自己観察意識過剰について
言動の裏の意味
知識をコントロールするための知識 知恵
知識が増えていくというよりは,
むしろ知識をコントロールするための知識が増えていく
というふうに考えたほうがいい。
こういうのを知恵と言っていた。
発達期言語コミュニケーション障害の新しい視点と介入理論
笹沼 澄子 編
《評 者》岩田 誠(東女医大教授・神経内科学)
高次脳機能の喪失とは異なる発達性障害を理解するために
本書の書評の依頼を受けていささか困惑した。私にとっては専門外の領域の物事を扱った書物であり,しかもタイトルから察するに,大変難解な内容であるような感じがしたからである。しかし,いざ本を手にして中を読み出すと,各章や,それを構成している各項の概要がそれぞれの冒頭に示されており,これを頼りにして読み進むと,意外に読みやすいことに気づいて,まずは安心した。 私自身は,これまで成人における失語,失読,失書といったような,いったん獲得した機能が脳病変によって失われたことに基づくさまざまな障害に接し,それらの障害をヒトの大脳における機能局在の原則に従って理解しようと試みる研究に従事してきた。そのような方法論を扱いなれた視点から眺めていると,本書で扱われているような発達性障害の病態を理解することはきわめて困難である。このことを自分自身で強く感じたのは,今からもう十数年前になろうか,本書でも取り上げられているWilliams症候群の患者に初めて出会った時であった。この特異な症候群の患者に図形の模写をしてもらった時,私はそれまで幾度となく経験してきた成人における視覚構成障害とは,根本的に違う何かを感じたのである。自分がそれまで金科玉条として信じていた大脳機能局在論では理解しがたい,何か不可思議なことが起こっているということに気づいたのである。その時が,私にとっての発達性高次脳機能障害への開眼元年であった。それまでも,本書で取り上げられているさまざまな病態,特に自閉症スペクトラムや発達性読み書き障害の神経心理学的研究に接する機会がなかったわけではないが,そんな時私にとってはいつも消化不良の感じで終わるのが常であった。それは,いつも成人における神経心理学的手法がうまく適合できなかった例として,それらの研究を見てきたからだと思う。それは,私自身の誤りであったと同時に,この分野の研究者の方々の誤解に基づくものであったことも否定できないであろう。大脳の発達過程で生じてくるさまざまな病態と,それによって生じる障害,それらのことを,できあがった機能の喪失と同列に扱い,同じような理論で理解しようとすることが,そもそも適切ではないということが,どちらの側の研究者にも十分理解されてはいなかったのであろう。
しかし,それから20年余の月日を経て,発達性コミュニケーション障害の研究は大きな展開を遂げていた。発達性障害というものは,成人における出来上がった機能の障害,というものとは切り離して考えられねばならないということ,そしてそのような発達性高次脳機能障害の研究こそが,高次脳機能の発達そのものの機構を明らかにする研究領域であるということ,本書を読めば,それらのことが如実に感じられるのである。ヒトの高次脳機能,特にその形成過程に関心のある方々には,ぜひ一読されることを薦めたい。
B5・頁328 定価6,300円(税5%込) 医学書院
中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』を読む
【特別寄稿】
中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』を読む
坂部 恵(東京大学名誉教授/哲学)
「ふつうの医療者が理解し実行もできるような精神医学を私はずっと目指してきた。いくぶんなりとも達成できているだろうか」
著者中井氏は,本書の「あとがきにかえて―この本が生まれるまで」の末尾でこのように述べられ,おなじ文言は裏表紙の帯にも転載されている。
本書は,中井氏が神戸大学を定年で退かれた後,兵庫の有馬病院「医師,看護師,合同研修会」,「医局,看護部,臨床心理室のみなさんが合同で,ごく初歩的なことを私が語るのを聞く」会の記録を雑誌『精神看護』(医学書院)に連載し,さらに手を入れて形を整えられたものである。
「ふつうの医療者が理解し実行もできるような精神医学」は,ふつうの医師,ふつうの医療者では書けない。あるいは,学会誌向けの研究論文や著書などにすぐれた業績をもつ医療者であっても,そのことだけではこうした一般向けの講話をよくする素地には足りない。
専門の精神科医・精神病理学者としての精緻な観察・学識と長い臨床経験から学び取ったものを平易なことばとして後進に伝えうる医療者だけが,しかもおそらくみずからのキャリアの下山道にさしかかったところで,はじめてこうした仕事をよくしうるのである。
著者は,本書のあとがきで,ご自身の回復(寛解)過程論が,その論の生まれた場である青木病院で「私が去って久しい後まで看護部に語りつがれ」て,患者さんの病状を見ながらの対応に活用されていたこと,また,大学の系列からすれば著者のとは別の有馬病院で,研修医クラスの人によく著書のサインなど求めれるので,不思議に思って聞くと,当時その大学で著者の統合失調症の回復(寛解)過程論が参考文献として指示されていたのを知ってうれしくおもった,と述べておられる。
実際,まったく素人の読者の目から見ても,患者の心身の変動を日を追って細かく観察し,それをきわめて精細なグラフにあらわした中井氏の統合失調症回復(寛解)過程論は,日本の精神医学に一時期を画したといわれる東京大学出版会の分裂病(統合失調症)の精神病理シリーズのなかにあっても,むしろ成因論的な研究が目立つなかで,ひときわ異彩を放っていたように記憶するし,何人かの専門領域の方からもこの論文の独自・秀逸なるゆえんについて聞き及んでもいる(篤実な看護師さんの看護日誌が大きな助けになっていたことは,本書ではじめて知った)。
本書でも,やはり,回復過程について細心の注意をはらうべきことが説かれている。
「治りかけというのはとても大切な時期です。しかしわれわれは,患者の症状が収まったら急に気を抜きがちではないでしょうか。患者が回復期に入るか入らないうちに,医療者にはだいたい次の患者が待っているんですね。だから保護室から出てみんなのなかで生活をしはじめた時の患者さんは――このことは忘れられがちなのですが――非常にさびしい」
回復(寛解)過程論にあったのとおなじ細かい目くばりと心づかいがここにも見られる,とわたくしはおもう。こういう時期にかえって自殺の危険も高いのだと著者は付言される。
あるいはつぎのような指摘。
「異常現象そのものはくわしく調べられているけれど,その現象に対する「耐え方」というか「構え方」「受け止め方」のほうは,まだ未知の大陸のような気がしますね。こちらのほうが重要かもしれませんね。未知であるとは,そういうものがないということではないと思うのです」
中井氏がつづけて述べられているとおり,「耐え方」,「受け止め方」は,当然ひと通りではないだろうし,患者さんひとりひとりによって,おなじ患者さんでも個々の場合や時期によって有効な対処法はおのずからちがってくるだろう。中井氏は,一般理論を組み立てるよりも,一貫して個々の症例を徹底的に観察することから部分的あるいは全体的に応用可能なマニュアルを探り出す道を探ってこられたのだとおもう。西洋の人文主義者・法賢慮の実務家たちがiudicium(判断力)と呼んで重んじた個と普遍を創造的に媒介する能力。今日の人文学でも,この部分はまだ大方未知の大陸である。
「病的な面に注目するのは,熱心な,あるいは秀才ドクターの陥りやすい罠です。私も何度かそういうところに陥ったし,まわりにもそういう人を見てきました。精神病理学者に多くのものを与えた患者の予後はよくないのです」
つづく箇所には,
「たいていの患者は看護師が健康な面に光を当てているからこそ治るのかもしれません」
と,医師には耳の痛いことばがある。
中井氏が業余に現代ギリシャ詩の翻訳をよくせられ,また達意のエッセイの書き手であられることはよく知られていよう。治療者集団への講話に特化した今回の仕事でも,自在な語り口のなかに,年輪とともに,そうした自分の専門領域を外から見ることのできる「余裕」が存分に生かされている,とおもう。iudiciumと縁の深いinventio(発見法)を何より重んじたバロック人フランシス・ベーコンもまた,英文学史上屈指の随筆の書き手であった。
わたくし自身,1990年代にうつ病で三度の比較的長期の入院生活をし,患者(たち)の立場から医療の現場を経験する機会をもった。入院中,同棟の仲間も含めて,何とはなしもの哀しい感じは変わらないが,それでも患者のミーティングがひらかれたり,若い患者さんたちにソシアルワーカーが積極的な援助の手をさしのべたり,医療やケアがすこしずつ変わりつつあるらしいというたしかな実感があった。患者の回復・下山過程に細やかな目をそそぐ中井氏の心が,後進の医療者たちに受け継がれてほしい。
二連電子レンジ
家の台所には、
電子レンジが二つ並べてある。
ひとつでお米を解凍、
ひとつでお惣菜を加熱。
結局半分の時間で出来上がる。
すごく便利ですよ。
こころとからだは切っても切れない関係にあります
心療内科や心身医学などの第一ページに、
こころとからだは切っても切れない関係にあります
なんて平気で書いてありますね。
第一、切っても切れない関係なんていう言い方が、
正確な意味に乏しい。
だって、具体的にどういう関係なんだか、ちっとも分からない。
まあ、それはそれとして。
現状では、心とは、脳を中心とした神経系の働き全般を指すあいまいな言葉だと思う。
(なんていうことをうっかり言ってはいけない難しい理屈もあるけれど。)
脳は、当然体の側に入るのだと思う。
さて、こころというのは、からだと別にあるとでもいうのだろうか。
消化とか、歩行とかと同じく、精神作用というものがあって、それをこころと呼んでいるのだ。
(ここも難しい議論がある。)
こころとからだは切っても切れない関係にあります。
というのは、好意的に解釈すれば、
カルテジアンの現代版ということになるのだけれど、
無理。
と、ここまでは普通に現代的に考えられるのだけれど、
哲学者はそうはいかない。
もっと深遠な意味で、mind-body-problemを議論している。
わたしにはほとんど神学議論のように思われる。
治療に応用できるいいお話などひとつも聞けない。
Interactionism や Identity Theory のこと。
こころとからだの相互作用はどのように生じているかという、デカルト以来の問題。
たとえば、ストレスが、頭痛をひきおこすという場合、
こころがからだに作用していることになる。
これは、現代的にすごく単純に言えば、
ストレスが、脳内の神経伝達物質に影響して、
体内でいろいろな物質変化があって、
それが頭痛となって知覚されているのであって、
心とからだの相互作用なんてどこにもない。
からだだけで説明できる。
また逆に、脳梗塞を起こしてうつ病になったという場合、
脳の特定の部位の機能不全が起こり、うつ病になったというだけで、
これも、心とからだの切っても切れない関係というものではない。
からだだけで説明できる。
脳と、狭義のからだの関係といえば、それで済む次元のことだ。
そして広義のからだは、脳をも含む。
そしてそれ以外には何もない。
だって、精神的に悩む人を、温かい一言が救ったりするではないかというなら、
つまりは、その温かい言葉が、知覚神経を通って、脳に変化を起こしたということだ。
それですっきりするだろう。
認知療法も、精神分析も、煎じ詰めて言えば、
言葉の物理的力が、脳の構造を変化させているのだ。
それは言葉の意味であってもいいし、音圧でもいいし、トーンでもいい。
眼球と視覚は切っても切れない関係にありますといわれたら、
当たり前に過ぎない。
こころとからだは切っても切れない関係にありますというとき、
漠然と暗黙のうちに、デカルト的二元論が前提とされているのだ。
デカルトの場合、こころという実体(霊魂)があって、松果体をゲートにして、心とからだが相互作用を及ぼしあっているというモデルである。
霊魂ですよ。
さて、そんなことを本気で言っているのだろうか。
あるいはそんなことを知らずに、単純に、うわごとのように、
こころとからだの切っても切れない関係、
などと言っているのだろうか。
岡本太郎9
岡本太郎8
岡本太郎7
岡本太郎6
岡本太郎5
岡本太郎4
岡本太郎3
岡本太郎2
岡本太郎1
岡本太郎10
岡本太郎11
Quo vadis, Domine?
コーエン「あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか」
17日朝日朝刊の書評欄にて紹介があった。
コーエンは分析的マルクス主義の人。
マルクス主義における史的唯物論とは、
人間の上部構造(ものの考え方、感じ方)は、
下部構造(生産関係、物質的基盤、社会的諸条件)によって規定されるとする考え方。
マルクス主義における搾取とは、資本家が、労働せずに、労働者が生産した価値の一部をかすめ取り、儲けること。
分析的マルクス主義とは、それまでのマルクス主義が、哲学的で、弁証法とかヘーゲルとか言っていたのを転換して、数理的手法を用いて、つまり、さらに科学的に、搾取や唯物史観について研究する。
コーエンには唯物史観に関して「カール・マルクスの歴史理論」、リバタリアニズム(自由至上主義)との対決を論じた「自己所有権・自由・平等」の著作がある。
さて、そのような学問を修めて、立派な人間になったとしよう。
勉強した結果、多少収入が得られるのはいいのかもしれない。
しかし理論によれば、それは、搾取なのだ。
だって、毎日汗を流しているのは、インテリも豆腐屋さんも同じなんだから、
多少の知識があったからといって、豆腐屋さんの何倍も儲けるのはおかしいのだ。
多少の知識と人的ネットワークを利用して、未公開株を使って儲けたり、経済動向の分析を通じて、マーケットで儲けたり、そんなことはどうなのかということだ。
儲けた本人にすれば、「悔しかったら自分もやればいい」と、自民党議員のようなようなことを、本心では考えているかもしれない。
難しい問題だ。
人間に絶望している私としては、沈黙するばかりだ。
知人からの写真
写真としていい写真を。
まず六義園。
信じられないくらいきれいです。
こんな写真が撮れるなら、三脚を持っていけばよかった。
紅葉はこんな風に写るものなんですね。
私の写真は何だったのか?
花に鶯は、万葉集などでも繰り返し題材にとられています。
鶯は、花を散らしてしまう恨めしい存在です。
花も、こうして写真の形で見ると、現実の花とは違う魅力を見せてくれます。
現実は、一通りではないのでしょう。
写真の技術としては、おもにボケ味とシャッタースピードです。
映像処理はあまりしていないとのことです。
意識せずにどぎつくなってしまうとのこと。
ネガティブ
努力も夢も、いったい何だったのだろう。
空しさに気付くために今日までの道のりが必要だったのだろうか?
それならは私は愚か者だ。
たったこれだけの、単純で、ネガティブな事実を納得することが唯一の最終目的地だったとは。
困難を乗り越えるとは コラージュ技法
困難がいまここにある
現実的な回路で何とか解決しなくてはいけない
それはそうだ
しかしまた一方で心の中で解決もしなくてはいけない
現実の困難に際して
裏切った人もいて
人間不信も生まれる
なぜ現実はこのように苛酷なのかとの問いも生まれる
それらの問いに対して心の手当をしなければならない
傷は乾いてしまうことがない
いつまでもなまなのだ
忘れるには時間がかかる
そんなに悪いことばかりではない
悲観的になりすぎてもいけない
正確な認識には技術が必要
自分のことは見えないことも多いものだ
つらい時には一時的退却も必要
しかしそれは一時的なもので可逆的だ
退却の時に新しい何かが生まれる
たとえば新しい人間関係も生まれるし
新しい趣味に出会うこともある
つまり新しい自分に出会うこともある
困難を乗り越える思考は
別の見方ができないかと
視点を変更してみることである
困難に際しては
思考は固まりやすい
同じ回路を何度もめぐるものだ
視点の変更ができないなら
一定の視野狭窄があると考えていいだろう
多角的な検討ができているか
多面的な評価ができているか
裏側からの評価はできるか
思考実験として否定もするし肯定もするし斜めからも見ることだ
現実を解釈するとはそのような多面的な思考なのだと体験すること
それが困難を乗りきる思考である
写真をぱちりと一枚撮っておしまいというよりは
たくさんの角度から写真を撮ってコラージュを作れば
その一枚の限界を超えることができるはずだ
写真をコラージュするよりは
手書きをコラージュすればもっと柔軟な表現ができる
ピカソの絵のような自由さだ
たった一枚の写真で
これが真実だとか
これが現場だと言い切るのはあやしい
そんな感覚で
いくつもの写真を使って
「現実を再構成してみよう」
それが困難を克服する思考である
*****
現実は本当は客観的ではない
構成的といってもいい
主観が構成するものなのだ
だから何度も現実を再構成してみよう
そのうちあなたは成長する
苦しい現実を超えることができる
たとえば
http://shinagawa-lunch.blog.so-net.ne.jp/2006-12-16-26
躁うつ病
あるサイトから採録。
*****
躁うつ病という病気についてはじめに躁うつ病は、クリペリン(ドイツの精神
医学者、1856~1926)により概念化されて以来、ずっと呼び慣わされてきた疾
患名でありますが、現在では、すべてにわたり持続的な意味をもつ気分
(mood)という用語がより適するとして、気分障害という語が用いられるよう
になってきました。
しかし、この章では、従来の「躁うつ病」の病名を使用することにします。
躁うつ病(気分障害)は、統合失調症と並んで内因性精神病の一つとして重要な疾患で、一卵性双生児(遺伝素質が同じ)の一致率が高い事から、遺伝疾患であ
ることが広く認められており、初発年齢は、おおよそ思春期以降で、女子の方
が男子よりも多いと言われています。
また、同じような症状が、アルコ-ルや薬物の乱用、脳の外傷や脳腫瘍などに
よって見られる事もありますが、ここでは、心理的な原因や原因不明で起こる
心の病気としてとり上げたいと思います。
感情とは誰もがもっている、喜び、怒り、哀しみ、楽しさなど心の中に湧き出
してきた感覚を意識したものです。また持続的で、弱い漠然とした感情を気分
と言い、爽快気分、抑うつ気分などがあります。
現在の社会では、リストラ、就職難、受験などにより色々な悩みや、ストレス
を抱える人々が増え続けており、躁うつ病(気分障害)を持っている患者の数
は、確認されているだけでも、軽症を含め、おおよそ全人口のうち35%の人
が1度は経験すると言われる程で、さらに近年病院を訪れる人数も増加傾向に
あるようです。
2つの基本的な気分の異常として、うつ病と躁病があり、その症状は、精神病
的水準にも達しており、正常な過程とは著しく異なり、早期治療を必要としま
す。
うつ病の症状うつ状態を起こすのに十分な心理要因がある場合は、反応性うつ
病または抑うつ反応と言いますが、近年では、内因性うつ病の発症にも環境要
因が重要な役割を果たしていると考えられていて、両者は必ずしもはっきりと
区別する事はできません。
うつ病は、女性の方が起こりやすく(女:男=2~3:1)、おおよそ20代
後半から30代にかけて、発症すると言われています。多くのうつ病患者は、
抑うつを訴え、その初期症状に見られる特徴として、まず不安や焦燥感(イラ
イラ)として現れ、さらに、疲れ、不眠、呼吸困難、頻脈、または頭痛などの
痛みなどを訴える事があり、日常生活もままならない場合が多く見られます。
時には、絶望のあまり、自殺をしてしまうこともあります。
特 徴
精神的症状
抑うつ気分、昜刺激性、不安、快感消失症、興味の消失、熱意の喪失、感情的
結びつきの減弱、対人関係における引きこもり、死へのとらわれ、自己批判、
無価値観、罪悪感、悲観、希望のなさ、絶望、集中力の乏しさ、記憶の障害、
うつむきかげんでゆっくりとした動き、涙もろい、悲しげな顔がみられます。
身体的症状
不眠または過眠、食欲不振または食欲亢進、乾燥した口と皮膚、便秘、体重の
減少または増加、動悸、めまい、息切れ、熱発、冷感などの自律神経の失調な
どを伴います。
躁病の症状躁病は、気分の高揚が強く、たいした理由もないのにはしゃぎ回
り、そのあまりにも気分が良すぎる事から、症状を訴えない事が多く見られ、
生命感にあふれ、表情が明るく、自信過剰となり、自分の行動の行き過ぎ(早
口、大声など)や乱暴・暴言に気付いていない人も中にはいるようです。特徴
として、妄想もよく見られますが、自分が金持ちやどこかの国の大統領だとい
った誇大妄想や、自分は異性にもてるといった恋愛妄想など、その症状は様々
です。発病率は、うつ病と比べると少なく、うつ病のおおよそ6分の1から7
分の1と言われています。
特 徴
興奮、高揚した気分、大声で話す、多幸感、自己中心的、要求が多い、情動不
安定、誇大性、我慢できないなどの特徴があり、悪化すると支離滅裂な会話、
判断力の乏しさ及び金銭感覚の欠落、無秩序、妄想または幻覚などが見られま
す。 躁うつ病の経過躁うつ病は、一般的には、躁うつの状態が反復して見ら
れる事が特徴とされていますが、躁うつのどちらか一方が単独に現れる事もあ
ります。
経過としては、主として次の三つがあげられます。
単発性 … 躁またはうつの状態がどちらか1つだけのもの
周期性 … いずれか一方(躁病なら躁病ばかり、うつ病ならうつ病ばかり)が
周期的に繰り返されるもの
循環性 … 躁とうつの状態が交互に繰り返し反復されるもの
躁うつ病の特徴また、躁うつ病の特徴としては、次の三つが主なものです。
生命感情の障害を示す病気で、躁うつ病以外の精神障害でも、同じような症状
が見られるが躁うつ病ほど著しくない。
周期性の経過をとり、正常にもどる時には、ほとんど障害を残さない。
予後は良好で、自然に治る事もある。ただし、うつ病で長い年月にわたって、
症状が持続する場合は、身体的持病(高血圧症、胃潰瘍、糖尿病、神経痛な
ど)の合併、あるいは持続的なストレスなどが見られる場合がある。
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以上で、躁うつ病についてのおおまかな説明を終わりたいと思います。躁うつ
病は、軽い症状のケ-スだと見落としやすく、診断が大変難しい病気です。そ
の分、変化を感じた家族の方などの協力(相談など)、早期発見がとても大事
になってくるのです。
参考文献
「加藤伸勝編、目でみる病態-精神科-」
「大原健士郎編、「心の病」その精神病理」
「デビッド・A・トム編、レジデントのための精神医学」
躁うつ病になりやすいタイプ(人)と躁うつ病をチェックするポイントはじめ
に前ページで、躁うつ病について、おおまかな説明はご紹介させて頂きました
が、今回は、躁うつ病になりやすいタイプ(人)と躁うつ病をチェックするチ
ェックポイントについて、ご説明させて頂きたいと思います。
躁うつ病になりやすいタイプ(人)これまでに、いろいろな精神科医によっ
て、躁うつ病になりやすいタイプ(人)には、いくつかのパタ-ンがあること
が報告されています。
中でも有名なのは、1921年に、ドイツの有名な精神科医クレッチマ-が、
人間の体型を四つのタイプ(①痩せ型、 ②肥満型、③筋骨型、④発育異常
型)に分類し、躁うつ病は肥満型に多く、性格は循環気質(躁うつ気質)であ
るとしたことです。
循環気質の特徴には、
人付き合いが良い、親切である、親しみやすい
朗らかである、ユ-モアに富む、激しく興奮しやすい
物静かである、落ち着きがある、物事を苦にする、柔和
などがあり、中には陽気で快活で、人付き合いの良い型と孤独で引っ込み思案
の型とがあるとしています。
クレッチマ-は、これらの特徴が、著しく異常なまでに達したものを循環病質
と名づけました。
しかし、躁うつ病の病前人格には、これまでに述べた循環性格のほかに、思い
込みが激しく、頭の切かえが難しい等の執着性格が重要であることが、わが国
の下田光造(1950年)によって指摘され、その後に、ドイツの精神科医テ
レンバッハも、ほぼ同様の性格をメランコリ-親和型人格と呼んでいます。
メランコリ-とは、ドイツ語でうつ病という意味です。この型の人は、まじめ
で几帳面な人が多く、いつも組織や構成の整った状態の中で、密着して生きよ
うとしています。
具体的には、仕事や周囲の人たちとの関わりの中で、はっきりと見られる事が
多く、組織内での自分の評価がしっかり保たれていればいいのですが、このよ
うな状態が保たれない状態になった時に発病する事があります。
うつ病の発病に関する原因として次のような事が挙げられます。
個人・家族に関する出来事
近親者・友人の死亡、別れ
病気、事故
家庭内での問題(けんか・浮気など)
結婚、妊娠、出産、月経、更年期
引越しなどによる環境の変化
財産の喪失
職場などに関する出来事
定年
仕事による過労
家庭の経済問題
職場の移動(転勤、配置転換、転職など)
昇進
退職(リストラも含む)
職務内容の変化
仕事上の失敗
病気による欠勤と再出勤
昇進試験や研修
躁うつ病のチェックポイント躁病のチェックポイント
そわそわして、落ち着かなく、電話をかけたり、よく外出したりする
原色の服を着たり、アクセサリ-等で身辺を飾ったり、派手な化粧をする
1日に何度も買い物に行く(お金の使い方があらい)
よく食べる
あまり寝ない(早く目が覚める)
異性に強く関心を示す
誰にでもよくしゃべりかける
怒りっぽく、よくけんかをする
偉くなに威張ったり、ありえないような大きなことを言う
いきいきとした表情をしている
頭の回転が速く、要求を押し通そうとするなど
以上のような事が、躁病になると認められます。
うつ病のチェックポイント
身体的訴え
身体不定愁訴
頭が痛い
お腹が痛い
胸が苦しい
よく食べる
めまいがするなど
自律神経失調症
体が重く、疲れやすい
眠れず、起きるのがつらい
口や喉が渇く
手足のしびれを感じるなど
心理的訴え
抑うつ気分(感情)
自信がない
生きている意味がない
将来に希望が持てない
死にたいなど
思考制止
物忘れ
人と話をしてもパッとしない
新聞やテレビを見てもパッとしない
頭の回転が悪く、考えがまとまらないなど
以上のような訴えが、うつ病になると認められます
躁うつ病の方には、以上のようなチェックポイントが多く認められますが、多
く認められるからと言って「病気?」というわけではありません。
病気であるかどうかということは、チェックリストなども参考にして、医師が
専門家の立場から決めることなのです。
ですから、周囲の方が変化を感じた時は、専門医への相談を勧めることが大切
です。
さいごに躁うつ病について、どういった病気なのか、おおまかにはご理解頂け
たかと思いますが、躁うつ病は、決して珍しい病気ではありません。
病気の再発を減少させる為にも、予防と治療に一番大切なのは、躁うつ病に限
らず、『病気であることを自覚すること』です。
これは、患者さん本人だけの問題ではなく、家族の中にも「家の子にかぎって
…」「自分の身内にかぎって…」等と主張する人がいます。
躁うつ病は、精神的なストレスによって大きく左右される病気です。
患者さん本人と家族が、十分に病気を理解する事も治療につながるのではない
でしょうか?
以上で、躁うつ病についてのご説明を終わらせて頂きますが、皆さまに少しで
も参考になれば幸いです。
参考文献
『「心の病」、その精神病理』
「現代臨床精神医学」
法律操作と心理操作
所詮あいては人間であるから
説得の最終場面では心理操作も大切になるらしい
どれだけのお金を出させるかは
法律が決める面もあるけれど
相手が諦めたり観念したり時間の利益の方が大きいと判断したり
いろいろな側面がある
多くは恐怖を与えて心理操作することである
それは騙しとか恐喝とかそんなものと無限に近い
バストは見せるのに乳首は隠す
ニップルは隠すのはなぜかというと
ニップルは性的興奮を表示してしまうからである
一般に個体の性的興奮を表示する部分は隠すことが多い
猿は発情すると陰部とおしりが真っ赤になるのでよく分かる
人間は発情を知られてしまうと
配偶者選択が弱くなってしまうので不利である
だから気付かれないようにしたい
また逆に発情を装うことも高等な戦略となる
そのためにも発情表示部分を隠蔽することには有利さがある
バスト全体に関しては
生殖機能に関して豊かな可能性があると表示しているので
これは誇示した方が有利と思うらしい
一瞬の発情は You are OK なので隠したい
持続的な妊娠可能の表示は I am OK なので誇示したい
という比較対照になる
だからニップルとラビアは隠す
腰や胸の豊かさは誇示する
*****
したがって
ニップルをその部分だけ表示するとか
むしろ拡大表示したりすれば
文化の転換になるだろう