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日米地位協定

日本にある米軍基地に勤めている米軍兵士が犯罪を犯した場合に
日米地位協定によって米国の法律によって米国の司法権によって裁かれる

殺人や強姦などの凶悪犯の場合には
日本側に身柄を引き渡すが
それ以外では身柄も引き渡さない

アメリカとしては世界中にある法制度が未発達で宗教も違う国にいて
その国の法律で裁かれていたのではたまらないということはあるだろう
しかし日本は、牛肉を食べたら死刑とか、そんなことを要求しているのではない

理性と良心に照らして米国人はどう考えているのか
米議会はどう考えているのか

むしろアメリカ側がどんな理屈で日米地位協定を合理化しているのか知りたいと思う
日本だけ特別とは行かないということらしいのだが
それは形式的なことであって
礼拝しないから死刑とか
なとんかの神様を侮辱したから死刑とか
そんなことを言っているのではない
ただ強盗とか強姦とかひき逃げとか
地域の住民が安心して暮らせない状況はおかしいというだけなのだ

ーー
そこから考えると
そんなにも粗悪な米兵がなぜ成立するのか考える必要がある

そして米兵が戦闘から帰国して苦しめられるPTSD

それでもなお徴兵志願する若者
そして女性まで

日米地位協定という窓を通して
世界の闘争と米国内の現実が見えてくる気がする



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紅ショウガ

最近いろんなもので付け合わせに出ているなと気になっている
牛丼
たこ焼き
焼きそば
天丼
豚骨ラーメン

特に人工着色料ではなく
梅干しの赤なのだという

ーー
正月にカレーを作ったときに
生姜を大きな輪切りにして入れて
ニンニクもたくさん入れた

一袋買うと結構たくさんなのだが
思い切って全部入れた

生姜はやはり食べにくくて
風味が出ただけで充分で
最後まで残った


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メンタル・トレーニング

メンタル・トレーニングでなにをしているかといえば

たとえば筋肉でたとえると
アキレス腱が切れるぎりぎりまで筋肉を使えと
教えたとすれば
もちろん力はたくさん出るのだけれど
アキレス腱が切れる危険が高まることになる

アキレス腱を保護しながら
筋肉を使う方法を教えているつもりなのだろうけれど
それだと最大パワーを出すことはできない

最大パワーを出して、しかも、アキレス腱を切らない方法は
難しいはずだ

ぎりぎりまで使うことと保護することは逆方向だからだ

メンタル・トレーニングでなにをしているのか、よく検証する必要がある


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微細な変性意識

たとえばその人は大事な人とつらい別れに至った
そのあとしばらく閉じこもる日々が続いたのだが
アフターでみんなでお酒を飲む機会があって
これが昔の私だったなと思い出して
飲んで騒ぐようになった

でも一眠りして起きたら泣いていた
悲しいから泣くという感じもなくて
ただ涙が出てひっくひっくといいながら涙を拭いている

涙のあとはまぶたが腫れるから
腫れをとってから化粧をしないといけないのでたいへんだ

ーー
そんな話
日常生活の中でも、
微細に変性意識が入り込んでいることがある

どれが変性でどれが変性でないか
判別するのも難しいくらいのもの
どれも自分だけれど
場面に応じての自分と言うくらいのもの

場面に応じて
どのような自分を出すかについて
コントロールしている部分があって
それがセルフ・アイデンティティ部分である
こんな場面ではこんな風に振る舞うのが自分という人間であるとコントロールしている

変わった人との評価が生まれるのは、
「こんな場面」で「そんなことをする」からで、
マッチングが奇妙だからだ

「気分をかえよう」というのも
意識的に微細な意識の変性を引き起こす作業である
そこでは微細だけれど意識の不連続が発生している

宗教的な儀式は意識の変性を引き起こす
意識的で体系的なテクニックである
呼吸法がはいっていたり
香りの調合が入っている
また集団の陶酔はしばしば利用される

宗教で孤独な修行と集団の修行があると思うが
意識の変性を引き起こすシステムの違いである

人間の意識は誰の場合にも変性が可能であって
多かれ少なかれそれを利用している

演じていると言ってもいいかもしれない
身についた演じ方であれば
それはひとつの微細な意識の変容を達成していることになるだろう

人間は誰でもいくつかの変容意識を持っていて
それをどの場面でどの程度発揮するかはその人のコントロール下にある
それをコントロールしている部分というのは
やはり人格の中でも特別なコントロール部分ではないかと考えられている

いろいろな役割を演じるとしても、
やはりその人らしいということだ


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夢は消えて年をとる

夢は消えて
年をとる

ーー
胃が食事を欲しがらない
むしろそっとしておいて欲しい
休ませて欲しいと言っているようだ

それに応じて体も休ませて欲しいと言っているようだ
筋肉が弛緩している

横になっていると自然に眠りに落ちる
うとうととして目が覚めると時計はずいぶん進んでいる

どこにも痛みはないが
力が入らない
疲労感は強くはないが
力が入らない

それでも空腹感はない
胃と体が休ませて欲しいと言っているなら
それでいいのかもしれない

正月の間
ずいぶん食べたような気もする

お腹がすくようになるまで待とう

脱水はよくないので
水分はとりたい
アクエリアスの買い置きが手元にあったので飲んでいる
弱っているときは少し甘みがあった方が飲みやすい

緑茶もいいものだ
体になじむ
ありがたいと思う



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先輩へ

あけましておめでとうございます
当方では今日5日から仕事が始まりました
時差ぼけのような感じで不快です。
耐性がありません。

こんなページで24回、39回などは
あるいは統合失調症系統の症状と思われる記述があります。

ここで台先生が面白いことを書いていて

さらに中井先生が
不思議な治り方をする患者が確かにいる。
隔離室に宮城道雄の「春の海」が聞こえてきたとき、すっと病い抜けした女性の報告が
川越市(埼玉県)の病院からあったのを覚えている。1982年の日本精神神経学会だった。

まだ抗精神病薬のなかった頃、私が医学部で教わった教授のうち3人は統合失調症を経験していた。
そういわれればそうだったかというくらいだった。本人も1人は公言していた。
どうやら、幻覚や妄想、少なくとも幻覚には、それに対する耐性が個人によって違うようだ。

ある工学部の大学院生は幻聴を訴えていたが、よく聞くと、高校時代からあったと言う。
当時と現在との違いは、それへの「耐性」だと語った。おそらく3人の教授たちも耐性が強かったのだろう。

と紹介していて、一番上で引用した「パソコン創生期」の記述も、「耐性」の問題なのかもしれないと思いました。
いままでどれだけのことが言われているかよく分からないがそのような視点はあるのかもしれない。
耐性の一方で自我違和感とかそんな言い方がどれだけ近いか遠いか気になるようなところだ

いまに至っても、中井が一番新しいとはどういう事なのか。
我々凡人ができることは何だろう。

ーー
疲れてくると私の場合は腰が張るような感じが出たりして不思議なものだと思います
とくに腰を使ってはいないのですが
正月中中断していた規則正しい生活をまず取り戻して
時差ぼけを解消しないといけないようです

正月休みのはじめはインフルで
終わりは時差ぼけのような不快さにつきまとわれて

最近は何かあるとぴったりと食欲がゼロになるのでこれも不思議なことです
頭では時間だから食べなければと思うのですが
全く食べたくありません
むしろ食べる前からのむねやけがあります

この症状ももう何度も繰り返してきました
つまり私の人生の危機的状況のたびにです

危機の内容も深刻さも人によって違いますから
小さいけれど私なりの危機と言うべきでしょうか。

20代には精神的に内省して悩んでいたと思うのですが、
30台40台となって次第に心身化して悩むようになったのだと思います。
これは成熟の逆です。

先日昔の自分を知る人に会ったとき、
昔は体が弱かったのにねと言われたりしました。
現在は仕事を休むことはほとんどありません。
ずいぶんと変わったものです。
何が変わったのか。
「耐性」が変わったと、ここでは言えるのではないかとも思います。
強くなった、鈍感になった、気にならなくなった、内在化した、友達になった、手な付けた。

思えば20代はずいぶんいろいろな病気をしていた。
風邪もきつかったし。
それからあと30年にわたって何が起こったのだろう。
周期的に不調はあった。しかし若い頃の感覚とは違うもののようだった。

いま私は何をしているのかと、相変わらず若い頃のままの問いを自分に投げる
何をしても何をしなくても等価値であるといまの私は答える。
やりたかったらやればいいし、やりたくなかったらやらなければいいし、
いずれにしても等価値である。
だから何も悩むことはない。
やりたいようにやってよい。

新橋駅山手線のホームで、日比谷口の近くに立つと、外堀通りの自動車の列が目に入る。
そして私は思う、こうして私が生きていることは日々のうち続く欠落なのだ。
昨日まで一緒に帰っていた人が今日は一緒に帰らない。
むしろ私を憎んでいる。
そしてその誤解を解く気力もなく、私ははじめからあきらめている。
私があきらめればすべては納まるからだ。
わたしがあきらめればそれでいい。
わたしは愚かだ、それでいいではないか。
私が愚かだと断定して誰かが損をするわけでもない。
そして実際に愚かであるし、
未熟であり、無知であり、力があれば過剰に使用し、負けたときには不釣り合いに大きく落ち込む。
そんな日々を車の流れの中に見ている。
そして電車は到着し、夜10時半の山手線はやや空いている。

美しい人の表情に出会えば
いままでの想念はすべてゼロになる
あまりに清純な表情がそこにあって
そこでまた私はもうひとりの自分になる

それはあたかも意識の変性である

私にはまだ自分の人生の道のりが見えない
先も見えないし
通ってきたあとをきちんと覚えているような立派さでもない
人に言われてそうだったかなと思う程度で
まるで実線でつながっているのではなく波線でつながっているようなものだ

夕食、食欲がなかったので、遅い時間になってから
うどんを食べた
そこに鰹節をどっさり入れた
鰹節は奥歯の間に挟まって歯ブラシでもでて来ない
そのようなものが発酵腐敗して口臭を形成する
老人は切ない

心の半分はこの世界に参加してこの世界を変革していく
すこしでもいい世の中になって欲しい

心の半分は和歌の世界にいて時間も過去で
この世界から30センチくらい浮いている感じがする
しや30センチ沈み込んでめり込んでいるのかもしれない
そこが不適応なのだろう


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