スチュワート・ワイルド
プロスペクト理論
そして人間はこの基準点となる現状(status quo)を維持するバイアスをもち、プラスの利益よりもマイナスの損失に強く反応する。
ーーー
というわけだが
Ghost in the Machine
カレンの実践IT英語というページに次の記事があった。
*****
欧米ではしばし、システムのバグのことを“Ghost in the Machine”(機械の中の幽霊)と表現します。
例えば、2005年に起きたジェイコム株大量誤発注事件を『Newsweek』は次のタイトルで報道しました。
Ghosts in the Machine: World-renowned for its hardware, Japan has a software problem. And the bugs are starting to bite.
(機械内のゴースト達:ハードウェアで世界的に有名な日本、ソフトウェア問題に悩まされる。バグが噛み付き始めたのだ。)
今では、このようにシステム系のバグのことを意味するようになりましたが、元は Arthur Koestler が1967年に出版した本『Ghost in the Machine』から取られているのでしょう。同書では、人間の脳は怒りや憎しみなどを司る原始的な部分が残っており、しばしそれが理性を抑圧して私たちの行動に反映されてしまうという説が論じられているようです。その原始的な部分がゴーストという訳ですね。
さらに元を辿ると、デカルトの心/身体の2元論を揶揄するのに Gilbert Ryle が初めて“Ghost in the Machine”という言葉を使ったのも有名です。
因みに、“Ghost in the Machine”というフレーズは目を凝らすと色々なところで使われています。
私が大好きな80年代の代表的ロックバンド Police のアルバムも同名ですし、海外でヒットした日本アニメの傑作「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」のタイトルも“Ghost in the Machine”からインスピレーションを得たものと思われます。
*****
この文脈ではマシンは合理的で合目的的で整合性のある部分で、
そうでない原始的な部分をゴーストと呼ぶということのようで、
何ともすっきりした区分けである
それで行くとリアルはゴーストを大量に含み
バーチャルはリアルの中から合理的な部分だけを切り分けたマシンと
割り振ってもいいかもしれない
だからバーチャルの王国は理性には住み心地がいいはずだ
*****
こうして言葉を操っている場合には
合理性という暗黙のコードがあるのだが
現実の人間関係にはそれを超えるいくつもの原則があるようで
それらをすべて非合理的・原始的とくくるあたりが
いかにも英語らしい
ルバイヤート オマル・ハイヤーム 小川亮作訳
最後のあたりが好きだ。
140
さあ、ハイヤームよ、酒に酔って、
チューリップのような美女によろこべ。
世の終局は虚無に帰する。
よろこべ、ない筈(はず)のものがあると思って。
141
もうわずらわしい学問はすてよう、
白髪の身のなぐさめに酒をのもう。
つみ重ねて来た七十の齢の盃を
今この瞬間でなくいつの日にたのしみ得よう?
143
いつまで一生をうぬぼれておれよう、
有る無しの論議になどふけっておれよう?
酒をのめ、こう悲しみの多い人生は
眠るか酔うかしてすごしたがよかろう!
*****
この世のことは虚しいが
あの世のことはうそ臭い
せめていまのこの瞬間だけが真実だ
楽しみ尽くそう酔い尽くそう
美女の瞳を愛そう愛し尽くそう
学問の楽しみは結局すべてを捨てることだ
すべては無価値だと心底知るために長い年月の学問があった
いまは自信を持って酔い愛することができるのだ
昨夜の紹興酒の深い香りがいまもわたしを包んでいる
時間の熟成それだけが楽しい
鮭と同じで人生も
複雑に偶然を構成し時間を旨みに変えるものだ
*****
ルバイヤート オマル・ハイヤーム作 小川亮作訳
まえがき
解き得ぬ謎(なぞ)
生きのなやみ
太初(はじめ)のさだめ
万物流転(ばんぶつるてん)
無常の車
ままよ、どうあろうと
むなしさよ
一瞬(ひととき)をいかせ
解き得ぬ謎(なぞ)
1
チューリップのおもて、糸杉のあで姿よ、
わが面影のいかばかり麗(うるわ)しかろうと、
なんのためにこうしてわれを久遠の絵師は
土のうてなになんか飾ったものだろう?
2
もともと無理やりつれ出された世界なんだ、
生きてなやみのほか得るところ何があったか?
今は、何のために来(きた)り住みそして去るのやら
わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!
3
自分が来て宇宙になんの益があったか?
また行けばとて格別変化があったか?
いったい何のためにこうして来り去るのか、
この耳に説きあかしてくれた人があったか?
4
魂よ、謎(なぞ)を解くことはお前には出来ない。
さかしい知者*の立場になることは出来ない。
せめては酒と盃(さかずき)でこの世に楽土をひらこう。
あの世でお前が楽土に行けるときまってはいない。
5
生きてこの世の理を知りつくした魂なら、
死してあの世の謎も解けたであろうか。
今おのが身にいて何もわからないお前に、
あした身をはなれて何がわかろうか?
(6)
いつまで水の上に瓦(かわら)を積んで*おれようや!
仏教徒や拝火教徒の説にはもう飽(あ)きはてた。
またの世に地獄があるなどと言うのは誰か?
誰か地獄から帰って来たとでも言うのか?
7
創世の神秘は君もわれも知らない。
その謎は君やわれには解けない。
何を言い合おうと幕の外のこと、
その幕がおりたらわれらは形もない。
8
この万象(ばんしょう)の海ほど不思議なものはない、
誰ひとりそのみなもとをつきとめた人はない。
あてずっぽうにめいめい勝手なことは言ったが、
真相を明らかにすることは誰にも出来ない。
9
このたかどのを宿とするかの天体の群
こそは博士らの心になやみのたね
だが、心して見ればそれほどの天体でさえ
揺られてはしきりに頭を振る身の上。
10
われらが来たり行ったりするこの世の中、
それはおしまいもなし、はじめもなかった。
答えようとて誰にはっきり答えられよう――
われらはどこから来てどこへ行くやら?
11
造物主が万物の形をつくり出したそのとき、
なぜとじこめたのであろう、滅亡と不足の中に?
せっかく美しい形をこわすのがわからない、
もしまた美しくなかったらそれは誰の罪?
12
苦心して学徳をつみかさねた人たちは
「世の燈明*」と仰がれて光りかがやきながら、
闇(やみ)の夜にぼそぼそお伽(とぎ)ばなしをしたばかりで、
夜も明けやらぬに早(は)や燃えつきてしまった。
(13)
この道を歩んで行った人たちは、ねえ酒姫(サーキイ)*、
もうあの誇らしい地のふところに臥(ふ)したよ。
酒をのんで、おれの言うことをききたまえ――
あの人たちの言ったことはただの風だよ。
(14)
愚かしい者ども知恵(ちえ)の結晶をもとめては
大空のめぐる中でくさぐさの論を立てた。
だが、ついに宇宙の謎には達せず、
しばしたわごとしてやがてねむりこけた!
15
綺羅星(きらぼし)の空高くいる牛――金牛星、
地の底にはまた大地を担(にな)う牛*もいるし、
さあ、理性の目を開き二頭の牛の
上下にいる驢馬(ろば)の一群を見るがよい。
生きのなやみ
16
今日こそわが青春はめぐって来た!
酒をのもうよ、それがこの身の幸だ。
たとえ苦くても、君、とがめるな。
苦いのが道理、それが自分の命だ。
17
思いどおりになったなら来はしなかった。
思いどおりになるものなら誰(た)が行くものか?
この荒家(あばらや)に来ず、行かず、住まずだったら、
ああ、それこそどんなによかったろうか!
18
来ては行くだけでなんの甲斐(かい)があろう?
この玉の緒の切れ目はいったいどこであろう?
罪もなく輪廻(りんね)の環(わ)の中につながれ、
身を燃やして灰(はい)となる煙はどこであろう?
19
ああ、空(むな)しくも齢(よわい)をかさねたものよ、
いまに大空の利鎌(とがま)が首を掻(か)くよ。
いたましや、助けてくれ、この命を、
のぞみ一つかなわずに消えてしまうよ!
(20)
よい人と一生安らかにいたとて、
一生この世の栄耀(えよう)をつくしたとて、
所詮(しょせん)は旅出する身の上だもの、
すべて一場の夢さ、一生に何を見たとて。
21
歓楽もやがて思い出と消えようもの、
古き好(よしみ)をつなぐに足るのは生(き)の酒のみだよ。
酒の器にかけた手をしっかりと離すまい、
お前が消えたって盃(さかずき)だけは残るよ!
22
ああ、全く、休み場所でもあったらいいに、
この長旅に終点があったらいいに。
千万年をへたときに土の中から
草のように芽をふくのぞみがあったらいいに!
23
二つ戸口のこの宿にいることの効果(しるし)は
心の痛みと命へのあきらめのみだ。
生の息吹(いぶ)きを知らない者が羨(うらや)ましい。
母から生まれなかった者こそ幸福だ!
(24)
地を固め天のめぐりをはじめたお前は
なんという痛恨を哀れな胸にあたえたのか?
紅玉の唇(くちびる)や蘭麝(らんじゃ)の黒髪(くろかみ)をどれだけ
地の底の小筥(こばこ)に入れたのか?
25
神のように宇宙が自由に出来たらよかったろうに、
そうしたらこんな宇宙は砕きすてたろうに。
何でも心のままになる自由な宇宙を
別に新しくつくり出したろうに。
太初(はじめ)のさだめ
26
あることはみんな天(そら)の書に記されて、
人の所業(しわざ)を書き入れる筆もくたびれて*、
さだめは太初(はじめ)からすっかりさだまっているのに、
何になるかよ、悲しんだとてつとめたとて!
27
まかせぬものは昼と命の短さ、
まかせぬものに心よせるな。
われも君も、人の掌(て)の中の蝋(ろう)に似(に)て、
思いのままに弄(もてあそ)ばれるばかりだ。
28
嘆きのほかに何もない宇宙! お前は、
追い立てるのになぜ連れて来たのか?
まだ来ぬ旅人も酌(く)む酒の苦さを知ったら、
誰がこんな宿へなど来るものか!
29
おお、七と四*の結果にすぎない者が、
七と四の中に始終(しじゅう)もだえているのか?
千度ならず言うように酒をのむがいい、
一度行ったら二度と帰らぬ旅路だ。
(30)
土を型に入れてつくられた身なのだ、
あらましの罪けがれは土から来たのだ。
これ以上よくなれとて出来ない相談だ、
自分をこんな風につくった主が悪いのだ。
(31)
礼堂(マスジッド)*のともしび、火殿(ケネシト)*のけむりがなんだ。
天国の報い、地獄の責めがなんだ。
見よ、天の書を、創世の主は
あることはみんな初発(はつ)の日に書いたんだ。
(32)
宇宙の真理は不可知なのに、なあ、
そんなに心を労してなんの甲斐(かい)があるか?
身を天命にまかして心の悩みはすてよ、
ふりかかった筆のはこび*はどうせ避(さ)けられないや。
33
天に声してわが耳もとに囁(ささや)くよう――
ひためぐるこのさだめを誰が知っていよう?
このめぐりが自由になるものなら、
われさきにその目まぐるしさを逃(のが)れたろう。
34
善悪は人に生まれついた天性、
苦楽は各自あたえられた天命。
しかし天輪を恨(うら)むな、理性の目に見れば、
かれもまたわれらとあわれは同じ。
万物流転(ばんぶつるてん)
35
若き日の絵巻は早も閉じてしまった、
命の春はいつのまにか暮れてしまった。
青春という命の季節は、いつ来て
いつ去るともなしに、過ぎてしまった。
36
ああ、掌中(しょうちゅう)の珠(たま)も砕けて散ったか。
血まみれの肺腑(はいふ)は落ちた、死魔の足下。
あの世から帰った人はなし、きく由(よし)もない――
世の旅人はどこへ行ったか、どうなったか?
37
幼い頃には師について学んだもの、
長じては自ら学識を誇ったもの。
だが今にして胸に宿る辞世の言葉は――
水のごとくも来たり、風のごとくも去る身よ!
38
同心の友はみな別れて去った、
死の枕べにつぎつぎ倒れていった。
命の宴(うたげ)に酒盛りをしていたが、
ひと足さきに酔魔のとりことなった。
39
天輪よ、滅亡はお前の憎しみ、
無情はお前日頃(ひごろ)のつとめ。
地軸よ、地軸よ、お前のふところの中にこそは
かぎりなくも秘められている尊い宝*!
40
日のめぐりは博士の思いどおりにならない、
天宮など七つとも八つとも数えるがいい。
どうせ死ぬ命だし、一切の望みは失せる、
塚蟻(つかあり)にでも野の狼(おおかみ)にでも食われるがいい。
41
一滴の水だったものは海に注ぐ。
一握の塵(ちり)だったものは土にかえる。
この世に来てまた立ち去るお前の姿は
一匹の蠅(はえ)――風とともに来て風とともに去る。
(42)
この幻の影が何であるかと言ったっても、
真相をそう簡単にはつくされぬ。
水面に現われた泡沫(ほうまつ)のような形相は、
やがてまた水底へ行方(ゆくえ)も知れず没する。
43
知は酒盃(しゅはい)をほめたたえてやまず、
愛は百度もその額(ひたい)に口づける。
だのに無情の陶器師(すえし)は自らの手で焼いた
妙(たえ)なる器を再び地上に投げつける。
44
せっかく立派な形に出来た酒盃なら、
毀(こわ)すのをどこの酒のみが承知するものか?
形よい掌(て)をつくってはまた毀すのは
誰のご機嫌(きげん)とりで誰への嫉妬(しっと)やら?
45
時はお前のため花の装(よそお)いをこらしているのに、
道学者などの言うことなどに耳を傾けるものでない。
この野辺(のべ)を人はかぎりなく通って行く、
摘むべき花は早く摘むがよい、身を摘まれぬうちに。
46
この永遠の旅路を人はただ歩み去るばかり、
帰って来て謎(なぞ)をあかしてくれる人はない。
気をつけてこのはたごやに忘れものをするな、
出て行ったが最後二度と再び帰っては来れない。
47
酒をのめ、土の下には友もなく、またつれもない、
眠るばかりで、そこに一滴の酒もない。
気をつけて、気をつけて、この秘密 人には言うな――
チューリップひとたび萎(しぼ)めば開かない。
(48)
われは酒屋に一人の翁(おきな)を見た。
先客の噂(うわさ)をたずねたら彼は言った――
酒をのめ、みんな行ったきりで、
一人として帰っては来なかった。
49
幾山川を越えて来たこの旅路であった、
どこの地平のはてまでもめぐりめぐった。
だが、向うから誰一人来るのに会わず、
道はただ行く道、帰る旅人を見なかった。
50
われらは人形で人形使いは天さ。
それは比喩(ひゆ)ではなくて現実なんだ。
この席で一くさり演技(わざ)をすませば、
一つずつ無の手筥(てばこ)に入れられるのさ。
51
われらの後にも世は永遠につづくよ、ああ!
われらは影も形もなく消えるよ、ああ!
来なかったとてなんの不足があろう?
行くからとてなんの変りもないよ、ああ!
52
土の褥(しとね)の上に横(よこた)わっている者、
大地の底にかくれて見えない者。
虚無の荒野をそぞろ見わたせば、
そこにはまだ来ない者と行った者だけだよ。
53
人呼んで世界と言う古びた宿場は、
昼と夜との二色の休み場所だ。
ジャムシード*らの後裔(こうえい)はうたげに興じ、
バラーム*らはまた墓に眠るのだ。
54
バラームが酒盃を手にした宮居(みやい)は
狐(きつね)の巣、鹿(しか)のすみかとなりはてた。
命のかぎり野驢を射たバラームも、
野驢に踏みしだかれる身とはてた。
55
廃墟と化した城壁に烏(からす)がとまり、
爪の間にケイカーウス*の頭(こうべ)をはさみ、
ああ、ああと、声ひとしきり上げてなく――
鈴の音*も、太鼓(たいこ)のひびきも、今はどこに?
56
天に聳(そび)えて宮殿は立っていた。
ああ、そのむかし帝王が出御(しゅつぎょ)の玉座、
名残りの円蓋(えんがい)で数珠(じゅず)かけ鳩(ばと)が、
何処(クークー)、何処(クークー)とばかり啼(な)いていた。
無常の車
57
君も、われも、やがて身と魂が分れよう。
塚(つか)の上には一基(もと)ずつの瓦(かわら)が立とう。
そしてまたわれらの骨が朽(く)ちたころ、
その土で新しい塚の瓦が焼かれよう。
(58)
地の表にある一塊の土だっても、
かつては輝く日の面(おも)、星の額(ひたい)であったろう。
袖(そで)の上の埃(ほこり)を払うにも静かにしよう、
それとても花の乙女(おとめ)の変え姿よ。
59
人情(こころ)知る老人よ、早く行って、
土ふるいの小童の手を戒めてやれ、
パルヴィーズ*の目やケイコバード*の頭を
なぜああ手あらにふるうのかえ!
60
朝風に薔薇(ばら)の蕾(つぼみ)はほころび、
鶯(うぐいす)も花の色香に酔(よ)い心地(ごこち)。
お前もしばしその下蔭で憩えよ。
そら、花は土から咲いて土に散る。
61
雲は垂れて草の葉末に涙ふる、
花の酒がなくてどうして生きておれる?
今日わが目をなぐさめるあの若草が
明日はまたわが身に生えて誰が見る?
62
新春(ノールーズ)* 雲はチューリップの面に涙、
さあ、早く盃(さかずき)に酒をついでのまぬか。
いま君の目をたのします青草が
明日はまた君のなきがらからも生えるさ。
63
川の岸べに生え出(い)でたあの草の葉は
美女の唇(くちびる)から芽を吹いた溜(た)め息(いき)か。
一茎(ひとくき)の草でも蔑(さげす)んで踏んではならぬ、
そのかみの乙女の身から咲いた花。
64
酒のもう、天日はわれらを滅ぼす、
君やわれの魂を奪う。
草の上に坐(すわ)って耀(かがよ)う酒をのもう、
どうせ土になったらあまたの草が生える!
(65)
ありし日の宮居(みやい)の場所で或(あ)る男が、
土を両足で踏みつけた。
土は声なき声上げて男に言った――
待てよ、お前も踏まれるのさ!
66
よき人よ、盃と酒壺(さかつぼ)を持って来い、
水のほとりの青草の茂みのあたり。
そら、めぐる車*は月の面(おも)、花の姿を
くりかえし盃にしたり、また壺にしたり。
67
昨夜酔うての仕業(しわざ)だったが、
石の面(も)に素焼の壺を投げつけた。
壺は無言の言葉で行った――
お前もそんなにされるのだ!
68
なんでけがれ*がある、この酒甕(さけがめ)に?
盃にうつしてのんで、おれにもよこせ、
さあ、若人よ、この旅路のはてで
われわれが酒甕とならないうちに。
(69)
昨日壺をつくる所へ立ちよったら、
壺つくりは土をこねてしきりに腕をふるっていた。
盲の人は気もつかなかったろう、しかし
その手の中におれは亡(な)き人の土を見た。
(70)
壺つくりよ、心あるならその手を休めよ、
尊い土に無礼なことはやめよ!
ファレイドゥーン*の指やケイホスロウ*の掌(てのひら)を
ろくろに取ってどうしようてんだよ?
71
壺つくりの仕事場へ来て見れば、
壺つくり朗らかにろくろをまわしては、
みかどの首もこじきの足もごっちゃに、
手に取ってつくるは壺の首と足だ。
72
この壺も、おれと同じ、人を恋(こ)う嘆きの姿、
黒髪に身を捕われの境涯か。
この壺に手がある、これこそはいつの日か
よき人の肩にかかった腕なのだ。
73
壺つくりの仕事場に昨日(きのう)よって見ると、
千も二千もの土器(かわらけ)がならべてあったよ。
そのおのおのが声なき言葉でおれにきくよう――
壺つくり、売り手、買い手は誰なのかと。
ままよ、どうあろうと
74
マギイ*の酒に酔うたとならば、正(まさ)にそうさ。
異端(いたん)邪教(じゃきょう)の徒というならば、正にそうさ。
しかしわがふるまいを人がどんなにけなしたとて、
われはどうなりもしない、相変らずのものさ。
75
わが宗旨はうんと酒のんでたのしむこと、
わが信条は正信と邪教の争いをはなれること。
久遠の花嫁*に欲しい形見は何かときいたら、
答えて言ったよ――君が心のよろこびをと。
76
身の内に酒がなくては生きておれぬ、
葡萄酒(ぶどうしゅ)なくては身の重さにも堪えられぬ。
酒姫(サーキイ)がもう一杯(いっぱい)と差し出す瞬間の
われは奴隷(どれい)だ、それが忘れられぬ。
77
今宵(こよい)またあの酒壺を取り出してのう、
そこばくの酒に心を富ましめよう。
信仰や理知の束縛(きずな)を解き放ってのう、
葡萄樹の娘*を一夜の妻としよう。
(78)
死んだらおれの屍(しかばね)は野辺(のべ)にすてて、
美酒(うまざけ)を墓場の土にふりそそいで。
白骨が土と化したらその土から
瓦(かわら)を焼いて、あの酒甕(さかがめ)の蓋(ふた)にして。
(79)
死んだら湯灌(ゆかん)は酒でしてくれ、
野の送りにもかけて欲しい美酒(うまざけ)。
もし復活の日ともなり会いたい人は、
酒場の戸口にやって来ておれを待て。
(80)
墓の中から酒の香が立ちのぼるほど、
そして墓場へやって来る酒のみがあっても
その香に酔(よ)い痴(し)れて倒れるほど、
ああ、そんなにも酒をのみたいもの!
81
尊い命の芽を摘みとられる日、
身体の各部がちりぢりに分れる日、
その土でもし壺を焼いたら、さっそく
酒をついでよ、息を吹きかえすに。
(82)
命の幹が根を掘られて、
死の足もとにうなじをたれよう日、
身の土だけは必ず酒の器に焼いてくれ、
しばらくは息をつこう、酒の香に。
(83)
愛(いと)しい友よ、いつかまた相会うことがあってくれ、
酌(く)み交(か)わす酒にはおれを偲(しの)んでくれ。
おれのいた座にもし盃(さかずき)がめぐって来たら、
地に傾けてその酒をおれに注(そそ)いでくれ。
(84)
あのしかつめらしい分別(ふんべつ)のとりことなった
人たちは、あるなしの嘆きの中にむなしく去った。
気をつけて早く、はやく葡萄の古酒を酌(く)め、
愚か者らはまだ熟(う)れぬまに房を摘まれた。
(85)
法官(ムフテイ)よ、マギイの酒にこれほど酔っても
おれの心はなおたしかだよ、君よりも。
君は人の血、おれは葡萄の血汐(ちしお)を吸う、
吸血の罪はどちらか、裁けよ。
(86)
或る淫(たわ)れ女(め)に教長(シャイク)*の言葉――気でも触れたか、
いつもそう違った人となぜ交わるか?
答えに――教長(シャイク)よ、わたしはお言葉のとおりでも、
あなたの口と行(おこな)いは同じでしょうか?
(87)
恋する者と酒のみは地獄に行くと言う、
根も葉もない囈言(たわごと)にしかすぎぬ。
恋する者や酒のみが地獄に落ちたら、
天国は人影もなくさびれよう!
88
天国にはそんなに美しい天女がいるのか?
酒の泉や蜜(みつ)の池があふれてるというのか?
この世の恋と美酒(うまざけ)を選んだわれらに、
天国もやっぱりそんなものにすぎないのか?
(89)
天女のいるコーサル河*のほとりには、
蜜、香乳と、酒があふれているそうな。
だが、おれは今ある酒の一杯を手に選ぶ、
現物はよろずの約にまさるから。
(90)
エデンの園(その)が天女の顔でたのしいなら、
おれの心は葡萄の液でたのしいのだ。
現物をとれ、あの世の約束に手を出すな、
遠くきく太鼓(たいこ)はすべて音がよいのだ。
91
なにびとも楽土や煉獄(れんごく)を見ていない、
あの世から帰ってきたという人はない。
われらのねがいやおそれもそれではなく、
ただこの命――消えて名前しかとどめない!
(92)
おれは天国の住人なのか、それとも
地獄に落ちる身なのか、わからぬ。
草の上の盃と花の乙女と長琴さえあれば、
この現物と引き替えに天国は君にやるよ。
93
この世に永久にとどまるわれらじゃないぞ、
愛(いと)しい人や美酒(うまざけ)をとり上げるとは罪だぞ。
いつまで旧慣にとらわれているのか、賢者よ?
自分が去ってからの世に何の旧慣があろうぞ!
94
はじめから自由意志でここへ来たのでない。
あてどなく立ち去るのも自分の心でない。
酒姫(サーキイ)よ、さあ、早く起きて仕度をなさい、
この世の憂いを生(き)の酒で洗いなさい。
95
バグダード*でも、バルク*でも、命はつきる。
酒が甘かろうと、苦かろうと、盃は満ちる。
たのしむがいい、おれと君と立ち去ってからも、
月は無限に朔望(さくぼう)をかけめぐる!
(96)
選ぶならば、酒場の舞い男(カランダール)*の道がよい。
酒と楽の音と恋人と、そのほかには何もない!
手には酒盃、肩には瓶子(へいし)ひとすじに
酒をのめ、君、つまらぬことを言わぬがよい。
(97)
酒姫(サーキイ)よ、寄る年の憂いの波にさらわれてしまった、
おれの酔いは程度を越してしまった。
だがつもる齢(よわい)の盃(つき)になお君の酒をよろこぶのは、
頭に霜をいただいても心に春の風が吹くから。
(98)
一壺の紅(あけ)の酒、一巻の歌さえあれば、
それにただ命をつなぐ糧(かて)さえあれば、
君とともにたとえ荒屋(あばらや)に住まおうとも、
心は王侯(スルタン)の栄華にまさるたのしさ!
99
おれは有と無の現象(あらわれ)を知った。
またかぎりない変転の本質(もと)を知った。
しかもそのさかしさのすべてをさげすむ、
酔いの彼方(かなた)にはそれ以上の境地があった。
100
酒姫(サーキイ)の心づくしでとりとめたおれの命、
今はむなしく創世の論議も解けず、
昨夜の酒も余すところわずかに一杯、
さてあとはいつまでつづく? おれの命!
むなしさよ
101
九重の空のひろがりは虚無だ!
地の上の形もすべて虚無だ!
たのしもうよ、生滅の宿にいる身だ、
ああ、一瞬のこの命とて虚無だ!
102
時の中で何を見ようと、何を聞こうと、
また何を言おうと、みんな無駄(むだ)なこと。
野に出でて地平のきわみを駈(か)けめぐろうと、
家にいて想いにふけろうと無駄なこと。
103
世の中が思いのままに動いたとてなんになろう?
命の書を読みつくしたとてなんになろう?
心のままに百年を生きていたとて、
更(さら)に百年を生きていたとてなんになろう?
(104)
地の青馬にうち跨(またが)っている酔漢(よいどれ)を見たか?
邪宗も、イスラム*も、まして信仰や戒律どころか、
神も、真理も、世の中も眼中にないありさま、
二つの世にかけてこれ以上の勇者があったか?
105
戸惑(とまど)うわれらをのせてめぐる宇宙は、
たとえてみれば幻の走馬燈だ。
日の燈火(ともしび)を中にしてめぐるは空の輪台、
われらはその上を走りすぎる影絵だ。
106
ないものにも掌(て)の中の風があり、
あるものには崩壊と不足しかない。
ないかと思えば、すべてのものがあり、
あるかと見れば、すべてのものがない。
107
世に生れて来た効果(しるし)に何があるか?
生きた生命の結果として何が残るか?
饗宴の燭(ともしび)となってもやがて消えはて、
ジャムの酒盃*となってもやがては砕ける。
一瞬(ひととき)をいかせ
108
迷いの門から正信までは、ただの一瞬(ひととき)、
懐疑の中から悟りに入るまでもただの一瞬。
かくも尊い一瞬をたのしくしよう、
命の実効(しるし)はわずかにこの一瞬。
109
たのしくすごせ、ただひとときの命を。
一片(ひとかけ)の土塊(つちくれ)もケイコバードやジャムだよ。
世の現象も、人の命も、けっきょく
つかのまの夢よ、錯覚よ、幻よ!
110
大空に月と日が姿を現わしてこのかた
紅(くれない)の美酒(うまざけ)にまさるものはなかった。
腑に落ちないのは酒を売る人々のこと、
このよきものを売って何に替えようとか?
111
月の光に夜は衣の裾(すそ)をからげた。
酒をのむにまさるたのしい瞬間(とき)があろうか?
たのしもう! 何をくよくよ? いつの日か月の光は
墓場の石を一つずつ照らすだろうさ。
112
あすの日が誰にいったい保証出来よう?
哀れな胸を今この時こそたのしくしよう。
月の君*よ、さあ、月の下で酒をのもう、
われらは行くし、月はかぎりなくめぐって来よう!
113
あわれ、人の世の旅隊(キャラヴァン)は過ぎて行くよ。
この一瞬(ひととき)をわがものとしてたのしもうよ。
あしたのことなんか何を心配するのか? 酒姫(サーキイ)よ!
さあ、早く酒盃を持て、今宵(こよい)も過ぎて行くよ!
114
東の空の白むとき何故(なぜ)(にわとり)が
声を上げて騒ぐかを知っているか?
朝の鏡に夜の命のうしろ姿が
映っても知らない君に告げようとさ。
115
夜は明けた、起きようよ、ねえ酒姫(サーキイ)
酒をのみ、琴を弾け、静かに、しずかに!
相宿の客は一人も目がさめぬよう、
立ち去った客もかえって来ぬように!
116
わが心の偶像よ、さあ、朝だ、
酒を持て、琴をつまびき、うたえ歌。
千万のジャムシードやケイホスロウら
夏が来て冬が行くまに土の中!
117
朝の一瞬(ひととき)を紅(くれない)の酒にすごそう、
恥や外聞の醜い殻を石に打とう。
甲斐(かい)のないそらだのみからさっさと手を引き、
丈なす髪と琴の上にその手を置こう。
118
こころよい日和(ひより)、寒くなく、暑くない。
空に雲 花の面の埃(ほこり)を流し、
薔薇(ばら)に浮かれた鶯(うぐいす)はパラヴイ語*で、
酒のめと声ふりしぼることしきり。
119
花のころ、水のほとりの草の上で、
おれの手をとるこの世の天女二、三人。
世の煩(わずら)いも天国ののぞみもよそに、
盃(さかずき)にさても満たそう、朝の酒!
120
はなびらに新春(ノールーズ)の風はたのしく、
草原の花の乙女の顔もたのしく、
過ぎ去ったことを思うのはたのしくない。
過去をすて、今日この日だけすごせ、たのしく。
121
草は生え、花も開いた、酒姫(サーキイ)よ
七、八日地にしくまでにたのしめよ。
酒をのみ、花を手折(たお)れよ、遠慮せば
花も散り、草も枯れよう、早くせよ。
122
新春(ノールーズ)にはチューリップの盃(はい)上げて、
チューリップの乙女(おとめ)の酒に酔え。
どうせいつかは天の車が
土に踏み敷く身と思え。
123
菫(すみれ)は衣を色にそめ、薔薇の袂(たもと)に
そよかぜが妙なる楽を奏でるとき、
もし心ある人ならば、玉の乙女と酒をくみ、
その盃を破るだろうよ、石の面(も)に。
124
さあ、起きて、嘆くなよ、君、行く世の悲しみを。
たのしみのうちにすごそう、一瞬(ひととき)を。
世にたとえ信義というものがあろうとも、
君の番が来るのはいつか判(わか)らぬぞ。
125
大空の極(きわみ)はどこにあるのか見えない。
酒をのめ、天(そら)のめぐりは心につらい。
嘆くなよ、お前の番がめぐって来ても、
星の下(もと)誰にも一度はめぐるその盃(はい)。
126
学問のことはすっかりあきらめ、
ひたすらに愛する者の捲毛(まきげ)にすがれ。
日のめぐりがお前の血汐を流さぬまに
お前は盃(はい)に葡萄(ぶどう)の血汐を流せ。
127
人生はその日その夜を嘆きのうちに
すごすような人にはもったいない。
君の器が砕けて土に散らぬまえに、
君は器の酒のめよ、琴のしらべに!
(128)
春が来て、冬がすぎては、いつのまにか
人生の絵巻はむなしくとじてしまった。
酒をのみ、悲しむな。悲しみは心の毒、
それを解く薬は酒と、古人も説いた。
129
お前の名がこの世から消えないうちに
酒をのめ、酒が胸に入れば悲しみは去る。
女神の鬢(びん)の束また束を解きほぐせ、
お前の身が節々(ふしぶし)解けて散らないうちに。
(130)
さあ、一緒にあすの日の悲しみを忘れよう、
ただ一瞬(ひととき)のこの人生をとらえよう。
あしたこの古びた修道院を出て行ったら、
七千年前の旅人と道伴(みちづ)れになろう。
(131)
胸をたたけ、ああ、よるべない大空の下、
酒をのめ、ああ、はかない世の中。
土から生れて土に入るのか、いっそのこと、
土の上でなくて中にあるものと思おう。
132
心はたぎる、早くこの手に酒をくれ!
命、いのち、銀露のようにたばしる!
とらえないと青春の火も水となる。
さあ、早く物にくらんだ目をさませ!
133
酒をのめ、それこそ永遠の生命だ、
また青春の唯一(ゆいつ)の効果(しるし)だ。
花と酒、君も浮かれる春の季節に、
たのしめ一瞬(ひととき)を、それこそ真の人生だ!
134
酒をのめ、マムード*の栄華はこれ。
琴をきけ、ダヴィデ*の歌のしらべはこれ。
さきのこと、過ぎたことは、みな忘れよう
今さえたのしければよい――人生の目的はそれ。
135
あしたのことは誰にだってわからない、
あしたのことを考えるのは憂鬱(ゆううつ)なだけ。
気がたしかならこの一瞬(ひととき)を無駄(むだ)にするな、
二度とかえらぬ命、だがもうのこりは少い。
(136)
時のめぐりも酒や酒姫(サーキイ)がなくては無だ、
イラク*の笛も節(ふし)がなくては無だ。
つくずく世のありさまをながめると、
生れた得(とく)はたのしみだけ、そのほかは無だ!
137
いつまで有る無しのわずらいになやんでおれよう?
短い命をたのしむに何をためらう?
酒盃に酒をつげ、この胸に吸い込む息が
出て来るものかどうか、誰に判ろう?
138
仰向(あおむ)けにねて胸に両手を合わさぬうち*、
はこぶなよ、たのしみの足を悲しみへ。
夜のあけぬまに起きてこの世の息を吸え、
夜はくりかえしあけても、息はつづくまい。
139
永遠の命ほしさにむさぼるごとく
冷い土器(かわらけ)に唇(くち)触れてみる。
土器(かわらけ)は唇(くち)かえし、謎(なぞ)の言葉で――
酒をのめ、二度とかえらぬ世の中だと。
140
さあ、ハイヤームよ、酒に酔って、
チューリップのような美女によろこべ。
世の終局は虚無に帰する。
よろこべ、ない筈(はず)のものがあると思って。
141
もうわずらわしい学問はすてよう、
白髪の身のなぐさめに酒をのもう。
つみ重ねて来た七十の齢(よわい)の盃(つき)を
今この瞬間(とき)でなくいつの日にたのしみ得よう?
142
めぐる宇宙は廃物となったわれらの体躯(からだ)、
ジェイホンの流れ*は人々の涙の跡、
地獄というのは甲斐(かい)もない悩みの火で、
極楽はこころよく過ごした一瞬(ひととき)。
143
いつまで一生をうぬぼれておれよう、
有る無しの論議になどふけっておれよう?
酒をのめ、こう悲しみの多い人生は
眠るか酔うかしてすごしたがよかろう!
夏の日、冬の夜、百歳の後、その墓に帰らん
\\\\\
「エビデンスがある」とはどういうことか?
「エビデンスがある」とはどういうことか?
エビデンスはどのようにして出されているのか?
エビデンスとはいきなり出されるものではありません。前にも説明したように、エビデンスとは科学的根拠、つまり実験の結果を基に「根拠がある」と考えられる事柄をさしています。様々な研究、実験の結果を基にエビデンスは作られているのです。
エビデンスを出す研究にはいくつかの方法があり、その方法によって「エビデンスレベル」が変わってきます。この「エビデンスレベル」とは、信頼度と言い換えてもよいでしょう。「この治療法は効果的だ」と考える前に「そのエビデンスはどのような研究から出されたのか」を知ることはとても大切なことです。
これから、研究の種類とその信頼度について説明します。そして、その種類によってエビデンスレベルも違います。これから、いくつかの研究方法について説明します。
研究の種類と信頼度
1.ランダム化比較試験 RCTと略されることもあります。対象をランダムに選び、介入(薬・検査・看護など)を行うグループ(実験群)と介入を行わない群(対照群)にわけ、評価を行う方法です。
2.コホート研究
コホートとはもともと古代ローマ軍の一連隊をさす言葉で、集団のことです。
ある集団(コホート)を追跡し、コホート内の人々の間でイベント発生(喫煙、運動、食生活など)がどのように異なるのかを調べて、その違いでその後の経過がどうなっていくかを見ていく方法をコホート研究、特に前向きコホート研究といいます。
過去の記録を用いてコホート内の人々のイベント発生を見ていく方法を後ろ向きコホートといいますが、多くの場合「コホート研究」と言われたら前向きコホート研究のことをさします。
3.症例対照研究
症例(患者)と「なるべく性別や年齢、住所などが似ている、病気でない対照」の2群を選び、過去にその病気の要因となる状況にどれくらい当てはまっていたかを調べる方法です。
4.記述的研究
「この患者さんにこのような治療を行ったら回復した」というような、データを記述する方法です。この研究は原因を明らかにする目的で行われた研究ではありませんが、これらの研究をまとめて分析的研究が行われることがあります。
これらのさまざまな研究によってエビデンスが作られています。エビデンスレベルは
- (1) ひとつ以上のランダム化比較試験
- (2) ひとつ以上の非ランダム化比較試験
- (3) ひとつ以上の分析疫学的研究(コホート研究や症例対照研究)
- (4) 症例報告などの記述的研究
- (5) 患者データに基づかない専門家・委員会の報告や意見
の順で高く、高ければより信頼性が高いと考えられています。
|
エビデンス精神医療
なぜ「エビデンス精神医療」だったのか
エビデンス精神医療(EBP)とは何でしょうか?
精神科医療に特化したEBMのことです。EBMは他科では進んでいますが、精神科でのエビデンスに基づいた医療を目指して生まれてきたのが、Evidence Based Psychiatry (EBP)です。日々の臨床で目の前の患者さんに最善の医療が行われているのかどうかを検証するために、あるいはより効果の高い治療法を探すためにエビデンスを知ることが必要になるわけです。EBPとはEBMと同様に「患者さんの治療過程において、現在入手可能な最強のエビデンスを、良心的に、明示的に、かつ賢明に応用することである」と定義できると思います。
EBMではなくEBPとしたのは、精神医療のどんな特殊性のためですか?
過去、精神医療は経験則が重視され、ともすれば自分の経験や先輩、先達の経験や意見を参考に診療をするということも珍しくはありませんでした。一方、時代の流れとともにEBMが普及してゆきますが、EBMは身体医学を中心に発展してきましたので、精神医学になじみにくい部分がありました。こころの疾患には、身体系の疾患と違い「この範囲内であれば正常値」、「ここからはみ出ると異常値」といった臨床検査の数値のようなものはありません。治療効果の測定も生きるか死ぬかとか、腫瘍が再発した再発しないというようなクリアカットなものではなく、精神症状という主観的でソフトなデータを扱うため測定や評価が難しく、EBMという考えがなかなか育ちにくかったのです。EBPでは、精神医療に適応しやすいような形にEBMの諸元素を改変しています。
EBPの4つのステップ
◆実際の診療でEBPを活用するポイントはどこにありますか?
EBPは次の4つのステップを踏んで実践します。
1. 臨床的疑問を回答可能な形に定式化する。
2. この疑問に答えることのできるエビデンスを検索する。
3. エビデンスの内的妥当性、結果の定量化、外的妥当性を批判的に吟味する。
4. 患者さんのケアに結果を適用する。
EBPにおいて重要な最初のステップは、臨床で抱えた問題を定式化することです。定式化すべき臨床的疑問は次の4つのポイントです。
1. 患者(patients)=どのような臨床状態の患者群を対象としているのか。
2. 要因への暴露(Exposure)=その患者群に対して、どのような治療的介入あるいは危険因子へ暴露することの影響を知りたいと思っているのか。
3. 比較(Comparison)=どういう治療的介入や危険因子に比較しての影響の大小を知りたいと思っているのか。
4. 帰結(Outcome)=その患者群に対して、治療的介入または危険因子への暴露が、どういう面に影響を及ぼすことを期待して知りたいと思っているのか。
この4つの要素の頭文字を取って私たちはPECO(ペコ)と呼んでいます。
◆PECOを作ることが第1ステップ、その次に検索ですか?
そうです。まずPECOを作り、PECOに見合うエビデンスを検索します。逆にPECOをきちんと定式化できていないと、適切な検索もできません。
そして見つけてきたエビデンスに対して批判的吟味を行います。この批判的吟味には3つの段階があります。
第1段階は「内的妥当性」の吟味です。自分が検索して選び出した研究論文が一定水準に達した信頼性のおけるものかどうかを検証します。
内的妥当性は高いと判定できたとき、第2段階として統計学手法により臨床に直接役立つ形に「数値定量化」し、研究内容の臨床的重要性を測定します。
そして、「外的妥当性」を評価します。
◆本当の意味でのEBPでは、ここから必要なのですね?
そうです。この第3段階「外的妥当性」の評価がEBPの最も重要なところと言えるかもしれません。第2段階までで得られたエビデンスが、自分が治療しようとしている目の前の患者さんにどこまで当てはめることができるのかを検討することが、外的妥当性の評価です。以上がEBPのプロセスです。この3つのステップをきちんと評価しないで、エビデンスを患者さんの治療に有効に活用することはできないと思います。
エビデンスは患者さんの要望・価値観も考え適用する
検索した論文やデータは、実際の患者さんにどの程度当てはまるものですか?
精神科の場合は、ぴったり当てはまる割合はまだまだ低いのが現状です。薬物療法に関しては外的妥当性を適切に評価することで何らかのエビデンスを当てはめることが可能でしょうが、精神療法はダブルブラインドのRCT(無作為割り付け比較試験)を行いにくいため、強いエビデンスの研究が少ないのです。私たちが日常行っている支持的精神療法などは検索しても適当な論文が見つからないことがしばしばあります。また海外からのエビデンスを確認することができても、そこで行われている治療法をそのまま日本で行うことができないような場合もあります。
EBPで最適であろうという治療法が出た場合でも、患者さんがどうしても受け入れてくれないこともありますか?
そういうことは起こり得ます。ですから、外的妥当性の検討の中に患者さんの価値観の情報を得ることが必ず含まれます。たとえば何種類かの薬を処方した場合、「こんなに薬は飲みたくない」と言う患者さんもおられます。私どもとしてはそれらの薬を服用することの意義を詳しく情報提供はしますけれど、患者さんがどうしても飲みたくないと言われるのであれば、違う処方に変更することは十分あり得るわけです。エビデンスをただ押し付けるだけがEBPではありません。
ワタシが理解できる人、理解できない人
うぬぼれ屋さんはかわいい
あまり歓迎ではないが
それなりに楽しい面もある
うぬぼれ屋はある意味で分かりやすい
予想しやすいのでつきあいやすい
褒めやすいし
いじめやすい
きれいさんを褒めるのは簡単である
スポーツの得意な人も頭のいい人も褒めるのは簡単である
分かりやすい部分について褒めれば
その人は誰よりもそのことを得意に思っているのだから
その通りに喜んでくれるので
まことに安上がりな人たちなのである
何も得意のない人を褒めるには技術が必要である
心理学も多少学んだ方が役に立つかもしれない
しかしおおむね難しいしその人についてよく知るまでに時間がかかる
うぬぼれ屋を少し褒めればどこまでも上がっていくし
うぬぼれ屋を少しけなせばどこまでもへこんでしまう
それはおもしろいくらいで
それくらい彼らは「弱い」のである
強いところがあるから弱くなってしまっているのだ
*****
野球をやっていてもエースだと威張っていられるのは少しの間で
甲子園で勝てるのかといえば簡単ではない
スポーツや知能や美貌については
うぬぼれ屋がいつまでもうぬぼれ屋ではいられないように
きちんとうぬぼれをへし折る制度ができあがっている
*****
よく分からないのはたとえば
どんな例がいいのか、たとえばオタクの世界であるが、
はたしてオタクは自分のオタクをどのくらい誇るものだろうか
そしてある時点で甲子園のように自分の客観的に位置が確認できて
うぬぼれから醒めるときがくるのだろうか
*****
ひそかなうぬぼれを秘めている人はたくさんいるものだ
たとえば性的な領域については長い間うぬぼれの根源であったり劣等感の根源であったりしてきた
性的な体験については客観的に比較しようがないことが理由だったのだが
現状のネット社会のようなレベルで性的な誇大な表現が垂れ流しになると
ほとんどすべての人が劣等感を抱くのではないかと思う
あれは演じているのだとか整形しているのだとか演出なのだと
頭に入っていればいいのだけれど
それに近年のように国境を越えて人種を超えてつきあうようになると
みんな違ってみんないいとは
なかなかならず
昔はいろいろな点で、理由のない優越感とか理由のない劣等感だったものが
次第にはっきり理由のある劣等感だと認めなければならないものもあるので
うぬぼれ屋にとっては
かなりつらいこともある
最近はひたすら昔のことを夢に見ている
自分の意見がみんなと違うことを確認したいなら
探すのをやめたとき、見つかるのもよくある話
地震プレート理論
1.石田昭氏(元名古屋工業大学教授)
http://www.ailab7.com/Cgi-bin/sunbbs2/index.html
「地下深部に地下水が送られ、解離条件が変化して、解離ガスの爆発という地震が発生する可能性があります。」
この解離ガスの爆発というのは、原子状態の水素・酸素ガスの反応という見解
2.山本寛氏(元ヤマハ発動機技術部長)
http://www.kohgakusha.co.jp/books/detail/978-4-7775-1281-2
この解離ガスから、酸素が触媒となって、水素が「ハイドリノ」という現在の量子力学で説明できない低エネルギー状態となって、核融合に至る」という見解です。
地震爆発論については、どう考えても定説地震学=プレートテクトニクス(断層)説より説得力があります。
*****
との事。
プレートが少しずつひずみをためこんで
一気に跳ね返るモデルとか、
プレート同士がもぐりこんだり、一気に反発したりしているのだと説明しているが、
プレートは、つまりは岩石なんですよね。
粘りのある鉄板でもあるまいし、
そのような反発力のあるプレートの実体とはなんだろうと考えてしまいますね。
鉄板なら、バネに使えます。
地表を漂流しているプレートがそんなバネのようなものとは?
それにバネならば、
北側で地震が起きたとすれば北側に進んでひずみを貯めたはずで、
そのプレートの他の地域では起こりにくくなるはずで、
しかしそれは観察に合わないらしい。
小児のサイコーシス
梅が香に 昔をとへば 春の月 こたへぬ影ぞ 袖に映れる
梅が香に 昔をとへば 春の月 こたへぬ影ぞ 袖に映れる
藤原家隆(ふじわらいえたか)
(うめがかに むかしをとえば はるのつき こたえぬかげぞ
そでにうつれる)
意味・・梅の香りに誘われて昔のことを春の月に尋ねると、
答えない月の光が涙に濡れた私の袖の上に映った。
伊勢物語四段が背景となっています。
愛情が深くなっていた女性がいたが、突然身を隠
した(知らせずに結婚した)。翌年探し訪ねてみる
と、落ちぶれた姿になっていた。還らぬ昔を思う
と懐旧の涙が出た。
注・・影=月の光。
袖=懐旧の涙で濡れた袖。
*****
歌の背景となっている物語まで含めて読むとやはり興味深い歌。
歌自体だと少し言葉が足りないかなという感じ。
かなり極端なことを言っているのだけれど地味な印象なのは
やはり歌の腕ということなのだろう。
けばけばしくなくて良い味だと言うこともできるかもしれない。
袖が涙で濡れてしまい
そこに月が映っているなんて
貴族君というものだな、これが。
「しもじもの皆さん、わたしが家隆です」とでも言うか。
人格障害論
マニヤンを検索したらこんなのが見つかった。
2003年らしい。
記録のために採録。コメントなし。
*****
『人格障害のカルテ 理論編』
高岡 健・岡村 達也 編 20040525 批評社, メンタルヘルス・ライブラリー 11, 203p.
本書は『精神医療』29号の特集「人格障害のカルテ〈理論編〉」(精神医療編集委員会編、2003年1月10日発行、批評社)に加筆・修正し、新たな論文を加えて編集したものです。
■目次
●はしがき 人格障害論の脱構築 ― 高岡 健
●座談会 なぜ人格障害はすわりが悪いのか? ― 宮台真司・羽間京子・高岡 健・岡村達也
●人格認識自体がもたらす「障害」について ― 鈴木 茂
●回避性人格障害 ― 中村 敬
●人格障害論の現状と問題 ― 大河内敦子・粕田孝行
●人格障害論の史的展開 ― 森山公夫
●精神病質論の行方 ― 西山 詮
●人格障害と英国の新しい立法 ― 大下 顕
●パーソン中心療法から見た境界性人格障害 ― 岡村達也
●『人格障害論の虚像』を読みながら思ったこと ― 塚本千秋
●BOOKガイド 人格障害基本文献30 ― 高岡 健・岡村 達也
●あとがき 一心理屋の人格障害史 ― 岡村 達也
■紹介・引用
●はしがき 人格障害論の脱構築
・人格障害をめぐって解決されていない問題点
①人格障害は、幼少期から老年期まで変化しない人格特徴か、状況の変化に応じて変動しうる状態像なのか?
境界性人格障害(BPD)は状態像であり、いかなる人格障害もコミュニケーションの崩壊状況の下では「境界例化」し、コミュニケーションが再建されたら、それぞれの人格障害へと「脱境界例化」される。(p4)
②人格障害と発達障害との関連
コミュニケーションの安定性が崩壊へと向かうと、狭義の統合失調型人格障害(SPD)の病像が出現する。(p6)
③人格障害は治療の対象なのか否か?
コミュニケーションの崩壊以前の人格にはメンタルヘルス、崩壊以降の状態像に対してのみ治療を対置することが適切。(p8)
・人格障害という用語は、そのように名づけられた人たちの排除を通じて、社会の安定をはかるために使用される傾向がある。(p9)
●座談会 なぜ人格障害はすわりが悪いのか?
・座談会の動機(p15~17)
社会の中で「すわり」が悪くなってきている人格障害をどのように考えるか?
→「歴史の転換点」と「コミュニケーション」という視点から捉える
・人格障害と〈歴史の転換点〉―社会学の視角から(p18~30)
〈団地化〉;コミュニケーションが閉じない。団地がもともとどんな場所だったのかという不安。
〈ニュータウン化〉;高度経済成長以降出現。〈家族幻想〉が短い期間で終わり家族がアノミーに陥る。
→共同体アノミーを埋め合わせるようにして生じたのが、家も学校も地域も学校的尺度で一元化される〈学校化〉という現象である。
→〈学校化〉の中で居場所を喪失した子どもたちが居場所を獲得する〈第四空間〉が出現する。 〈集団性〉を基盤としていた時代に存在した"規制" のメカニズムが消えるが、一方で個人による事件のように見えても、集団を意識し、集団に対する"同調圧力"を気にしている
・人格障害と〈歴史の転換点〉―精神医学の視角から(p31~40)
社会の中に根拠を持って生きてきた人たちに対して、人格障害というラベルを貼ることで精神医学者の側はそれを一つの"商売の種"にしてきた。貼られた側は、社会から排除されるか、治療を受け入れ社会復帰するかしかなかった。
社会システムに適応することが幸せなのか、と問われると良く分からない。人格障害は「このシステムに上手く適応して問題を起こさないことに、問題はないのか」という逆説に光を当てるきっかけになる。
・コミュニケーションとしての人格障害(p40~56)
人格・人格障害の中から、目に見える形をコミュニケーションとして捉える。個々の目に見える行動はコミュニケーションとして捉えることができる。人格障害の不安定さもコミュニケーションである。
コミュニケーションとは、社会システムが与える選択肢をどのように受け止め、反応するか、ということであり、われわれから特定の反応が導かれるのは、社会がそれを引き出し、巧妙に利用するからである。
●人格認識自体がもたらす「障害」について
・はじめに(p57~59)~「personalityの次元に問題がある」という印象を抱かせる患者の激増。
・患者自身と精神科医の双方からする患者人格の認識(p60~62)
患者自身から得られた性格規定と、精神科医が診察室で直接目にする患者の印象が一致するか否かを図式化する。それにより、性格の類型化が可能になる。
・形式としての人格障害―人格概念を意義あらしめるもの(p71~75)
人格概念を実効性あるものにするためには、人格を「有機体の行動」「人間の自由」との関連において形式的に捉える視点が重要であり、前者はJanet、後者はKantを例に見ることができる。
性格に関するわれわれの自己規定は、判断力による。Kantによると、判断力には、普遍的なものの下に特殊的なものを包摂する規定的判断力と、包摂されるべき普遍が未だ与えられていない場合に、特殊的なものを通じてそれらに対する合目的的な普遍を新たに発見していく、自立性を持った反省的判断力がある。患者と精神科医は、反省的判断力の行使により新たに普遍を合目的的に発見してゆかなければならない。
●回避性人格障害
・はじめに(p77)
昨今増加の一途を辿る社会的ひきこもりと回避性人格障害のつながりが想定されている。
・回避性人格障害―概念の歴史(p77~82)
DSM-Ⅳでは、批判、否認または拒絶に対する恐怖の項目が最初に位置づけられ、低い自己評価に関する項目が復活。回避性人格障害の中核的特徴は、強い対人希求性を持ちながら拒絶への過敏さのために自ら他者との関わりを避けるパラドクスにある。また、対人関係に対する回避傾向は生得的遺伝的に規定されているという理解が最近の趨勢となっている。
回避性人格障害の二つの問題点
①このタイプの人格障害を社会恐怖ないし対人恐怖症から連続的に移行する自我親和的な病態に位置づけるだけで十分なのか。
②回避・社会的ひきこもりという持続的行動パターンが、本当に遺伝的に規定されたパーソナリティーに内属する特性といえるのか。
・症例提示と考察(p82~89)
提示された4症例は、回避性人格障害を対人恐怖―拒絶への過敏症という軸のみに還元できないことを示唆する。些細な不安刺激から反射的に回避反応が割り込み、活動モードからひきこもり・行動抑止モードに非連続的にスイッチが切り替わる。
・回避行動と現代社会(p90~91)
回避は危機的状況下では誰しもとりうる行動であるが、共同体に基づく社会システムが拡散した今日、唯一の共同関係の場である学校や職場での失敗、そこからの離脱は直ちに共同社会からの脱落を意味することになり、いったん離脱すると家族以外の誰もが敵対可能性を帯びることになり、他者への恐れが汎化してゆく。
現代の生活環境の変化の中で、自己と環境との関係を調整する必要が減り、対処能力を超えた事態に対しては能動的に行動する代わりに「行動しない」という戦略をとらざるを得なくなる。
●人格障害論の現状と問題
・人格障害と診断される方達と看護師としての出会い(p96~97)
精神科女子急性期閉鎖病棟での勤務経験をもつ看護師である筆者が、人格障害疾患の患者との関わりの中で体験した"とも揺れ"について述べ、"病と闘う人々に寄り添う"という看護師本来の役割について考える。
・出会い(p98~99)
"プライマリーナース"として、Aさん(18歳女性・境界性人格障害)を担当することに。
一定の距離を持ちながらも共感的態度で接し安定した対人関係の練習をしてもらうことを心がける。
・ナースとは友だちになりたい!―治療に最適な距離が持てない(p100~101)
Aさんの態度が次第に変化し、治療するのに最適な距離がとれなくなる。好意的な態度とこき下ろしとのギャップに戸惑い、Aさんの反応が怖くなる。
・振り回される―感情の揺さぶり(p101~102)
その日の担当看護師と自分行動の"振り返り"の時間を持つ。この最中に感情が揺さぶられる。
・治療チームの分裂―主治医への怒り(p102~103)
Aさんの2回目の入院からバラエティーに富んだ行動化が多くなり、目を離せなくなる。主治医への怒りを感じ、チーム間の分裂を生じてしまう。
・患者さんとの"とも揺れ"(p104)
Aさんの行動化がエスカレートすることで看護計画が行き詰まる。Aさんの行動化を止められずに落ち込み、"とも揺れ"を起こす。
・この事例より学習した私の見方(p105~106)
「一生懸命、患者さんのため」にと考えるとなぜかのめり込み、看護師側の方が患者さんとの適切な距離をはかる事ができなくなる。否定や肯定をせずにAさんが感じたことをそのまま受け止めるようにしていく。
・看護師としての内省―これからの人格障害疾患患者の看護について(p106~107)
看護師は患者さんの身近な人としてとも揺れをしながらも、一線を越えない客観性を持って、どんなことがあってもみていてくれるいわば離れない観客のような存在として機能するもの。
●人格障害論の史的展開
・精神病質人格概念の形成―変質から精神病質人格へ(p108~117)
①前駆期(1830~1850)
道徳的狂気という概念がプリチャードにより成立する。市民社会が解体の兆しを示し始める時代。精神病者の処遇の基本的パターン・鑑定の方法が確立されていくが、その中で引っ掛かってきたのが、道徳的狂気といわれる存在であった。
②変質論の成立(1850~1870)
1857年にモレルが変質概念を確立する。当時は市民社会がさらに崩壊して大衆社会に滑り込み始め、その中で文明の頽廃という現象が生じ始める。変質概念には文明の進歩に対する批判がこめられる。
③変質論の「変質」(1870~1886)
変質概念自体が変質する。マニヤンにより、「精神的平衡失調」を軸に変質概念が精神医学の中に大きく食い込む。この時代は、階級大衆社会に転換する時代で、精神医学の疾病論にも根本的組み換えが起こる。
④精神病質概念の登場(1886~1905)
コッホ「精神病質的低格性」・クレペリン「精神病質人格」といった、変質概念に変わる精神病質概念が登場してくる。その背景に獲得形質は遺伝しないという遺伝学説の変化があると思われる。
・精神病質論の展開(p117~119)
①多様の試み(1905~1933)
精神病質の分類の多様の試みが見られる。
②体系化と分岐(1917~1933)
精神病質人格論の全盛期。クルトシュナイダー(1923年『精神病質人格』)による整理とその後の体系化。クレッチマー(1918年『性格と体格』)による性格学。ライヒ(1925年『衝動的性格』)による精神分析学的性格学。
・精神病質論の変容(p120~122)
①精神病質概念の"道徳化"とパーソナリティー理論の登場(1933~1945)
精神病質概念の道徳化と呼ばれる時代。と同時にパーソナリティー理論が登場する。精神病質概念が病名というよりも悪口となった。
②精神病質論の「転回」(1945~1968)
精神医学概念が価値評価とか道徳化というものに転落してしまっているとする、シュナイダーの自己批判。「"精神病質"は死んだ。だが―精神病質者は生きている。」
・"精神病質"から"人格障害"へ(p123~126)
精神病質に代わる人格障害。背景には、①素質論から対象関係論へ、②鑑定概念から治療概念へという流れがある。人格障害はいまだ過渡的概念である。すべての人間が"狂"をある程度抱え込んでいる、というのがこれからの時代の人間像であり、そういう基本的考え方で"狂"の諸形態を分類することは可能であり、重要である。
・境界型人格障害(p126~131)
①ボーダーライン概念をどう批判するかという問題~何が医学の対象となるのかが不明確である。
②現象としてある問題にどう対処するか
一つに治療者のチームワークが試されるということ。2番目に治療者が患者の陰性感情転移に耐えることが試されているということ。3番目に治療構造の枠組を巡るせめぎ合いが常時必要になるということ。
●精神病質論の行方
・精神病質(異常人格)概念は生きている(p134~138)
シュナイダーによると、精神病質人格とは、素質に基づく異常人格であり、その異常性のゆえに利益社会を悩ますか、あるいはその異常性のゆえに自ら悩む者である。シュナイダーは精神病質人を非社会的な人と考えることを反対しているにもかかわらず、精神病質人格は社会意的にマイナスの評価が付されることが多くなった。こうした精神病質は今日、人格障害のみならず、異常体験反応の中にも生きている。
・今日の人格障害(p139~142)
変化はネーミング上のことで、自体は不変のまま継続している。
・人格障害者の刑事責任能力、治療、危険性予測(p142~148)
「医療観察法」を積極的に用いることで、犯罪行為を行った人格障害者のかなりの部分を責任無能力または限定責任能力にすることが、必要に応じて可能になる。
人格障害者の治療も必要かつ有効である場合もあるが、「従来の精神医学体系そのもの」を変更して、医師や病院がこのような事業に討って出るのが適切化は問題である。
将来的危険性の予測は、①危険な行動をする精神障害者の頻度がきわめて低く、危険性のない者を危険とみなす誤り(偽陽性予測)が許しがたいほど多くなること、②偽陽性の場合を観察することができないこと、③精神科医や裁判官の偽陽性予測の誤りについては問題にされること、といった点から困難である。その結果、多くの人をできるだけ長く収容させようという傾向が自然に醸成される。
●人格障害と英国の新しい立法
・はじめに(p151~152)
2002年6月、英国は精神保健法改正草稿法案を発表。これにより治療不可能とされる人格障害をも強制入院させることができるようにし、また地域での強制治療を導入することで、社会防衛を強化しようとしている。
・精神保健法改正の動き(p153~155)
草稿法案の作成の目的は、「重度人格障害をもつ危険な人々(DSPD)」を犯罪行為の有無に関わらず強制入院させ、犯罪を予防すること。
・法改正の動きへの反応(p155~156)~多くの精神科医、諸団体は反対を表明。
・人格障害―精神病質に関する議論(p156~158)
人格障害―精神病質が医療的概念か否か、治療可能か否かといった議論が再び活発化している。
人格障害が医学的概念であるか否かに関して意見が大きくわかれるという事実や診断の信頼性が低いと考えられている事実は、その診断にもとづいて精神保健システムにおいて拘禁がおこなわれることに倫理的問題を生じさせる。
・「心神喪失者医療観察法」との関連において(p159~160)
「心神喪失者医療観察法」にもとづく新しいシステムに精神病質者が多く取り込まれる見込みが高い。その場合、治療体制は崩壊するおそれが高くなり、精神科医、看護師は看守化せざるを得ない。また、再犯予測不能に基づく長期の不当拘禁あるいは退院後の再犯の問題もある。
●パーソン中心療法から見た境界性人格障害
・はじめに(p163~167)
治療者は診断過程に参与する者であり、治療過程とはクライアントが自分自身について自分なりの診断を展開する過程であり、診断はクライアントごとに異なる個性的なプロセスと言える。
・パーソン中心療法から見た境界性人格障害(p168~170)
境界性人格障害は「自己」に対する一貫して信頼できるガードがないので、脅威に対して生存を確保すると思えるどんな手段でもとる。いつも障害があるわけではなく、行動が生じるのは「自己」が新しい「体験」という脅威にさらされるような状況に限られる。
・境界性人格障害の治療―精神分析とパーソン中心療法との対照(p170~171)
境界例に対する精神療法は、患者が自己と他者を一貫性のある、統合された、現実的に知覚された個人として体験する能力を亢め、反応の仕方を狭めることによって自我構造を脆弱にするような防衛を用いる必要が少なくなるようにする。
・おわりに(p176~177)
パーソン中心療法は境界性人格障害という実態を措定せず、したがってその治療を構想しない。しかし、境界性人格障害といわれる状態像を呈することのある人たちの生を支援しようとする。
●『人格障害論の虚像』を読みながら思ったこと
『人格障害論の虚像』は「人格障害」という名を告発する。「それはこの用語が、人間にまつわる不都合な出来事に際して、文明や製作の失敗を隠蔽し、免責させてしまう強烈な傾向をはらんでいるため」(p182)
「人格障害は市民の表面的な安心と、専門家の精神保健のため流通するようになった言葉」(p185)
「治療を行うのではなく、彼らなりのコミュニケーションの可能性を吟味していこうという」(p187)
「ステレオタイプな家族の形式の中で、そこに君臨するものが意識・無意識に家族メンバーを支配しようとしてきたことこそが、問題ではなかったのか」(p188)→「家族の解散論」へ
映画「彼女は最高」 キャメロン・ディアス
映画「彼女は最高」1996年の作品。She's the One.
なぜIT業界がきついのか
俺たちの旅 ただお前がいい
小椋佳のビデオで、中村雅俊が出演、俺たちの旅やただお前がいい
を歌っていた。
女優金沢碧を思い出す。
私はあの時期、青春に憧れていたのだと思う。
その後は私も年代としては確かに青春期を過ぎた
しかしどうだろう、本質的に私は青春を生きたといえるのだろうか
天運苟如此且進杯中物
白髪被両鬢(はくはつ りょうびんにこうむり)
肌膚不復實(きふ またみたず)
雖有五男児(ごだんじ ありといえども)
總不好紙筆(すべて しひつをこのまず)
阿舒已二八(あじょは すでににはち)
懶惰固無匹(らんだ もとよりたぐいなし)
阿宣行志学(あせんは ゆくゆくしがく)
而不愛文術(しかも ぶんじゅつをあいせず)
雍端年十三(ようとたんとは としじゅうさん)
不識六與七(六と七とをしらず)
通子垂九齢(つうしは きゅうれいになんなんとし)
但覓棗與栗(ただなつめとくりとをもとむ)
天運苟如此(てんうん いやしくも かくのごとくんば)
且進杯中物(しばらく はいちゅうのものをすすめん)
◎子供五人の名前は舒・宣・雍・端・通。
☆二八は16歳。志学-15歳。論語「吾十有五にして学に志す」から。
白髪は左右の鬢をおおい、皮膚ももう老化した。男の子が五人いるが、すべて勉強ぎらい。阿舒は16歳で、無類の怠け者だ。阿宣は、やがて15歳だが、文章学問が好きでない。雍と端は13歳。まだ六と七の区別もつかない。通は、もうすぐ9歳。梨や栗をねだるばかり。ああ、これも運命ならば、あきらめて酒でも飲むことにしよう。
ノロウイルスによる嘔吐・下痢に五苓散が効く
ロナセン への期待と不安
統合失調症治療薬 ブロナンセリン 商品名ロナセン
受容体選択性が高い新規SDA
2008年1月25日、統合失調症治療薬のブロナンセリン(商品名:ロナセン錠2mg、同4mg、同散2%)が製造承認を取得した。承認された用法・用量は、「成人1回4mgより開始し、徐々に増量する。そして維持量として1日8mg~16mgを2回に分けて投与する。なお、年齢、症状により適宜増減するが1日最大量は24mgを超えないこと」となっている。
統合失調症は、生涯発病率は1%ほどとされている。発症初期には、頭重感、倦怠感、易疲労感、睡眠障害などの身体的愁訴で医療機関に受診する場合が多いが、その後、陽性症状(幻覚・妄想・興奮など)、陰性症状(感情鈍化、意欲低下、無関心など)、不安・抑うつといった多彩な症状が現われてくる。
治療では、従来から薬物療法が中心となっており、長年、ハロペリドール(商品名:セレネースなど)をはじめとした定型抗精神病薬(第一世代抗精神病薬)が用いられてきた。しかし定型抗精神病薬は、統合失調症の陽性症状には有効性が高いが、陰性症状には効果が低い場合があることが指摘されていた。また副作用として、錐体外路系症状(急性ジストニア、アカシジア、遅発性ジスキネジアなど)が発現した。これに対して、1990年代後半から登場したリスペリドン(商品名:リスパダール)をはじめとする非定型抗精神病薬(表1)は、陰性症状にも効果が高く、錐体外路系症状などの副作用も比較的少ないことから、統合失調症治療に広く使用されるようになっている。
表1 主な非定型抗精神病薬
■SDA(セロトニン・ドパミン遮断薬)
リスペリドン(商品名:リスパダール)、塩酸ベロスピロン水和物(商品名:ルーラン)
■MARTA(多元受容体作用抗精神病薬)
オランザピン(商品名:ジプレキサ)、フマル酸クエチアピン(商品名:セロクエル)
■DSS(ドパミン部分作動薬:ドパミン・システム・スタビライザー)
アリピプラゾール(商品名:エビリファイ)
関連記事はここ
http://shinbashi-ssn.blog.so-net.ne.jp/2008-04-07-3
上記三種SDA、MARTA、DSSについても、まったく別の薬ではなく、
たとえば、SDAを用いて、その使い方を工夫することで、
DSSに似た効果を期待することもできる。
今回承認されたブロナンセリンは、ドパミンD2受容体、セロトニン5-HT2A受容体に対して強い遮断作用を有するSDA(セロトニン・ドパミン遮断薬)である。これまでの臨床試験結果などから、ブロナンセリンは、ほかのSDA(例えばリスペリドン)よりも受容体選択性が高く、SDAの最大の問題点であった高プロラクチン血症(性機能障害など)や、定型抗精神病薬に見られた錐体外路系の副作用の発現が少ないといわれている。
ブロナンセリンは日本で創薬された新規構造をもった薬剤であり、今後は、統合失調症治療で広く使用されていくことが予想される。使用に際しては、薬剤の有効性や安全性が食事の影響を受けやすく、食後投与が望ましいとされているので注意したい。食事との関係はエビリファイなどでも観察されていることで、規則正しい食事と服薬を原則としたい。
また、副作用(高プロラクチン血症や錐体外路系症状など)が皆無ではないことを認識した上で、投与量は必要最小限となるよう調整し、投与後の患者の状態を十分に観察しなければならない。
販売量 ロナセン錠2mg ロナセン錠4mg ロナセン散2%
一般名 ブロナンセリン (blonanserin)
効能・効果 統合失調症
用法・容量 通常、成人にはブロセナンリンとして一回4mg一日二回食後経口投与より
開始し、徐々に増量する。維持量として一日8mg~16mgを2回に分けて
食後経口投与する。
なお、年齢、症状により適宜増減するが、一日量は24mgを超えないこと
製造販売元 大日本住友製薬株式会社
心配な点はいろいろあるらしい。個別にコメントする。
太る……糖代謝に影響は少ない。ただ、不調のときには運動量が少なくなるので、その結果として体重は増加する傾向になることが多い。
プロラクチン・性機能障害……男性の場合にはあまり影響はない。女性場合にも、プロラクチンをコントロールすることもできるので、使えないわけではない。リスパダールやスルピリドでプロラクチンが動くが、対処できるので心配しなくていい。
眠気……体質による。眠気が出るなら、夜にまとめて使えばよい。眠れなくなるなら、昼に使えばよい。体内での代謝時間と代謝経路を考慮して、いろいろと工夫ができる。これもクリアーできる。
頭の回転が鈍くなる……これは表現が微妙で、陽性症状部分の頭の不必要な回転は抑えたい。一方で陰性症状部分の必要な頭の回転は促進したい。陽性症状にはロナセンのD2ブロッカー部分がよく効く。陰性症状部分にはセロトニン・5HT2A2部分が効くので、これも改善が期待される。
リスパダールとの比較……副作用が少ない。ロナセンもセロトニン部分よりもドーパミン部分によく効く薬である。そこで、DSAなどと呼んで、セロトニン・コントロール優位の印象のあるSDAとの違いを区別しようとしている。
陰性症状……セロトニン・5HT2A2部分への効果があり、これはジプレキサ、セロクエル、リスパダールとは少し違い、ルーラン、セディールに近い。使用量にもよる。また、体内での二次代謝産物の影響もある。単純ではない。
初期症状である幻覚・妄想や意欲低下などを軽減する……ドーパミンD2ブロック作用でかなり期待できる。
ロナセンはルーランの後継……会社は同じだが、そうともいえない。
ルーランで呂律が回らなくなってきた……使用量と開始時期の薬量調整による。調整可能。
朝の眠気だるさ……薬によるものか、気分変動によるものか、生活リズムによるものか、見分けつつ、対処する。調整可能。
頭がボケないか……24mg を超えない範囲と書かれていて、一方、薬剤は、2ミリ錠と4ミリ錠だから、かなり細かく調整できることになる。「ボケ」ることの内容を吟味して対処。
リスパダールでボケる人もいればボケない人もいます……薬量と種類を考慮すれば防止できる。
エビリファイも人によっては副作用がないどろか賦活作用で意欲が戻ったり……薬量と、飲む時期にもよる。数カ月前に飲んだ薬がやっといい効果を発現しているということもある。数カ月前に中止した薬の影響が今頃になって現れているということもある。
ルーランで呂律が回らなくなった。エビリファイ、リスパダールがだめで、またルーランにしたら呂律には問題なくなった。……これは実際あることで、その間に治療が進展したということだ。体質が変わりつつあるのだろう。
一般に、まず、統合失調症と広く言うが、様々な病型が含まれている。ある人の統合失調症と別の人の統合失調症は同じではないかもしれない。また、発病からの時期の違いもある。そして体質の違いもある。
それらを一緒にして論じるのは、あまり得策ではない。違いを無視して何か一言で結論を出すのは、やめよう。
個人的ないろいろな事情もある。体質、環境、仕事、家族の意見、それまでの経験、思い込み、食生活の癖、睡眠の癖。
それらを全体的に考慮して、考える。
単に「眠気が強い」と言っても、どのような状況なのか、病気の詳細と経過、体質、環境、その他、いろいろと総合する必要がある。
短期決戦ではないのですから、年単位で、取り組むことが必要である。
一日一回単剤投与を目指しているが、いろいろと工夫していこう。
*****
2008-6-18
個人的には
smapg-time-delay-model(http://shinbashi-ssn.blog.so-net.ne.jp/2008-05-04)で
中脳辺縁系のドーパミン(D2)を遮断して陽性症状を改善するというのが12.の経路、
中脳皮質系のセロトニンを遮断して、中脳皮質系のドーパミン(D2)が出やすくなるというのが11.の経路
という両面でロナセンがぴったりなので、
自我障害初発型に使ってみたいと思っている。
喉のつかえと漢方
今回は「喉のつかえ」を取り上げます。喉のつかえは昔からよくあった症状で、「梅核気」という病名で江戸時代の医学書にも記載されています。梅核気とは喉に梅干の種がつかえている感じがするという意味です。日本人は生真面目な性格の人が多いためか気が滅入りやすく、いわゆる「気うつの病」になりやすい人が多いのでしょう。
【症例1】
患者さんは56歳の身長 156cm、体重 42kg、やせた真面目そうな女性です。2週間前から喉に何かある感じがして、気になってしかたがないと訴えられています。耳鼻咽喉科や消化器内科を受診し、異常なしと言われましたが、納得できないため大学病院総合診療科を受診されました。
身体診察上は血圧 116/76mmHg、脈拍 66/分整、体温 36.2度。心肺腹部に異常はなく、初診時に一般に行われる尿・血液検査、心電図、胸部X線でも異常所見は認められませんでした。
ここからが漢方の出番です。初診時の検査では異常がないことを患者さんに説明し、さらなる検査(前医で既に行われている胃内視鏡や胸部CTなど)を行う前に、漢方診療をさせてほしい旨を告げ、口頭で承諾を得ました。その上で、以下の漢方診察を開始しました。
西洋医学でも、心療内科や精神科では、心身相関の観点から患者さんの感情の変化に注目します。漢方でも、「心身一如」、「病は気から」の考え方から、「七情の変化」(喜、怒、悲、憂、恐、思、驚)を重視しますので、漢方の問診では、腹立たしいこと、嫌なこと、悲しいことなどが症状の出る前になかったかどうかを聞き出します。
患者さんの生活背景について、漢方的な問診を行っていくと、(1)仕事上の悩みはなく、夫婦生活にも問題ないが、以前から姑とうまくいっていないこと、(2)農協の婦人部主催のお祭りの件で最近、姑に嫌みを言われたこと、(3)実家の父が脳梗塞で倒れたため、時々看病に行っていること、そして(2)、(3)のあたりから喉の調子が良くないこと、などが分かりました。
ここまでの問診で、患者さんが病気に至ったストーリーが浮かび上がってきました。
女性は以前から姑をストレスに感じていましたが、何とか感情のバランスを取っていました。お祭りでのもめごとで姑に対して怒りを感じましたが、表に出さず、我慢しました。この内向した怒りに、ちょうど父親が病気になって、悲しみや憂いといった感情の変化が加わり、看病疲れなどから体力、気力が低下し、一気に感情のバランスが崩れて発病した、というものです。
このように、なぜ患者さんが病気になったのかを、名探偵よろしく推理し、発病に至るまでのストーリーを組み立てることは、漢方の視点でコモンディジーズを診療する医師にとって、楽しみといっては語弊がありますが、まさに腕の見せ所です。
この患者さんに筆者の推理を話したところ、そうかもしれないと納得されたので、姑に対する怒りを収めることと、父親に対する感情を整理することを助言し、その上で半夏厚朴湯(ツムラTJ-16)7.5gを処方しました。治療開始2週間後には症状は10から4へ改善、1カ月間の服用で症状は消失して、以後来院なしとなりました。漢方では「一怒一老」といって、怒りは寿命を縮める悪い感情であるとし、怒りを出さないように指導します。
このような、「喉がつかえる」という症状の患者さんが来られたときのために覚えておきたい方剤は、半夏厚朴湯(はんげこうぼくとう)と、柴朴湯(さいぼくとう)の2つです。柴朴湯は、半夏厚朴湯と小柴胡湯(しょうさいことう)を合わせた方剤です。喉がつかえるという症状に対しては、まず半夏厚朴湯を処方すれば、大方の場合、症状は改善します。
では、柴朴湯はどのような患者さんに投与するかというと、何かに追われているようなストレスを感じていて、喉のつかえがある患者さんです。喉のつかえをとる半夏厚朴湯に、抗ストレス方剤である小柴胡湯を併せて使用する治療戦略です。昔から半夏厚朴湯と小柴胡湯の組み合わせが頻用されていたため、柴朴湯という方剤が生まれました。
以下に柴朴湯を処方し軽快した症例を紹介します。
【症例2】
患者さんは36歳の男性で小学校の先生です。身長 176cm、体重 78kgとやや太っていますが筋肉質の体形です。
2週間前から喉が詰まるような、息ができないような症状が出現、改善しないため、近医を受診しました。そこで胸部X線、胃内視鏡などの検査が行われて逆流性食道炎と診断され、プロトンポンプ阻害薬(PPI)のオメプラゾール(商品名:オメプラール)10mgが処方されましたが、症状の改善が認められないため、精査を希望され当科を受診しました。
血圧136/88mmHg、脈拍84/分整、と血圧はやや高め、脈はやや早めですが、ストレスによるものと考えました。
漢方的に考えると、「待ってました!」と言いたくなるほど典型的な「気うつ」の症例です。公務員、学校の先生にはうつ病が多いという印象があったので、この患者さんにも学校で何らかのストレスがあるのではないかと推察し、漢方的な問診を始めました。
すると、担当のクラスに不登校の生徒がいて対応に苦慮していること、学年主任で大変であることが聴取されました。仕事に追われるストレスで喉のつかえが生じていると考えたため、少しいい加減に仕事をし、休日はできるだけ仕事のことを考えず、身体を動かすように指示した上で、柴朴湯(ツムラTJ-96)7.5gを処方しました。2~3週間ごとに診察を行い、約3カ月の通院で症状はほぼ消失し、血圧も 122/78mmHgと正常化しました。
もう1人、半夏厚朴湯を処方して症状が改善した患者さんを紹介します。この患者さんはかなり疲れていた(気虚)ので、漢方の精力剤である補中益気湯(ほちゅうえっきとう)を併せて用いました。
【症例3】
患者さんは70歳で身長 148cm、体重58kgとやや小太りで真面目な女性です。
半年前に夫が脳梗塞で倒れ、以後、病院に付き添いをしながら看病を続けてきました。3回の転院を経験した後、夫は1カ月前から自宅で加療することになりました。現在、夫の病状は安定し、週に2回ヘルパーさんが来てくれて、家には落ち着きが戻り始めていました。
ところが、この女性の方に、「食欲がなくなった、喉が詰まる、息がしにくい、眠られない」といった症状が出現し始めました。夫が世話になっている病院で診察・検査を受けましたが、異常がないと言われたため、精査を希望し、姉に付き添われて当科を受診されました。顔の表情は硬く、何か思いつめている感じでした。
長い看病で気うつになり、夫の病状が安定したところで張り詰めた気持ちが切れ、疲れも出たために発病したのではないかと考え、半夏厚朴湯と補中益気湯を処方しました。
その結果、投与2カ月で食欲が戻り、症状はかなり良くなっていましたが、治療半年後、夫の肺炎による再入院をきっかけに症状が逆戻りして漢方だけでは対応できなくなり、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)の塩酸セルトラリン(商品名:ジェイゾロフト)25mgと、ベンゾジアゼピン系抗不安薬のエチゾラム(商品名:デパス)1.5mgを併用しました。
患者さんは現在も通院加療中ですが、娘さんたちと相談し、夫には施設に入所していただき、患者さんは長女さんが面倒を見ることになりました。
今回の症例のように漢方だけで治療がうまく行かなかった場合、私は漢方治療に固執することなく、西洋薬を併用しています。また、漢方薬を併用していると、SSRIなどの向精神病薬の投与量が少なくて済む印象があります。
「喉がつかえる」という症状は、ストレスによって食道平滑筋の収縮が亢進し、知覚神経が過敏になって、通常では感じない感覚を患者さんが認知しているのではないかと推察しています。
漢方が得意とする「不定愁訴」は、自律神経の交感神経と副交感神経のバランスが崩れることにより生じます。ストレスや感情の変化は自律神経機能に影響を与えますので、病(自律神経のバランスの崩れにより生じる症状)は、気(感情の変化)からということになります。