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「若者は幻を見、老人は夢を見る」



原美術館のすぐそばのキリスト教教会である。
写真では見にくいが、
「若者は幻を見、老人は夢を見る」と、巨大なメッセージである。
キリスト教に詳しい人ならばピンと来るのだろうか。

普通考えると、
若者は未来の夢を見るのがよい。
幻という言葉を使うなら、
若者は未来のビジョン(幻)を見るのがよい、という程度の表現だろうか。

老人が見るのは過去の夢でよい。
また、老人にも、人類の未来の夢を見てほしいものだ、種としての未来の夢である。

しかしそんなことではないらしい。
「若者は幻を見、老人は夢を見る」とは。
いまのところ、謎である。

〈追記〉2007-5-12
「若者は幻を見、老人は夢を見る」
ヨエル書 3章1~5節
使徒言行録 16章6~15節

旧約においては、聖霊が注がれるというのは、王とか預言者といった特別に神様に選ばれて神の民を導く者として立てられた者にだけ起きると考えられていました。しかし預言者ヨエルは、終わりの日には、ある特別の人だけではなくて、老人にも若者にも聖霊が注がれ、皆が幻を見、夢を見、預言するようになると語ったのです。
私共キリストの教会は、ある特定の者にだけ聖霊が注がれているとは決して考えていないのです。キリストを信じ、キリストを愛し、キリストと共に生きていこうと志す者には、すでに聖霊が注がれている。
聖霊が注がれている「しるし」である。
老人がボケて夢を見ているということではないのです。若者が荒唐無稽な、自分勝手な幻を見るというのでもない。

青年は幻を、老人は夢を

  神は言われる。
  終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
  すると、あなたがたの息子と娘は預言し、
  若者は幻を見、老人は夢を見る。
                        (使徒言行録第2章17節)

  人の知恵が行き詰まったとき、必ず夢がさめている。
    人の力が失せる時、必ず幻が消えている。
    夢は老人を若がえらせ、幻は青年に前進する力を注ぐ。

  民であろうと、国であろうと、家族であろうと、個人であろうと、
    何事によらず――夢を失い、幻を見なくなった時、
    すべてにおいて下降線をたどるようになる。

  その夢を誰が与えるか、その幻を誰が見させてくれるのか。
    幻を、夢を与えるのは神であると――聖書はそう告げている。

  神が見させる幻と夢――それを頂くのは、神を信頼し、神を愛し、
    神に従おうと志し、日夜神の御心はどこにあるかと
    謙虚に探りつつ祈る人たちである。 
                              (作: 飯島正久)



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巨人第37戦目

今日は久保が打たれて巨人敗戦。
小笠原も連続試合安打ストップ。
こんな日もある。
もう少し選手の入れ替えを頻繁にして、
主力を休ませたらいいという意見に賛成。
だけどそんなに甘くないか。



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巨人第36戦目

川上を打って勝利。内海好投。
小笠原が2ホーマーを含む4打数4安打、
連続試合ヒットは23にのびた。
中日としても、川上が不調ならば仕方がないだろう。



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謎の提示

問題は何か。
解くべき疑問は何か。
謎は何か。
それをまず提示する。

そしてその解法を説明する。

それが読みやすい文章である。

しかしながら、わたしの場合、謎が解かれたのは20歳で最後だった。
無論、謎は山のように残されているのだけれど、
解かれていないので、どうしようもない。
私が独自に謎を解いたこともないような気がする。
情けない。
その辺が私の明らかな限界である。



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町田康詩集

んー、すごい。
これが才能というものか。

私とは発見の内容が違う。
しかし表現の仕方は参考になる。



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うつとそう

躁うつといえば病気の話になってしまうが、
そこまでは激しくない段階のことである。

うつ傾向とそう傾向といえば穏やかである。
わたしの場合は、躁状態の場合には、仕事を向かっている。
うつ状態の場合には、文章を書いたり、つまらない読書をしたりしている。

そんな様子なので、
私が書いている時はうつ状態である。
書かれている内容もうつ傾向のものである。
今回、仕事が軽くなって、いい機会なので、
これまでのあれこれを文章にまとめておこうと思ったのだが、
うつ状態のときにそんなことはできるはずがなかった。

しかしこのあと元気が出てくれば、
私は仕事に向かうはずであり、
いつまで経っても、躁状態の私の文章は残らないことになってしまう。
原理的にそういうことになる。

困ったものだと思う。



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野田弘志展

日本橋高島屋で。
野田弘志は精密写実の人。
たとえばブドウの精密な描写、ため息が出る。
何の解説もいらない。
子供でも驚嘆する。

隣の会場では、かな書道展。
これもすばらしい。

精密描写といい、かな書道といい、
長い道のりの果てに到達した地点である。

このところ読んでいる大江健三郎や丸谷才一の勉強ぶりと合わせても、
ひとつの人に長い時間を捧げた人たちの達成には
脱帽である。

振り返って、我が身の貧しいことを恥じるのだ。
私は一体何をして時間を過ごしてしまったのだろう。
それがいまとなっては悔しい。
少年老いやすく、学なりがたし。古くからいわれ、実際にその通りであった。

しかし私の人生はまだ続く。
一体どうしたらいいのだろう。
いまさら。
何もしないで過ぎてしまった時間は大きすぎる。

嘆いてばかりいないで、
自分のできることを少しずつ。
公文式である。

学習塾の公文式には少しだけコツがある。
できないことを次々にトライしてると疲れてしまうので、
できることを何度も練習して習熟し自信を持つ。
そのうちに次のステップが自然とできるようになっている。

私も次のステップを焦らないで、
いま自分にできることに専念しようではないか。



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大江健三郎・再発見 すばる編集部・大江健三郎 2

知とか知識というもの、あるいは文化に関する知識をひけらかす人たちは、
とても退屈である。
経験を通して知識を再表現するのでなければ、
知識は意味がない。

経験と知識が結びついているような言葉

つまり、
生活の中で経験と知識(または洞察)が結びついて、
ぴかっと光る瞬間、
これを再体験したいのだ、読者は。

そのプロセスを飛ばして、
知識だけを提示されたのでは、
あまり面白くないのだ。



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大江健三郎・再発見 すばる編集部・大江健三郎

これはとても面白い。

大江健三郎という人はとにかく大変な勉強家だということが
分かる。
丸谷才一とか、大江健三郎とか、一体どのようにして読書して、
その内容を吸収しているのだろう。

私などは人生は短すぎると思うのだけれど、
このような傑出した人たちにとっては、人生は短すぎることはないようだ。

これは井上ひさしの文章で見た一節だけれど、
過去の偉大な人たちが何を読んで考えたのかと言えば、
いまの私たちよりは不利な環境にあるはずである。
だから、何を勉強するとか、読むとか、そんなことが大切なのではない。
生きている中でどのような態度で生きているかということが大切なのだろう。
そんな趣旨のことだったと思う。

話は元に戻って、「大江健三郎・再発見」の中で、

自分にあった方法を見つけること、
自分にあった仕事を見つけること、

そんな一節があった。

なるほど、そうだと思ったのである。

たとえば、かなり若いうちならば、
ある組織の中で指導的な地位を得たいと願えば、
自分にあった方法だけ、自分にあった仕事だけでは、
将来に希望を抱くことは難しいのではないかと思う。
ある程度妥協も必要であり、
また、若いのだから、経験が必要なはずで、
その意味では、広く体験してみることに意味があるだろう。

(ピアニスト、マルタ・アルゲリッチは、若い頃、
私には経験は必要ないと豪語したらしい。)

しかしその時期も過ぎて、
あとは静かに生きればいいと思った時に、
自分にあった時間の過ごし方、
自分にあった仕事の仕方、
そのような点についてある程度わがままになったとしても許されるように思う。

流儀といえばよいのだろうか。

要請されることをこなすのではなく。
自分に合ったことをやる。
それはいいことだと思う。

いままで私は無理をしてきたように思うのだ。
もっと自分を甘やかしてもいいと思う。



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井上ひさしコレクション「ことばの巻」

索引を作る

本を読む時の工夫として、
書き込みをする、線を引くの延長として、
詳細な索引ができるように、読書中に見つけるごとに、
ページを書き込んでいく、というものがあった。
実はそのような読書はしたことがない。
多分、とても有効な方法であると思うのだが、
そのようなノウハウを教えてくれた人はいないし、
端から見てそのような読書の方法を実践していた人はいないように思う。

コンピュータで処理できるテキストデータなら、
索引は簡単なことだけれど。



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巨人第35戦目

木佐貫は好投したけれど、点が取れず、敗戦。
阪神が連敗の泥沼から脱出。
藤川は昨日の直球勝負から一転して、
変化球を多用しつつ、9回をゼロで抑えた。
巨人の9回は、打順が8、9,1番だったので、
残念ながら、凡退だった。
木佐貫はこれでいいのではないかと思いました。

9月と10月にヒーローになるのは誰か、
それを想像しながら、楽しんでいます。

なにしろパリーグではソフトバンクが強いのに、
プレーオフでは負け続けている。
それを参考にして、いままでとは違う調整が必要だ。
最近巨人は強いけれど、
ソフトバンクと同じにならないようにと願う。



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井上ひさしコレクション「人間の巻」岩波

厚い本だけれど、切れ切れの集成なので、
あっという間に、面白く読めた。
気分転換にはちょうどよい。

よく勉強していることはもちろんだけれど、
その上で、みんなに面白いと思われるだろう点を
みごとにすくい上げて文章にしている。
その着眼と、料理の仕方が、やはり抜群だと思う。



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高橋康也「道化の文学」

中世は「死の舞踏」のイメージ。
人生とは死(骸骨)によって導かれる阿呆踊り。
恐怖と虚無的シニシズム。

その後は「狂気」のイメージ。
フーコー「狂気の歴史」
治療か収容か閉じこめか
理性主義が固く確立されるに従い、
狂気は排除される。
トマス・ウィリス「(狂気の治療には)威嚇と、縄と、鞭が必要である。(狂人は)医術や薬によってよりも監禁室における体罰と重労働によった方が、より早くより確実に癒される」

そんな、軽い基本枠組みを作っておいて、
ルネサンス期に入り、「道化」のイメージ。
本書では、エラスムス、ラブレー、シェイクスピア、セルバンテスを取り上げている。
何か中心になる仮説があるというのではなく、
時に文化人類学、構造主義のような言葉を用い、時に精神分析の言葉を用い、
要するにこの本が書かれた当時の流行を取り入れながら、
書かれている。
特にシェイクスピアの項目は、セントラル・スキームを検証するというのではなく、
シェイクスピアについての雑学であり、導入であり、
いろいろなヒントを含んでいて、ここから出発しようかという感じのもの。
最後のセルバンテスについては、「道化」についての、
見通しのよい総論となっていると感じる。

主人と道化の二人組が文学史にどのように現れているか、
そのような切り口で見ると、こんなにも面白い。

全体に、同じことをもっと易しく言うこともできるのだろうけれど、
それでは、全体の香りが失われてしまうということなのだろう。
そのような語り口をエンジョイするための本なのだ。

高橋先生という人が、
こんなことを考え、書いて、講義しつつ、
人生を生きたのだなあと感慨を持つ。



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韓国映画 恋風恋歌

韓国映画、恋風恋歌。
すれちがいものの一種。
人々はこうしてすれ違っているのだなあと
しきりにあれこれと思い出される。
これが人の世の中か。

焚き火の場面。
小学生の頃、ぱっとしない女の子だったけれど、
詩の時間に、

炎がゆれている、
少しでも大きくなろうと、
少しでも上に行こうと、
ゆれている

なんていう感じで書いた人がいて、
今でも記憶に残っている。

済州島はオールインで開発にまつわり陰謀渦巻く場所、
今回はうって変わって、静かな、ソウルに取り残された、田舎。

田舎に住みたいと思う。
都会はこれから夏にかけてどれだけ暑いのかと
いまからうんざりしている。

そしてまた都会の人々の心の余裕のなさにあきれ果てる。
都会で過ごすには、誰とも付き合わないことだ。



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巨人第34戦目

阪神に連勝。これで阪神は泥沼の9連敗になった。
ゴールデンウィークにひとつも勝てなかった。
悪い時はあるものだ、こんな時こそがまんだし、
こんな時そこ応援だ、阪神ファン、がんばれ。

悪い時の辛抱が人間の真価である。

藤川を打ってしまったのだから、恐ろしい打線である。
9回、高橋由伸がトップバッターとして安打出塁、
代走鈴木が盗塁、ワイルドピッチあり、
谷が同点打、二岡が逆転打、左バッターはダメだったが、
右バッターが勝負に勝った。
藤川は8回は力強く抑えたものの、9回は力勝負で負けたようだった。

私は谷の打席に痺れました。

NHKBSでは鈴木啓治が解説で何か話していたが、
ところどころで何を言いたいのか分からなくなるところがあった。
寛大になりましょう。
鈴木啓治は上原に不満があるらしく、何か言っていた。
なるほどとも思う。
鈴木啓治はまっすぐな人なのだ。
足をきちんと治して鍛えて、
それから一軍に帰ってくるべきだ、
怪我が治るまで抑えに回るなんて、
そんなことができるはずがないのだとの意味のことを
とてもまともに
言っていたように思う。



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没頭させてください

私がいま根本的に苦しいのは、
未来が閉ざされていることへの憂いではない。
未来などすでに捨てている。
必要なら何回でも捨てる。

それよりも、未来も過去も考えたくなくて現在に没頭しようとしているのに、
それができない。
そのことがただ苦しい。
なぜだろうと考えて、
それは過去と未来の清算がすんでいないからではないかと思い当たり、
そうすると過去と未来が一挙に現在になだれ込み、
自分では事態を収拾できなくなってしまうのだ。

多分、そのような構造的な要因が原因しているのではない。
ただ単純に現在に没頭できないというだけのことだろう。
単純に考えたい、最近はその誘惑も大きい。

人生は岸から離れてしまえば何とか漕いでいけるものだという、
長年生きたものとしての感想も持っている。

没頭したい。
すべてを忘れたい。
憂慮はあるとしても、
それを現実にどうすることもできないのなら、
忘れるしかないだろう。

活字でも映像でも身体活動でもいい、
忘れること、没頭すること。



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荒川洋治「詩と言葉」

これも本棚にずっとおいてあった本。
取り出して読んでみた。

昨日は午前中に虫歯の治療をした。
午後には仕事の打ち合わせをした。
しかも一日中ぎっくり腰を抱えて歩いていた。

午前中は頭が詩のモードだった。
本もよく頭に入った。

午後になったら頭は仕事モードになって、
本は頭に入らず溢れてしまった。

昼ご飯は住宅地でおしゃれな感じのランチを食べた。
隣で騒いでいた主婦の一団はSAPIXという袋を持っていて、
子供の塾の関係で集まったのだと分かった。
これってうんざりだなあと思った。

夜ご飯はサラリーマンの多い地域の居酒屋みたいなところで食べた。
隣でいろいろ語っていたサラリーマンは酒を飲んでいたせいもあるのだろうが
話が混乱してローマ帝政のことを話しているのに
ブルボン朝が出てきたりして一緒に話しているひとにからかわれていた。
ああ、これもうんざりだと思ってしまった。

どうせなら本が頭に入る頭のモードの方がましだと思う。
しかしそれでは世間を生きにくいのだ。

荒川洋治の本から抜き書きをしてみる。

一生の間に、一冊の詩集を出してみたい。そんな願いを持つ人は多い。詩を書かない人でもときにそうつぶやく人がいる。
仕事もした。成功もした。いい思いもした。いっぱいいろんなことがあった。でもいまひとりになったとき、ふと考える。これまでの人生で、ほんとうに自分というものがあったのか。ないのではないか。人のいうとおり、あるいはテレビや新聞のいうとおりの場所に、生き方に、しあわせがあると思って、それにそって生きてきたのではないか。自分の人生を自分で生きたと思っていたのに、そうではないのではないか。深夜ひとり風呂につかったとき、これまでの自分がまぼろしに思える。さみしいまぼろしである。そんなとき「詩集を出したい」という思いがこみあげる。自分のことばで、自分だけのリズムで、自由にうたいたい。ことばを残したい、と。

以上が引用であるが、そうだな、と思うのだ。
今日のサラリーマンの群れも、おのおの自宅に帰って一人になれば、そんなことも考えるものだろう。

「これまでの自分がまぼろしに思える。さみしいまぼろしである。」
そして、何という取り返しのつかない、まぼろしなのだろう。
すべて失われたあとにしか分からない、まぼろしの感覚である。

人生をしっかりとつかんでいない感覚、その残念無念な感覚があるとして、
詩集を出す、ことばを残す、そのことで、補えるものなのか?
そんなことはないと皮肉な感覚で思う。

ことばを残すことで意義のある人生に作り替えることができたと思う錯覚を
次世代にまで伝えることでしかない。

たとえば悲惨な人生があったとして、
そのままではその人の人生は骨折り損である。
なんとかして挽回したい。
そのためには、その体験をもとにして、言葉を残したいと思う。
無理もない。
本人の空想の中では、
その言葉に触れた、「理想的な読解力を持った読者」が、
みごとに著者のすべてを理解してくれて、
しかも、読者自身の人生の生きる羅針盤にもなるだろうと、
果てしもない夢想が展開しているのである。
そんなことはあるはずがない。
多分、誰も、読まない。
そして、読む人があるとしても、理解はしない。誤解があるだけ。
人生に対する理解は進まず、
いつでも再生産があるだけだ。

中学から高校にかけての読書の中ですべては作られるのではないかと思う。

たとえば、ゴールデンウィークが開けて、国語の授業が始まる。
きれいな言葉の詩が載っていて、読んでいるうちに、
眠くもなり、気持ちよくもなる。
昨夜の個人的な楽しみのせいで身体は重く、
午前中の体育のせいでとても眠い、
でも、若いので疲れを感じるよりは心地よい眠りに落ちる。
詩は多分そんな感覚で心の中にたたみ込まれるのだろう。
無害なものとして。
たとえば、刺繍のようなものだ。



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巨人第33戦目

今日は本当に楽勝。
何も言うことはない。
打撃陣がよく機能している。

こんなにも強いのだから、
育てながら勝つことを考えてほしい。

投手福田については見事に育てながら勝利した。

李のホームランはいいですね。
軌道がいい。
奥様を見かけたことがありますが、美しい方です。
李さんも奥様も幸せと思います。



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幸運は二度起こるのか?

会社をもう一度始める場合でも、
これまでのノウハウや人脈があるのだから、
ゼロからはじめるよりも簡単ですよね、なんて
言われてしまう。

そんなこともないのだがなと思いながら、
うんうんと話を聞いている。
そして、励まされたよ、なんて感謝もしてみせる。
心の中では、うつの人が励まされるときは、こんないやな感じなんだなと思っている。

場所を作り、人を組織し教育し、他社との関係をつくる。
まあ、会社とはおよそそんなものだ。
その一つ一つにどんなに偶然が関与しているかと、
遠い気持ちで思うのである。

第一回目、気持ちがフレッシュなうちには、こちらも必死だから、
相手の心を動かすということもある。
必死だから、偶然の幸運を呼び込めるということもある。
こんなことをいうと科学的ではない思考のように思えるだろうが、
いまの私の正直な気持ちは、これである。

二度目や三度目で、
幸運を引き出せるとは限らないのではないかと思うのだ。

さらに、人脈があるとは言いながら、
社会の中に生きていればライバルもいるし嫉妬もある、
よい評価ばかりではないことが一つの問題点である。
ゼロからの人間関係はゼロ+期待であるが、
既存の対人関係は、プラスもあればマイナスもあるわけで、
それはちょっとやりにくい感じもあるのだ。
特に一回目でかなり無理をして敵も作ってしまったのであるから、
難しいところもある。

ここまで書いてきて、やはり私は弱気になって臆病になって億劫になっていると感じる。
やたらにから元気を出しているのも間違いだけれど、
理由もなく臆病になっているのならばかばかしいことだ。

一回目で幸運を呼び込んだのであれば、
二回目はその幸運の感覚を持っているのだから、
もっと上手にできるかもしれない。
あるいは、待つことができるかもしれない。
二回目なのだから、少なくとも成功の水準を知っているはずだ。
そして、その水準に達しなかったならば、
さらに工夫する、さらに時間をかける、などで対処できるはずである。

一回目の成功を次回に生かすとは、そういうことだ。
一回目の幸運が二回目も起こるとは限らないわけだけれど、
幸運を当てにしていても仕方がない。

強みは、私は何が幸運か知っていることだと思う。



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二重の敗北

すべてを捨てたはずだ
無一物から出発するはずだった

しかし世間は許してくれない
結局過去の残骸をかき集めて
つぎはぎの昔の服を着て
また歩き出すしかないのだという

それこそが本当の敗北なのだ
わたしにとっては
二重の敗北なのだ
捨て身の企てさえあっさりと否定されてしまった
あなたのためですよと
訳知り顔で諭されて



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腐った煉瓦

詩を作るのは
煉瓦を積みようなものだと考えて
積んでみようとした

でも
煉瓦が腐っていたよ

日本語はすでに腐り始めています



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池澤夏樹詩集成

いまの私の心に飛び込んでくるのはとぎれとぎれの言葉だけ

なかにパンフレットが挟み込んである
池澤夏樹と須賀敦子の対談
これは面白かった

後書きで、
詩集は青春の記念に一冊あればいいという言葉が紹介されている。

ある人は、人生の始まりに一時期、
人生の終わりに一時期、
人は詩人になるようだと観察している。



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現実から退却

こういう状況に至り、
(どういう状況か簡単にはわからないと思うけれど)、
次の一手に窮してくると、
私の場合はどんどん現実から離れてしまう。
恐ろしいくらいだ。

過去においてもそんな場面があったので、
これは偶然ではないことが分かる。
このままでいいはずはないのだが、
一歩が踏み出せない。
そしてずるずると一日一日を浪費してしまう。
そのうちに、何かおかしな屁理屈も思い浮かび、
ますます現実から退却して、自分の内側に閉じこもるようになる。

閉じこもることで、世間に対する不都合は感じる、さらに自分としても不全感を感じる、
しかしその一方で、これがむき出しの人生というものではないかとも思うのだ。

それは死の感覚である。
死という行き止まりに直面したとき、人間は観念するしかない、
その場合に、多分、現在の私のように、呆然として、
ただ目の前を流れてゆく景色を遠くのもののように眺め、
すべては虚無で意味はなく、
この世のこともただの夢に等しいのだと、
自分に語り続けるのだ。

経験によれば、この状態は永遠に続くものではなく、
状況が変わり、目先のことに煩わされるようになると自然に消えてゆき、
自分にこんな面があったことさえも、すっかり忘れてしまう。

そんな振幅の中を私は揺れながら生きているようだ。

いいことは、退却するに際しては、特にお金がかからないことだ。
収入がなくなるのは困るけれど。



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世界の秘密

世界の秘密が開かれる時

それは物理学の秘密だけれど
物理学はまだ完成していない

物理学が完成していないのだから
世界を説明する科学はまだ完成していない

世界は秘密のままだ

人生の秘密は性の秘密に関係している

秘密を知っても応用は難しいものだった

果てしなく応用編が付きまとうのだ

そんなわけで
物理学も性も
二十歳の頃からちっとも進歩していない

もう秘密のなくなった世界には飽き飽きしているのだ

いつか秘密が開示されるのかと待っているのだが
いつまで経っても次の秘密は出てこない



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ビキ

東北の老人が赤ん坊を
ビキと呼んでいた

動物を
一匹二匹と数える
その匹かと思っていた

さっき本を本でいて
美姫
の語でもビキと読めると思った



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好きなだけうずくまっていればいい

うずくまっていたって
いいじゃないかと
本当は思っています。

億劫さを責めません。
臆病も責めません。

好きなだけうずくまっていればいい。



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終わりから再生へ

現在45億歳の太陽は、これから数十億年後に赤色巨星になって終わりになる。

一つの文脈だけにはまって、
その中で最適化するというのは居心地の良いことだが、
一方で精神を弛緩させる。

あるライフスタイルがずっと
続くと思えば、どうしても精神は弛緩する。

いや、これがずっと続くわけではない、
次には、全く新しいフェーズが来るのだと思えば、自ずから精神は緊張するし、
それに備えて様々な準備をしようと思う。

そんなひんやりとした感覚は
生きる上で誰にでも必要なのではないか。

石ころを見ていると、ずっと動かない。
その中心にある原子は、限り長い間そこにあり続けることだろう。

生命は違う。常に変化の中にある。
じっととどまっていることなどできない。
生きものであるのに、石ころのように振る舞ってはいけない。

常に前のめりで、一つの生の中でいくつもの新しいフェーズに入っていく。
そのように時間を過ごして、初めて潜在力を発揮することができるのだ。

一生のうちに、何回も「終わり」がある。
太陽系の誕生から消滅までも、何回も経験する。
そんな人生が良い。

*****
茂木健一郎 クオリア日記の一節を改編。

続けて言うとすれば、
命は「存在を続けること」ではなくて、
「経験すること」が大切なのではないかと思うのだが。

経験することを、
たとえば、魂の遍歴と考えて、この世で魂が何を見るかということでもよいし、
またたとえば、
DNAがこの世界への適応度を試しているのだと考えてもよいだろう。

*****
地球から木星まで光の速度で約45分だという。

太陽が45億歳だということは、
おおむね、地球は45億回、太陽の周りを回ったのか?

拡大し続ける宇宙のへりは、最初のビッグバンのときから
ずっと続けて拡張し続けているのか?

*****
命が時間の中で永遠ではなく、
変化を続けるものであるなら、
変化の時に苦しいとどうして意識は感じるのだろう。

意識はもっと変化を楽しめばよいはずなのだ。

いや、楽しんでいるはずである。
変化を苦しいと思うのは、
生命にとって例外に属するもかもしれない。

私の日常は
変化を苦しいと思ってしまう例外を生きているのではないか。
何かがずれているのだろう。
意識として本来の設定ではない。

コンピュータでたとえるとして、
長い間運転している間に、
設定がこっそり書き換えられているのではないかと疑う。

この億劫さ。変化に対する恐怖。

あのときも新しい環境に対する恐怖感が
私の意識を圧倒していたと思い出すことができる。
おかしなことに私の中にそのような恐怖の回路がある。
なぜそんな回路ができてしまったのだろう。
生育歴の中でなにかあったというのだろうか?



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ぎっくり腰の遅い回復

回復の遅いぎっくり腰である。
全身の筋肉活動も、代謝も、遅くなっているのだろう。
従って回復も遅い。

これから老年に至ればますます遅くなるのだろう。
さらに、困難は複合的になってゆくのだろう。

今回は虫歯とぎっくり腰が因果関係なく併存しているのだが、
たとえば、ぎっくり腰で寝たきりの時間が長くなると、褥創ができるかもしれない。
また筋肉が衰え、感覚が鈍くなるかもしれない。

あまりいいことを連想していないので書いても仕方ないのだけれど、
実際、年を取るということは、つらいことだ。

ただ、救いは、苦しみを感覚する主体も鈍くなるので、
あまり苦痛を感じないのかもしれない。
そうであって欲しい。



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四方田犬彦「ソウルの風景」2

「さまざまな視点を提示することが作家のモラルである」

「視線のひとつひとつに最大限の正当性を与えてやること」

「恨とは自分の席、自分の位置が喪われてしまったときに感じる痛みのことである。恨を自分の外側で解こうとすると、怨恨に終わることがあるが、これを自己の内側で解消すると内部の充実した創造的エネルギーに転じることができる。相手を許すことが大切なのは、それが内部で恨を解くことに通じているからである。真の許しとは、内側で恨が解けることと同じでなければならない。樹木は落葉の痛みを甘受してこそ、新しい生命を手にできるのではないか。」

*****
自分の立場の他に、複数の視点を持つこと。
それは自分の苦難に際してであれば、大変つらいことであるが、
しかし、苦しみを乗り越えてゆくためには、本質的に重要である。

他人には他人の正当性があり正義があるのだ。
その深い意味を知る必要がある。
その地点に初めて、許しが生まれる。

そうした許しの末に初めて、しこりが解ける。

*****
自分の席が失われてしまうこと。
それは生物としての危機である。
だから一層つらい。

根元的な危機に際しては、
脳の回路としても、古い、根元的な危機回路で対応するだろう。
それは身体を巻き込むタイプの不安反応である。
それを何とか落ち着いた状態に戻すために生体は必死の反応をする。
早くなんとかしてくださいとの信号を送り続ける。
その点では、不安に耐えることが必要なのではなく、
不安を感じたら、現実的に対処することが大切だ。
この場合であれば、
再び自分の場所を見つけ出せるように対処する、
そのことが必要である。

自分の場所を回復する、
大切なことだ。

不安を忘れるために酒を飲んでも、
何も解決しない。

ただ時間が経てばなれてくるものだから、
現実をどうしても変えられない時には、
時間を待つ戦略も悪くない。

*****
「さまざまな視点を提示すること」そして
「視線のひとつひとつに最大限の正当性を与えてやること」
それはまさにコラージュの技法である。
コラージュの精神である。

主語を変換すること。
時制を変換すること。

思考実験として、複数の立場からの言い分、感じ方を登場させること。

必死に、相手の立場になってみること。



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栃東引退会見

大関栃東が引退を決意して記者会見をした。
気力がなくなったからということらしい。
頭痛がする、脳梗塞の所見があるなど、気になることも語られていた。

脳梗塞や頭痛のことは大変気になることで無理をしてはいけない。
それだけで充分な引退理由である。

しかし会見の様子は、それだけではなかったと思う。
心理にある程度の狭窄が生じていて、
決断にあたって、周囲にはかなり分かりにくいような
思考なり感情なりがあったのではないかと考えさせられる。
といってなにも確たる証拠があるのではない。
栃東について何か言いたいのでもない。
よく知らないのだから。
私自身が前の仕事からの退却を決意した時とよく似ているからだ。
だから、多分、これは栃東についてのことではなくて、
自分についてのことだ。
栃東を話題にしておいて、自分を語ることだ。

どうしてもやむなくやめざるを得ないという
局面ではないのかもしれない。
やめると決断すれば人生の新しい局面が開けるかもしれない、
しかしそのことは周囲には理解しにくいかもしれない。
とりあえず、脳梗塞のことで説明すれば、賛同は得られるだろう。
しかし自分としても何か説明がおかしい。
これまでのすべての努力はどうなるのだろう。
横綱を目指して無理も重ねてきたではないか。
築き上げたものもある。
幸運に恵まれたこともある。

すべての工夫もすべての汗も、
これで終わりになる。
自分は何をしてきたのだろう。
こんな終わりを迎えるためだったのだろうか。
それならばあそこまで苦しむ必要はなかったとも思う。

いや、もう疲れた。
人生はこんなことではないはずだ。
新しい局面を切り開きたい。
自分の中に埋まっている別の側面を、別の可能性を、切り開きたい。
これまでの時間が自分の中に何かを成熟させてもたらしているかもしれない、
その可能性を探りたい。

そのように考えたと思う。

それは多分客観的に見れば、
重大な決断は少しだけ先延ばしにした方がいいですよとの
アドバイスになるのではないかと思う。

妙に重大な決断をしてしまったなあという
表情に見えたのである。

やめてみたらどうなるんだろうという気持ち、
わたしの場合には確かにあって、
むしろそれが理由の大部分であったようにも思う。

疲れていたとも言える、
どうしようもなかったとも言える、
退屈しきっていたとも言える、
絶望していたとも言える、
未来が見えなかったとも言える、
どうかしていたのだとも言える、
結局よく分からなかったとも言える、
そんな局面だった。



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