正しく優秀に確保することは最重要の課題である
政治課題に関しては議論して多数決をするのに
婚姻選択に関しては個人の勝手というのはありえないだろう
婚姻は社会的なことである

たとえば将来の税収を左右する
将来の国際競争力を左右する
将来の犯罪率を左右する

まるっきり政治的課題そのものなのだ

ーー
たぶん、社会的な強制力によって「よい婚姻」を達成した場合にも
実際の「種の遺伝」は個人の合意によって形成されると達観していて
結局は個人の合意とした方が
制度と実質が適合すると判断したものだろう

なんともニヒルな憲法ではある

嫌なやつと結婚しても
好きなやつの子を産むだろうと
暗黙のうちに前提している

ーー
さて
みんなが反対する結婚を押し切っていいのだろうか
みんなが賛成する結婚を拒みきっていいのだろうか

みんなはなぜ私と違うことを考えるのだろう

やはり妄想なのだろうか

説得不可能な、現実に反した、不合理な確信が妄想である

合理性の究極の担保は多数決しかないと憲法が明示しているのだから
つまりは少数者の確信が妄想なのだと定義して支障はないように思う。

しかし少数の定義は曖昧で
ほとんどどんな場合でも
より少数とより多数を定義できるので
意味を成さない

ーー
歌マイウエイで
「信じたこの道を私は行くだけ」という

(中国人美人留学生が歌い上げる。うまい。
日本語学校で「北国の春」とかこの歌を覚えるらしい。)

信じたその道を行かれたら
社会としては大きな迷惑である

信じたその道が社会の望む道と実は一致しているから
マイウエイでいいのである

なんのことはないお釈迦様の手のひらの上の孫悟空なのだ

ーー
そう考えてみると
みんなが反対するのに結婚するというのも予定された道のようである
みんなが賛成するのに結婚を拒むというのも実は予定された道なのだ

事情を知っている家族は少数しかいない
せいぜい十人程度のものだろう
遥かに大きな数で多数決をしたらどうなるか

たぶんその人個人の判断に近くなるのではないか

結局人間は多数決に従っているらしい

ーー
憲法の原則は本当は誤りではなく
多数決というのも
実は現実の国民ではなく
理想の国民の多数決というすり替えがある

外交や病原菌など一般大衆に説明しても分からないし
情報を公開したら台なし、というタイプの問題も多い

2009年のインフルエンザではゴールデンウィーク前には騒がず
ゴールデンウィークでお金を使わせてそのあとで
実はインフルエンザの危険があると飛行場で足止めした

現実の国民は愚かで何も知らないし部分的な理性しか持ち合わせていない
理想の国民は合理的で充分な理性を持っている

だから理想の国民の声に従うのだと政治家は言うことができる
それが政治家の信念である

自分はそう信じるといえば妄想だが
自分は理想の国民の多数決に従うといえばそれは立派な合憲的判断である

ーー
最後まで成り行きを見守り最後は自分で決める
それが究極の多数の声に近いのだ

妄想でない限りは

しかしそれが妄想なのかどうかについては
知る方法が実はない

というわけで答えがでない
循環論になる


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新しいものはただ新しいから価値がある

新しいものはただ新しいから価値がある

それを主食のおこめが
私を捨てるのとか
私よりいいのとか
言い立てるのも見当違いだ

普段食べるおこめは
間違いなく主食なのだし
取り替えようがない

パスタは珍しいから食べたいのであって
それを主食にしようというのではないに決まっている

新しいものには未知の部分があり
そこに幻想や空想や妄想を投影できるから魅力が膨らむ

詳しく知ることはありもしない期待をを否定されるプロセスであり
幻滅することである

幻滅しないなら
最初から夢など小さかったのだ

ーー
現実的な夢は破れにくい
しかし
それがいい夢なのかどうか分からない


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変化を感じることができる人

たとえば
患者さんについて
一番細かく敏感に変化を感じ取ることができるのは
一番そばにいる家族だとの話も当然正しい
他の人には見せない姿もその人には見せている

しかしまた
変化何一番鈍感なのは家族なのだとも言える
そのことにしばしば驚く

ーー
家族で共有している同型性を
患者さんが突出させた場合
家族は鈍感なのだ
それも道理である


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めったに無いもの・みんなが欲しいもの

人間が欲しいものは
いいものではなくて珍しいものだという話がある

みんなが欲しい物はみんなに行き渡るくらい存在するのがよいはずだ
しかしそうではない
みんなが欲しい物は一部の人しか手に入れられないものなのだ

ーー
酸素はいいものだが
だれも欲しいとは思わない

水や日光も昔は誰にも等しく与えられたものだ

水は最近は売るようになったが
宣伝の効果が大きい

光は日当たりをカネで買う時代だが
夏は暑いぞ

酸素や水や日光は文句なくいいものだが
だれもそんなに欲しいとは思わない

自分が優越しているしるしにならないからだ

ーー
人間が欲しいのは自分が他人に優越しているというしるしである
ただのしるしなのだ

たとえば猫の身になってみればいい
本当に必要でいいものは何かが見えてくる

二重まぶたとか大きなおっぱいとか
大きな腕時計とか

人間は売るものがなくなると
不必要な差異を作り出して
それを拡大して商品にする

人間の脳が差異や新規性・稀少性に対してドパミンを放出するように出来ているのだから
仕方がない

だから浮気もなくならない


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インターネット情報の遍在

「いつでもどこでも ubiquitous:forever, everywhere, and for everyone」といわれるが
そんな世界がもう目前のようだ

現在のAMラジオと同じような感覚で
高速無線インターネットが使えるようになる

端末も軽く薄く長持ちして使いやすくなる
ハンカチのように折りたたんでポケットに入れる
折りたたんだままで小さく使うこともできるし
広げて大きく見ることもできる

入力操作もマウスからタッチパッドに
さらには考えただけで操作できるものに進化するだろう

考えただけで操作できるのなら
画面はなくて情報だけ脳に直接入力してもいいわけだ

脳全体に直接つながっている感覚器官をひとつ追加したような具合だ

頭蓋骨に容積さえあればもう一度だけ脳の細胞分裂の回数を増やしてかなり解決できただろうが
頭蓋骨が大きくなれば産道を通りにくくなってしまう
また栄養が難しくなる
頭蓋骨の位置や形を大きく設計変更することは今さら不可能だったのだが
その部分をユビキタスが実現してしまうかもしれない

人間の精神成長は明らかに違ってくるだろうし
社会が個人に求める能力も違ってくるだろう

ということは精神の病気も違ってくるだろう

ーー
そもそもそのように環境によって評価の異なるものを病気と呼ぶのかどうかは
根源な的な問いであり
私なら病気とは呼ばない

しかし不調は実際にあって不具合なのであるし
取り除けるものなら取り除きたいと思うような何かであって
障害には違いない

disease と disorder との違いだろう

ーー
現在もこうした
精神を取り巻く環境変化が起こっているのだと思う
将来に比較すればマイルドに起こっている

猿のようなものから石器時代を生きて
不必要なものをたくさん抱えながら
古い機能を継ぎはぎして使っている人類が
はたしてうまく適応出来るのかどうか
かなり心配ではある

脳容積が3倍になるくらいの激変ではないかと思うがどうだろう

四足歩行から二足歩行に移行したときはなんとかしのいだが
腰椎椎間板ヘルニアと脳貧血と肩こりは残った
今回はどうか

吠えていたものが
言葉を話すようになる
くらいの変化があるとおもう


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ゆるみ

若い人に理解して欲しいのだが
老人は突然不機嫌になることがある

いろいろな理由があるだろうが
ひとつはこうだ

おならと思っていたところで実物が出てしまう

肛門括約筋がゆるんでいるのか
全体に下痢だったのか
たぶん両方なのだが
そういうことがある

そんなことは周囲に言いたくないが
本人は随分おちこむ

なってみないとわからないことのひとつだ


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株屋が商売を続けるわけ

理屈で考えてみると
株屋とかファンドマネージャーがどうしてサラリーマンを続けているのか
説明ができない

100万円くらい手元にあったら
10年くらいで資本家になれるはずだ
嫌な転勤をあっさり断って独立するはず
または仕事よりも好きなことをするはず

やはりそれは一般の人よりも少しだけ株に詳しくて
他のことをするよりも株を他人に勧めるのが好きだからというしか説明はない

お医者さんが一般の人よりも健康だとは限らないし長寿だとも限らない
ただ健康の手助けができると考えているだけだ

採血の針の指し方がうまいとか
胃カメラの扱いがうまいとか
映像の読解が鋭いとか
そのことと自分の健康とか寿命とは関係がない

ーー
という理屈でいいんでしょうか

お医者さんが認知症になることは矛盾はないですが
株屋さんがサラリーマンを続けて居酒屋で上司への不満をぶちまけているのは
なんだかやはり少ーし
矛盾があるようだ

皆さんに喜んでいいただいているのに
自分は幸せになっていないようで不思議だ


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自社の実力を過大評価し独自規格に拘って衰退したソニー

自社の実力を過大評価し独自規格に拘って衰退したソニー
のようにアップルはならないかとの話で

アップルはとにかく
ソニーはそうだったんだ
と思うことしきり


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ニーチェについての分かりやすいページ

このページが分かりやすいので採録

ーー
「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたらどうなるんだろう。

というわけで、ニーチェ「善悪の彼岸・道徳の系譜」の解説です。ニーチェは哲学や政治学をやるのなら必読だと思うのですが、いかんせん文学的な表現が多すぎて何を言っているのかよくわかないと投げ出す人もいるんじゃないですかね。というわけでニーチェの思想で一番使える「相対主義」にしぼって説明します。


通常の哲学とニーチェの哲学の違い

哲学は形而上学とも呼ばれています。メタフィジカルな学問だというのです。つまり物理的・現実的(フィジカル)なことにたいしてどのように人間が取り組むかという、現実(フィジカル)より上位(メタ)の構造・ルールについて研究するのです。たとえば、人間の肉体がどのような仕組みで動いているかというのはフィジカルな話ですが、人間はどのように生きているのか・どう生きるべきなのかというのは、メタフィジカルな話です。

さて、ニーチェがやっているのは通常のメタフィジカルな話ではありません。そのようなルールがなぜ生まれるのか・ルールを支配しているルールとは何なのか、という話なのです。いってみればメタ形而上学です。


なぜ人を殺してはいけないのか

たとえば「人を殺してはいけない」というルールについて考えます。「人殺しは絶対的な悪だ」「法律で裁かれるからやめとけ」「殺人者はキモい」「自分が殺されてもいいのか。社会にとって殺人は迷惑なんだよ」などなど、いろいろな意見があるでしょう。しかしこのレベルで善悪を議論しても絶対に決着はつきません。たしかにこれらの意見は常識的であり、市民の良識にかなう立派な主張です。しかしこう反論されたらどうでしょう。

「人殺しは絶対的な善だ。おれはそう信じている」「法律で裁かれたっておれは別にかまわない」「殺人をキモいと思うやつもいるが、おれはそうは思わない」「逆に社会の常識は殺人者にとっては迷惑だ」

こんなことを言ったら、ドン引きされるでしょうし、議論の最中においては「そういう考え方は間違っている。キチガイもほどほどにしろよ」という人格攻撃がはじまるでしょう。しかし、そういう人は殺人を肯定する論理を決して崩すことができません。ただ相手をキチガイだと罵ったり、根拠も提示せずただただ間違っていると否定するばかりです。

ここは重要なポイントです。要するにどちらも「自分がそう思っているから、自分の意見は正しいんだ」と主張しているだけなのです。つまり議論をしているのではなく、自分たちの信念こそが正しい・自分たちが信じていることこそが《真理》だと宣言しあっているだけなのです。要するにこれは自分たちの《信仰》を相手に強要しているだけなのです。


議論に見せかけた《信仰》VS《信仰》

一見議論をしているように見せかけて、実は《信仰》や願望を垂れ流しているだけ、というのはひどく滑稽です。野球にたとえるなら、試合をしていると見せかけて、実際はお互い選手宣誓しあってるだけという状況です。言葉のキャッチボールはおろか、そもそもゲームのルール自体をよくわかってません。感動的な選手宣誓をすれば、それがそのまま事実となり、自分たちの勝利につながると素朴に信じているのです。

困ったことにこの野球にはジャッジがいません。いるのは観衆だけです。これらの観衆は、より自分たちに都合のいいスピーチをしたほうを「勝者」にしようとします。選手は野球もせず、ただスピーチしているだけなのに、どうやって「勝者」を決めるというのでしょう? 

答えは簡単です。気に食わないほうを暴力でボッコボコにするのです。

殺してしまえば「死人に口無し」というわけです。狂人のレッテルを貼って社会的に抹殺するのも同じです。そうすれば、自動的にもう一方が不戦勝となります。もちろん、この乱闘騒ぎに選手自身も参加しています。「野球しろよお前ら」とツッコミをいれる人は一人もいません。歴史上初めてのツッコミは、ニーチェが行った道徳批判ですが、その声はあまりにも小さいので、今も世界各地でこの乱闘騒ぎは続いています。


《信仰》を自覚し、《真理》を相対化しよう

「人を殺してはいけない」というのも、やはり《信仰》にすぎません。その《信仰》を世の中の大多数が共有すると、《真理》だとされます。しかし、実際はその教区限定の《真理》なのです。教区の外には、異なる《信仰》をもつ人だっているのです。信者たちは、異なる信者を批判するとき口々にこういいます。「自分たちの言っていることこそが《真理》だ。だって《真理》なんだから」。そして相手を異端者だと侮蔑します。

しかし同時に異端者というレッテルを貼られた人も、相手のことを同じように異端者だと思っているのです。そして自分たちの《信仰》こそが《真理》だと疑わないのです。

もうここまでくればお分かりでしょう。ありとあらゆる《真理》の起源は、そう信じているという《信仰》です。《真理》とはその定義上、絶対確実100%永久不変的に正しいもののはずですが、実際はある教区の中でそう信じられているだけです。絶対確実100%永久不変的に正しいから、絶対確実100%永久不変的に正しいのではありません。「絶対確実100%永久不変的に正しい」と信じて疑わない信者たちがいるからこそ、その教区の中で、絶対確実100%永久不変的に正しい、ということになっているのです。


《真理》性を議論するのは、政治ゲーム

通常の哲学では《真理》を相対化できませんでした。多くの哲学者は、あるテーマを与えられるとその《真理》性を熱心に議論してきました。それがいかに正しいか・正しくないかの議論を続けることによって、その《真理》性がはっきりとわかるはずと純朴に信じていたのです。

しかし悲しいことに、どちらの主張も、それが自分たちの《信仰》から生まれていることに気づきませんでした。結局この議論は、論旨とは関係なく声の大きな意見が勝ち残るという、きわめて政治的なゲームとなりました。

学者の間でもこうですから、実際にそれが社会的な議題となったときは、完全に政治ゲームとなります。自分たちとは違う《信仰》をもつ相手を異端として排除し、自分たちの《信仰》を唯一の《真理》だと偽装するパワーゲームです。その《信仰》が正しいから《真理》となったのではありません。その《信仰》がほかの《信仰》を踏み潰す権力を持っていたからこそ、《真理》となるのです。


《真理》を捏造するルールを議論すべき

さて、《真理》性を議論するのが結局は政治的なゲームにしかならないとするなら、メタフィジカルな学問に意味はあるのでしょうか? どんなにそれらしい口ぶりで議論しても、《信仰》のなすりつけ合いにしかならないのでは無駄ではないでしょうか? そこでニーチェはこう考えます。ならば、《信仰》がいかにして一般的な《真理》へと化けたか、その過程を研究するべきだ。《真理》がいかにしてでっち上げられるか、そのルールを議論すべきだ。

《真理》がどのような層にたいして都合よくできているかを調べれば、その起源がわかります。つまり、どんな信者たちの《信仰》だったかがわかるのです。さまざまな道徳を研究し、その系譜をたどることで、どのような《信仰》が《真理》へと化けやすいかもわかるでしょう。


権力への意志

権力者が、いかに自分たちの《信仰》を《真理》へと転換させ政治ゲームに勝利してきたかを理解するのは、とても重要です。他のゲームの参加者の行動が読めれば、自分に有利なようにゲームを進めることができるからです。黒い考え方でいやなのですが、誰もが好むと好まざるに関わらず、この政治ゲームに参加しています。「なにかを正しい」と考えていたら、それがすでに政治ゲームの参加表明です。たとえば誰もが《真理》だと思っている「人を殺してはいけない」という考え方は、殺人者(軍人を含む)には当てはまりません。そんな例外を認めたくない人達は「人を殺してはいけない」をより《真理》らしく偽装するために、例外を抹殺します。同類を集めて組織を作り、社会的な権力を握って、異端者を排除しようとします。逆に異端者のほうが組織力で上回り、自分たちのほうが抹殺されたりもします。共同体内部の小競り合い、国家規模の戦争、宗派同士の対立……これらは正義のための闘いだ・《真理》のための必要悪だなどと紹介されますが、結局は政治ゲームです。

この政治ゲームはそのゲーム性を意識するだけで、ある程度うまく立ち回れるようになります。それがどんなゲームでも、ルールに無知な人間は利用されるだけですから。

ニーチェは、政治ゲームで優位に立ちたいという欲望を「権力への意志」と表現しました。この「権力への意志」を弱肉強食の非倫理的な概念だと批判する人もいますが、本来「権力への意志」はそれが善いか悪いかといった道徳的な話ではありません。むしろ「権力への意志」を持ち、政治ゲームに勝った《信仰》だけが《真理》となり、善いとされるのです。この意味で「権力への意志」は、善いか悪いかといった対立の向こう側(善悪の彼岸)にある事実と言えます。


政治ゲームの功罪

さてここからはニーチェの思想に対する私の意見です。ぶっちゃけて言うと私はニーチェ的な思想は好きでありません。「人を殺してはいけない」という道徳が単なる《信仰》だなんて、吐き気がするほど感情的な反発を覚えます。それに私には政治ゲームの勝者があまり幸福そうに見えないのです。自分がそんな黒いゲームの参加者だなんてことは夢にも思わない、頭ん中お花畑の人間のほうが幸福なのかもしれません。またいいように利用されてるだけの人、誰かの手のひらの上で踊らされているだけの人だって、案外楽しくやっているかもしれません。(カート・ヴォネガット「タイタンの妖女」参照)

政治ゲームの弱者でも、自身の《信仰》の中に幸福を見出すことができます。キリスト教のように、政治ゲームの弱者のために作られた《信仰》はたくさんあります。個人の人生の中では《信仰》が政治ゲームと相克するのです。《信仰》をもとにした妄想ゲームが政治ゲームを乗り越えることだって十分ありえます。

妄想ゲーム:政治ゲーム = ニュートン力学:量子力学 と対比するとわかりやすいかもしれません。現実は全て政治ゲームです。「リンゴが木から落ちる」というニュートン力学的な現象だって全て量子力学に従います。しかしいちいちシュレディンガー方程式をときながら生きるのが超絶面倒くさいように、政治ゲームを意識して生きるのはしんどいし面倒くさいです。大衆の《信仰》にとけこんで、一緒に妄想ゲームやってるほうが楽だし、気持ちよく生きられます。あたかもニュートン力学で日常のほとんどの問題が解決してしまうように、妄想だって日常では「使える」道具なのです。むしろ妄想ゲームにこそ、ぐちゃぐちゃに絡み合った政治的対立の解があるような気もします。(山本弘「アイの物語」参照)。


妄想ゲームと政治ゲーム

政治ゲームに自覚的に生きるのも、あえて無自覚的に生きるのも、あなたの自由です。しかし、妄想ゲームか政治ゲームかという単純な二元論では現実を把握できません。政治的にうまく立ち回るためにあえて愚昧な宗教に入信するという打算、環境をとにかく守りたいという盲信がついには国家や経済を動かすという世界情勢などなど……。

妄想ゲームと政治ゲームの相克をいかに生きるか、というのは思想的に大きな問題ですし、私が小説に期待しているテーマでもあります。

ーー
上の筆者が参考にしましたと書いているのが次の文章
これを採録

ーー

神話から現実へ!      
   
 とつげき東北          
               

 
「コーヒーとミルクとが何対何の比率で混ざったカフェオレが、最も美味しいカフェオレか?」──この形式の問いに短絡的な答えを出してしまうもの、それが当然の常識であり、守るべき道徳であり、愚にもつかない神話である。
 
    Ⅰ  最も美味しいカフェオレとは何か
 
 最も美味しいカフェオレ、それは何か宗教的でさえある。仮にカフェオレの美味しさがコーヒーとミルクの比率だけで表せるとしても、好みの違い、状況や時間的な差異などの要因によって、その「最良の」比率は当然変化する。単純にミルクが嫌いな人もいるし、逆の人もいる。十分前にコーヒーを三十杯も飲まされた人にカフェオレを勧めれば「ミルク多めにしてください」と涙目に懇願するかも知れない。コーヒーとミルクの理想的な比率は、決して初めから客観的に与えられたり、普遍的に妥当するものでないことは明らかだ。どんな基準(誰が、何に対して、どのくらい、など)で解釈するかによって判断や評価は変化するのであって、一つの基準を絶対視して「最も美味しいカフェオレはこれだ」と真面目に語るのは、今や滑稽に違いない。
 別の場合も想定してみよう。「能力」という言葉があるが、この解釈基準も全く主観的・固有的に決定されざるを得ない。わかりやすい例として「数学の能力」を取り上げよう。数学の能力? 数学の能力はある種のテストで点数化されるが、このテストの、まさに「配点比率」がこれを大きく左右する。「微分積分は得意だが、図形問題は苦手」な人は、解析学重視のテストでは高得点を取れても、幾何学重視のテストではそうはいかない。「解析学と幾何学とが何対何の比率で配点されたテストが、最も客観的な数学の能力を表すか?」──。開き直って「解析学」と「幾何学」とに分けてテストを行う方法も、結局は「客観性」を追求するための何の根本的手段にもならないだろう。幾何学とは言え、角度を求める問題が重視されるべきなのか、円の性質を考察する問題が重視されるべきなのか、それとも……。
 仮に誰かが、数学の能力の客観的基準は、解析学と幾何学の比率が一対一のテスト得点で表される、と主張したとしよう。しかし、そのような基準で測られた「数学の能力」で、実体的な「数学的活動の上手さ」を「客観的」に捉えられるだろうか? 中学校の数学教師には微積分の知識は必要ないから、たとえ「客観的」テストの点数が悪くても、仕事に必要な分野が得意な者が向くだろう。結局「能力」とは、極めて個別的な状態をモデル化した単なる一つの解釈であり、その基準は状況や目的によって常に変化するものなのだ。
 それにもかかわらず、常に客観的な判断が語られる種々の状況が実際にある。偏差値の高い者よりも、心の優しい者の方が立派だとされたり、「偏差値ではない賢さ」こそ必要だと言われたり、或いはそれらのバランスが重要だとされたり、要するに幼児向けのおとぎ話である。解釈の基準を何も考慮せずに「バランス」だとか「本当の賢さ」だとかを口にするのは「最も美味しいカフェオレ」について雄弁に語るに等しい。あらゆる判断は解釈主体の基準に依存する。故に──別に筆者がそう考えているわけではないが──「偏差値(学歴)こそ全てだ」と捉える解釈も「あり」の筈である。そうした捉え方をする者を「可哀想だ」とか「そんな人生はつまらない」とかと批判してみても、「哀れさ」や「人生の価値」の解釈もまた個人に相対的であるわけで、何の意味も為さない。
 
 初めに基準ありき、この視点をもう少し原理的な形式に適用してみる。一足す一は二だ、こうした「正しさ」の判断もまた、脳構造の状態(基準)に依存する一つの解釈でしかない。その証拠に、脳構造的に「一足す一は二だ」をどうしても「正しい」と判断できない状況は可能である(物理的にだけでなく、より現実的に心理的にも可能である)。この場合の配点比率(脳構造)は、数学テストの配点比率よりは自然に形成されるものであるにせよ、結局は一種の環境的・文化的なイデオロギーに他ならない。一足す一は二だ、と解釈すればつじつまが合うからそれは正しい、と考えるのはナンセンスだ。つじつまを合わせるだけなら、例えば「夏は必ず春の後にやってくる。だから春は夏の原因だ」と言ってよいことになる。そうではなくて「正しい」という判断そのものが「最も美味しいカフェオレ」の判断と同様に、独断的で非客観的な解釈にしか過ぎないと捉えることが重要なのだ。全ての「正しい」は、単純に解釈の問題であり、解釈の基準や「配点比率」の決定要素は多様なのだから、一足す一は百だ、というのもまた一つの解釈として可能でなければならない。そんなことを言い出したらどうしようもない、ということは、差し当たって問題ではない。それは「便利か、不便か」の問題であって、筆者の分析とは何の関わりもないことである。原理的・理論的に、一足す一は百であり得なければならないのだ。もしそうではないとしたら──それなら「最も美味しいカフェオレ」はどこにあるのだろうか?
 
    Ⅱ 「私は神だ」という真理
 
 先ほど「美味しさ」の基準が相対化されると共に「正しさ」の基準も相対化された。これは何を意味するか──? 客観的に「正しい」ものなど存在しないということ、つまり一般に「正しい」とされている全てのものは「正しさ」とは根本的に異なった何ものかから導出されるということだ。
 それでも「正しい」ものは存在する? 我々が先端自然科学を極め、或いは神と交信して──とにかく何か「正しい」ものに辿り着いたとして──そこで目が覚める、ということは考えられないだろうか? 全てが夢にしか過ぎないという仮定を、我々が取り除くことはできるのだろうか……? 夢の中で、必死に「これは夢ではない」と証明し、「正しい」ものを探している者の姿を想像してみると良かろう。絶対の「正しい」を述べることは「最も美味しいカフェオレ」を探すのと同じで、神話的で宗教的で滑稽な態度であることが理解されるはずだ。
 今、証明という言葉を用いたが──もとより「証明」だとか「根拠」だとかといったものは、本質的には「正しさ」と全く関わらない。「正しさ」が共有される状態は「正しさ」の基準が一致した上で初めて可能となる。だから、初めから基準や解釈が全く異なっている者には、それらは何の助けにもならないのである。ここに「私は神だ」と信じている者がいるとせよ。彼を見て、確かに我々はおかしいと感じる。あらゆる科学的根拠を以て、それを否定することができる。ただし、あくまでも「我々から見た」我々の正当性が保証できるだけだ。「私は神だ」の者が、常識や科学などの共通理解を全く持たず、神としての判断基準(私は神であるから、何を言われても私が正しい)を持っているとすれば、彼は決して論破されない。深刻な意味で、あらゆる判断・認識・解釈は、ことごとく一種の信仰である。彼が「私は神である」と信じたことは、我々が「彼は神ではない」と信じたことと、何も形式的に変わりない。我々は「私は神だ」という主張さえも原理的に正しく批判できないのだ。
 
 筆者の記述に色々の反論もあろう。「そういう合理的な考え方はつまらない」といった的はずれの反感から、「正しいものがないなら、この記述も正しいとは言えない」などのありがちな反論、その他種々の反発や批判が想定されるが、結局それらは全く問題ではない。要するにそれらを含む全てが解釈に過ぎず、どんな解釈も、常に「そうではない」と解釈され得るということが重要なのである。もし仮に神や科学や、筆者の記述に対する何らかの反論などが「絶対のもの」であるとしても、それが筆者と何の関わりがあろう? ──ない。たとえ「絶対のもの」だろうと、筆者にそうと解釈されない限り、筆者にとってはそうではないのだ。そしてこのように解釈する筆者がいる限り、あらゆる判断、あらゆる「正しさ」は、決して絶対的でも原理的でも、客観的でさえもあり得ない──(筆者の記述はあまりにも非常識だ、と思う者は、例えば現代思想を少しでもかじってみると良い。筆者がいかに学問的常識を語っているかが一目で解るだろう。自然科学を見ても同様である。数学や論理学の原理的な正当性は証明されないということを、ゲーデルが数学的に証明している。「常識」もまた解釈なのだ)。
 
 
    Ⅲ  なぜ人を殺してはならないのか
 
 「私は神だ」を否定するためには共通理解(自然科学的知識や論理実証主義など)が必要なのと同様に、証明の正当性や根拠の正しさなどの判定には「真偽」や「正誤」の基準を規定する構造、共通の信仰が必要となる。そして筆者が問題とするのは、まさにこの、共通の信仰が成立しない可能性についてなのである。
 
 「私は神だ」と言う者と我々との関係──共通の信仰、共通の「正しさ」が異なっている者同士の関係は、常に必ず暴力的である。我々の全ての行為は「私は神だ」の彼に対して、極めて不当で、理解できず、非平和的なものとなるだろう。もし彼が「私は神だから、人を殺すのも私の自由だ」等と言い出したらどうだろうか。我々は、彼の主張──ひょっとすればそれこそ正に真理かも知れない主張──を初めから全然信じようとせず、ただ我々の信仰に基づいて彼を黙殺し、笑い飛ばし、時には罰するのである。双方ともに、自分から見れば自分は全く正当で、相手は不当なのだ。つまり、そこには「正しさ」ではなく、ある種の権力(暴力的・排他的に獲得される自由)だけが存在した。単なる自分勝手な信仰を「正しいもの」として押し通し、相手を抑圧するということ。権力、これこそあらゆる「正当性」の歴史的な、論理的な、基礎的な原理に他ならない。「正しさ」の基準が互いに異なるならば、自分の捏造した「正しさ」の基準を押し付ける力の程度だけが「正しさ」を根本的に規定する唯一の因子でなければならない。
 
 信仰の差異は権力的な対立を生むことが示された。それでは、唯一残されたかに見える「平和的な」状態、信仰が共有される場合はどうだろうか。筆者の分析によれば、このような場合を含む全ての行為・状況が、純粋に権力的なのだ。仮に「解り合い」が可能になり、「平和的な」状態ができたとしよう。しかし、一人でもそれに同意できない者がいれば、「解り合い」「平和」自体が彼に対する状況的な権力差を生むだろう。例えば「人を殺してはならない」という「平和的な」信仰を多くの者が持てば持つほどに「私は神だ」の者は権力的抑圧を受ける。「私は神だ」などと言い出す者は流石に一人もいないとしても、それに近い信仰──ある種の新々宗教や、オカルトもそうである──を持つ者の存在は、容易に推察できるだろう。一つの平和が、一つのより非平和的な状況を原理的に要請するのである。
 
 このように、信仰が共有されていない状態は権力的な状態であり、信仰が共有されている状態も権力的な状態であるから、我々は常に権力的な状態にあることが示される。したがって「人を殺してはならない」などという要請も、単に自分勝手な暴力にしか過ぎないのだ。その暴力を気にしないなら、人を殺すことは何も「間違った」ことではない。原理的な意味で、我々はそれを「間違っている」と示すことができないからだ。「いや、それは理論上の話で、現実的ではない」と思う諸君。筆者は、それこそが一つの暴力だと言っているのだ──真面目に構築された理論を(それも学問的には「当たり前」のことを)直感だけで「おかしい」と決めつけるということ、ついには「理論上間違っていない」はずの殺人犯を直感だけで軽蔑するということ……。
 「正しさ」の対立を含む全ての対立は最も権力的に解消され、「平和的な」状態を含む全ての状態は最も暴力的である。解釈と権力こそ原理。
 
 
    Ⅳ 「生きる資格のない人間」とは誰か
 
 気晴らしついでにだが──ここで一つの「正しいもの」の破壊を試みよう。ここで取り上げるのは、「道徳」という中心主義の牙城だ。道徳といっても多様だが、筆者はこの言葉を定義するつもりはない。もし道徳家がそうした論理分析的な信仰を共有しているならば、「道徳の正当性には論理的・科学的根拠が存在しない」の一言で済んだ筈である。
 
 現代日本の道徳の一つの典型は「他者への気遣い」である。「人を殺してはならない」というのも「他人に迷惑を掛けてはならない」の一形式であるし、特に日常的な道徳的追求は「他者への気遣い」の欠如の指摘を伴うからだ。例えば「自分の信念を貫くことは素晴らしい」といったような信仰も広義の道徳的概念と見なせるが、このような態度も「他者への気遣い」が欠如した場合、一般に道徳的とは見なされない。その他詳細は省くが「他者への気遣い」こそが最もありがちな道徳因子の一つであると思われるのだ(当然、この他にも道徳的要請の因子は様々にある。「ルールは守らなければならない」とか「命は大切だ」とかいった要請は「他者への気遣い」に必ずしも回収できないだろうが、そのことは筆者の主張に何の問題も持ち込まない)。
 他者への気遣いが、道徳的評価の配点比率において重視されるとすれば──筆者は相当に道徳的な人間だ。何故なら、世間で「人格者」だと思われている連中でさえ、他者への気遣いが最も欠如した者たちだからである。世の道徳的発言を聞くがいい。「他人に迷惑を掛けるな」──誰にとっての「迷惑」だろう? 「私は神だ」と言って人を殺す人間は、確かに我々にとって「迷惑」には違いない。しかし法律や常識や科学などの、原理的に「正しい」わけではない信仰に基づいて彼を批判・抑圧することは、また彼にとってこの上なく「迷惑」なのだ。そして結局は、我々の「迷惑」の基準だけが「客観的な、妥当な」基準として、言ってみれば「最も美味しいカフェオレ」として罷り通るのだ。ここには、社会的弱者(他者の立場)への気遣いなど微塵もない。このように筆者は道徳家とは違って「少数者への気遣い」ができるが、それにもかかわらず、筆者が道徳家連中に認められることはないだろう。人殺しを咎めない人物などダメだ、「他者への思いやり」とはそんなものではない──道徳家はそう叫ぶ。
 
 要するに、道徳の一つの不道徳的特徴は、その「対話不可能性」にある。道徳家は、何が道徳的か(配点比率)の基準を言わず、筆者が道徳の要請に従って少数者を気遣い、道徳の暴力性を示したのにもかかわらず、苦し紛れに基準をすり替えて──というより、何とかお茶を濁して──、相変わらず「道徳は正しい、殺人は良くない」と言う。科学的に見れば道徳などでっち上げ以外の何物でもないのに、道徳家は道徳の正当性根拠を示そうとしないし、できない。何も語らずとも絶対に正しい──この態度は、彼らさえ批判する「迷惑な」新々宗教信者とどう違うのか伺いたいものだ(いや、実際にはもう聞きたくない。曖昧で感情的な思いつきを、小学生のように凡愚にしゃべり散らかされるのが楽しいのは、せいぜい最初の一、二回だけだ)。
 その上で、道徳家は常に「被害者意識」を持つものと思われる。この着想こそ、道徳の不道徳的特徴の第二項に他ならない。「押しつけ」だとか「迷惑だ」だとかの発言に、その兆候は顕著に現れる。「価値観を押しつけるな」という解釈もまた典型的な「押しつけ」であるし、ある人にとっては「迷惑を掛けるな」という解釈ほど迷惑なものはない。それにも拘わらず、道徳家は常に「自分たちが正しい=相手が加害者だ」と捉えるのである。
 これらの二つの特徴をまとめると、次のように言える。道徳に基づく全ての発言・行為は道徳家中心主義的であり、道徳という宗教的な迷信を信じない者に対する抑圧的な暴力であり、即ち権力の技術に他ならない、と。「道徳というルールを守れ」と言うのは「ルールを造る者の言うことを聞け」と同義であり、従ってルールを造る権力こそが正しいとする権力主義の典型なのである。おやおや、彼らはあれほど「押し付け」や「権力」、「少数者排除」を嫌悪するというのに……。「ルールがなければ困る」──地球環境保護のルールは、決して先端産業の企業社員にとって良いものとは限らない。しかし実際に筆者が幾度となく体験した驚くべきことは、道徳家はこの種のことを聞いてもなお、恥ずかしげもなく「全体として、ルールは有益なのだ」などと言うことである。これこそまさに、図々しく「客観的に最も美味しいカフェオレはこれだ」と権力的に迫る態度に他ならない。
 その他のあらゆる道徳も、それが普遍の共通信仰ではあり得ないものであり、その上で何らかの要請を直接的或いは間接的に含む以上、結局は権力に他ならない。つまり少数者の排除を原理的に伴わざるを得ないものなのである。
 
 筆者は道徳家諸氏に次のように忠告してさしあげよう。まず、君たちは道徳の要請に従ってもう少し道徳的思いやりを持ち、少数者(他者)の視点を獲得する義務がある。これは君ら自身がいつも他人に強要していることだ。例えば「生命の尊厳」などという原始宗教なみの風潮によって、いかに科学研究──医学や生物学から、工学や心理学に至るまで──が妨害されるかを考えるといい。次には、君たちが道徳的である限り、結局は道徳は完全に克服されなければならない。少しでも道徳的に行為しようとする以上、君たちは何もできないだろう。例えば研究者のことを気遣えば一部の道徳家に「迷惑」を掛けるし、逆に一部の道徳家を気遣えば研究者に「迷惑」を掛けるからである(もちろん、科学研究が妨害されて「迷惑」を感じるのは、研究者ばかりではない。現代の医学では治療不可能な難病にかかった「罪のない」多くの人々もそうだ)。解釈は多様なのだから、いかなる行為・思考・態度も、少なくとも極めて特異な誰かには「迷惑」であり得ることが想定できなければならない。君たちの存在自体を「迷惑だ」とする捉え方も、決して「間違っている」筈がないではないか。君たちが得意げに口にする「貴方には他人の気持ちを想像する能力がない」という浅はかな文句は、全くそのまま君たち自身に向けて語られるべきだろう。そしてあらゆる論理的分析能力の決定的な優劣が、果たして私たちと君たちとの「総合得点」にどのように影響するか……。
 今や、種々の道徳的要請自体が、道徳と矛盾することは誰の目にも明らかだ。我々はもはや、どんな行為も不徳と見なし得る。これを無視して中途半端に「他者を気遣い=多数者に権力的に味方し」、「思いやりに欠ける」「人を殺すことは良くない」などという理由だけで──自分たちの「正義」を押し通す力を持っていることの他に何の「正当な」理由もなく──他者を軽蔑するから、道徳は典型的な暴力に等しいと言うのである。そしてその上、あろう事か「人間性」がどうの、「こころの優しさ」がどうのと臆面もなく語り始めるものだから、「道徳家」こそが最も「恥ずかしい」人物だと言うのだ。
 
 翻って言えば、我々は論理的に自らの利益だけを求めることが可能なのである(エゴイズムに反発するヒューマニストは直ちにある種のシャーマニストであり、しかも結局エゴイストである──つまり純粋なシャーマニストである)。「道徳家」に求められるものは、無根拠で矛盾した概念を盲信できる非論理的性格と、少数者に目の届かぬ慢性的理性障害と、感動を装った暴力装置を正当化する程の権力的傲慢さである。……一体誰が、このような人物を「人間的に立派」と呼んだのか。筆者の「配点比率」で言えば、彼らは零点に近い落ちこぼれであり、あらゆる出来損ない中の出来損ないであり、それ自体として最も価値のない人間である。この記述に対して、もし諸君が反感を持つとすれば、それは最も「不徳な」態度であることを、諸君は論理的に理解できなければならない──。
 
 
    Ⅴ  利用対象としての「神」
 
 現実のどんな状態も、一種の「権力的状態」である。悪意を以て相手に接することばかりか、ただ存在するということさえも、原理的に単なる暴力だからだ。だからこそ、存在するための力、行動するための力……これらを我々は必要とする。意識の外にある全ての存在(無意識を含む肉体、他者、環境など)の運動様式を意識の欲する状態に変更すること、これが権力の形式であり、権力の度合いは自由の度合いである。
 先に、全ての解釈は信仰であると述べた。ということは、他者の持つ信仰との接し方は、権力の程度を左右するはずだ。そこで一例として、道徳のような集団的な「ルール」との関わり方を考えてみる。
 まず、信仰を一切共有できない場合を考える。この状態を権力の第一段階であるとしよう。これに属する人は、ルールを全く把握(理論化)できず、彼らにとって他者とは、単に「何故か自分を責める者」「突然自分を攻撃する(罰する)者」にしか過ぎない。これは彼らの、集団に対する決定的な権力的劣等を意味する。例えば新々宗教の信者のような立場は、この段階に近いだろう。
 次に、権力の第二段階として、不可逆的に信仰を共有するという状況を考えよう。ルールを破ることは無前提に「してはならないこと」であると信じることによって、「ルールを把握できない」第一段階より圧倒的に権力的な状態に達することができる。法律や道徳を信じれば、世間的には殺人犯よりも権力的な地位を得られるのである。一般的な大衆の立場は、第二段階の存在である。
 ところがこの第二段階は、未だ権力の最高段階ではない。ルールを含む共通信仰を逆に突き放し、対象化する立場こそが最も権力的なのだ。信仰するのではなくて、相手の信仰に取り入って「信ずるフリ」をしていられるということ、利用対象として「信仰」を把握するということ。つまり可能な全ての選択の内から、最も意識の充足に結びつくだろう行為を選択できること、これこそが最も権力的な態度に他ならない。例えば道徳の要請に縛られて自分のやりたいことができない状態とは、極めて非権力的な、精神の不自由な状態である。道徳など時代や地域によって呆れるほど変化するのだから、自分の道徳だけを信じ、「正義を貫いて」利益を失うなどというのは愚の骨頂としか表現しようがない。権力の第三段階が達せられるのは、信仰を共有するのではなくて、信仰を分析し、理解し、信仰を利用する立場においてである。
 
 相対主義者といえど、何もかもの「ルール」を無視してしまうのが「便利」なのではない。これは権力の第一段階への後退しか意味しない。「ルール」を利用し、権力の集中を計ることこそが重要なのだ。余りにも自明の事実は、ルールを守ること自体には何の価値もなく、ルールを守り、或いは時にルールに背くことによって得られる意識の充足だけが本質だということである。従うべき「正しい」もの、自分が「してはならない」こと、頭の弱い常識や道徳や風習、そんなものに縛られている状態は、あらゆる意味で盲目的である。道徳という一つのルールを突き放すのと同じように、全ての信仰を単なる利用対象として捉えなければならない。
 
 
    Ⅵ  われわれ傲慢な者たち
 
 ここに記述してきたことをまとめて、権力主義と名付けよう。結局のところ、権力主義とは何なのか──?
 
     一
 
 権力主義とは、一つの世界解釈の姿勢である。自分の意識を世界の中心に置くこと、全ての意識外の存在を意識充足の手段と捉え、それを技術として利用すること、世の中の全ての連関を権力連関として解釈すること──そしてこれらが理論的に一貫され、把握されているということ。要するに、権力主義者とは単にまともな分析家であり、学問の世界での「常識者」であり、実践家であり現実主義者である。
 
     二
 
 権力主義者は道徳家より不徳な人物ではない。先に示した通り、全ての状態は権力的なのだから、誰も道徳的ではない。誰も人格者ではない。そのことを明確に把握し、道徳を含む既存の価値構造を利用するか、蒙昧に道徳神話を信じ続けるかどうかの違い──頭に霞がかかっているかどうかの違い──だけが圧倒的に存在するのである。
 
     三
 
 権力主義者は必ずしも社会的な権力を目指す者ではない。最も強大な社会的権力者であることと、彼が権力主義者であることは独立である。
 
     四
 
 権力主義者は軽率ではない。彼らは一切を疑って掛かる。常識的なものはなおさらである。感動的な名言・警句などどうでもいい──感動で飾らねば残らないような分析を必要としない程度には利口だからである。
 
     五
 
 権力主義者は「正しい」を持たない。彼らにとって科学や論理は、高度な権力の技術にしか過ぎない。
 
     六
 
 権力主義者は道徳を持たない。どれほど卑怯な手口で搾取されようと、いかなる不平等があろうと、それは自身の、状況に対する権力の低劣以上のものを意味しない。彼らは決して、不平や不満を「制度」や「悪」や、果ては「運命」に吐露し、こそこそと自分を「被害者」「善人」に仕立て上げるような真似はしないだろう。彼らがそれをする場合は──技術としてである。
 
     七
 
 同様に「異常」「独断」「権利」「責任」「正当性」「妥当性」──これらは権力の一つの表現に過ぎないから、権力主義者はこれらを技術としてだけ用いる。
 
     八
 
 権力主義者は無秩序主義者ではない。彼は「ルール」を破るときの不利益の度合いを理性的に考慮する。制度が充分な権力を保っていればよい。
 
     九
 
 意外に思われるかも知れないが、権力主義者は決して「厄介な人物」ではない。権力主義の理念に基づく限り、彼らは平常は穏やかで、気のよい、その上最も理性的な人物だろう。彼らを心底から怒らせることは極めて困難である。というのも、彼らはどんな行為に対しても「道徳的怒り」を感じないし、理性的冷静さを持っているからである。しかし敵に回すとこれは一変する──道徳的な歯止めなど欠片も存在せず、極めて狡猾に権力を行使する。
 
     十
 
 ところで、次のように述べて良いだろう。世の中の全ての人間は権力主義者であるか愚者であるか、何れか一方である──と。この後者の者たちは、筆者がこうして解りやすく語った「現代思想の初歩の初歩」さえも何一つ理解できない。彼らは例えばこう言うのだ──「君がそう考えるのは君の自由だが、それを押し付けるのは良くない」だの、「もう少し人間らしい考え方も必要だと思う」だの、「君の理屈は正しいにしても、別にそんなに道徳を攻撃する必要はない」だのと。筆者がここまでに──苛立たしいほどくどくどと──記述してきた通り、これら全ては典型的な無知である。そうした判断も単に一つの可能な解釈に過ぎないということ、従って全く異なった解釈もあり得るのだということ、そしてそれらのどれもが「正しい」ものではないということ(少なくともそういう解釈も可能なのだということ)。つまり結局は──自分たちの解釈を押し通す権力の問題なのだ……。
 
 さて、このような権力主義に対して、常識主義・道徳主義などは何を意味するのだろう? ──要するに凡愚な理想主義、「現実」を離れた神話主義である。世の中の凡庸な発言はみな、どこか遠い世界のことしか語らない。人間が「平等に生きる権利」を原理的に持っていたり、「自分に負ける」ことは「恥ずかしい」ことであったり、利己性に基づかない気高い行為が存在したり……その他全てが、奇妙なほど、一つの例外もなくまやかしである。世間的日常は常に、何かしら感動的な神話的欺瞞に満ちており、実状が全く分析的に理解されない。学問への適性が「人間性を育てる」教育と、いったい何の関わりを持つというのか。それらは無関係であるというより、むしろ負に相関する。「人間性」の基準や根拠さえ問えないほど非分析的な者は、徹底的に学問的分析作業から追放されなければならない(そうすることこそが結果的に「世のため人のため」になるに違いない)。
 
 神話を語る頭のおめでたい者たちに繰り返して聞こう。「誤った」考え方、「無意味な」理屈、「大切な」命、「価値のある」人生、「改善」されるべき差別社会、「秩序」を乱す宗教団体、平和で争いのない「より良い」世界、そして「最も美味しい」カフェオレ。
 ──誰にとっての?

ーー
賛否は別にして
分かりやすく書く技術のお手本

ーー
ニーチェの道徳の系譜、善悪の彼岸については、岩波を推薦したいです。
木場 深定さんの訳がものすごく強度高いです。

道徳の系譜 http://bit.ly/aktPUw
善悪の彼岸 http://bit.ly/97xF8P

それらが終わったら、
権力への意志 http://bit.ly/bMxSG1
に進むのかなと思います。

とのこと


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数学の嘘と偉大さ

数字なんか信用できない
という意見もわかる

統計はおおむね嘘をつくために利用されているわけで
高級な数学である割には目的が下等である
法律学と同じ

注文に応じてどんな分析も用意する
限度はあるので薬の治験は最近はいい数字がでない

しかしニュートンやアインシュタインは
数学でないと考えつかないことを考えついているわけで
明らかに数学の中には人間の知性を超える偉大さがある

アインシュタイン以後のことはよく理解できないが
ニュートンまでのところだけでも数学は偉大だと思う
アインシュタインは奇跡だと思う

ーー
うろ覚えだけれどリーマン予想では
素数の配列と
原子核の構造つまり電子エネルギーの値が説明できない不連続さで配列されていることとが
関係があるのではないかとの話があるらしい

つまり数学で簡単に規定できない乱雑さには
同じ原理が働いているのではないかということ

やはり理解出来ていない

ーー
波として説明するのが分かりやすいが
たとえばその電子が2の性質を持っていると
数直線で2の倍数は全部埋められる
ほかの電子はその場所には存在できない
3の性質をもつ電子があればやはり同じで
3の倍数の位置には他の電子が存在できない
そう考えて行くと
素数の位置にしか電子は存在できなくて
結局素数の配列と電子の配列は一致することになる

ふむふむ


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血管

最近は床にあるツマミをいじろうとして
頭を下げると
妙に頭の血管に血が流れこむようで
たぶん血管の収縮が弱くなっているのだと思う
老化である

ーー
加齢に伴い全身の筋力が低下してきますが、腕などは余り変化しない
のに比べ、下半身は顕著に低下していきます。よく「ヒトは脚から老
いる」と言われますが、このことは科学的にも実証されています。最
近の知見によりますと、以下の三つの筋(三筋)が著しく低下(後退)
することが判ってきました。

1.『腹筋』
 (特に「大腰筋」;背骨と両脚の付け根を結ぶ深部筋)
  太腿を引き上げたり、骨盤を引きつけて姿勢を維持する筋肉

2.『大腿四頭筋』
 (太腿の前部にある筋肉の総称)
  膝を伸ばしたり、太腿を引き上げる筋肉

3.『下腿三頭筋』
 (ふくらはぎの筋肉の総称)
  足首を伸ばす筋肉

●「アンチ・エイジング(若返り)」は「アンチ・三筋後退」

ということで、このごろ何となく見た目(姿勢&動作)が老け込んで
きたかなあと思ったら、早速「アンチ・三筋後退」を始めましょう。

1.『腹筋』:ニートゥチェスト
 1)背もたれのあるイスの、前のほうにすわる。背もたれの後ろに
   腕を回し、座面をにぎりカラダを固定させる。
 2)足を床から離し、1秒止めてからスタート。
 3)太ももを胸のほうへゆっくり引き寄せ、スタートの姿勢にゆっ
   くり戻る。

2.『大腿四頭筋』:スクワット
 1)両脚を肩幅程度に軽く開いてまっすぐに立ち、頭の後ろで手を
   組む。
 2)しゃがみ込んでお尻を少し浮かせ、1秒止めてからスタート。
 3)ひざを伸ばしきる手前までゆっくり立ち上がり、スタートの姿
   勢にゆっくり戻る。

3.『下腿三頭筋』:カーフレイズ
 1)両脚を肩幅ぐらいに開いてまっすぐに立つ。
 2)かかとを少し上げてつま先立ちになり1秒止めて、スタート。
 3)かかとをゆっくり上げ、スタートの姿勢にゆっくり戻す。
 
※1・2・3を、それぞれ5~10回を目安にできるだけくり返して
 下さい。
※運動中は呼吸を止めないことと、それぞれの運動後は必ずストレッ
 チをして下さい。

ふむふむ
でも、若い頃もそんなことは一回もできなかったし
無理だな

ーー
老化のしるしとして唾液の減少が言われる

口が臭くなるのはそれが原因の一つだろう

でもわたしは若い頃から唾液が少なかった

焼き芋なんかを一気に食べることができない 詰まる

ーー
皮膚のシミは老化の目に見える印だ
自分の顔はあまり見ないが
手の甲ならばよく見ているし
老人性のシミにも気づいている

恩師のことは40代から知っているが
50を過ぎてから手にシミができて
60では顔にシミが見えて
70を過ぎてほぼ平均寿命で亡くなった

平均から逃れることはできないようだ


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「信頼できる仲間がいれば、乗り越えられない問題はない」

「信頼できる仲間がいれば、乗り越えられない問題はない」

ということは
乗り越えられない現実がある以上
信頼できる仲間がいないことになる

信頼できる仲間がいても
乗り越えられないこともある

のだが
まあ、そう言いたくはないのだろう

医療では人間は必ず死ぬのだし
そのたびにおおむねは悲しくて泣くのだから
乗り越えられない問題は常にある

しかしそんなことを言っているのではない

ーー
信頼できる仲間がいると感じるためには
まず他人を積極的に・無条件に信頼する態度が必要だろうと思う

そしてその態度を逆手にとる人間がいることも事実で
へこむし損をするのだけれど
それでもなお信頼を続けることが
長期的に見れば困難を解決していくことになる

「乗り越えられない問題もあるし」「裏切られることもある」「それでもなお信頼しよう」ということになる
かなり困難な態度であるが
長生きをすれば報いられると思う

早く死ねば損だけが残る可能性もある


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心を育てる

心を育てることは
できるように思う

現実体験から人間が学ぶことは少ないと思う
間接体験をどのようにして
自分の役に立てていくかが
ポイントだと思う




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毎日複利0.002

今日できることを100とし、1日0.2%ずつそれを改善すると、明日は今日に比べて100.2できることになります。さらに毎日0.2%ずつ改善すると、10日後には101.8と少しできるようになります。

 このような努力を365日続けていくと、なんと、この数字は、初日に比べたら207.3にもなるのです。

ーー
これは説得力あるなー

毎日複利計算だと
0.002でいいんだって
すると一年後に2倍

だれか毎日複利にしてほしい


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教育する側

教育する側の人を
長期的に見ていると
教育される側よりも賢明になっている

教育される側よりも賢明でない人は
長い間に淘汰されていなくなってしまうのかもしれないが
そうではなくて
やはり教える側が教育される要素はあると思う

だから
普段の人間関係で
自分は誰にものを教えているのかを反省してみればいいと思う
子供相手と社員相手、また部長や社長相手では
かなりの違いがある

愚かな社員を叱っているうちに
自分が愚かになっていないか反省しよう

教えられる側の人間よりも賢くなることは難しい
いつの間にか相手のレベルに合わせてしまう

ーー
小学校の先生と中学校の先生を比較して
どちらが賢明と簡単には言えないし
それぞれの場面に適応しているので
それでいいのだし
そのこと自体をいうのではない

社長を教え導いていると称する人たちの実態をいえばかなりの変態だ
そのことも別段好き勝手でいい
価値判断はしない

小学生はおおむね単純とも純粋とも純真とも言えるのだろうし

ーー
ただ
家に帰っても小学校教師だと少しつらいだろうと思う

普段つきあう相手がどんな人かは結構人生の重大な要素である


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「私達はこの場で失敗をすることで、人間としてさらに成長します」

「私達はこの場で失敗をすることで、人間としてさらに成長します」

いいですね
で、明日も成長したいので失敗


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クレーム対応の原則

クレームにおける「怒り」は“感情”です。まずこの感情にペーシング・同調・チューニングすることを考えましょう。論理で解決しようとすると、気持を無視された状態になり、お客様は余計に腹を立てることとなります。
多くは、お客様の怒りの気持ちや感情にペーシングするのを忘れ、むしろ冷静に穏やかに話すことによって、相手をなだめようとします。しかし、これは明らかに間違いです。
お客様は自分の怒っている気持ちをわからせようとして、さらに声を張り上げ、テンションが上がり、ますます怒りを増幅させることとなります。人間は、聞いてもらって共感してもらったことで癒されるのです。ですから、怒られたら、お客様の“テンション”にペーシングし、慌ててどもるくらいがよいでしょう。
特にクレームでは、トラブルを起こした会社の地位の高い人に共感してもらったことで、満足感が高くなります。
まず、テンションをお客様と同じように上げ、その後、怒りのトーンが低下するように仕向けることです。怒りのトーンを低下させるには、“お客様の話を聞くこと”が重要です。途中で口を挟もうとするとお客様のテンションは下がりません。話を聞くだけでテンションは下がり、低下してきたら、初めて論理的に物事を考えることができ、解決策のための話し合いのテーブルにつくことができるのです。
つまり、お客様と冷静に話すことができる状態になって初めて、状況判断や解決策の提示を行うことができるのです。
ほとんどの場合、“クレームの根本は感情問題”で、その後に理屈がくっつき、お互い引くに引けない状態となります。
最初は些細なことだったはずの問題が大きくなり、もう最初には戻れない状態となることがあります。このことから、最初の感情処理がクレーム処理の最大のポイントとなります。
お客様の言い分をよく聞き、共感を示し、怒りを認め、お詫びを言うことが基本ですが、“お詫びを言うことと、非を認めることは別問題”です。勢いに負けて契約に無いことを認めてはいけません。
ここでは商品やサービスにお客様が“不快の念を持ってしまったこと”に対してお詫びをすることに徹することが重要です。
どちらに非があるか?とか原因究明への対応は後の問題です。
原因究明や解決までに時間がかかることは多いですが、当面はお客様の言い分をよく聞いて理解することに徹することです。くれぐれも「オレはこんなに怒っているのに、何を冷静にしているのだ!!」にならないようにしなければいけません。

ーー
なるほど
説得的だが
このような対応ができるような人は
すぐに偉くなって
クレーム対応などはしなくてもすむような立場になるので
かなりの矛盾がある

クレームが聞きたいという人はいないから

早く卒業できるように学習しましょうということになる

ーー
まあ、言ってみれば、クレーム処理係を演技するとか、
クレーム処理コスプレをするとかそんな感覚しかない

これはロールプレイなのか?
と思いつつ1メートルくらい
後ろ上方から場面を見る感覚

そうでないとやっていけないって
クレーム処理と上司の叱責は

ーー
クレームをつける人の心理を考えると
クレームをつけることで自分は長期的には損をするに決まっているので
人生の方針としてみれば
非常に短期の利益を重視している態度に分類される

竹下さんみたいに「わたしはいつもにこにこしていて怒ったことがない」というのが
長期利益に徹した生き方である

クレーマーはどうみても自分に損な態度をとっているのであるが
それはどうしてなのかと考えると
ある程度からくりは見えてくる

対応する側としては
短期の利益と長期の利益のトレードなのだから
たぶん実質は得をする

逆に言えば
得をしているからクレームを言われるのであって
クレーマーにすれば
得をしていない人に頭を下げさせてもおもしろくないだろう
一時的にでも自分が優位に立ちたいという
結局は損をするゲームを仕掛けているわけで
サッカーで言うオウンゴールのようなものだ
だいたいが「上司を呼べ」と言いますね

パスは奪ったが
オウンゴールしていた!

という感じで
短期利益と長期利益が交錯している

これがオウンゴールか
と思って見ていましょう

ーー
クレーマーと叱る上司を入れ替えても可

叱られ役で給料をもらっているわけだし


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傾聴

「聞くと聴くのちがい」
「傾聴のルール」
「アイコンタクト」
「ペーシング」
「アイスブレイキング」
「オウム返し」

ふむふむ

ーー
アイス・ブレイキングは
氷を溶かすことで
知らない同士で緊張しているときに
対人距離を近づけるテクニック

たとえばヒーローインタビュー
2人ペアになって、一方が今まで自分が一番活躍した時のことを話し、他方があいづちや質問などを使って話を引き出し、あたかもMVPへのヒーローインタビューのようにどんどん盛り上げていく

おだてると言っても同じですが

またたとえば 漢字一文字自己紹介

そのほかには 後出しジャンケン大会 じゃんけん、ぽん、ぽん!

ーー
ペーシング(pacing)
考え方、感情、態度に自分のペースを合わせること。“共通点を探し出す“”共通点を持つようにすること“が好感を持たせるベースとなる。自分の話したいという欲望は抑えることが大切。自慢話など聞きたい人はいない。共感ゾーンを拡大すること。

(1)ミラーリング(mirroring)
 相手とBody Language(ボディランゲージ)を合わせると好感をもたれる。同じ動作でリズムを合わせること。あまりの猿真似は不自然。タイミングを調整することは重要。
(2)チューニング(tunning)
 感情や気分の状態、フィーリング、思考方法やMood(ムード)といった心の周波数を合わせること。怒っている人に冷静に対応してはいけない。相応に慌てて、感情のレベを合わせること。
(3)マッチング(matching)
 相手と話し方を合わせるWords(話し方)によるペーシング方法。相手の話し方のスピード、高低、口調に合わせること。方言に合わせることは効果的。子供に話をするとき、「会社がちゅぶれてしまって‥」というように、子供の用語を使ってゆっくり喋ることはマッチングの典型例。

天候のように、誰もがわかっていて「YES」と言うところから話を切り出して、さりげない質問をすることがスタートライン。
“前回の合意の確認”を行い、YESと言えるところから始めることも、YESを継続させるための有効な方法。

ふむふむ



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伝え方を工夫しよう

自分の考えや言葉は正しいと信じていて
しかしそれが伝わらないのは相手が感じる心がないからだと思っているとしたら
もう少しだけ
「伝え方」を工夫してみたらいいと思う

内容がなくても
「伝え方」だけで商売している人もいるくらいだから

内容があって
伝え方もうまくなれば
とてもいいはずだ


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ラップ

普通の歌ならば
5秒ずついろいろな曲をつなげば新しいのがひとつできるけれど
ラップになると言葉の要素が大きくなるので
そんなに簡単ではない
区別が難しくなる

詩経の中にある言葉とか
日本でも短歌、長歌から始まり似たようなものがあると想像される

宮廷雅楽の系統はみな長く尾を引いていて
民衆が我慢できたとは思えない

たぶんもっと早いリズムではないか

労働歌の要素もあるだろうと思うので
やはり身体のリズムは限定されてくる

たとえば津軽じょんがら節などは
節がおおむね決まっていて
歌詞は即興でつけたりするので
これも似たようなものだろう




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世俗進化論

美人の価値は性選択の際に有利で遺伝子をたくさん残すことと
一見考えられるが
実際はそうでもない

遺伝子をたくさん残すのは別の要因のようだ

ーー
逆に言えば
では何を感じて美人と判断しているのだろうかという問題になる

たぶん
美人の感じ方は個人の感性によるのではなくて集団の感性だろう

「美人ではないけれど僕にとっては天使」という言い方はおかしくはない
個人的な美人という言い方はなじまない
ということは
美人という言葉は集団の価値観だということになるだろう

ーー
世俗進化論では
美人・健康という価値ピラミッドがあり
富・権力という価値ピラミッドがあり
その対応する階層でのマッチングが行われると説明される

女性は美人であれば得をするし
男性は高級車に乗って、いい靴を履いて、いいめがねをして、いい時計をしていれば得をする

そのためには
その車がフェイクではなく高級であることが保証されなければならないだろう

比較してみると
美人とは高級車、靴、めがね、時計と同系のものになる

「個人的な高級車」というものもないわけで
「この車は高級で、乗っている人は価値がある人」という「集団の価値」である
使用価値ではない

ーー
まさかね

どこかで間違っています


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感性価値

デザイナーさんが提供するのは
感性価値だそうです

なるほど

知性価値とか
倫理価値とか
元気価値とか
応用できるかな

ーー
感性価値を言う場合
受け取る側に感性がないと
違いが分からないから
困るらしいです

私などは分からない方で
別に安い方でいいよ
なんて言うので
張り合いがないらしい


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ハンチントン病における DNA修復障害

 手足などが不随意運動をしたり、認知障害などの症状が出る神経難病「ハンチントン病」は、病気の原因タンパク質によって、損傷したDNAを修復する仕組みが働かなくなるのが原因との研究結果が発表された。

 この仕組みを回復させることが、ハンチントン病の新たな治療法開発につながる可能性があるという。

 ハンチントン病は、遺伝子変異が原因で「変異型ハンチンチン」という異常なタンパク質ができる。これが「Ku70」というタンパク質と結合する。

 Ku70は、ほかの2種類のタンパク質と複合体を作り、2本鎖のDNAが損傷した場合に修復する機能がある。変異型ハンチンチンがあると複合体を作りにくくなることをマウスの実験で確認した。

 複合体を作る前に、Ku70が分解されるなどして少なくなるためとみられ、変異型ハンチンチンがあるマウスでKu70を通常の2倍程度作らせると、生存期間が約30%長くなった。

 治療に応用するには、Ku70を作る遺伝子を導入する方法や、変異型ハンチンチンがKu70と結合するのを阻害する化合物の開発などが考えられる。

 ハンチントン病は、日本では人口10万人当たり約0・5人の患者がいるとされる。

(ジャーナル・オブ・セル・バイオロジー)


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うつ病のきれいな解説

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うつ病中間定理

うつ病について
たとえば次のような意見がある

軽症のうつ病はどうせ治る
重症のうつ病はどうせ治らない

しかし
その中間が必ずあるはずだろう

放置しては治らず
治療すれば治る範囲

その範囲の人に何をどうすればいいのか
考えるだけでも意味はあるはず


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5/5

捜し物で始まって
捜し物を諦めて終わった
連休でした

PCに関してはいろいろと成果あり
仕事は程々にはかどり
天気には恵まれ
毎夜、朧月を眺めたのでした

ーー
そういえばこの特有な空気で
思い出したのが
学生の頃のゴールデンウィーク5月5日

あの頃どんな未来も思い描いていなかった
それが敗因である

未来なんかどうでもよかったのだ
それを敗因と言うなら敗北でよいような気もする
現在の極大化だけが問題だった

その5月5日抑制の効いた私と
控えめなあなたは
極めてマイルドにレールから外れてしまったのだった

後年となっては何でもないことが
いまもまざまざとくっきりとした意味を伝えてくれるのだ

生きるということはこれ以外にあるのか?
そう、あるずがない。これ以外にあるはずがない。

そんなことを思い出しつつ
年ごとにゆっくりと黄昏てゆく私である。

思い出だけで生きて行けるのだ


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社長室の類似

大企業社長室なんて行くと
だいたい同じで
富士山の絵が飾ってあって
ゴルフの道具のようなものがあったり
バイオリンに類したものがあったり
皆さん実に金太郎飴で仲がよろしい

だから急に別の会社の社長になっても
特に変化なくやっていけるのだ

利益率とか固定費割合とか株価の何とか率とかを
気にしていればいいのだから
かわりはない
社長業界の中から破門されないように上手に付き合うことだ

儲けを税金にとられるくらいなら
社長室くらい立派にしようと思うようだ
それで富士山の絵が売れる

税金でとられるくらいなら社員に配ろうと思うと
大きな問題になってしまうので
社長室にお金をかけた方がいい

こうしたくだらなさの連鎖が世の中である


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