尽くす生きがい
尽くす生きがい
尽くされる生きがいは
それを交渉の材料に使われる
相手は「尽くさない」カードを手に入れる
こちらが尽くすのであれば
そのような不利なカードは関係がない
イニシアチブはこちらにある
決定権はこちらにある
引越し前夜のすき焼き鍋
その昔、引越しの前の夜、鍋などは全部まとめてしまったので外食、
木曽路とかそんなところですき焼きを食べた
そんなことがなぜだかくっきりと記憶にある
つまらない人生にもつまらないなりに
エピソードはあるものだ
お風呂の復活
ゆっくりと石鹸でブクブクのお風呂に入らせていただきました
なんてすっきりなのでしょう
足も手もすべすべでとてもいい体中の重さが消えたような感じで
石鹸の泡が軽く滑る
これが人間の暮らしじゃないかと
思い出し
逆にシャワーで済ましていた夏を思い出す
24日からお風呂にいたしました。
塩田元部長
厚労省塩田元部長、村木氏の元上司
ーー
NHKキャスター、驚きました、信じられません、と語る
しゃあしゃあと言うのが驚きだ
本当に知らないなら愚かすぎる
ーー
前田個人の犯罪だとの意見にも背景があるのだろう
ーー
特捜の操作全体のメモはすべて捨てられているんだそうだ
ーー
Word文章だったのに新聞発表は一太郎文書
横浜・スカイウォーク閉鎖
横浜ベイブリッジの下の部分にあるスカイウォークが閉鎖
入場者数が少なくなって赤字だからという
入場料は600円
街の活力低下を感じる報道だ
こんな感じでさびれていく
賜杯の不思議
大相撲白鵬が4場所連続全勝優勝
先場所では相撲不祥事で天皇賜杯が贈られなかった
今場所は贈られて
やっぱり賜杯がなくてはならないと語る
先場所は賜杯がなくて悔しい思いをしたと語りそれが放映されている
不思議ちゃんだわ
何を言っているんだろう
相撲がなくなると日本がなくなるくらいの気持ちとか
イスラムの自爆テロと同じくらい理解不能だけど
ある種の分かりやすさということなんだろうか
人たらし
悪い言葉で言うと
口先だけの人たらし
ということになるのだが
妙に説得力があったり
妙に元気が出たりする
人たらしになるには特に元手はいらない
言葉と態度だけである
不思議なものでそんな人が資本主義を動かしたりする
資本主義とも思えない
下部構造がドライブしていくとも思えない
理想だったり勇気だったりする
「教育によって、人間は公共の目的のために全身全霊を持って働くだろう」
「教育によって、人間は公共の目的のために全身全霊で働く」理想が
実現不可能な夢想であるとは
個人的に全然思っていなかったので
驚く
教育の目的はそこにある
社会の成熟の目標もそこにある
と思っていた
それを全否定して
個人の利益を最大にすることと社会の利益が一致しないときは
個人の利益を優先し
むしろ
個人の利益追求が根本で
社会の最大幸福が二次的に実現するような制度設計でなければならないが
それは無理なのだという悲観論
それだと幸せになれないだろうと思う
ーー
心理学としては
低次元の満足は衣食住であるが
高次元には結局のところ他人からの賞賛であり
違いがあるとすれば「他人」はどこにいるのか
目の前にいるのか
100年後の理想集団なのかといったあたりではないか
ーー
個人の利益を最大化する説明理論は
たとえばイスラムで自爆行動する人をどう説明するのだろう
目に見える互恵関係からマーケットへ
採録
ーーーーー
市場經濟が人間にもたらす恩恵は大きいにもかかはらず、一般の人々の間には不信や反感が根強い。市場經濟はなぜ嫌はれるのか。
リバタリアンの經濟學者ウォルター・ブロックは、社會生物學の智識をもとに、市場經濟が人々に嫌はれる理由を次のやうに推測してゐる。*1 *2
人類は地球上に誕生して以來、何百萬年にもわたり、二十五人から五十人程度の少人數のグループで生活してゐた。そのやうな小規模な社會では、背中を掻いてくれたらお返しに掻いてやる、飢ゑや病ひの時に食べ物をくれたら同樣にお返しするといつた、「目に見える」協力行爲が尊ばれる。そのやうに行動しない者は生き殘れず、次世代に遺傳子を殘すことができなかつた。家族といふ制度はこのやうな昔ながらの協力關係を受け繼いでゐるから、現在でも非常に強い絆に結ばれてゐる。
一方、地球上の六十億人もの人類が構成する經濟は、このやうな「目に見える」協力ではやつていけない。市場を通じた「目に見えない」協力關係を結ばなければならない。しかし長い歴史にわたる生活を通じて遺傳子に刷り込まれた性向はさう簡單に變はらない。われわれ人間は、お互ひが家族のやうに「目に見える」協力をし合ふことを好む。見知らぬ者と「目に見えない」協力を行ふことに對しては、本能的に不快感を抱いてしまふのだ。
市場を通じた協力への不信感がどれほど強いか、それを物語る逸話がある。ハリケーン「カトリーナ」が米國ニューオーリンズを襲つた後のこと、飮料水を求めて竝んでゐた人々に、州外からやつて來た者が、平時よりべらぼうに高い値段で水を賣らうとした。さて、人々はどうしたか。内心ではこのよそ者と取引したくてたまらなかつたにもかかはらず、水の販賣をやめさせようと警察を呼び、警官らがその通りにしたところ、拍手喝采したのだ。
だが理性的に考へれば、必要な品物の値段が高くなるのを妨げても、誰も得をしない。被災時に値段がいつも通りなら、皆が爭つて買ひだめに走り、列の先頭に竝んだ者が棚にある物をすべて買ひ占めてしまふかもしれない。値段が高くなれば、慈悲の精神を發揮しなくても、誰もが自然と他人の分を殘すやうになる。また、値段が高くなれば、その品物を賣つて儲けようとする企業が増え、品不足の解消が促される。これらは市場を通じた見事な協力なのだが、すでに述べたやうに、人々は家族的な助け合ひと異質なかうした協力關係を本能的に不快に感じてしまふのだ。
以上がブロックによる解説だが、人々が市場經濟に對して抱く反感がここまで根深いものだとすると、それを克服するのはほとんど不可能にすら思へてくる。だが別の見方をすると、そこまで悲觀する必要はないかもしれない。
サイエンスライターのマット・リドレーは、著書『徳の起源』(翔泳社、2000年)で次のやうに述べてゐる。たしかに人間は集團主義的動物で、自分の屬する集團内で密接に協力し合ふ半面、外部の集團に對しては好戰的だ。人間は「同じ集團のメンバーと運命をともにすることによつて、よそ者嫌ひと文化的對応順応の混ざりあつたものを心の中に育てていく」*3。
だが集團に分かれた人間はよそ者と戰ふばかりでない。それぞれが專門化することによつて、自分の集團に乏しいもの、めつたに手に入らないものを互ひに交換するやうにもなる。他の動物には見られない行動だ。これを交易と呼ぶ。
近代英國の經濟學者デヴィッド・リカードは「比較優位論」によつて、どんな國でも貿易によつて利益を得られることを明らかにしたが、そのやうな理論が明示される遙か以前から、人間は集團間の分業と交易によつて大きな利益を得てきたのだ、とリドレーは強調している。
日本のウェブ掲示板などには外國人に對する差別的言辭があふれてゐる。とりわけオリンピックのやうな、遺傳子に刷り込まれた「よそ者嫌ひ」の感情をことさらに煽り立てる國家的行事が催されると、差別感情はさらに激しさを増す。それはわれわれ日本人に限らない。
だが一方で、われわれは支那製のカジュアル衣料に身を包み、韓國製液晶を裝着したスマートフォンを樂しんでゐる。賣つた側も滿足を得てゐる。文化の異なる集團同士が近接して暮らすと摩擦が生じがちだが、グローバルな市場を通じれば、遠い國に住む顏も知らない相手とも助け合ふことができる。
市場を通じた助け合ひはカネを媒介とするから打算づくで眞の助け合ひではないと言ふ人がゐるかもしれない。だがカネのからまない家族や友人同士の助け合ひも、意識するしないにかかはらず「いま背中を掻いてやつたら、いつか掻いてくれる」といふ打算に基づいて行はれてゐるのだ。そしてそれは恥づべきことではない。
人間が集團主義的動物である以上、よそ者を本能的に憎むといふ性向から今後も逃れられないかもしれない。しかし人間が市場を通じて他集團と助け合つてもきたといふ事實は、未來に光明を投げかける。
産業革命がかえた意識
採録
ーー
産業革命が、生活の深いところにもたらした影響を述べておきます。
教科書に、こういう記述があります。
「…家族のあり方にも変化をもたらした。夫の賃金労働が主となり、妻の労働は補助収入のためとみなされ、賃金を得られない家事労働は低く見られるようになった」
さりげなく書かれていますが、実に含蓄のある文章です。
産業革命以前の労働というのは、農業が中心で、家族みんなで働きます。夫も妻も子供も一緒です。誰が何をしているのか、みんなが知っています。
ところが、産業革命後の労働者の家庭では、夫だけが工場に働きに行く。何をやっているのか、妻や子供には見えません。家族のむすびつき方が、それまでとは全く違ったものになった。家事労働が低く見られるようになったということは、女性の地位が低くなったということです。これらは、産業革命以後の変化だといっているのです。
人間の生活が時計によって縛られるようになったのも産業革命以後のことです。
労働者にとって、出勤時間や労働時間など、時間によって一日が区切られ、拘束されるようになる。労働時間は自分の時間ではなく、労働時間が終わって、やっと自分の時間がはじまるように、時間によって生き方が分割されるようになる。
現代に生きるわれわれも、細切れにされた時間の中で生きています。それ以前の人間は、時計などは必要なく、時間を気にせずに毎日を過ごしていたのです。
家族関係や時間意識の変化は、歴史の年表に載るような事件ではないので、あまり意識しません。しかし、当たり前と思っている常識や感覚も歴史の中で作られたものだということを知っておくことは大事でしょう。
教科書に、こういう記述があります。
「…家族のあり方にも変化をもたらした。夫の賃金労働が主となり、妻の労働は補助収入のためとみなされ、賃金を得られない家事労働は低く見られるようになった」
さりげなく書かれていますが、実に含蓄のある文章です。
産業革命以前の労働というのは、農業が中心で、家族みんなで働きます。夫も妻も子供も一緒です。誰が何をしているのか、みんなが知っています。
ところが、産業革命後の労働者の家庭では、夫だけが工場に働きに行く。何をやっているのか、妻や子供には見えません。家族のむすびつき方が、それまでとは全く違ったものになった。家事労働が低く見られるようになったということは、女性の地位が低くなったということです。これらは、産業革命以後の変化だといっているのです。
人間の生活が時計によって縛られるようになったのも産業革命以後のことです。
労働者にとって、出勤時間や労働時間など、時間によって一日が区切られ、拘束されるようになる。労働時間は自分の時間ではなく、労働時間が終わって、やっと自分の時間がはじまるように、時間によって生き方が分割されるようになる。
現代に生きるわれわれも、細切れにされた時間の中で生きています。それ以前の人間は、時計などは必要なく、時間を気にせずに毎日を過ごしていたのです。
家族関係や時間意識の変化は、歴史の年表に載るような事件ではないので、あまり意識しません。しかし、当たり前と思っている常識や感覚も歴史の中で作られたものだということを知っておくことは大事でしょう。
表音主義
日本語を新しく勉強するには表音主義が便利だろうとは思う
源氏物語を朗読だけで楽しめるなら表音主義で充分なはず
かな文字文化は表音文字体系でいいのかもしれない
ーー
私わ学校え行って、トイレで手お洗う。
は、へ、を については習慣で書き換えに抵抗があるが
単なる習慣だと思う
ーー
私がハングルを読むときもアルファベット表記のほうが便利だ
韓国人の名前など
その点では外国人にはローマ字表記が簡便なのだろう
しかも現代ではPC入力の際にローマ字入力をしているのでますますローマ字派には
根拠があるような気がする。
私自身は困った偶然を守りぬいていまだに平仮名入力である
ローマ字入力よりも2倍早いはずなのだが音だけ聞いていると遅いような印象がある
ーー
何かの申し込みなどで名前を漢字で書いてそのカナを書けと言われることがある。
かなとあれば平仮名でカナとあれば片仮名らしい
ーー
簡単に言って、文章の全てを平仮名で書けというようなもので
とても抵抗を感じるのだが
話し言葉はそういうものなのだからと言われると納得しないでもない
でも、話し言葉は、平かなをフラットに読んでいるのではないのだから
話し言葉→平かな表記 という論は簡略化し過ぎである
話し言葉はむしろ
現代の絵文字つきメールに近い
はい という場合でも絵文字で気持ちを添えてもらうとずっと分かりやすい
そのように話し言葉ははるかに情報が豊富なのだから
平仮名にできるのだといわれても賛成はしにくい
ーーーーー
速読ができなくなる
ーーーーー
仏教学の中村元先生もローマ字で分かち書きにして日本語を表記すればわかりやすいと話していた
長い時代を通観し広く世界の友人を考えてみれば
そのような考えも出てくるものだろう
一時的で地域的なものでしかない、それは理解できる
パーリ語、サンスクリット語、古代中国語などと比較して日本語が特にどうということもない
特に古代インドの言葉はゼロの発見とかも言われるように
たとえば存在すると表現するときらにわざわざ「不在の非存在」と表現したり、特別だった
ーー
そのときの中村元先生はパーリ語の仏典の中国語翻訳を教えてくれていた
有名なカニシカ王の問いなど
先生は医科の人にどれだけ役に立つかわかりませんがやってみましょうねとおっしゃって
医学部といわなかったことが記憶に残っている
物事を難解に語りしかも内容に乏しいことはよくないと考えていたようで
その点で分かりやすく、話し言葉を基本にして、しっかり考えていこうと提唱していたように思う
ちがかった
ちがかった
と言って
違う
の意味で使う人がいる
どのあたりから発生したものか
ーーーーー
雰囲気を
不陰気とする人もいる
google変換では ふいんき で雰囲気が出る
腐陰気で不陰気、負陰気などあり おもしろいものだ
不陰気だと陰気の否定になるのだろうか
いい雰囲気 などというとき どんな文字を思い浮かべて いいふいんき と言っているのだろう
まずい雰囲気というときの 腐陰気や負陰気 ならば通じるような気もする
ふいんきはたぶん20年くらい前からあったと思う
何か発生源があるはずだと思う
かなづかひ
かなづかひについても同樣で、昔は「思はない、思ひます、思ふ、思へば」とハ行の中できれいに活用してゐたのに、改革で「思はない」を「思わない」、「思ひます」を「思います」などと書くやうにしたため、「思う」は文法上、ワ行とア行にまたがる奇怪な動詞になつてしまつた。
ーー
なるほどそうなのだけれど
私は行く
という場合の「は」がもういけない感じはする
waなんだけどな
ーー
財政危機なんて嘘だの論
採録
われわれ素人には何が本当なのか、当分わからない
ーー
財政危機なんて嘘だ、政府の借金がどれだけ増えようと心配することはない、政府は個人にはない特別な資金調達の手段があるし、インフレ(物價高)になれば借金の實質的負擔は輕くなるのだから、どんどん借金して公共プロジェクトなどに積極的におカネを使ふべきだ、さうすれば景氣は良くなり國民生活は改善し、税收は増え、ついでにデフレも解消して一石三鳥にも四鳥にもなる――。
最近、經濟問題についてやさしく解説してあげますといふ一般向けの本やウェブサイト*1が増えてゐるが、そこに書かれてゐるのはたいてい上で要約したやうな、財政危機説を鼻で笑ふ主張だ。これは世間を惑はし亡國に導くとんでもないインチキ理論なのだが、御本尊がケインズといふ大經濟學者なので、正面切つて批判できる經濟學者やエコノミストが少なく、多くの人はインチキを信じ込んだままになつてしまふ。ゆゆしき事態だ。亡國のインチキ理論の嘘について、あらためてまとめておかう。*2
カネを刷ればよい
政府の借金が何百兆圓にならうと、返せなくなる心配はまつたくない。なぜなら政府は個人と違ひ、自分でいくらでもカネを作り出すことができるからだ。これをありがたい經濟用語で通貨發行權といふ。借金が自國通貨建て、つまり日本の場合は圓建てである限り、返せなくなることなどあり得ない。
たしかに政府はカネを刷ることができるといふ特權を持つてゐる。うらやましい限りだ。だがカネを刷れば、その分、カネの價値は下落する。他の條件が一定なら、カネの量が二倍になればカネの價値は半分になる。すると二億圓借りてゐても、實質的には一億圓返すだけで濟むことになる。個人や企業も、經濟状況によつて結果的にかうした恩恵にあづかる場合はあるが、政府は自力でさうした状況を作り出せる。これは實質的には計劃的な借金の踏み倒しだが、形式的には債務不履行にならない。
かう聞いて「いやあ政府つて凄いなあ。これで日本は安泰だ」などと感心する人がゐたら相當おめでたいが、「財政危機のウソ」を喧傳するトンデモ經濟本が結構賣れてゐる事實からすると、おめでたい人の市場規模は馬鹿にならないやうだ。トンデモ本の筆者が言つてゐることをわかりやすく言ひ直してあげよう。「喜べ愚民ども、政府は諸君への借金を實質的に踏み倒すことができる」。
ハイパーインフレにはならない
今の日本は不況で商品や勞働の供給能力が餘つてゐるから、カネを大量に刷つても大幅な物價高にはならない。ジンバブエやかつてのドイツのやうな「ハイパーインフレ」になどなりつこない。
「供給力過剩のまぼろし」については以前書いた。商品や勞働の供給能力が需要に對して餘つてゐるか足りないかは品目や地域によつて異なるから、全部の合計をもとに「餘つてゐる」と言つても意味がない。家電やパソコンの價格が落ち着いてゐる一方で、燃料や食料品がどんどん値上がりする可能性だつてある。
さらに理解されてゐないのは、物價高が起こつてゐないからといつて、カネの保有者が損をしてゐないわけではないといふことだ。カネの供給と同じペースでモノの供給が増えてゐれば、表面上物價は上がらない。だがそれは人々が働いてモノの生産を増やしたからさうなつてゐるだけだ。本來なら生産増大の成果として高まるはずだつたカネの價値が高まらず、カネの保有者は見えない損失を被つてゐる。
現代の主流派經濟學の世界では、カネの價値が表面的に下がりさへしなければ、つまり目に見える物價高さへ起こらなければ、何も問題ないといふ奇怪な考へが當然のやうに主張されてゐる。かうした詭辯に騙されてはならない。
生産活動が活溌でモノの供給が順調なうちは、大幅な物價高は避けられるかもしれない。だが生産活動に必要な物資や勞働力の價格が徐々に上昇するにつれ、モノの供給能力は衰へる。そこで政府が「いまこそ景氣對策」とばかりにカネを刷り續ければ、大幅な物價高はもちろん、ハイパーインフレすら現實味を帶びてくるだらう。
ちなみに日常生活に必須の食料や燃料は「天候など一時的な要因で價格が上下しやすい」といふ理由で物價指數の計算對象から除かれる場合がある。これらの品目で物價高が起こつた場合、政策判斷の參考となる物價統計に反映されず、政府の對応は後手に囘る恐れがある。*3
どの國もやつてゐる
世界一の經濟大國である米國や西歐諸國といつた先進國は、國の借金をどんどん増やしてゐる。だから日本も恐れることはない、どんどん借金を増やさう。
最後に出て來るのはこれだ。「みんながやつてゐるから僕もやる」と言つてゐる子供と同じで、これほど程度の低い言ひ譯もない。
たしかに米國も西歐も借金をどんどん増やしてゐる。その中心は社會主義的な福祉國家の維持擴大にかかはるものだが、この十年は「テロとの戰ひ」に「金融危機との戰ひ」まで加はり、借金はさらに鰻登りだ。
その結果、起こつてゐるのは世界的な財政問題と通貨價値の下落、金融危機再燃の恐れ、株式相場の急落だ。チェコのトポラーネク首相(當時)は昨年、米オバマ政權の財政出動を「地獄への道」と警告したが、いまや「地獄への道」を突き進んでゐるのは西歐諸國も日本も同じだ。死ぬときは一緒と言はれても何の慰めにもならない。
*1:代表的なのは三橋貴明、廣宮孝信の一連の著作やブログ。「リフレ派」の主張も大同小異。
*2:かといつて私は「財政危機を囘避するために増税すべきだ」といふ財務省の主張を支持してゐるわけではもちろんない。財政の改善は税收を増やすことではなく、支出を減らすことによつて實現しなければならない。「バラマキ派」も「財政再建派」も小さな政府に抵抗してゐる點では同じ穴の貉なのだ。これについては機會をあらためて論じたい。
*3:消費者物價指數(CPI)から生鮮食品を除いたものをコアCPI、食料(酒類を除く)及びエネルギーを除いたものをコアコアCPIと呼ぶ。
GDPの定義について
採録
GDP(國内總生産)の定義式を楯に政府支出の拡大を訴へるやうな經濟評論家たちは想像したこともないだらうが、GDPの概念には多くの問題がある。
GDP=民間消費+民間投資+政府支出+純輸出
右邊の各項目のうち、民間消費、民間投資、純輸出の増減は政府の思ひ通りにならないが、政府支出だけは政府がその氣になりさへすれば自由に増やすことができる。經濟を成長させたければ増やしたければ政府支出を増やせ――といふ主張が的外れであることはすでに指摘した。經濟は政府支出のおかげで發展するのでなく、政府支出にもかかはらず發展するといふのが正しい。
そもそも「政府がその氣になりさへすれば自由に増やすことができる」といふこと自體、政府支出の異樣な性質を物語つてゐる。民間消費、民間投資、純輸出が政府の思ひ通りにならないのは、個人が自發的な判斷で買ふか買はないかを決めてゐるからだ。これに對し政府は市民から税金を強制的に奪ひ、有無を言はさず物やサービスを賣りつけるのだから、そりやあ自由になるはずだ。だが人間は物やサービスを強制的に買はされることによつて、豐かになつたと言へるだらうか。
たとへばあなたが男性で、街を歩いてゐると、若い女性から「英語の勉強法についてアンケートをお願ひしてゐるのですが」と話しかけられる。近くの事務所にほいほいついて行つたところ、いつの間にか屈強な男たちに取り圍まれ、20萬圓もする英會話學習セットを買はされたとしよう(無情にもクーリングオフ制度は存在せず、返品できないものとする)。
この英會話セット、缺陷品などではなく、それなりによくできてゐる。だがあなたは英會話など興味がなく、まつたく使ひたいと思はない。それでも統計上GDPは20萬圓分増える。この時、日本經濟は20萬圓分豐かになつたと言へるだらうか。もしあなたが金持ちで、拂はされたのが20萬圓でなく200萬圓だつたら、日本は200萬圓分豐かになつたと言へるだらうか。2000萬圓なら? 2億圓なら?
もうおわかりだらう。國の豐かさを測る金額は、個人が自發的に支拂つた金額でなければ意味がない。言ひ換へれば、市場取引價格でなければ意味がない。脅迫による押賣りは市場取引ではないから、その「代金」を額面通り經濟統計に採用するのは誰が見てもをかしい。ところがGDP統計は、この誰が見てもをかしいことを平然とやつてゐる。政府支出といふ有無を言はさぬ「押賣り」を自由な市場取引と同列に扱つてゐるからだ。
政府のサービスには市場價格が存在しないのに、GDPはどうやつてその統計上の價値、つまり金額を決めてゐるのだらう。驚くべきことに、サービスを生み出すのにかかつたコストをそのままサービスの價値とみなしてゐるのだ。ダムや道路を誰も使はなくても、建設コストと同じだけの價値があるとして計算するわけだ。
これでは政府支出が過大評價される恐れが強いので、1930~40年代に國民所得統計が整備され始めた當初、專門家の間でも異論はあつたのだが、政府支出の役割を重視するケインズ經濟學の強い影響力に押し切られ、結局、現在のやうな形となつた。三橋貴明、廣宮孝信といつた財政出動派の評論家は自説の根據としてGDPの算式を振りかざすが、そもそもGDPの定義自體が政府支出を正當化するやう作られてゐるのだから、財政出動に有利な結論が導かれるのは當たり前だ。GDPのイデオロギーに氣づいてゐないとしたら實に無邪氣と言はざるを得ない。
では經濟實態により近いものにするには、GDPをどう修正すればよいだらう。まづ政府の「押し賣り」で無理矢理買はされたサービスの價値をゼロと嚴しく考へ、GDPから政府支出をそつくり除く。殘りは民間の經濟活動だけになるから、「民間總生産(GPP=Gross Private Product)」と呼ばう。式で表すと次のやうになる。
GPP=民間消費+民間投資+純輸出
だがこれだけでは不十分だ。この式では政府支出の影響はゼロだが、政府支出が増えれば増えるほど限りある資源(資本、勞働力、資材など)が民間から奪はれ、經濟にマイナスの影響を及ぼすのだから、その影響を反映させるには政府支出分を差し引かなければならない。これを「殘餘民間生産(PPR=Private Product Remaining in private hands)」と呼ばう。式は次のやうになる。
PPR=民間消費+民間投資+純輸出-政府支出
この式からは、バラマキ派評論家の主張と正反對に、經濟を成長させたければ政府支出を限りなく減らせといふ結論が導かれる。野放圖な政府支出でGDPを「順調に」擴大させてきた歐州の國々が財政危機に追ひ込まれ、經濟状況が一氣に惡化してゐる現状を見れば、GDPとPPRのどちらが妥當な指標か、答へは明らかだらう。*1
*1:GPP、PPRはリバタリアンの經濟學者、マレー・ロスバードが考案したもの。ロスバードによる兩指標の定義はもう少し入り組んでいるが、話をわかりやすくするため單純化した。
π進法
π進法の話題もあり(πは円周率)
π^2をπ進法で「100」と表すなら、最初からπ^2で足りるらしい
1/n 進法の話題もあり
小数部を Σa_n(1/n!) であらわす
1/n!=n/(n+1)!+1/(n+1)!
なので有理数は二通りに表される。
理論なき認識
人間は「理論なき認識」はできない
理論は、近似して、未来を予言する
充分な近似ならそれで充分だ
ニュートンもアインシュタインも
2乗の項目があるけれど
それが2であって、たとえば2.000000000000000000000000000000000000000000000000000001000000000200000003
の近似ではないことの証明がすごいところだ
円周率の数字出現の規則はないことの証明
つまり、永遠に不規則に数字が出現するという証明
πとeに直接の関係があるというのもすごい話
e^iπ = -1
ーー
思うに認識が問題ではなく
予言が問題なのだ
イギリス 勤勉 産業革命
1、産業革命以前の人類の生活は、各種の科学的な発見、発明にもかかわらず、ほとんど一定であった。なぜなら、生産性の緩やかかつわずかな上昇は人口の増大によって、完全に吸収されるというマルサスの法則が当てはまっていたからである。
2、しかし中世の600年間を通じて、イギリスでは勤勉を重んじる中産階級が常により多くの子孫を残し、反対にそういった勤勉さを持たない無産階層は常に子孫を残せない傾向が続いたため、勤勉倫理が文化的にも、またおそらく遺伝的にもイギリス社会に広がっていった。これは清時代の中国や江戸時代の日本では、支配階級が下層階級と適応率においてほとんど同じであったことと好対照を成す。
3、産業革命以降、多くの国で産業化が試みられたが、失敗したところではすべて、労働者の生産性そのものが低かったためであり、資本、つまり機械がなかったためではない。よって、現在でも労働者の生産性の差自体が各国の所得水準を決定しているため、援助はあまり有効ではない。
というような論旨の本。
勤勉さを持たない無産階層は常に子孫を残せない傾向が続いた
というのは一体どのような環境を設定すれば子孫を残す確率がそれほど違うものか
考えるのが難しい
勤勉さとは関係なく子供は増えると思う
個人の勤勉さではなく社会全体の勤勉さがあれば社会全体の子孫が増えるというのは
確かにそうなんだろうと思う
実際に集団を運営してみれば
確かに
「労働者の生産性の差自体が所得水準を決定して」いるとの意見には賛成だが
労働者の生産性を決定する要素にどのようなものがあるか
そこがまたややこしい
イチローのような勤勉さといえば確かに分かりやすいが
イギリス人がイチロータイプに近いわけではないし
生産性を構成する要素を考えるととても難しくて
けっきょくいろいろあっての結果として生産性が規定される
というしかないような気もする
「労働者の生産性の差自体が所得水準を決定して」というのは一種の同義反復のような気がする
なぜイギリスで産業革命
と考えるとまた洪水のような情報
国がずるいことしないできちんとやっていれば
国のお役人とか政治家がずるいことをしないできちんとやっていれば
世の中はもっと良くなるのにと
考えている人は案外多いのではないかと思う
そんなに悪くないし案外きちんとやっているんですよ
それでもこうなんです
みなさん、たぶん、自分と同じくらいずるいのではないかと勘ぐっている
実際はそんなことはない
一般の人たちよりは随分立派な人が多いです
頭はいいし努力もする
仕事の場面ではきちんとして見せることもできる
それなのに現代社会はこうなんです
だから問題なんです
「自分は普通より上だ」
たとえば学生時代の数学の点数で言えば
当然約半数が自分は平均以下だったと意識する
ところが物の考え方とか人生観とか趣味趣向については
全員が「自分は普通より上だ」と感じる
みんな違ってみんないいの世界で
完全に相対化されているかと思えばそうでもない
これは比較しなくていいもののだとは考えず
比較されないので
自分は普通より上だと考えたとしても否定されない
否定されないので
その信念を保持する
だから進歩がなくていつまでも思い続ける
誰にもどうしようもないので死ぬまで待つ
最近は寿命が延びているので
人生の早期に獲得した信念を訂正せずに保持している人も多くて
当然時代との齟齬・ズレは生じるはず
長生き社会の問題点はこんなところにもあるのだが
案外お年寄りの人は自分は平均より上だとは考えていないようで
多分個体の微妙な相違はあるのだろうが
全体として社会とのズレの方が大きくなっているので
個人の偏差の問題よりも集団としての中央値のズレの方が大きいのだろう
むしろ若い人が極端な自己愛肥大もありばらつきが大きくなっている感じはする
それぞれの所属準拠集団がかなり違っていることがある
いつまでも同じ議論で商売が出来る人達
インフレ、デフレ
国債を刷る、刷らない
為替の適切な水準
為替介入の適否
財政赤字の程度
増税議論
法人税減税
雇用増大
投資増大
セーフティネット拡大
いつまでも同じ議論をして商売が出来る人達
なめられる
尖閣諸島問題で
だから日本はなめられる
との言葉が出ているのだが
品がないのでやめたほうがいい
ーー
考えてみると実際には
なめる人となめられる人とどちらが劣位なのかは
なめる人がなめたいと思うくらいの
魅力的なものをなめられる人は持っているということなので
なめられる側が
魅力があるということになる
普通ならばあまりにも魅力的でなめさせないのだが
相手があまりに乱暴者で仕方ないから
なめるのを許す
するとなめたとなり、なめられたとなる
拒否する意思能力者としては尊重していないのだが
魅力的である点では認めているはずだ
けっかとして、なめる
ーー
なめる、なめられるとは
舌で愛撫するということなので
ある程度上品な人は人前では使ってはいけない言葉であると思う
ーー
なめるのでもなめられるのでも
最初の一回が最上である
慧眼
けいがん【慧眼】
智慧(ちえ)の目
物事の本質を鋭く見抜く力
慧眼(えげん)
炯眼(けいがん)
えげんの読み方も辞書にはのっていて
知恵を難しく書いたときの智慧とつながって分かりやすいのだが
えげんとは言わずけいがんというので難しい
平家物語の権力移行
平家物語で語られているのは
平氏から源氏への権力の移行だが
もっと大きく見ると平安貴族から鎌倉武士への権力の移行で
どうして平安貴族はむざむざと田舎武士なんかに圧倒されたんだろうと
思わざるを得ない
財産も教養もあり遺伝子もいい人たちが
田舎の野蛮人に負けて全てを奪われる
でもそれが世界の歴史だ
蛮族が蹂躙する
なぜかそうなっている
新しい遺伝子を求めるという説明で一応分かるけれど
それでいいのだろうか
貴族の娘が蛮族の男の子どもを産む
Yは入れ替わる
Xとミトコンドリアは保持される
貴族Y遺伝子だって蛮族のY遺伝子と同じ進化の歴史の時間を生きてきたはずなのだけれど
セレクションについていえば貴族では緩く蛮族で厳しく
ある程度の年月のうちには決定的な差が付くのだろう
兵器とか生産様式とか下部構造で説明が付く部分も多いと思うが
遺伝子のメカニズムで説明できる部分もあるのかもしれない
心臓と脳は水平関係になったほうがいい
思うに四足獣の基本として心臓と脳は水平の関係にあるのであまり血圧を管理しなくていい
人間は頭が一番上にあるので心臓は圧力をかけてかつそれを加減しなくてはならず
非常に不合理である
横になった状態で
脳血流が楽になる
ある種の読書は横になった方が脳血流が確保できていいのではないかと思う
立つ、座る、横たわる。
それぞれで脳血流分布に変化が生じて
その様子に応じて退行するのではないかと考えている
横になるということは退行するということだと思う
脳血流が退行的回路に多くの血液を供給する
だから横になったときに幼児的な発想をする
B-CASカード
B-CASカードは
何の役に立っているのか
誰も知らない
無駄な仕事を作って無駄な人生を送りたい
電波関係者とか霞が関関係者がいるのだろう
そのおかげであんなカードが付いてくるのはわけがわからない
実際にはカードなんてつけなくてもいいから
カードを計画する会社とか作って報告書だけで
何億円か報酬を発生させて山分けしてもらう
それで結構だ
報告書はWikiのコピペでよい
ただしそれは必ず使ってもらうこと
どこか社会の中で消費してもらえばそれでいいのだ
中国、韓国、日本整形比較
中国、韓国、日本と比較すると
美容整形の方向もメイクの方向も微妙だがはっきりと違うようで面白い
各国の若者は当然自国の現在の美女を支持するだろうが
お年寄りだとそうでもないのはすこしタイムけマシンなのだろう
現代民主主義の矛盾
民主主義は人を選んでいるから間違う
政策トピックスを選択すればいいに決まっている
ハイテクを駆使して多項目の政策についていちいち直接民主主義に近い形にしていくしか
民主主義の道がない
民主主義は各個人が全部重み1だという途方も無い考えである
しかし
それはタテマエで
主権者の1票を「委任」する「政治家」を選んでいるのだから
全く矛盾している
民主主義の対極は
京都学派の昔言っていた猿社会のヒエラルキーである
ボスの権威に構成員を従わせる
民主主義はボスの権威よりも
個人はすべて1であると定義して出発しているのに
政策を選ばずボスを選んでいるのだから
なんともフニャフニャである
税金をどうするか直接決めればいいのに
税金を決めてくれる人を選ぶのだから全然民主主義ではないだろう
ーー
政策項目を選ぶのではなくて
誠実な為政者を選ぼうと思ったりするから
途方も無い混乱が起こる
どんなビデオを見るのだろう
技術系の人は素晴らしい大画面のハイビジョン映像を完成させた
その技術者は家に帰ってどんな番組を見るのだろう
どんなビデオを見るのだろう
エラー続出
今回の尖閣諸島問題の一連の対応を見ていて感じるのは
複数の判断者がいてそれぞれの思惑が微妙に複合して
総合すると政府は何を考えているのか分からないという結果になるのだと思う
釈放するくらいならそもそも逮捕すべきではなかったし
逮捕したのから屈服すべきではないと
論理で責められる
確かにその通りなのだが
時間差もあるしそれぞれのレベルの判断では情報の差もあっただろうと思う
ひとりひとりの人間はまことにいい人なのである
情報や判断のリレーをしているうちに連携ミス続出の今回の事件である
一方で、中国という国の中身とか、アメリカという国の実際とか、感じられる部分もあった
どれも日本政府よりもっとろくでもないものだ
ーー
本社からの許可が出ないんで
現場の皆さんにはスンマセンと
何度も聞いたような気がする
バンデンバーグ決議
米国は1948年のバンデンバーグ決議に縛られて、
米軍のために武力行使のできない日本のために動くことが許されない。
とのことです
話題も前回会ったときからの連続性を確保
採録
ーーーーー
平成八年の人口動態統計速報では、出生数がかろうじて一二○万人台を回復した。ところが離婚件数の方は二○万七千件と、統計史上最高を更新し続けており、「家族の危機」を訴える声は一向に衰えていない。しかし、離婚の増加は本当に危機なのだろうか。
労働市場の場合、離職者が増加して、その人たちが再就職できないようなら問題だが、成長産業への再就職が円滑に進むのであれば、むしろ経済を活性化させるためプラスの効果を持つ。
そこで、人口動態統計の確報を使って、女子離別者の再婚件数を離婚件数で割り、「再婚確率」を計算してみると、平成七年は六五%と前年より一ポイントの増加。十年前の昭和五九年の再婚確率は六一%だったから、再婚確率は着実に高まってきているのだ。
また、より興味深いのは年齢別の再婚確率だ。
二○歳台の再婚確率が減少傾向なのに対して、三○歳台以上の再婚確率は大幅に上昇している。特に四○歳台前半は、昭和五九年の三六%から平成七年の五六%へと、実に二○ポイントもの大幅上昇なのである。
中高年層においても、「貞女は二夫にまみえず」という倫理観が薄れつつあるのだろうが、実は人口動態統計から、もうひとつ興味深い数字を導くことができる。離婚から再婚に至るまでの平均年数である。
若い層はあまり変化していないのだが、四○歳台前半女性の再婚までの平均期間は、昭和五九年の三・五年から、平成六年は四・八年、平成七年は五・○年と大幅に延びてきている。つまり、中高年の再婚が増えたと言っても、離婚してからすぐに結婚するのではなく、じっくりと新しいパートナーを見極めた上で再婚に踏み切っているのだ。
古くなったモノには、二つの運命がある。中古品としてたたき売られるか、アンティークとして毎年価値を増していくかである。中古車扱いされれば、八年落ちで査定はゼロだが、クラッシックカーとみなされれば、値段は下がらない。
ーーーーー
ハブと言って思い起こされるのは「悪女」である。彼女たちの恋愛市場のなかでの位置づけは、紛れもなく「ハブ」だからだ。しかも、一度ハブとして認知されると、ヒトもモノもカネも集まってくるのも経済のハブ機能と同じだ。
ところが、魅力的な女性が全員悪女になっているのかと言えば決してそうではない。悪女には魅力と同時にキャパシティが必要なのである。例えば、同時に三○人もの男性を虜にし続け、下着以外で身につけるモノは全て貢ぎ物と豪語するある悪女は、どの相手と会うときにも必ずその相手からの貢ぎ物で全身を飾る。話題も、前回会ったときからの連続性を確保し、間違っても他の男と会ったときの記憶が混じったりはしない。
普通は、そこまでできないから、せいぜい本命とキープの二人を相手にするにとどまってしまう。つまりキャパシティが小さいのだ。
ーーーーー
公的年金の財政再計算の際には、大きな制度改革が避けられないと言われている。少子化が一層進み、老齢年金の給付と負担のバランスが崩れるからだが、実は公的年金は老齢年金の機能とともに、生命保険的な機能も併せ持っている。
遺族給付や障害給付がそれに当たるが、この部分の仕組みには、制度設計者の結婚観が垣間見えて面白い。例えば、国民年金の加入者が亡くなった場合、遺族基礎年金が支給されるが、配偶者でそれを受給できるのは、一八歳未満の子のいる妻ということになっている。つまり、子どもがいなかったり、子どもが一八歳以上になってしまうと遺族基礎年金は支給されないのだ。
それではあまりに可哀相だというのか、夫の死亡時に三五歳以上だった子のない妻や、子が十八歳になった時点で三五歳以上の妻に対しては、四○歳から六五歳になるまでの間、月額五万円弱の中高年加算が支払われる。
夫が死亡した時、あるいは遺された子の養育を終えた時に、三五歳以上だと年金が支給されるという仕組みは、女性が一人に戻ったときに、三五歳まではやり直しが可能だが、それ以上だと難しいと判断されたためにできたのだろう。
ーーーーー
経営者にはオカルトにはまっている人が多い。“気”や風水まで含めれば、私の知る限りでは過半数の経営者がそうしている。
その原因ははっきりしている。経営者ほど孤独と不安を抱える人種はいないからだ。若いうちは、「あの部長がアホだから、仕事がうまく行かないんだ」などと同僚と連帯感を強めることもできるが、出世の階段を昇るたびに味方の数は少なくなっていく。また、真面目な経営者であるほど、「明日も従業員と家族の生活を守っていけるだろうか」という不安にかられる。そうした孤独や不安を癒してくれるのが、人知を超えた神秘の力なのである。
ところがオカルト信奉ほどの数はいないものの、別の方法で不安を紛らせている経営者たちも多く存在する。異性信奉である。
経営不振に陥ったある経営者は、愛人の清算を迫る債権者たちにこう言ったそうだ。
「俺が会社をここまで大きくしたのは、この生活をしたいからだ。もし、愛人を捨てろと言うなら、会社を続ける必要などない」。