毒をもって毒を制する
原理があり、
古く西洋ではホメオパチーと言う。
同毒療法。
一般にはよく理解されないし、
患者さんによっては、
わたしはめまいがするのだから、めまいを止める薬を出して欲しいのだと
素直に考えている。
それは素直でいいのだが、
わざとめまいをひきおこす物質を少量使うことで、
めまいを止めるという不思議な技もあり、
しかし高度ではあり、いまどきの患者さんは「自分で理解したい」ので、
「理解しがたい技」はなかなか使えない。
全部任せてもらえれば、
いろいろとできるのだけれど、そんな時代でもないようだ。
むしろ、標準検査による疾患の確定、その後は学会標準治療による対応、
それが求められているようで、医者の腕も、標準が求められているだけのようだ。
そもそも保健医療では、標準的治療しかないのだ。
スーパーでも、青山や高輪や広尾のスーパーは高いのだけれど、
お医者さんは青山でも銀座でも値段が同じである。
それならば、土地が安い地方で経営した方がいいに決まっているのだ。
地方のお医者さんはみんなお金持ちではないか。
毒をもって毒を制する
の話に戻ると、
ある学会で、激しい「毒」をはく先生がいて、その日も盛んに吐いていた。
みんな気絶しそうになっていたのだが、
そこに、さらに「猛毒」の先生が登場して、
どうなることかと思ったところ、
不思議におだやかに収まったのだ。
先輩が言うには、これこそ「毒をもって毒を制する」であり、
「あのくらいの猛毒でないと無理だった」とのことだった。
同毒療法は生きている。
「毒食わば皿まで」というのもあり、考えると深い。
幾人もの尊い心
それでもおな耐えろという
なおも復讐をとどまれという
たぶん私ひとりならばとどまることはできなかったに違いない
しかし幸いにも私を理解し共に苦しむ人々がいる
大げさな言葉を使うならこれが奇跡なのだと思う
自分のことではないのに
苦しんでくれるこの現象を
どう理解したらいいのだろう
苦しみなどは考えてみればただそれだけのものだ
極端な話、忘れやすい心には何ほども残らない
ある施設では苦しみの果てに風船バレーなどで時を過ごしているのである
一方私に与えられるこの共感は何だろう
温かなこの固まりは何だろう
なぜ私などがそのようなありがたいものの恩恵にあずかることができるのだろう
なぜこの魂の浄化を実感できるのだろう
ここに至るには幾人もの物語がある
幾人もの尊い心がある
そして現在がある
苦しいことではあった
しかしそれを補って余りある啓示であった
人間であることはよいことだ
生きることはよいことだ
人の憎しみの一方に人の愛があり
私は深く神に感謝する
涙さえふさわしい
苦しみもいまは何ほどのこともなく
ただ朽ちてゆく枯れ葉のように認知されているだけだ
ボーアと迷信
コペンハーゲン学派のドン。
ハイゼンベルク、シュレーディンガー、アインシュタインなどと同時代を生きた。
ボーアの家の壁には馬の蹄鉄が釘で打たれていた。
科学者たちは中傷した。
彼らはボーアがこのような迷信を受け入れるとはとうてい信じなかった。
ボーアはいつも「迷信なんか信じていないさ」と答えた。
だがしかし、「たとえ迷信を信じていなくても、効き目はあると教えられてきたのでね」
万葉集の一歌とカルティエ
万葉集巻20-4311 大伴家持
秋風に 今か今かと 紐解きて うら待ち居るに 月傾きぬ
あきかぜに いまかいまかと ひもときて うらまちをるに つきかたぶきぬ
家持が作った、女が「待つこと久し」の歌である。
この歌は七夕の歌らしく、一年に一度しか会えないならば、
「今か今かと 紐解きて」の織女も分からないでもないが、
待たせている牽牛はよくない。
万葉集の当時、愛する男女は、同居していない。夜に男が女の家を訪れる。男は、自分が行かない夜には、女が何をしているのか知ることができない。
万葉の男はおおらかで、人妻に宛てての恋文もたくさん残している。私も他人の妻に恋をするから、他の男も私の妻に恋をしなさいと歌うものさえある。
その一方で、貞操帯のように、別れる時に、お互いの下着の紐を結び合った。次に逢う時まで、その結び目をほどかないのが愛の誓いであった。
そしてこの歌では、女が待ちきれなくて、「自分で紐を解いて」待っていたのに、月も傾いてしまったことだ、というのである。
怪しい。あなたが来てくれないから自分で解いたというのである。嘘をつけというところだ。
ここをあからさまに、あなたが来てくれないから寂しくて、他の男性と、の意味にとってしまってもいいし、万葉の世では多分そうだっただろう。しかし言葉の上では、「紐解きて」とだけ言っていて、さすがに、家持である。分かる人にだけ分かればいいという態度なのだ。「自分で紐を解いた」と言って、あとは俯いていてもいいのである。
貞操の観念の発達は、私有財産制の発達と並行している。
女にすれば自分の子どもであることは確かであるが、
男にすれば、誰の子どもか、確証はない。状況を読むしかない。
その表情、そのたたずまい、微妙な抑揚の中に、真実を読む。
私有財産制よりも、共同財産制の色彩の強い社会では、
誰の子どもかということは、あまり詮索されないだろう。
しても仕方がないし、趣味が悪い。
兄の子であっても、弟の子であっても、一族の子であれば、
同じ敷地の中で平等に育つといった事情もあっただろう。
そんな中でも、やはり独占欲はわいてくるもので、
相手の下着の紐を結んでやる時に、独自の複雑な結び方を考案する。他人には結べない。解いたら、そのことが分かってしまう。そんな結び方を考えては、あちらこちらの女の下着の紐を結んでいたものだろう。
現代では、あからさまな貞操帯がどの程度使用されているか、不明である。
しかし例えば、カルティエには「現代の愛の貞操帯」ともいうべき商品がある。
ブレスレットであるが、専用のドライバーが付属している。解除する時は一人でもできる。しかし、装着する時には、誰かに助けてもらわなければできない。片手では難しいように出来ている。
女が浮気をしたとして、相手の男にドライバーを回してもらうだろうか?そこまで卑屈な男に、女は興味を持続できるだろうか?多分、できない。
多分に心理的な貞操帯である。
だから、女と、浮気相手の男が、非常に程度の低い人間ならば、簡単に装着もできるのだ。その場合は、男としても、諦めがつこうというものだ。恋心も醒める。
一方、女性が男性に対して用いる、心理的貞操帯もカルティエは用意している。例えば、100万円の腕時計がある。一目でカルティエと分かり、値段も分かる。そんなものをつけていたら、新しい女は興ざめである。
女は自分の選んだものを身につけさせたい。腕時計でも、ネクタイでも。
男はカルティエをはずして、他の時計を着用する。そうすると、このカルティエは機械式で、しかも、設計上、すぐに止まってしまう。セイコーやシチズンならば、いつまでも動いてくれるのに、である。そこでオートワインダーを使って、腕につけていない時にも、巻き続けなければならない。それは自宅であってはならず、携帯するのもおかしなもので、職場か、そうでなければ、秘密の場所になる。
そこまでの事情を考えると、この腕時計はかなりやっかいである。
デザインに存在感があり、重量感があるのも、難点といえば難点である。ただ時間を知るためではなく、ステイタスを誇示するためでもなく、ある種の貞操帯なのだ。
そして男は何か理由をつけて、時計の装着を怠るようになる。女は愛の冷却を感じる。
歌に戻る。
今か今かと 紐解きて とはまたなんと愛らしい。自分の女ならば。そして他人の女ならば、なんとあさましい。
うら待ち居るに。この「うら」は、「うら悲し」「うら寂し」などと用いる時の「うら」と通じるものだろう。
家持の歌に「うらうらに 照れる春日に ひばりあがり こころかなしも ひとりしおもへば」があり、「うらうら」と用いている。
「はるるのに かすみたなびき うらがなし このゆうかげに うぐいすなくも」ここでも「うら」が登場する。
さらに時代はくだり、阿久悠作詞、山本リンダ歌、都倉俊一作曲、「うらら うらら うらうらで うらら うらら うらうらよ……この世は私のためにある」と、「うらら うらら」と歌うものまである。万葉から昭和まで、通底している。
うら待ち居るに とは うらうらして待っていました ということだろう。
こんなことを、職業歌人の家持が歌い、自分で万葉集に採録しているのである。
あなたにつけてもらった
カルティエのリングを自分ではずして
約束を待っていたのに
もう今夜は来ないのね
でもいつでも携帯を鳴らしてね
待っています
というところだろう
最後にもう一度だけ言うが、
わたしを待っているなら、
自分ではずすな!
歌と詩のあいだ
歌と詩のあいだ 和漢比較文学論こう 岩波書店
月を望んで、歌人は懐旧の情に耽り、詩人は二千里外の友を思う。
和漢の言葉の黄砂の上に成立する歌と詩。
万葉集から幕末の漢詩人までを視野に入れる。
漢語表現の受容と変容。
序説――「月」をめぐる和漢比較文学論攷
I 部 歌語と詩語
一 歌と詩のあいだ
二 「吹」と「ふく」――和習の背景
三 酒坏に花を
四 酒坏の月,水の上の花影
五 目に見ぬ花
六 道をうづむ花
七 餞別の扇
八 形見の鏡
九 和漢聯句ひろいよみ
II 部 漢文学の受容と変容
一 夢
二 唐紅に水くくるとは――業平の和魂漢才
三 『蜻蛉日記』と漢文学
四 聞き紛う音
五 蕪村の発句と漢文学
六 青頭巾の問い――江月照松風吹,永夜清宵何所為
七 成島柳北の青春
あとがき
*****
この手のものが一番好きだ。
漢詩は不思議なもので、
元の意味もいいし、
文字で書いたときの形もいい。
中国音もいいのだと思うけれど、
それは時代と地域によっても違うようで、
しかし日本語で読み下しても、とてもいいのが不思議だ。
それがいいのだと何度も教育されて、
そのような美意識が日本語の中に溶け込んでいるから、
日本語を読み書きするうちに、漢詩が好きになってしまうのだろう。
日本語にしても偶然いいのではなくて、
いいと思うように日本語の中に仕組みが仕込まれているということだ。
*****
しかしそれにしても、漢文学を受容し、日本的な美意識の中に取り込み、感動しているなどは、
ご先祖とはいいながら、見事なものだ。
漢方薬でもそのようなことは実はあって、
日本の漢方は、中国の漢方のそのままではない。
富山医科薬科大学では、
和漢薬と呼んでいる。漢方を基本にして、日本的にしたものであり、独自のものである。
本書の歌と詩のあいだにならって言えば、
漢方薬と、和漢薬のあいだということになる。
面白というべきか複雑というべきか、中間には朝鮮半島があり、
「チャングム」さんも漢方処方していて、おもしろかった。
脈診したり望診、舌診したり、結果として日本の現在と同じ名前の処方をしたり、
共通言語として通じる部分がある。
*****
最近は日本語の自由さをとても感じている。
横書きで書くことさえ承認すれば、
ヨーロッパ各国語も、カタカナでもいいし、原語のままでもよくて、取り入れられる。
各変化もないし、単数複数も気にしなくていいし、
名詞には男性も女性もないから気楽でいい。
原語のままで書いておけば、
日本語の中で一層際立ち、
何がポイントなのか、わかり易くなってありがたい。
機械翻訳でもありがたいと想うのは、そんな事情もある。
大事な単語さえ分かれば、大体は推定できる。
読むべきものを選択したら、あとは細かく検討すればいい。
そう思えば、かな文字というのは、大体は読み飛ばしてもいい文字となる。
漢字の塊と、カタカナの塊、そして英語の塊を注意すれば、大体は足りる。
日本語はかなり便利だと思う。
純化しようという圧力がないから大変よい。
中央政府そのもの、文部科学省そのものが、カタカナ英語を頻発して、
翻訳しようとする意志がまったくない。
そしてそれはいいことだと私は思う。漢語と英語をかな文字でくっつけていけば、
意味が分かるのだから、大変高級なのだ。
おおらかな気持ちでいたい
太陽は46億歳、寿命は約100億歳という。
他人に寛大か。
他人の心は変えられないし支配できない。
運命を受け入れるか。
あるがままを受け入れているか。
とらわれていないか。
別の考え方はできないか。
立ち止まって相対化できないか。
長く生きても100歳くらいだよ。
これですべてが終わりではない。
時間を待てないか考えてみよう。
明日まで待てば少し変わるかもしれない。
過去は変えられない。
未来を少しでもいいものにできないか考えよう。
イインダヨー と叫んでみよう。
アレロック そろそろ花粉
アレルギー性鼻炎の薬の中では
アレロックが比較的好きだ。
アレグラも比較的いい。クラリチンは効きが悪い。たくさん使えばいいのだろうか。でも眠くなるだろう。
バイナスも好きだけれど、速く効く感じはない。
ジルテックなどはもう昔の薬という感じがしている。
どの薬も、発売当初は、眠気が少ないアレルギーの薬といわれるが、
やっぱり眠いで終わる。アゼプチン、リザベン、オノンとか。
確実に効かせたいならセレスタミンだけれど、
プレゼンの前とか、大事なとき用。
フルナーゼ点鼻液は最終的には効くけれど、もっと早く効いてほしい。
昼に使うと夜に鼻が乾いている感じ。
個人的にはフルナーゼ点鼻、アレロック、セレスタミンでいい。
というような詳しい人がいて、いろいろ体験を聞かせてもらっている。
トリルダンは自閉症の子供に使ったとき特別な効果が一週間だけあったが再現性がない。
偶然だったのだろうか。
小青竜湯がいいとか、アタPがいいとか、ヒベルナがいいとか、いろいろな人がいる。
ヒベルナは沈静、抗吐き気、抗めまいなど、人によってぴったりの場合がある。特殊な例だろう。
アタPが衝動性抑制に効くことがあり、これも何かの体質によるらしい。
古い薬には味がある。副作用を上手に活用すると言ってもいい。
上司によるパワハラで精神障害、自殺
上司によるパワハラで精神障害、自殺という記事が
朝日夕刊に出ていた。
上司に人格を否定されることを言われたら、
精神病になるのか、病気って、なんなんだと思うだろう。
弱いだけじゃないかと思うだろうか。
しかし待ってほしい。精神病になるのではなくて、
精神障害になるのだ。
たとえて言えば、殴られたから青あざができるようなもの。
無理をして走ったから、捻挫したようなもの。
こういうのは、病気や疾病ではなくて、障害である。
diseaseではなくdisorderや、disabilityである。
精神科領域では、疾病概念として確定したものを除いては、なるべく障害概念で
考えていこうという態度である。
疾病概念としては、アルツハイマー病などがある。
障害概念としては、不安性障害、パニック障害、気分障害、など。
疾病には治療が、障害にはリハビリテーションが主に対応する。
統合失調症の場合には、陽性症状が疾病にあたり、
陰性症状が障害にあたると考えるのも分かり易い。
しかしそれはとりあえず分かり易いというだけで、
真実かといえば、問題がある。
陽性症状よりも陰性症状よりも前にある、ある症状が、疾病本体であり、
陽性症状は障害に対する反応であり、
陰性症状は残遺した障害であるとみるのもひとつの妥当な見方である。
甲状腺機能が亢進している場合、病気であって、治療を要する。
捻挫したという場合、人に押されたかもしれないし、自分で足を挫いたかもしれない。
いずれにしても、結果として捻挫しているわけだ。捻挫を病気や疾病とはいわない。
上司の心無い言葉で精神障害になり、自殺に至るという表現は、正しいのだろうか。
パワハラの言葉や態度で、心が傷つき、
不安性障害や気分障害になることはある。
捻挫と同じ。
しかしそのことと、自殺実行の間には、かすかだが隙間があるように思うのだが、どうだろうか。
これはかつて流行した、PTSDの議論と重なる部分もあるようで、慎重を要する。
急性腹症
急におなかを悪くして、
吐いたり、下痢したりしている人がとても多い。
ウィルス性のものもあるのではないかと思っている。
急性。
近くで急におなかを悪くしている人いませんかと聞くと、
いるいる、いっぱい。
「藻」から再生可能ガソリンを精製する技術が登場
*****
すごい
海でできるなら日本もできる
他者からのまなざしの局所的過剰
無名の隣人は他者のまなざしから逃れていられるが
有名な遠くの人は他者のまなざしに過剰にさらされている。
たとえば毎回のように女性週刊誌に登場してしまう。
日本における高学歴女性の自己実現の困難さと見る視点もあるが
他者のまなざしの過剰と見る見方もある
外国に行ってほっとするのはそのせいだろう
曾野綾子氏もそのような苦しみがあったとのことだ
連帯
それも大きく言えば自己責任なのだけれど
それではかわいそうだと思う
そんな文章があって、引用すると、
信用度の低い個人に貸し付ける銀行ローンを商品化してウォール街の大銀行に売りつける。証券化されたローンは、初めてマイホームを手に入れた市民がどれほどの愛着を抱き、ローン返済のためにどれほど懸命に働いたかを語らない。住宅バブルがはじけ、不良債権が続出しても、金融機関の関係者は市民の生活や苦悩など興味もない。一番の関心は年末のボーナス。中には数億ドルも手にする者が珍しくなかった。
というわけで、確かにこの局面では断裂したアメリカである。
どん欲で社会的連帯を意識しない知的エリート層たちのモラルの破壊と言われるのだが、
そうなのかどうか。
「死んだ金魚をトイレに流すな」
命の体験の共有とサブタイトルがついている
親が何気なく死んだ金魚をトイレに流すと
それを見た子どもが命を軽く見るようになるという。
そうかもしれない。
現代では命は一部分は操作できるものと考えられている。
しかしその重い命を生きて、一体何をすればいいのか、よく分からないままだと思う。
危ない橋を渡らないとメシが食えない
信用力の低い住宅ローン債権を証券化した。
その商品の危うさを充分に知っていた。
危ない橋を渡らないとメシが食えない。
だから「この橋は危なくないよ」と言いながら
誰よりも早く渡ろうとした。
(浜矩子、朝日新聞で)
損をした人たちも別に怒っているわけではなくて
自分の欲深さにあきれているわけです。
伸筋系を活用する
気持ちいいときは
体を充分に伸ばして弓なりになっちゃう
なんていう
確かに手足の伸筋系をのばすのは気持ちよさにつながる
てんかん大発作の時も充分に延ばすから気持ちよさも頂点に至るようだ
だから私は男の人には充分に突っ張ってもらうようにしているの
とのこと
そうか
逆に女の人にも充分に突っ張ってもらえばいいわけだな
誰にでも当てはまるわけではないかもしれない
すくなくともその人には当てはまりそうだった
しかしはっきりイメージできなかったので
少しだけ教えてもらえないかというと
はぐらかされた
伸展発作の状態でといえば
どうすればいい?
トンネルなどお散歩し いきはよいよい 天神様はどこじゃろな
トンネルなど お散歩したり 休んだりいきはよいよい かえりはこわい
天神様の細道じゃ
オスはメスと交尾後、不安が減り、リスクを冒す
ラットの実験、ドイツ、レーゲンスブルク大学
オスはメスと交尾後、
不安が減り、リスクを冒す行動をいとわなくなる
脳内ではオキシトシンが増えていた
これにより
オスは新たなメスを求める冒険に出て
自らの遺伝子をしっかり残そうとする
*****
いつまでもこんな記事が続くのだろう
自らの遺伝子を残そうとするのではなくて
そのように行動する個体の遺伝子が残る傾向があるというだけだ
異性にも子どもにもまめならば遺伝子は残るだろう
お疲れ様なことだ
*****
同じ論文でメスについて言及がないのだろうか
オスの脳のオキシトシンをメスはどう感じているのだろうか
ヒトのメスはラットのメスほど寛大ではないような気もする
*****
後尾のあとではリスクの高い株を買ったり冒険に出かけたりするわけだ
でもそれは結局新しいメスを探すためだなんて
まるで新聞記事のために付け加えたコメントみたいだ
(実際新聞記事だからそれでいいけれど)
交尾を禁止されると不安でイライラしたオスになるかと言われればそうでもないだろうと思うけれど
それは現代先進諸国で見られるだけだろうか
*****
メスとしては異国からの冒険者には興味があり寛大である人たちもいるらしい
英会話教師の例
それは生まれ育った同性グループでの順位付けが
一時的に停止される感覚があるからだろう
青い目には自分がとても魅力的に映ることもあり得るだろうと
信じられるのは不思議だ
五七のリズム
それからずれたときの
おもしろさがある
わざと短く終わってみたり
わざと長くつなげてみたり
ちょっと出し入れして
始末がつかない様子を演出する
最近のパニック障害
Gormanの仮説が有名
恐怖条件付けの脳機構
phobic avoidance
パニック障害のとき
SSRIを服用したとき
認知療法を施行したとき
それぞれで脳血流の変化を測定したりしている
母子分離ストレスの研究は相変わらず続いている
早期の母子分離を経験するとやはり多少過敏になる
これは牛若丸みたいなものかなと思ったりする
セロトニンが不足である
セロトニン・レセプターが過敏である
すこし方向が違うのだけれど
部分部分で違う方向に動いていると考えてもいいわけだ
Panicとひとまとめにしていうけれど
実際はいろいろな病像があって
周辺的な事情についてどの範囲でひとまとめにしていいのかは難しい
ずいぶん違う
DSM4では列記してある症状のうち4つ以上となっていて
4つというのはなかなか絶妙であるらしい
4つ以内だとだいたい1年以内に治療が終わる感じもある
例外は多いけれど
Barlowの誤った警報モデルが有名
具体的な恐怖の原因がないのに警報だけが鳴っている
これがパニック発作
海馬恐怖と
扁桃体恐怖
恐怖の内容を
言語化する事
明確化する事
これで大分治療は前進する
たとえば
地球は丸いというのは最近の人であれば常識である
しかし5千年前の人類の立場に立ってみたらどうだろうと考えてみる
するとたぶん地球は平たくてどこまで行っても平たいのだと考えるのではないだろうか
そう考えたくなる理由もあって
5千年前の人類を想像してみればずいぶんと考え方も感じ方も広がる
非合理的確信を
合理的思考や合理的反応に置き換えられないか考えてみる
不安だからどきどきするのか
どきどきするから不安なのか
悲しいから涙が出るのか
涙が出るから悲しいと思うのか
不安とどきどきと確信の三角形の悪循環
リラクセーション
認知の訂正
行動療法
がそれぞれの部分で効果がある
パニック障害と非定型うつ病の近縁性が言われている
さらに社交恐怖が近い
体をメタルで飾る人がいる
ピアスとかリングとか
攻撃性の亢進を思わせる
認知療法は前頭葉の血流を増加させる
そのことが治療効果に関係しているのではないかと推定されている
自己肯定感を引き出して増大させる事が有効である場合も多い
過剰に自己否定的な人がいる
怒り発作
怒りはときに大切
うつ病で休んでいるときの掃除
という話はいろいろと答えがあって
私などはできるだけ何もしないで休もうと言う事が多いけれど
患者さんによってはやや積極的に
散歩やスポーツジムや掃除を勧めることもある
特に身の回りの掃除は効果的と言う人も多い
毎日掃除をしても不都合という事はないのだし
家のどこかの一角には整理整頓を要するものがたまっている事も多いものだ
掃除機とかも気持ちがいいし
最近の化学ぞうきんとかも使ってみれば気持ちがいい
ぞうきんがけというとかなりの体力を使うけれど
そこまでしなくてもいい
しかしエアコンのあたりとか照明器具のあたりとか
普段は掃除をしないあたりも一撫でするだけでずいぶん気分が違う
身の回りがさっぱりすると
気分もさっぱりして眠れそうに思う
銀座松坂屋のとんかつ
ヒレカツ御前を食べた
ここは歴史が古いらしい事を書いてある
デパートではじめて大衆食堂を開いた
そのとき作った歌が書いてある
おいしく食べれば富士山が見えるなどの歌詞だ
沢山席があって自由に座っていいと言われる
自由に座る
あとで来た人たちが
自由でいいと言っているのに
隣の席に座ったりする
ヒレカツは丸いのが6つ出て来る
包丁で半分に切れている
一口にちょうどいい
ソースの他に
トマトケチャップがついてくる
試しに食べてみたら
なかなかおいしい
ヒレカツ自体は塩味もついていないくらいのあっさりしたものだ
キャベツは二人分くらいたっぷり出て来るので
おかわりの必要はない
お味噌汁はすこし甘みが強すぎるような気がするけれど
これはこれでいいのかもしれない
ごはんは軟らかめで
これは私にちょうどどいい
別の席では高齢の女性がゆっくりした英語で話をしている
食事が運ばれてきて
Have a good appetite.いただきます。
などと言って食べ始めた。
ゆっくりと区切って言ってもらえれば
私にも分かりやすいと思った
割り箸はいい物を使っている
家でも使おうと思ってお土産に持って帰った
外食はあと一年くらいないと思う
来年まで生きていたいものだ
松坂屋の階段の踊り場にいすが置いてあって
高齢男性ばかり4人がうとうとして座っていた
何か生き甲斐になる仕事なり活動があればいいのにと思った
この年齢層の人たちが消費活動なり生産活動なりするのが
日本の未来だと思う
結婚後と離婚後
結婚している限りは
裁判所からいくら稼げと命令される事もないのに
離婚したあとでいくら払えとか言われるのは不思議な事だ
結婚している間の方が大事なような気もする
新橋色
新橋とは東京の新橋のことですが、明治時代の
おわりごろ新橋の芸者がこの色の着物を愛用し
て、それが世間にも流行したことから色名として
こう呼ばれるようになりました。緑みのある青で
すが、従来の天然染料ではなく、欧米から導入
された化学染料によって染められたこともあって、
そのハイカラな感覚が当時の人にはとても新鮮
に感じられたようです。
Haruki Murakami: Always on the side of the egg
ドビルパン前フランス首相が「世界の共存 正義の理念こそ必要」と答えている
このような正義は容易に壁になり得るのだが
しかしまた卵を守るものにもなり得る
さらに現在誰かが抱いている正義の観念は一時的なものでしかないと知った上で
それでも正義を軸とするしかないという
卵を守る壁として登場して
卵にも沢山の種類があり
正義にも種類がある
その上のレベルでのすべての卵を守る議論はあり
その意味ではいま人々は近すぎるとも言える
春浅し 新聞ばかり たまりゆく
春浅し ビデオばかりが たまりゆく
春浅し 気がつけばまた 惜しき春
春浅し 老臭立ちて 絶句する
春浅し 亡き妻の日記 そっと読む
春の野は まだ子供らの 吐く息か
春浅し 古き畳に 本を置く
春の野の 向こうに見る 富士の山
春の昼 まだ眠りたい ひなたかな
春の日に 湯島の舞台 さんざめく
春の日に 義経の本 読んでいる
春浅く 小唄もひとつ ひねるなどして